小6社会/長く続いた戦争と人々のくらし
原爆と戦争の終わり
今日の問い長く続いた戦争は、どのようにして終わったのだろう。
3行でわかる
- 1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に、アメリカ軍がを落としました。その年のうちに、あわせて20万人をこえる人々がなくなりました。
- 8月8日にはソ連が日本に宣戦しました。日本はを受け入れて降伏し、8月15日、天皇がラジオで国民に戦争の終わりを伝えました。
- 広島のは、原爆の被害を今に伝える建物として、1996年に世界遺産になりました。
原爆ドームが伝えるもの
原爆ドームとは
広島市の川のほとりに、屋根の骨組みだけが残った建物があります。これが原爆ドームです。
もとは、県の産物を紹介する、ドームのある洋風の建物でした。1945年8月6日、近くの上空で原子爆弾が爆発し、建物は大きくこわれて焼けました。
なぜ世界遺産になったの?
戦争のあと、この建物はこわさずに残されました。原爆のおそろしさを、だれが見てもわかる形で伝えているからです。
1996年12月、原爆ドームはに登録されました。核兵器をなくし、平和を願う記念碑とされたのです。
今の原爆ドーム。こわれたときの姿のまま、保存されています。原爆ドーム 2018年11月撮影 Balon Greyjoy出典:Wikimedia Commons(CC0)(CC0)
原爆ドームは、原子爆弾の被害を今に伝える建物です。平和を願う記念碑として、1996年に世界遺産になりました。
広島と長崎に落とされた原子爆弾
8月6日、広島
1945年8月6日の午前8時15分、アメリカ軍の飛行機が、広島に原子爆弾(原爆)を落としました。原爆は、それまでの爆弾とは比べものにならない力をもつ兵器です。
爆発の強い光と熱、爆風によって、町の中心部はほとんどが焼け野原になりました。
広島の上空にのぼった原爆の雲(1945年8月6日、アメリカ軍の飛行機から撮影)。広島の原子雲 ジョージ・R・キャロン撮影 1945年8月6日 アメリカ国立公文書館蔵(NAID 542192)出典:アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン)(部分)
長崎の上空にのぼった原爆の雲(1945年8月9日、アメリカ軍の飛行機から撮影)。長崎の原子雲 チャールズ・レヴィ撮影 1945年8月9日 アメリカ国立公文書館蔵出典:アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン)
8月9日、長崎
3日後の8月9日の午前11時2分には、長崎にも原子爆弾が落とされました。
原爆によって、1945年の終わりまでに、広島では約14万人、長崎では約7万4千人がなくなったと推計されています。
原爆が落とされる前の広島(1945年4月13日、アメリカ軍が空から撮影)。川の間に家や建物がならんでいます。攻撃前の広島のモザイク写真 1945年4月13日撮影 アメリカ国立公文書館蔵(NAID 540225)出典:アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン)(部分)
原爆が落とされたあとの広島(1945年8月11日)。町の中心部が白っぽく見えるのは、建物が焼けてなくなったからです。攻撃後の広島のモザイク写真 1945年8月11日撮影 アメリカ国立公文書館蔵(NAID 540226)出典:アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン)(部分)
今も続く苦しみ
原爆は、放射線という目に見えないものも出しました。生きのびた人の中にも、時がたってから病気になり、苦しんできた人がいます。
原爆の被害を受けた人々は「被爆者」とよばれます。被爆者の中には、自分の体験を語り、原爆の被害を伝えてきた人がたくさんいます。
原爆が落とされた場所と、降伏文書に署名した場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 広島県。1945年8月6日午前8時15分、原子爆弾が落とされた。その年の終わりまでに約14万人がなくなったと推計されている。原爆ドームがある。
- 長崎県。1945年8月9日午前11時2分、原子爆弾が落とされた。その年の終わりまでに約7万4千人がなくなったと推計されている。
- 神奈川県・千葉県の沖。1945年9月2日、この海にうかぶアメリカの軍艦ミズーリ号の上で、日本の代表が降伏文書に署名した。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、たくさんの人々がなくなりました。
ポツダム宣言の受け入れと8月15日
ソ連の参戦
1945年7月26日、アメリカ・イギリス・中国は、日本に降伏を求めるポツダム宣言を出しました。日本の政府は、はじめこれにこたえませんでした。
8月8日には、ソ連が日本に宣戦しました。ソ連の軍隊は、満州(中国の東北部)や樺太などに攻めこんできました。
天皇の声がラジオから
8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏することを決め、連合国に伝えました。戦争を終わらせる天皇の言葉(詔書)も出されました。
戦争を終わらせる天皇の言葉(終戦の詔書)の1ページ目。「米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル」と書かれています。大東亜戦争終結ニ関スル詔書(御署名原本) 昭和20年(1945)8月14日 国立公文書館蔵出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)
次の日の8月15日の正午、天皇の声がラジオで放送されました。これをといいます。国民は、この放送で戦争が終わったことを知りました。
なぜ?天皇がラジオで伝えたの?
そのころの憲法(大日本帝国憲法)では、天皇が国を治めると決められていました。そのため、戦争を終わらせることも、天皇の言葉(詔書)として国民に伝えられました。
日本はポツダム宣言を受け入れ、8月15日、天皇がラジオ放送で戦争の終わりを国民に伝えました。
降伏文書と、戦争でなくなった人々
9月2日、降伏文書に署名
9月2日、東京湾にうかぶアメリカの軍艦ミズーリ号の上で、日本の代表がに署名しました。
日本の政府を代表したのは、外務大臣の重光葵です。こうして、1931年の満州事変から15年にわたった戦争が終わりました。
ミズーリ号の上で、降伏文書に署名する重光葵(1945年9月2日)。降伏文書に署名する重光葵外務大臣 1945年9月2日 アメリカ陸軍通信隊撮影(アメリカ海軍歴史センター SC 213700)出典:アメリカ陸軍(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン)(部分)
国の内と外で、たくさんの命が
この戦争でなくなった日本の人々は、約310万人とされています。このうち約80万人は、兵士ではない一般の人々です。
日本が戦場にした中国や東南アジア、太平洋の島々でも、たくさんの人々の命がうばわれました。
9月2日に降伏文書に署名し、15年にわたった戦争が終わりました。日本だけでなく、アジアや太平洋の国々の人々も大きな被害を受けました。
平和への願い
8月6日・8月9日・8月15日
毎年8月6日、広島市の平和記念公園で平和記念式典が開かれます。原爆が落とされた午前8時15分に、参列した人々は黙とうをささげます。
広島市の平和記念式典(2023年8月6日)。原爆死没者慰霊碑の前で、花輪がささげられています。広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 2023年8月6日 内閣官房内閣広報室撮影出典:首相官邸ホームページ(公共データ利用規約 第1.0版、CC BY 4.0 互換)(CC BY 4.0)
長崎市でも、毎年8月9日に平和祈念式典が開かれます。8月15日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」で、国の追悼式が行われます。
- 8月6日:広島市の平和記念式典(午前8時15分に黙とう)
- 8月9日:長崎市の平和祈念式典(午前11時2分に黙とう)
- 8月15日:全国戦没者追悼式(正午に黙とう)
広島と長崎では毎年、平和を願う式典が開かれ、核兵器のない世界と平和の大切さを世界にうったえています。
年の流れでふり返る
- 1945年7月26日アメリカ・イギリス・中国がポツダム宣言を出す
- 8月6日広島に原子爆弾が落とされる
- 8月8日ソ連が日本に宣戦する
- 8月9日長崎に原子爆弾が落とされる
- 8月14日ポツダム宣言の受け入れを決める
- 8月15日天皇がラジオで戦争の終わりを伝える
- 9月2日降伏文書に署名する
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、戦争の終わり方を、もう少しくわしく習います。
| 小学校 | 中学校で加わること |
| ポツダム宣言 | 降伏を求めた | 軍隊の武装を解くこと、民主主義を強めること、言論・宗教・思想の自由と基本的人権を尊重することなどを求めていた。これが戦後の改革のもとになる |
| 受け入れまで | 8月14日に受け入れを決めた | 8月10日の御前会議で受け入れの方針を決め、天皇の地位について連合国に問い合わせた。8月14日の御前会議で最終的に受け入れを決め、米・英・中・ソの4か国に通告した |
| 降伏文書 | 9月2日にミズーリ号で署名 | 日本側は、政府代表の重光葵外務大臣と、軍(大本営)代表の梅津美治郎参謀総長が署名した。連合国側はマッカーサーが署名した。文書は2通つくられ、日本側の1通は外務省外交史料館にある |
| 原爆ドーム | 1996年に世界遺産 | 爆心地から約160mで被爆した。もとは1915年に完成した広島県物産陳列館で、1933年から広島県産業奨励館とよばれていた。2025年には国の特別史跡になった |
この時代の人物

鈴木貫太郎
海軍の軍人で、天皇のそばにつかえる侍従長もつとめた。1945年4月に首相となり、ポツダム宣言を受け入れて戦争を終わらせたときの首相。

重光葵
外交官・政治家。1945年9月2日、外務大臣として、日本の政府を代表して降伏文書に署名した。戦後は外務大臣として、日本の国際連合への加盟に力をつくした。
重要なところ
原子爆弾が落とされたのは、広島が1945年8月6日、長崎が8月9日です。
広島が先で、3日後に長崎です。
8月15日は、天皇がラジオ放送で国民に戦争の終わりを伝えた日です。
降伏文書に署名したのは9月2日です。
ポツダム宣言は、アメリカ・イギリス・中国が出した、日本に降伏を求める宣言です。
ソ連は8月8日に日本に宣戦しました。
原爆ドームは、1996年に世界遺産に登録されました。
平和を願い、核兵器の被害を伝える記念碑とされています。
たしかめ問題1/7
1945年8月6日に原子爆弾が落とされた都市はどこですか。
たしかめ問題2/7
1945年8月9日に原子爆弾が落とされた都市はどこですか。
たしかめ問題3/7
1945年8月8日に日本に宣戦した国はどこですか。
たしかめ問題4/7
アメリカ・イギリス・中国が出した、日本に降伏を求める宣言を何といいますか。
たしかめ問題5/7
天皇がラジオ放送で国民に戦争の終わりを伝えたのは、何月何日ですか。
たしかめ問題6/7
1945年9月2日、日本の代表がアメリカの軍艦ミズーリ号の上で署名した文書を何といいますか。
たしかめ問題7/7
原子爆弾の被害を今に伝える建物として、1996年に世界遺産になった広島市の建物を何といいますか。
問いへの答え
長く続いた戦争は、どのようにして終わったのだろう。
1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に、アメリカ軍が原子爆弾を落としました。一発の爆弾で町は焼け野原になりました。その年の終わりまでに、広島では約14万人、長崎では約7万4千人がなくなったと推計されています。8月8日にはソ連も日本に宣戦しました。日本はポツダム宣言を受け入れて降伏することを決め、8月15日、天皇がラジオ放送で国民に伝えました。9月2日に降伏文書に署名し、1931年から15年にわたった戦争が終わりました。この戦争では、日本の人々だけでなく、アジアや太平洋の国々のたくさんの人々の命がうばわれました。
画像の出典
- 原爆ドーム 2018年11月撮影 Balon Greyjoy(Wikimedia Commons(CC0))
- 広島の原子雲 ジョージ・R・キャロン撮影 1945年8月6日 アメリカ国立公文書館蔵(NAID 542192)(アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン))
- 長崎の原子雲 チャールズ・レヴィ撮影 1945年8月9日 アメリカ国立公文書館蔵(アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン))
- 攻撃前の広島のモザイク写真 1945年4月13日撮影 アメリカ国立公文書館蔵(NAID 540225)(アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン))
- 攻撃後の広島のモザイク写真 1945年8月11日撮影 アメリカ国立公文書館蔵(NAID 540226)(アメリカ国立公文書館(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン))
- 大東亜戦争終結ニ関スル詔書(御署名原本) 昭和20年(1945)8月14日 国立公文書館蔵(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- 降伏文書に署名する重光葵外務大臣 1945年9月2日 アメリカ陸軍通信隊撮影(アメリカ海軍歴史センター SC 213700)(アメリカ陸軍(アメリカ政府の著作物・パブリックドメイン))
- 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 2023年8月6日 内閣官房内閣広報室撮影(首相官邸ホームページ(公共データ利用規約 第1.0版、CC BY 4.0 互換))
- 鈴木貫太郎(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 重光葵(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)