小6社会/世界に歩み出した日本
産業の発展と足尾銅山
今日の問い産業が発展して、日本の社会はどのように変わったのだろう。
3行でわかる
- 明治の中ごろから、やなどのが発展し、生糸は日本のいちばんの輸出品になりました。
- 1901年にが鉄をつくり始め、鉄や機械をつくるも発展しました。鉄道も全国に広がりました。
- いっぽうで、の鉱毒が渡良瀬川を流れて田畑をあらし、田中正造が国会などで被害をうったえました。
生糸と綿糸 ― 軽工業の発展
生糸は、日本のいちばんの輸出品
明治の政府は、を進めて、国の産業をさかんにしようとしました。明治の中ごろになると、民間の会社や工場も次々にできていきました。
はじめに大きく発展したのは、糸や布をつくる工業です。このように、くらしに使う軽い品物をつくる工業を軽工業といいます。
とくに大切だったのが、かいこのまゆからをつくる製糸業です。生糸は、明治のはじめから、日本のいちばんの輸出品でした。そのころは、絹織物をふくめた生糸が、輸出額全体の約4割をしめていました。
アメリカが輸入した日本の生糸の量- 1,160トン1890年
- 1,792トン1895年
- 2,113トン1900年
- 3,377トン1905年
- 6,299トン1910年
1910年には、アメリカが輸入した生糸の62%が日本の生糸でした。 出典:群馬県立世界遺産センター紀要 第4号(2024年)田中修「原富岡製糸所から組合製糸群馬社への技術移転」第1表(中林真幸『近代資本主義の組織』附表より作成)
生糸は、アメリカなどにさかんに輸出されました。1909年には、日本は中国をぬいて、世界一の生糸の輸出国になりました。
綿糸をつくる紡績業
綿花から綿糸をつくる工業を紡績業といいます。大きな工場に機械をならべ、蒸気の力で動かして、たくさんの綿糸をつくりました。
東京の南千住にあった紡績工場の中。天井の大きな車輪とベルトで、ならんだ機械を動かしました。大日本紡績株式会社橋場工場精紡部(絵はがき。収蔵品データベースの備考に「明治42年6月撮影」とある)出典:荒川ふるさと文化館収蔵品データベース(PDM)(部分)
原料の綿花は、インドなどから輸入しました。つくった綿糸や綿織物は、明治の中ごろから、さかんに輸出されるようになりました。
明治の中ごろから、製糸業や紡績業などの軽工業が発展しました。生糸は日本のいちばんの輸出品でした。
工場で働く人々
工場をささえた若い女性たち
製糸や紡績の工場で働いたのは、おもに若い女性たちでした。働く女性は「工女」や「女工」とよばれました。
工女たちの多くは、農村からはなれて工場に来て、寄宿舎に住んで働きました。まだ子どもといってよい年の少女も、たくさんいました。
長い時間の、きびしい仕事
しかし、工場での仕事はとてもきびしいものでした。休みが少なく、1日の働く時間も、とても長いものでした。
紡績工場では、子どもや女性も、夜通し働く「徹夜業」をしていました。綿のほこりをすう仕事で、肺の病気(結核)にかかる人も多くいました。
なぜ?きびしい働き方が、すぐに改められなかったの?
政府は、働く人を守る法律(工場法)を1897年から議会に出していましたが、なかなか成立しませんでした。工場を経営する人たちの反対もあったからです。は1911年にようやくでき、1916年から実際に使われるようになりました。
工場では、農村から来た若い女性たちが、長い時間、きびしい条件で働いていました。
八幡製鉄所と重工業
1901年、八幡製鉄所が鉄をつくり始める
鉄は、鉄道のレールや船、機械、兵器をつくるのに欠かせません。をきっかけに、国の製鉄所をつくろうという声が高まりました。
そこで政府は、福岡県の八幡村に、官営の八幡製鉄所を建てることにしました。建設のお金には、日清戦争で清から受け取ったの一部も使われたとされています。1901年、八幡製鉄所は鉄をつくり始めました。
工事が始まるころ(1897年)の八幡。製鉄所の土地には、田んぼが広がっていました。帆柱山より見たる製鐵所敷地全景(明治30年)(『製鉄所写真帖』1914年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
1914年ごろの八幡製鉄所。17年ほど前の田んぼが、えんとつの並ぶ大工場に変わりました。製鐵所全景(『製鉄所写真帖』製鉄所、1914年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
なぜ? 八幡が選ばれたの?
鉄をつくるには、鉄鉱石をとかすための石炭がたくさん必要です。八幡は、石炭が多くとれる筑豊の炭田に近く、船で原料を運べる海にも面していました。
鉄や機械をつくる重工業
鉄や船、機械などをつくる、重い品物の工業を重工業といいます。八幡製鉄所ができてから、日本の重工業は大きく発展していきました。
鉄道が全国に広がる
産業の発展とともに、鉄道も全国にのびていきました。1889年には、東京の新橋から神戸までの東海道線が全部つながりました。
民間の会社も、各地に鉄道をつくりました。1906年には、おもな民間の鉄道が国のものになりました。
産業の発展と足尾銅山に関係する場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 福岡県。1901年に鉄をつくり始めた官営の製鉄所。いまも東田第一高炉(1962〜1972年に使われたもの)が残り、近くで見られる。
- 栃木県。明治時代に銅の生産が急にふえた銅山。鉱毒が渡良瀬川を流れ、下流の田畑に被害をあたえた。1973年に閉山した。
- 群馬県。渡良瀬川のそばの寺。足尾銅山の鉱業停止を求める請願事務所が置かれ、田中正造と被害を受けた人々の運動の拠点になった。田中正造の墓の一つがある。
- 群馬県。政府がつくった製糸工場。フランスの技術を取り入れた。2014年に世界遺産になった。
●緑はおもな産地や都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
1901年に八幡製鉄所が鉄をつくり始め、重工業が発展しました。鉄道も全国に広がりました。
足尾銅山の鉱毒事件
銅の生産が急にふえる
栃木県の足尾銅山は、江戸時代から銅をほり出していた鉱山です。1877年に古河市兵衛が経営を始め、新しい技術を取り入れました。
足尾銅山の銅(粗銅)の生産量- 49トン1877年
- 273トン1882年
- 4,361トン1886年
1877年は古河市兵衛が経営を始めた年。 出典:栃木県日光土木事務所「銅とともに生きた足尾」
1877年に49トンほどだった銅の生産は、1886年には4,361トンになりました。10年ほどで、急にふえたのです。
1895年ごろの足尾銅山の製錬所。まわりの山に、木がほとんどないことがわかります。製煉機械場全景(『古河足尾銅山写真帖』1895年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
渡良瀬川を流れた鉱毒
しかし、銅をほり出したり、とかしたりするときに出る有害なものが、大きな問題を起こしました。これを鉱毒といいます。
鉱毒は、山から流れる渡良瀬川に入りました。川の生き物は死に、洪水のたびに、川ぞいの田畑の作物がかれてしまいました。
製錬所のけむりで、銅山のまわりの山の木もかれました。木がなくなった山からは土砂が流れ出し、洪水が起こりやすくなりました。
1897年に出された、鉱毒の被害を受けた村々の地図。黄色の小さな札の1つ1つが、鉱毒の被害を受けた村です(地図の中の説明による)。足尾銅山鉱毒被害地各村落之略地図(明治30年10月、山高堂)出典:群馬県立図書館デジタルライブラリー(CC0)(部分)
田中正造のうったえ
栃木県出身の田中正造は、1890年の第1回の選挙で、衆議院議員になりました。そして、国会で何度も鉱毒の被害をうったえ、政府の考えを問いただしました。
被害を受けた人々も、銅山の仕事を止めるよう、国に願い出ました。1900年には、東京へうったえに向かう人々を、警察がおさえる事件も起こりました。
1901年、田中正造は議員をやめて、明治天皇に直接うったえようとしました(直訴)。それでも、銅山の仕事が止められることはありませんでした。
足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川の流域に大きな被害をあたえ、田中正造が国会などで被害をうったえました。
年の流れでふり返る
- 1877年古河市兵衛が足尾銅山の経営を始める
- 1889年東海道線(新橋〜神戸)が全部つながる
- 1890年田中正造が衆議院議員になる
- 1901年八幡製鉄所が鉄をつくり始める。田中正造が天皇に直訴しようとする
- 1906年おもな民間の鉄道が国のものになる
- 1909年日本が世界一の生糸の輸出国になる
- 1911年工場法ができる(1916年から使われる)
八幡製鉄所と田中正造の直訴は、どちらも1901年です。産業が発展した明るい面と、その裏で起きた問題を、セットで覚えましょう。
いまの公害の問題につながる
工場や鉱山から出たものが、人々の健康やくらし、自然をこわす問題をといいます。足尾銅山の鉱毒事件は、その早い例です。
その後も、日本では各地で公害が起こりました。1971年には、公害などの問題に取り組む国の役所として、環境庁(いまの環境省)がつくられました。
足尾の山では、いまも木を植えて、緑を取りもどす活動が続いています。もとの緑にもどるには、100年以上かかるともいわれます。
産業を発展させることと、人のくらしや自然を守ることを、どうやって両立させるか。足尾銅山の鉱毒事件は、いまのわたしたちにも問いかけています。
足尾銅山の鉱毒事件は、産業の発展と自然やくらしを守ることの両立という、いまにつながる問題を残しました。
この時代の人物

田中正造
栃木県の出身(1841〜1913年)。1890年に衆議院議員になり、国会の内と外で、足尾銅山の鉱毒問題に取り組み続けた。1901年に議員をやめ、明治天皇に直訴しようとした。
重要なところ
生糸をつくるのは製糸業、綿糸をつくるのは紡績業です。
「まゆから生糸=製糸」「綿花から綿糸=紡績」と、原料とセットで覚えましょう。
八幡製鉄所は福岡県につくられ、1901年に鉄をつくり始めました。
群馬県の富岡製糸場(1872年)とまぜないようにしましょう。
足尾銅山は栃木県にあり、鉱毒は渡良瀬川を流れて広がりました。
田中正造は、この鉱毒の被害を国会でうったえました。
たしかめ問題1/8
かいこのまゆから生糸をつくる工業を何といいますか。
たしかめ問題2/8
綿花から綿糸をつくる工業を何といいますか。
たしかめ問題3/8
明治時代、日本のいちばんの輸出品だったものは何ですか。
たしかめ問題4/8
1901年に福岡県で鉄をつくり始めた、官営の製鉄所を何といいますか。
たしかめ問題5/8
鉄や船、機械などをつくる工業を、軽工業に対して何といいますか。
たしかめ問題6/8
足尾銅山の鉱毒が流れこみ、流域の田畑に被害をあたえた川を何といいますか。
たしかめ問題7/8
足尾銅山の鉱毒の被害を国会でうったえ、1901年に天皇に直訴しようとした人物はだれですか。
たしかめ問題8/8
製糸や紡績の工場で働いた人の多くは、どんな人たちでしたか。
ヒント:「女工」ともよばれました
農村から来た若い女性たち(工女)
問いへの答え
産業が発展して、日本の社会はどのように変わったのだろう。
明治の中ごろから、生糸をつくる製糸業や、綿糸をつくる紡績業などの軽工業が発展しました。生糸は日本のいちばんの輸出品となり、1909年には日本は世界一の生糸の輸出国になりました。1901年には官営の八幡製鉄所が鉄をつくり始め、重工業も発展しました。鉄道も全国に広がりました。しかし、工場では女性や子どもが長い時間働かされていました。また、足尾銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川の流域の田畑や魚に大きな被害をあたえ、衆議院議員の田中正造が、国会で被害をうったえ、天皇への直訴もしようとしました。産業の発展は人々の生活を変えましたが、公害などの新しい問題も生まれたのです。
画像の出典
- 大日本紡績株式会社橋場工場精紡部(絵はがき。収蔵品データベースの備考に「明治42年6月撮影」とある)(荒川ふるさと文化館収蔵品データベース(PDM))
- 帆柱山より見たる製鐵所敷地全景(明治30年)(『製鉄所写真帖』1914年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 製鐵所全景(『製鉄所写真帖』製鉄所、1914年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 製煉機械場全景(『古河足尾銅山写真帖』1895年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 足尾銅山鉱毒被害地各村落之略地図(明治30年10月、山高堂)(群馬県立図書館デジタルライブラリー(CC0))
- 田中正造(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)