教科書補助小6 社会 / 武士の世の中へ / 5本中の4本目

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)とは?源頼朝(みなもとのよりとも)がつくった武士(ぶし)の政府(せいふ)を、わかりやすく

教科書では:東京書籍「武士の世の中へ」の「頼朝が東国を治める」/教育出版「武士の政治が始まる」の「幕府を開いた源頼朝」/日本文教出版「武士による政治のはじまり」の「源頼朝と鎌倉幕府」

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  1. 鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)は、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉(かまくら)(今(いま)の神奈川県(かながわけん))に開(ひら)いた、武士(ぶし)による政府(せいふ)です。
  2. 将軍(しょうぐん)と家来(けらい)の武士(ぶし)()は、とという約束(やくそく)で結(むす)ばれていました。
  3. 頼朝(よりとも)のあとは北条氏(ほうじょうし)がとして政治(せいじ)を動(うご)かし、約(やく)150年(ねん)続(つづ)きました。
今日(きょう)の問(と)い

武士(ぶし)たちは、なぜ源頼朝(みなもとのよりとも)のもとに集(あつ)まり、命(いのち)がけで戦(たたか)ったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)ができるまで

  1. 1180年(ねん)源頼朝(みなもとのよりとも)が、平氏(へいし)をたおすために兵(へい)をあげ、鎌倉(かまくら)に入(はい)る
  2. 1185年(ねん)で平氏(へいし)がほろびる。頼朝(よりとも)が国(くに)ごとに、ごとにを置(お)くことをに認(みと)めさせる
  3. 1192年(ねん)頼朝(よりとも)がに任(にん)じられる
  4. 1221年(ねん)。幕府(ばくふ)が朝廷(ちょうてい)に勝(か)ち、力(ちから)が西(にし)日本(にほん)まで広(ひろ)がる
  5. 1333年(ねん)鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)がほろびる
鎌倉時代(かまくらじだい)のできごとの場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 神奈川県(かながわけん)。源頼朝(みなもとのよりとも)が本拠地(ほんきょち)にした場所(ばしょ)。ここに鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)が置(お)かれた。
  • 京都府(きょうとふ)。天皇(てんのう)と朝廷(ちょうてい)がある都(みやこ)。承久(じょうきゅう)の乱(らん)のあと、幕府(ばくふ)はここに朝廷(ちょうてい)を見(み)はる役所(やくしょ)(六波羅探題(ろくはらたんだい))を置(お)いた。
  • 山口県(やまぐちけん)。源氏(げんじ)が平氏(へいし)をほろぼした戦(たたか)いの場所(ばしょ)。本州(ほんしゅう)と九州(きゅうしゅう)の間(あいだ)の関門海峡(かんもんかいきょう)の海(うみ)で戦(たたか)った。
  • 福岡県(ふくおかけん)。元(げん)の軍(ぐん)がせめてきた場所(ばしょ)(元寇(げんこう))。1度目(どめ)のあと、幕府(ばくふ)は海岸(かいがん)に石(いし)の防塁(ぼうるい)を築(きず)かせ、2度目(どめ)にそなえた。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

なぜ鎌倉(かまくら)を選(えら)んだのか

平氏(へいし)をほろぼした頼朝(よりとも)は、京都(きょうと)ではなく、本拠地(ほんきょち)の鎌倉(かまくら)で政治(せいじ)を始(はじ)めました。

鎌倉(かまくら)は、三方(さんぽう)を山(やま)、一方(いっぽう)を海(うみ)に囲(かこ)まれ、敵(てき)が攻(せ)めこみにくい土地(とち)です。源氏(げんじ)とゆかりが深(ふか)く、頼朝(よりとも)を支(ささ)える関東(かんとう)の武士(ぶし)が集(あつ)まりやすい場所(ばしょ)でもありました。

江戸時代の鎌倉の絵地図。山に囲まれた土地に寺や神社がたくさん描かれ、上のほうに大きな神社、下に鳥居がある
江戸時代(えどじだい)の鎌倉(かまくら)の絵地図(えちず)。上(うえ)のほうの大(おお)きな建物(たてもの)が、源氏(げんじ)の守(まも)り神(がみ)をまつる鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)です。まわりを山(やま)に囲(かこ)まれていることがわかります。鎌倉繪圖 江戸時代(木版)出典:東京都立中央図書館(部分)

武士(ぶし)の政府(せいふ)「幕府(ばくふ)」

将軍(しょうぐん)を中心(ちゅうしん)に、武士(ぶし)が政治(せいじ)を行(おこな)うしくみをといいます。鎌倉(かまくら)に開(ひら)かれたので、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)とよばれます。

ここから、江戸時代(えどじだい)の終(お)わりまで約(やく)700年(ねん)続(つづ)く、武士(ぶし)の世(よ)の中(なか)が始(はじ)まります。

源頼朝(みなもとのよりとも)は鎌倉(かまくら)に幕府(ばくふ)を開(ひら)き、武士(ぶし)による政治(せいじ)を始(はじ)めました。1192年(ねん)には征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任(にん)じられました。

御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)―将軍(しょうぐん)と御家人(ごけにん)の約束(やくそく)

頼朝(よりとも)の家来(けらい)になった武士(ぶし)を御家人(ごけにん)といいます。将軍(しょうぐん)と御家人(ごけにん)は、おたがいに役目(やくめ)を果(は)たす約束(やくそく)で結(むす)ばれていました。

御恩(ごおん)(将軍(しょうぐん)→御家人(ごけにん))
御家人(ごけにん)がもともと持(も)っている土地(とち)を、正式(せいしき)に認(みと)めて守(まも)る。手(て)がらを立(た)てたら、新(あたら)しい土地(とち)をあたえる。
奉公(ほうこう)(御家人(ごけにん)→将軍(しょうぐん))
戦(たたか)いが起(お)きたら、命(いのち)がけで将軍(しょうぐん)のために戦(たたか)う。ふだんは京都(きょうと)や鎌倉(かまくら)の警備(けいび)をする。
なぜ?土地(とち)を守(まも)ってもらうことが、そんなに大事(だいじ)だったの?
当時(とうじ)の武士(ぶし)にとって、土地(とち)は家族(かぞく)と家来(けらい)を養(やしな)う田畑(たはた)そのものでした。平安時代(へいあんじだい)には、切(き)り開(ひら)いた土地(とち)を貴族(きぞく)や寺社(じしゃ)に取(と)り上(あ)げられることもありました。頼朝(よりとも)は、その土地(とち)を正式(せいしき)に認(みと)めて守(まも)ると約束(やくそく)しました。だから武士(ぶし)たちは頼朝(よりとも)のもとに集(あつ)まり、そのお返(かえ)しに命(いのち)がけで戦(たたか)ったのです。
馬のそばにひざをつく武士と、建物の中に座って向き合う幕府の役人をえがいた絵巻の一場面
元(げん)との戦(たたか)いで手(て)がらを立(た)てた御家人(ごけにん)の竹崎季長(たけざきすえなが)(まん中(なか))は、鎌倉(かまくら)まで出(で)かけて幕府(ばくふ)にうったえ、新(あたら)しい土地(とち)の地頭(じとう)の地位(ちい)と馬(うま)をあたえられました。これが「御恩(ごおん)」です。蒙古襲来絵巻(模本) 江戸時代・19世紀。もとは鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
たとえるなら「がんばればレギュラーの座(ざ)と新(あたら)しい道具(どうぐ)を約束(やくそく)する監督(かんとく)」と、「そのために全力(ぜんりょく)でやる選手(せんしゅ)」の関係(かんけい)に近(ちか)いです。どちらかが約束(やくそく)を守(まも)らなくなると、関係(かんけい)はくずれてしまいます。

この「約束(やくそく)がくずれると、関係(かんけい)もくずれる」という点(てん)は、のちの元(げん)との戦(たたか)い()で大事(だいじ)になります。

将軍(しょうぐん)は御家人(ごけにん)の土地(とち)を守(まも)り、手(て)がらに応(おう)じて土地(とち)をあたえました(御恩(ごおん))。御家人(ごけにん)は命(いのち)がけで将軍(しょうぐん)のために戦(たたか)いました(奉公(ほうこう))。

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)のしくみ

役職(やくしょく)置(お)かれた場所(ばしょ)仕事(しごと)
将軍(しょうぐん)鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)のいちばん上(うえ)に立(た)ち、御家人(ごけにん)をまとめる
執権(しっけん)鎌倉(かまくら)将軍(しょうぐん)を助(たす)ける役職(やくしょく)。のちに北条氏(ほうじょうし)が代々(だいだい)つとめ、政治(せいじ)を動(うご)かす
守護(しゅご)国(くに)(今(いま)の県(けん)くらいの広(ひろ)さ)ごとその国(くに)の軍事(ぐんじ)や警察(けいさつ)の仕事(しごと)をして、御家人(ごけにん)をまとめる
地頭(じとう)荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)ごと土地(とち)を管理(かんり)し、年貢(ねんぐ)を取(と)り立(た)てる

守護(しゅご)も地頭(じとう)も、頼朝(よりとも)が御家人(ごけにん)の中(なか)から選(えら)びました。

それまで朝廷(ちょうてい)や貴族(きぞく)がにぎっていた地方(ちほう)の土地(とち)や警察(けいさつ)の仕事(しごと)に、武士(ぶし)が入(はい)りこんでいったことがわかります。

国(くに)ごとに守護(しゅご)、荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)ごとに地頭(じとう)が置(お)かれ、どちらも御家人(ごけにん)がつとめました。

頼朝(よりとも)のあと―北条氏(ほうじょうし)と承久(じょうきゅう)の乱(らん)

北条氏(ほうじょうし)が執権(しっけん)になる

頼朝(よりとも)は1199年(ねん)に亡(な)くなり、源氏(げんじ)の将軍(しょうぐん)は3代(だい)で絶(た)えてしまいました。

そこで政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)になったのが、頼朝(よりとも)の妻(つま)・北条政子(ほうじょうまさこ)の実家(じっか)の北条氏(ほうじょうし)です。北条氏(ほうじょうし)は執権(しっけん)の地位(ちい)について、幕府(ばくふ)の政治(せいじ)を動(うご)かしました。

承久(じょうきゅう)の乱(らん)と政子(まさこ)のうったえ

1221年(ねん)、京都(きょうと)の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が、幕府(ばくふ)をたおそうと兵(へい)をあげました。朝廷(ちょうてい)に政治(せいじ)の力(ちから)を取(と)りもどすためです。これを承久(じょうきゅう)の乱(らん)といいます。

このとき北条政子(ほうじょうまさこ)は、動揺(どうよう)する御家人(ごけにん)たちに、頼朝(よりとも)から受(う)けた御恩(ごおん)の大(おお)きさを語(かた)りました。そして、心(こころ)を一(ひと)つにして戦(たたか)うよううったえたと伝(つた)えられています。

幕府(ばくふ)の力(ちから)が西(にし)日本(にほん)へ

幕府(ばくふ)は上皇(じょうこう)の軍(ぐん)に勝(か)ち、京都(きょうと)に朝廷(ちょうてい)を見(み)はる役所(やくしょ)を置(お)きました。

上皇側(じょうこうがわ)についた貴族(きぞく)や武士(ぶし)の土地(とち)は取(と)り上(あ)げられ、手(て)がらを立(た)てた御家人(ごけにん)にあたえられました。こうして、幕府(ばくふ)の力(ちから)は西(にし)日本(にほん)にまで広(ひろ)がりました。

なぜ? 御家人(ごけにん)たちは、上皇(じょうこう)と戦(たたか)えたの?
上皇(じょうこう)に逆(さか)らうことは、当時(とうじ)の武士(ぶし)にとってとても重(おも)い決断(けつだん)でした。それでも幕府(ばくふ)についたのは、自分(じぶん)の土地(とち)を守(まも)ってくれるのは幕府(ばくふ)だと考(かんが)えたからです。ここでも「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」の約束(やくそく)が、武士(ぶし)を動(うご)かしていました。

頼朝(よりとも)のあとは北条氏(ほうじょうし)が執権(しっけん)として政治(せいじ)を動(うご)かしました。承久(じょうきゅう)の乱(らん)で朝廷(ちょうてい)に勝(か)ち、幕府(ばくふ)の力(ちから)は西(にし)日本(にほん)まで広(ひろ)がりました。

このあと、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)は

13世紀(せいき)の後半(こうはん)、中国(ちゅうごく)を支配(しはい)した元(げん)の大軍(たいぐん)が、2度(ど)にわたって九州北部(きゅうしゅうほくぶ)にせめてきました。

この戦(たたか)いのあと、御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の約束(やくそく)がくずれていきます。鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)は、1333年(ねん)にほろびました。くわしくは、次(つぎ)の「元寇(げんこう)とは」で学(まな)びます。

海の上の船に乗ったよろいの武士たちをえがいた、3枚つづきの錦絵
1333年(ねん)、新田義貞(にったよしさだ)の軍(ぐん)が鎌倉(かまくら)にせめこみ、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)はほろびました。この絵(え)は、義貞(よしさだ)が稲村ヶ崎(いなむらがさき)(鎌倉(かまくら)の海(うみ)ぞい)から鎌倉(かまくら)に入(はい)ろうとする場面(ばめん)を、江戸時代(えどじだい)にえがいたものです。歌川国芳「新田義貞稲村ヶ崎にて太刀を海中に投ず」 江戸時代(錦絵)出典:東京都立中央図書館を加工して作成

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

黒い装束を着て、正面を向いて座る武士の肖像画
源頼朝(みなもとのよりとも)
平氏(へいし)をたおし、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)を開(ひら)いた。1192年(ねん)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になる。
伝源頼朝像(模本) 冷泉為恭模 江戸時代・19世紀。出典:ColBase(東京国立博物館)
よろいを着て、日の丸の扇を持って座る武将の錦絵
源義経(みなもとのよしつね)
頼朝(よりとも)の弟(おとうと)。源平(げんぺい)の戦(たたか)いで活(かつ)やくし平氏(へいし)をほろぼしたが、のちに頼朝(よりとも)と対立(たいりつ)した。
歌川国芳「英勇一百伝 伊予守源義経」 1851年(江戸時代に想像してえがいた絵)。出典:東京都立中央図書館(部分)
尼の頭巾をかぶった女性が、机の前に座っている線画
北条政子(ほうじょうまさこ)
頼朝(よりとも)の妻(つま)。承久(じょうきゅう)の乱(らん)のとき、御家人(ごけにん)に団結(だんけつ)をうったえたと伝(つた)えられる。
菊池容斎『前賢故実』巻8(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
冠をかぶり、もようのある着物を着て、たたみの上に座る男性の肖像画
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
1221年(ねん)に幕府(ばくふ)をたおそうと兵(へい)をあげた(承久(じょうきゅう)の乱(らん))が、敗(やぶ)れた。
後鳥羽天皇像(模本) 原本は鎌倉時代。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

重要(じゅうよう)なところ

鎌倉時代(かまくらじだい)にも、朝廷(ちょうてい)は京都(きょうと)に残(のこ)っていました。
天皇(てんのう)や貴族(きぞく)の朝廷(ちょうてい)と、将軍(しょうぐん)や武士(ぶし)の幕府(ばくふ)が、同(おな)じ時代(じだい)に並(なら)んでいたのが鎌倉時代(かまくらじだい)です。
北条氏(ほうじょうし)は「執権(しっけん)」として幕府(ばくふ)の政治(せいじ)を動(うご)かしました。
将軍(しょうぐん)は別(べつ)にいて、北条氏(ほうじょうし)は執権(しっけん)として実際(じっさい)の政治(せいじ)を動(うご)かしました。
御家人(ごけにん)が将軍(しょうぐん)のために戦(たたか)うことを「奉公(ほうこう)」といいます。
御恩(ごおん)は将軍(しょうぐん)から御家人(ごけにん)へ、奉公(ほうこう)は御家人(ごけにん)から将軍(しょうぐん)へ、と向(む)きで覚(おぼ)えましょう。
守護(しゅご)は国(くに)ごと、地頭(じとう)は荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)ごとに置(お)きました。
守護(しゅご)は国(くに)の軍事(ぐんじ)や警察(けいさつ)、地頭(じとう)は荘園(しょうえん)や公領(こうりょう)の年貢(ねんぐ)の取(と)り立(た)てや土地(とち)の管理(かんり)をしました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「武士の世の中へ」の授業「頼朝が東国を治める」
  • 教育出版:「武士の政治が始まる」の授業「幕府を開いた源頼朝」
  • 日本文教出版:「武士による政治のはじまり」の授業「源頼朝と鎌倉幕府」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(エ):源平(げんぺい)の戦(たたか)い、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の始(はじ)まり、元(げん)との戦(たたか)いから、武士(ぶし)による政治(せいじ)が始(はじ)まったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263214000000)

「武士(ぶし)の世(よ)の中(なか)へ」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)を開(ひら)いた人(ひと)はだれですか。源頼朝(みなもとのよりとも)
将軍(しょうぐん)が御家人(ごけにん)の土地(とち)を認(みと)めて守(まも)り、新(あたら)しい土地(とち)をあたえることを何(なん)といいますか。御恩(ごおん)
国(くに)ごとに置(お)かれ、軍事(ぐんじ)や警察(けいさつ)の仕事(しごと)をした役職(やくしょく)を何(なん)といいますか。ヒント:地頭(じとう)ではありません守護(しゅご)
頼朝(よりとも)のあと、執権(しっけん)として幕府(ばくふ)の政治(せいじ)を動(うご)かしたのは何氏(なにし)ですか。北条氏(ほうじょうし)
元寇(げんこう)のあと、御家人(ごけにん)が幕府(ばくふ)に不満(ふまん)をもったのはなぜですか。外国(がいこく)から守(まも)る戦(たたか)いで新(あたら)しい土地(とち)が手(て)に入(はい)らず、十分(じゅうぶん)なほうびをもらえなかったから。
問(と)いへの答(こた)え

頼朝(よりとも)は、武士(ぶし)が命(いのち)の次(つぎ)に大切(たいせつ)にしていた土地(とち)を正式(せいしき)に認(みと)めて守(まも)り、手(て)がらを立(た)てれば新(あたら)しい土地(とち)をあたえると約束(やくそく)しました(御恩(ごおん))。武士(ぶし)たちはそのお返(かえ)しに、将軍(しょうぐん)のために命(いのち)がけで戦(たたか)いました(奉公(ほうこう))。この約束(やくそく)があったから、武士(ぶし)は頼朝(よりとも)のもとに集(あつ)まったのです。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)
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出典

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