鎌倉幕府とは?源頼朝がつくった武士の政府を、わかりやすく
教科書では:東京書籍「武士の世の中へ」の「頼朝が東国を治める」/教育出版「武士の政治が始まる」の「幕府を開いた源頼朝」/日本文教出版「武士による政治のはじまり」の「源頼朝と鎌倉幕府」
- 鎌倉幕府は、源頼朝が鎌倉(今の神奈川県)に開いた、武士による政府です。
- 将軍と家来の武士()は、とという約束で結ばれていました。
- 頼朝のあとは北条氏がとして政治を動かし、約150年続きました。
武士たちは、なぜ源頼朝のもとに集まり、命がけで戦ったのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。鎌倉幕府ができるまで
- 1180年源頼朝が、平氏をたおすために兵をあげ、鎌倉に入る
- 1185年で平氏がほろびる。頼朝が国ごとに、ごとにを置くことをに認めさせる
- 1192年頼朝がに任じられる
- 1221年。幕府が朝廷に勝ち、力が西日本まで広がる
- 1333年鎌倉幕府がほろびる
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 神奈川県。源頼朝が本拠地にした場所。ここに鎌倉幕府が置かれた。
- 京都府。天皇と朝廷がある都。承久の乱のあと、幕府はここに朝廷を見はる役所(六波羅探題)を置いた。
- 山口県。源氏が平氏をほろぼした戦いの場所。本州と九州の間の関門海峡の海で戦った。
- 福岡県。元の軍がせめてきた場所(元寇)。1度目のあと、幕府は海岸に石の防塁を築かせ、2度目にそなえた。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
なぜ鎌倉を選んだのか
平氏をほろぼした頼朝は、京都ではなく、本拠地の鎌倉で政治を始めました。
鎌倉は、三方を山、一方を海に囲まれ、敵が攻めこみにくい土地です。源氏とゆかりが深く、頼朝を支える関東の武士が集まりやすい場所でもありました。

武士の政府「幕府」
将軍を中心に、武士が政治を行うしくみをといいます。鎌倉に開かれたので、鎌倉幕府とよばれます。
ここから、江戸時代の終わりまで約700年続く、武士の世の中が始まります。
源頼朝は鎌倉に幕府を開き、武士による政治を始めました。1192年には征夷大将軍に任じられました。
御恩と奉公―将軍と御家人の約束
頼朝の家来になった武士を御家人といいます。将軍と御家人は、おたがいに役目を果たす約束で結ばれていました。
当時の武士にとって、土地は家族と家来を養う田畑そのものでした。平安時代には、切り開いた土地を貴族や寺社に取り上げられることもありました。頼朝は、その土地を正式に認めて守ると約束しました。だから武士たちは頼朝のもとに集まり、そのお返しに命がけで戦ったのです。

この「約束がくずれると、関係もくずれる」という点は、のちの元との戦い()で大事になります。
将軍は御家人の土地を守り、手がらに応じて土地をあたえました(御恩)。御家人は命がけで将軍のために戦いました(奉公)。
鎌倉幕府のしくみ
| 役職 | 置かれた場所 | 仕事 |
|---|---|---|
| 将軍 | 鎌倉 | 幕府のいちばん上に立ち、御家人をまとめる |
| 執権 | 鎌倉 | 将軍を助ける役職。のちに北条氏が代々つとめ、政治を動かす |
| 守護 | 国(今の県くらいの広さ)ごと | その国の軍事や警察の仕事をして、御家人をまとめる |
| 地頭 | 荘園や公領ごと | 土地を管理し、年貢を取り立てる |
守護も地頭も、頼朝が御家人の中から選びました。
それまで朝廷や貴族がにぎっていた地方の土地や警察の仕事に、武士が入りこんでいったことがわかります。
国ごとに守護、荘園や公領ごとに地頭が置かれ、どちらも御家人がつとめました。
頼朝のあと―北条氏と承久の乱
北条氏が執権になる
頼朝は1199年に亡くなり、源氏の将軍は3代で絶えてしまいました。
そこで政治の中心になったのが、頼朝の妻・北条政子の実家の北条氏です。北条氏は執権の地位について、幕府の政治を動かしました。
承久の乱と政子のうったえ
1221年、京都の後鳥羽上皇が、幕府をたおそうと兵をあげました。朝廷に政治の力を取りもどすためです。これを承久の乱といいます。
このとき北条政子は、動揺する御家人たちに、頼朝から受けた御恩の大きさを語りました。そして、心を一つにして戦うよううったえたと伝えられています。
幕府の力が西日本へ
幕府は上皇の軍に勝ち、京都に朝廷を見はる役所を置きました。
上皇側についた貴族や武士の土地は取り上げられ、手がらを立てた御家人にあたえられました。こうして、幕府の力は西日本にまで広がりました。
上皇に逆らうことは、当時の武士にとってとても重い決断でした。それでも幕府についたのは、自分の土地を守ってくれるのは幕府だと考えたからです。ここでも「御恩と奉公」の約束が、武士を動かしていました。
頼朝のあとは北条氏が執権として政治を動かしました。承久の乱で朝廷に勝ち、幕府の力は西日本まで広がりました。
このあと、鎌倉幕府は
13世紀の後半、中国を支配した元の大軍が、2度にわたって九州北部にせめてきました。
この戦いのあと、御恩と奉公の約束がくずれていきます。鎌倉幕府は、1333年にほろびました。くわしくは、次の「元寇とは」で学びます。

この時代の人物




重要なところ
天皇や貴族の朝廷と、将軍や武士の幕府が、同じ時代に並んでいたのが鎌倉時代です。
将軍は別にいて、北条氏は執権として実際の政治を動かしました。
御恩は将軍から御家人へ、奉公は御家人から将軍へ、と向きで覚えましょう。
守護は国の軍事や警察、地頭は荘園や公領の年貢の取り立てや土地の管理をしました。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「武士の世の中へ」の授業「頼朝が東国を治める」
- 教育出版:「武士の政治が始まる」の授業「幕府を開いた源頼朝」
- 日本文教出版:「武士による政治のはじまり」の授業「源頼朝と鎌倉幕府」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(エ):源平の戦い、鎌倉幕府の始まり、元との戦いから、武士による政治が始まったことを理解する。(学習指導要領コード 0263214000000)
たしかめ問題
鎌倉幕府を開いた人はだれですか。
源頼朝将軍が御家人の土地を認めて守り、新しい土地をあたえることを何といいますか。
御恩国ごとに置かれ、軍事や警察の仕事をした役職を何といいますか。ヒント:地頭ではありません
守護頼朝のあと、執権として幕府の政治を動かしたのは何氏ですか。
北条氏元寇のあと、御家人が幕府に不満をもったのはなぜですか。
外国から守る戦いで新しい土地が手に入らず、十分なほうびをもらえなかったから。頼朝は、武士が命の次に大切にしていた土地を正式に認めて守り、手がらを立てれば新しい土地をあたえると約束しました(御恩)。武士たちはそのお返しに、将軍のために命がけで戦いました(奉公)。この約束があったから、武士は頼朝のもとに集まったのです。
出典
画像
- 鎌倉繪圖 江戸時代(木版)(東京都立中央図書館)
- 蒙古襲来絵巻(模本) 江戸時代・19世紀。もとは鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」(ColBase(東京国立博物館))
- 歌川国芳「新田義貞稲村ヶ崎にて太刀を海中に投ず」 江戸時代(錦絵)(東京都立中央図書館)
- 伝源頼朝像(模本) 冷泉為恭模 江戸時代・19世紀(ColBase(東京国立博物館))
- 歌川国芳「英勇一百伝 伊予守源義経」 1851年(江戸時代に想像してえがいた絵)(東京都立中央図書館)
- 菊池容斎『前賢故実』巻8(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 後鳥羽天皇像(模本) 原本は鎌倉時代(ColBase(東京国立博物館))