教科書補助小6 社会 / 武士の世の中へ / 5本中の5本目

元寇(げんこう)とは? 文永(ぶんえい)の役(えき)・弘安(こうあん)の役(えき)と、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)が弱(よわ)った理由(りゆう)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「武士の世の中へ」の「元の大軍がせめてくる」/教育出版「武士の政治が始まる」の「元との戦い」/日本文教出版「武士による政治のはじまり」の「元との戦い」「元との戦いのあと」

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  1. 鎌倉時代(かまくらじだい)の中(なか)ごろ、モンゴル人(にん)の国(くに)・元(げん)が、1274年(ねん)と1281年(ねん)の2度(ど)、九州北部(きゅうしゅうほくぶ)にせめてきました()。
  2. 執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)のもとで、九州(きゅうしゅう)のたちが命(いのち)がけで戦(たたか)い、元(げん)の軍(ぐん)を防(ふせ)ぎました。
  3. でも、ほうびの土地(とち)()が足(た)りず、御家人(ごけにん)の不満(ふまん)が高(たか)まって、幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)まっていきました。
今日(きょう)の問(と)い

元(げん)の大軍(たいぐん)を追(お)いはらったのに、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)は、なぜ弱(よわ)っていったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

元(げん)とフビライ・ハン

大(おお)きな国(くに)をつくったモンゴル人(にん)

13世紀(せいき)、モンゴル高原(こうげん)でおこったモンゴル人(にん)は、馬(うま)に乗(の)って各地(かくち)を従(したが)えました。そして、アジアからヨーロッパにまたがる大(おお)きな国(くに)をつくりました。

その皇帝(こうてい)の一人(ひとり)、フビライ・ハンは、中国(ちゅうごく)を治(おさ)めて、国(くに)の名前(なまえ)を元(げん)としました。朝鮮半島(ちょうせんはんとう)のも従(したが)えました。

日本(にほん)にも従(したが)うよう求(もと)める

フビライは、日本(にほん)にも何度(なんど)も使(つか)いを送(おく)り、元(げん)に従(したが)うよう求(もと)めました。

鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の・北条時宗(ほうじょうときむね)は、この求(もと)めを受(う)け入(い)れませんでした。そして、九州(きゅうしゅう)の守(まも)りを固(かた)めました。

  1. 1268年(ねん)フビライの使(つか)いが、元(げん)に従(したが)うよう求(もと)める手紙(てがみ)を届(とど)ける
  2. 1274年(ねん)1度目(どめ)の戦(たたか)い()
  3. 1276年(ねん)幕府(ばくふ)が、博多湾(はかたわん)の海岸(かいがん)に石(いし)の防塁(ぼうるい)を築(きず)かせ始(はじ)める
  4. 1281年(ねん)2度目(どめ)の戦(たたか)い()
  5. 1333年(ねん)鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)がほろびる

元(げん)のフビライ・ハンは日本(にほん)に従(したが)うよう求(もと)めましたが、執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを受(う)け入(い)れませんでした。

1度目(どめ)の戦(たたか)い―文永(ぶんえい)の役(えき)

1274年(ねん)、元(げん)と高麗(こうらい)の数(かず)万人(まんにん)の軍(ぐん)が、船(ふね)で対馬(つしま)と壱岐(いき)をおそいました。そして、博多湾(はかたわん)(今(いま)の福岡県(ふくおかけん))に上陸(じょうりく)しました。これを文永(ぶんえい)の役(えき)といいます。

元寇(げんこう)の場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 長崎県(ながさきけん)。九州(きゅうしゅう)と朝鮮半島(ちょうせんはんとう)のあいだにある島(しま)。元寇(げんこう)では、元(げん)の軍(ぐん)が最初(さいしょ)におそった。
  • 長崎県(ながさきけん)。対馬(つしま)と九州(きゅうしゅう)のあいだにある島(しま)。元寇(げんこう)では、対馬(つしま)のあとに元(げん)の軍(ぐん)がおそった。
  • 福岡県(ふくおかけん)。元(げん)の軍(ぐん)がせめてきた場所(ばしょ)(元寇(げんこう))。1度目(どめ)のあと、幕府(ばくふ)は海岸(かいがん)に石(いし)の防塁(ぼうるい)を築(きず)かせ、2度目(どめ)にそなえた。
  • 神奈川県(かながわけん)。源頼朝(みなもとのよりとも)が本拠地(ほんきょち)にした場所(ばしょ)。ここに鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)が置(お)かれた。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

一騎(いっき)打(う)ちと集団戦法(しゅうだんせんぽう)

このころの日本(にほん)の武士(ぶし)は、名前(なまえ)を名(な)のってから1対(たい)1で戦(たたか)う「一騎(いっき)打(う)ち」が中心(ちゅうしん)でした。

これに対(たい)して元(げん)の軍(ぐん)は、太鼓(たいこ)やどらの合図(あいず)で、大勢(おおぜい)がまとまって戦(たたか)う集団戦法(しゅうだんせんぽう)をとりました。火薬(かやく)を使(つか)った武器(ぶき)も使(つか)いました。

馬に乗った日本の武士の近くで火薬の武器が破裂し、弓を構えた元の兵たちが向かい合っている絵巻の一場面
文永(ぶんえい)の役(えき)の場面(ばめん)。右(みぎ)の馬(うま)に乗(の)った武士(ぶし)(竹崎季長(たけざきすえなが))の近(ちか)くで、元(げん)の火薬(かやく)の武器(ぶき)「てつはう」が破裂(はれつ)しています。左(ひだり)は、集団(しゅうだん)で弓(ゆみ)を構(かま)える元(げん)の兵(へい)です。蒙古襲来絵詞 鎌倉時代・13世紀 国宝出典:ColBase(皇居三の丸尚蔵館)(部分)
日本(にほん)の武士(ぶし)
名(な)のりをあげて、1対(たい)1で戦(たたか)う一騎(いっき)打(う)ちが中心(ちゅうしん)。
元(げん)の軍(ぐん)
太鼓(たいこ)やどらの合図(あいず)で、集団(しゅうだん)で戦(たたか)う。火薬(かやく)の武器(ぶき)「てつはう」も使(つか)った。

火薬(かやく)の武器(ぶき)「てつはう」

「」は、中(なか)に鉄(てつ)や陶器(とうき)のかけらをつめた丸(まる)い入(い)れ物(もの)です。火薬(かやく)で破裂(はれつ)させ、大(おお)きな音(おと)と破片(はへん)で相手(あいて)を苦(くる)しめました。

実物(じつぶつ)が、東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)に残(のこ)っています。

茶色っぽい、ごつごつした丸い焼き物の玉
てつはうの実物(じつぶつ)。中(なか)に火薬(かやく)と、鉄(てつ)や陶器(とうき)のかけらをつめて使(つか)いました。てつはう 鎌倉時代・13世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

はげしい戦(たたか)いのあと、元(げん)の軍(ぐん)は引(ひ)き上(あ)げていきました。

1274年(ねん)の文永(ぶんえい)の役(えき)では、元(げん)の軍(ぐん)が集団戦法(しゅうだんせんぽう)や火薬(かやく)の武器(ぶき)で戦(たたか)いました。

石(いし)の防塁(ぼうるい)と、2度目(どめ)の戦(たたか)い―弘安(こうあん)の役(えき)

博多湾(はかたわん)に石(いし)の防塁(ぼうるい)を築(きず)く

幕府(ばくふ)は、元(げん)がふたたびせめてくることにそなえました。1276年(ねん)から、九州(きゅうしゅう)の御家人(ごけにん)に命(めい)じて、博多湾(はかたわん)の海岸(かいがん)に石(いし)の(石築地(いしついじ))を築(きず)かせたのです。

長(なが)さは東西(とうざい)におよそ20kmにもなり、元(げん)の軍(ぐん)を上陸(じょうりく)させないための守(まも)りでした。いまも福岡市(ふくおかし)の海岸(かいがん)に、その一部(いちぶ)が残(のこ)っています。

石を積み上げた低い壁の上に武士たちがならび、その前を馬に乗った武士が進んでいく絵巻の一場面
石(いし)の防塁(ぼうるい)(石築地(いしついじ))の上(うえ)にならぶ武士(ぶし)たちと、その前(まえ)を進(すす)む竹崎季長(たけざきすえなが)たち。蒙古襲来絵巻(模本) 江戸時代・19世紀。もとは鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

弘安(こうあん)の役(えき)と暴風雨(ぼうふうう)

1281年(ねん)、元(げん)はもう一度(いちど)せめてきました。これを弘安(こうあん)の役(えき)といいます。高麗(こうらい)と中国(ちゅうごく)からの2つの軍(ぐん)をあわせて、十数(じゅうすう)万人(まんにん)ともいわれる大軍(たいぐん)でした。

防塁(ぼうるい)にはばまれた元(げん)の軍(ぐん)は、なかなか上陸(じょうりく)できません。御家人(ごけにん)たちは、小舟(こぶね)で元(げん)の大(おお)きな船(ふね)に近(ちか)づき、乗(の)りこんで戦(たたか)いました。

そこへ、はげしい暴風雨(ぼうふうう)がおそい、元(げん)の船(ふね)の多(おお)くがしずみました。元(げん)の軍(ぐん)は引(ひ)き上(あ)げ、日本(にほん)は守(まも)られました。

武士たちが乗った何そうもの小舟が、海の上を進んでいる絵巻の一場面
弘安(こうあん)の役(えき)。御家人(ごけにん)たちは小舟(こぶね)で元(げん)の船(ふね)に近(ちか)づき、乗(の)りこんで戦(たたか)いました。蒙古襲来絵巻(模本) 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
はげしい風と波にのまれる船を、うすい墨でえがいた絵
嵐(あらし)で元(げん)の船(ふね)がしずむようすを、江戸時代(えどじだい)に想像(そうぞう)してえがいた絵(え)。蒙古襲来 菊池容斎筆 江戸時代・1847年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

1281年(ねん)の弘安(こうあん)の役(えき)では、防塁(ぼうるい)と御家人(ごけにん)の戦(たたか)い、そして暴風雨(ぼうふうう)で、元(げん)の軍(ぐん)は引(ひ)き上(あ)げました。

戦(たたか)いのあと―恩賞(おんしょう)が足(た)りない

勝(か)っても土地(とち)が手(て)に入(はい)らない

元寇(げんこう)は、外国(がいこく)からせめてきた敵(てき)を追(お)いはらう戦(たたか)いでした。

国内(こくない)の戦(たたか)いなら、負(ま)けた側(がわ)の土地(とち)を取(と)り上(あ)げて、手(て)がらを立(た)てた御家人(ごけにん)に分(わ)けられます。ところが元寇(げんこう)では、勝(か)っても新(あたら)しい土地(とち)は手(て)に入(はい)りませんでした。

  1. 外国(がいこく)との戦(たたか)いなので、新(あたら)しい土地(とち)は手(て)に入(はい)らない
  2. 幕府(ばくふ)は、御家人(ごけにん)に十分(じゅうぶん)な恩賞(おんしょう)をあたえられない
  3. 命(いのち)がけで戦(たたか)ったのに、ほうびがない。御家人(ごけにん)の不満(ふまん)が高(たか)まる
  4. 「と」の約束(やくそく)がくずれ、幕府(ばくふ)の力(ちから)が弱(よわ)まる

苦(くる)しくなる御家人(ごけにん)と、幕府(ばくふ)の終(お)わり

御家人(ごけにん)たちは、戦(たたか)いの費用(ひよう)を自分(じぶん)で負担(ふたん)しました。そのあとも続(つづ)いた九州(きゅうしゅう)の守(まも)りの仕事(しごと)も、自分(じぶん)もちでした。

生活(せいかつ)が苦(くる)しくなる御家人(ごけにん)も多(おお)く、幕府(ばくふ)への不満(ふまん)はさらに大(おお)きくなりました。こうして鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)は力(ちから)を失(うしな)い、元寇(げんこう)からおよそ50年後(ねんご)の1333年(ねん)にほろびました。

なぜ?勝(か)ったのに、ほうびがないの?
幕府(ばくふ)のほうびは、おもに「土地(とち)」でした。国内(こくない)の戦(たたか)いなら、敵(てき)の土地(とち)を取(と)り上(あ)げて分(わ)けられます。でも元寇(げんこう)では、敵(てき)の土地(とち)は海(うみ)の向(む)こうです。幕府(ばくふ)には、分(わ)けあたえる土地(とち)がなかったのです。

元寇(げんこう)では新(あたら)しい土地(とち)が手(て)に入(はい)らず、御家人(ごけにん)に十分(じゅうぶん)な恩賞(おんしょう)をあたえられませんでした。御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)の関係(かんけい)がくずれ、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)はおとろえました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

白い服を着て、黒いぼうしをかぶった、ひげのある男性の肖像画
フビライ・ハン
モンゴル人(にん)の国(くに)・元(げん)の皇帝(こうてい)。日本(にほん)に使(つか)いを送(おく)り、元(げん)に従(したが)うよう求(もと)めた。
元代帝半身像 冊 元世祖(元の時代にえがかれたフビライの肖像)。出典:國立故宮博物院,臺北(部分)
こしに刀をさし、もようのある着物を着て座る武士の線画
北条時宗(ほうじょうときむね)
元寇(げんこう)のときの鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の執権(しっけん)。元(げん)の求(もと)めを受(う)け入(い)れず、九州(きゅうしゅう)の守(まも)りを固(かた)めた。
菊池容斎『前賢故実』巻8(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
かぶとをかぶり、よろいを着て、馬の上で前かがみになって弓を持つ武士。そばに、名前の文字が書かれている
竹崎季長(たけざきすえなが)
肥後(ひご)の国(くに)の御家人(ごけにん)。元寇(げんこう)で戦(たたか)い、恩賞(おんしょう)を求(もと)めて鎌倉(かまくら)まで行(い)った。その話(はなし)を絵巻(えまき)に残(のこ)した。
蒙古襲来絵巻(模本) 江戸時代・19世紀。もとは鎌倉時代の「蒙古襲来絵詞」。そばに「肥後國竹崎五郎兵衛尉季長」と書かれている。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

重要(じゅうよう)なところ

元寇(げんこう)は2度(ど)。1度目(どめ)が1274年(ねん)の文永(ぶんえい)の役(えき)、2度目(どめ)が1281年(ねん)の弘安(こうあん)の役(えき)です。
「文永(ぶんえい)→弘安(こうあん)」の順番(じゅんばん)と、年(とし)を組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
元寇(げんこう)のときの執権(しっけん)は、北条時宗(ほうじょうときむね)です。
鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)を開(ひら)いた源頼朝(みなもとのよりとも)や、承久(じょうきゅう)の乱(らん)のときの北条政子(ほうじょうまさこ)と、時代(じだい)を分(わ)けて覚(おぼ)えましょう。
元寇(げんこう)のあと、御家人(ごけにん)の不満(ふまん)が高(たか)まったのは、新(あたら)しい土地(とち)が手(て)に入(はい)らず、恩賞(おんしょう)が足(た)りなかったからです。
「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」の約束(やくそく)がくずれた、とつなげて説明(せつめい)できるようにしましょう。
石(いし)の防塁(ぼうるい)は、1度目(どめ)の戦(たたか)い(文永(ぶんえい)の役(えき))のあとに、2度目(どめ)にそなえて築(きず)かれました。
博多湾(はかたわん)の海岸(かいがん)に、東西(とうざい)およそ20kmにわたって築(きず)かれました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「武士の世の中へ」の授業「元の大軍がせめてくる」
  • 教育出版:「武士の政治が始まる」の授業「元との戦い」
  • 日本文教出版:「武士による政治のはじまり」の授業「元との戦い」「元との戦いのあと」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(エ):源平(げんぺい)の戦(たたか)い、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の始(はじ)まり、元(げん)との戦(たたか)いから、武士(ぶし)による政治(せいじ)が始(はじ)まったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263214000000)

「武士(ぶし)の世(よ)の中(なか)へ」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1274年(ねん)と1281年(ねん)に、元(げん)の軍(ぐん)が九州北部(きゅうしゅうほくぶ)にせめてきたできごとを何(なん)といいますか。元寇(げんこう)
元寇(げんこう)のときの、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)の執権(しっけん)はだれですか。北条時宗(ほうじょうときむね)
元(げん)の皇帝(こうてい)で、日本(にほん)に従(したが)うよう求(もと)めたのはだれですか。フビライ・ハン
2度目(どめ)の戦(たたか)いにそなえて、博多湾(はかたわん)の海岸(かいがん)に築(きず)いたものは何(なん)ですか。石(いし)の防塁(ぼうるい)(石築地(いしついじ))
元寇(げんこう)のあと、御家人(ごけにん)が幕府(ばくふ)に不満(ふまん)をもったのはなぜですか。外国(がいこく)から守(まも)る戦(たたか)いで新(あたら)しい土地(とち)が手(て)に入(はい)らず、十分(じゅうぶん)な恩賞(おんしょう)をもらえなかったから。
問(と)いへの答(こた)え

元寇(げんこう)は、外国(がいこく)からせめてきた敵(てき)を追(お)いはらう、守(まも)るための戦(たたか)いでした。勝(か)っても、敵(てき)から取(と)り上(あ)げて分(わ)けあたえる新(あたら)しい土地(とち)は手(て)に入(はい)りません。そのため幕府(ばくふ)は、命(いのち)がけで戦(たたか)った御家人(ごけにん)に十分(じゅうぶん)な恩賞(おんしょう)をあたえることができず、「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」の約束(やくそく)がくずれてしまいました。御家人(ごけにん)の心(こころ)が幕府(ばくふ)からはなれていったことが、鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)が弱(よわ)っていった大(おお)きな理由(りゆう)です。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

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