小6社会/長く続いた戦争と人々のくらし
空襲と沖縄戦
今日の問い日本の都市や沖縄は、戦争の終わりごろ、どのような被害を受けたのだろう。
3行でわかる
- 1944年の終わりから、アメリカ軍のが本格的になりました。で、木造の家が多い日本の町が焼かれました。
- 1945年3月10日のでは、およそ10万人がなくなりました。その後、空襲は全国の都市に広がりました。
- 1945年3月末から、住民をまきこんだが行われ、20万人をこえる人がなくなりました。6月23日は沖縄県のです。
日本の都市への空襲が始まる
B-29がとんでくる
戦争が長引くと、アメリカ軍は太平洋の島々を次々に占領しました。1944年の夏には、サイパン島も占領されました。
サイパン島などからは、大型の爆撃機が、日本本土までとんでこられるようになりました。1944年11月からは、東京への本格的な空襲が始まりました。
はじめのころは、飛行機をつくる工場などが、おもにねらわれました。
焼夷弾を落とすB-29(1945年7月)。うしろの飛行機の窓から写したもので、たくさんの焼夷弾が落ちていくのが見えます。焼夷弾を投下するB-29(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年7月16日) 342-FH-3A03338-58138AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
焼夷弾で町を焼く
やがてアメリカ軍は、焼夷弾で町全体を焼く空襲を、夜に行うようになりました。焼夷弾は、落ちたところで火をふき出し、火事を起こす爆弾です。
そのころの日本の町には、木でできた家がぎっしりとならんでいました。そのため、火はまたたくまに燃え広がりました。
なぜ? 空襲のとき、人々はどうしていたの?
人々は防空壕をつくり、空襲警報が鳴るとそこへひなんしました。町内では、焼夷弾の火を消す訓練がくり返し行われました。
1944年の終わりから、B-29による空襲が本格的になりました。焼夷弾で、木造の家が多い町が焼かれました。
東京大空襲
1945年3月10日の夜明け前
1945年3月10日の夜明け前、B-29の大部隊が、東京の下町をおそいました。今の台東区・墨田区・江東区のあたりです。これを東京大空襲といいます。
家がたくさん集まったところをねらって、約1,700トンもの焼夷弾が落とされました。その夜は強い風がふいていて、町は火の海になりました。
この空襲で、およそ10万人がなくなったといわれています。家を焼かれるなどの被害を受けた人は、約100万人にのぼりました。
空襲で焼け野原になった、東京・浅草のあたり(1945年)。家が建ちならんでいた町が、がれきだけになりました。東京・浅草地区の焼けあと(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A03889-B58452AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
3月10日は「東京都平和の日」
東京都は、1990年に条例をつくり、3月10日を「東京都平和の日」と決めました。戦争の悲しみを二度とくり返さないことを、ちかう日です。
毎年この日には、空襲などでなくなった人々を追悼し、平和を願う式典が開かれています。
1945年3月10日の東京大空襲で、下町は火の海になり、およそ10万人がなくなりました。
全国の都市が焼かれる
東京大空襲のあと、名古屋・大阪・神戸などの大都市も、次々に焼夷弾の空襲を受けました。空襲は、やがて全国の中小の都市にも広がりました。
北海道から沖縄まで、多くの町が焼け野原になりました。
ねらわれたのは、工場や軍の施設だけではありません。人々がくらす住宅地も焼かれ、たくさんの命や家がうばわれました。
空襲は全国の都市に広がりました。工場だけでなく住宅地も焼かれ、多くの命がうばわれました。
住民をまきこんだ沖縄戦
アメリカ軍が沖縄に上陸する
沖縄では、1944年10月10日に大きな空襲があり、那覇の町の約9割が焼けました。
1945年、空から写した那覇の町。空襲や戦いで、ほとんどの建物がこわされました。那覇の空中写真(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A04100-57865AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
1945年3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島に上陸しました。4月1日には、沖縄本島の読谷から北谷にかけての海岸に上陸しました。
アメリカ軍が上陸した、沖縄本島の西の海岸(1945年)。おきには、兵士や物を運ぶたくさんの船が集まっています。沖縄本島西海岸の上陸地点(パープル・ビーチ)と船団(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A04437-63374AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
なぜ?沖縄が戦場になったの?
日本軍は、沖縄を、本土を守るための最後のとりでと考えていました。1944年3月には、沖縄を守る軍をつくり、アメリカ軍をむかえうつ用意をしていたのです。
「鉄の暴風」とよばれた地上戦
沖縄では、日本軍とアメリカ軍が、住民をまきこんで激しい地上戦を行いました。これを沖縄戦といい、国内で最大の地上戦でした。
砲弾や爆弾が、雨のように打ちこまれました。そのようすは「鉄の暴風」とよばれ、戦いはおよそ3か月続きました。
1945年4月28日の首里。木々の間に、家々がならんでいます。首里の空中写真 1945年4月28日(アメリカ陸軍航空軍撮影) 342-FH-3A04104-83751AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
1945年5月23日の首里。くり返し攻撃を受け、木も家もほとんどなくなりました。首里の空中写真 1945年5月23日(アメリカ陸軍航空軍撮影) 342-FH-3A04105-83752AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
5月下旬、日本軍は首里から南部へしりぞきました。南部には住民も多くひなんしていて、住民と兵士が入りまじる戦場になりました。
戦場に動員された生徒たち
中学校や女学校などの生徒も、戦場に動員されました。男子生徒は、陣地づくりや物を運ぶ仕事、通信の仕事などにあたりました。
女子生徒は、陸軍病院などで、けがをした兵士の看護にあたりました。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒たちは、とよばれています。
動員された生徒は約2,000人で、そのうち約1,000人がなくなりました。
6月23日は「慰霊の日」
6月23日、日本軍の司令官がなくなり、日本軍の組織的な戦いは終わったとされています。ただし、その後も各地で戦いは続きました。
沖縄戦でなくなった人は、軍人と住民をあわせて20万人をこえます。そのうち約9万4千人は、一般の沖縄県民と推計されています。
沖縄戦でなくなった人(推計)(単位:人)- 一般の沖縄県民94,000
- ほかの都道府県出身の兵士65,908
- 沖縄県出身の軍人・軍属28,228
- アメリカ軍12,520
合計200,656人。一般の沖縄県民は、1944年と1946年の人口をくらべて推計した数(約9万4千人)。 出典:総務省「沖縄県における戦災の状況」(もとの資料は沖縄県生活福祉部『沖縄の援護のあゆみ』1996年)
沖縄県は、6月23日を慰霊の日としています。毎年この日には、糸満市摩文仁の平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式が開かれます。
公園には、1995年にがつくられました。国籍や、軍人か住民かを問わず、沖縄戦などでなくなったすべての人の名前が刻まれています。
刻まれた名前は、242,659人です(2026年6月23日現在)。日本とアメリカのほか、イギリス・台湾・大韓民国・北朝鮮の人々の名前もあります。
平和の礎(沖縄県糸満市)。黒い石の壁に、沖縄戦などでなくなった人々の名前が刻まれています。平和の礎 2019年撮影(Balon Greyjoy)出典:Wikimedia Commons(CC0)(部分)(CC0 1.0)
空襲を受けたおもな都市と、沖縄戦の場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 東京都。東京大空襲で焼かれた地域。今の台東区・墨田区・江東区のあたり。およそ10万人がなくなったといわれる。
- 愛知県。飛行機の工場が多く、くり返し空襲を受けた。東京大空襲のあと、焼夷弾による大きな空襲も受けた。
- 大阪府。1945年3月から、焼夷弾による大きな空襲を何度も受けた。
- 兵庫県。1945年3月17日の空襲で、市の西半分が焼かれた。6月5日にも大きな空襲を受けた。
- 沖縄県。1944年10月10日の空襲(10・10空襲)で、市内の約9割が焼けた。
- 沖縄県。1945年3月26日、アメリカ軍が最初に上陸した島々。沖縄戦はここから始まった。
- 沖縄県。1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した海岸。その日のうちに、近くの飛行場が占領された。
- 沖縄県。日本軍の司令部があった場所。激しい戦いのあと、5月下旬に日本軍は南部へしりぞいた。
- 沖縄県。沖縄戦の最後の戦場となった沖縄本島南部にある公園。平和の礎があり、毎年6月23日に沖縄全戦没者追悼式が開かれる。
●赤は戦いの場所、●緑は空襲を受けた都市や慰霊の場所です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
1945年3月から、沖縄では住民をまきこんだ地上戦が行われ、20万人をこえる人がなくなりました。6月23日は沖縄県の慰霊の日です。
年の流れでふり返る
- 1944年7月サイパン島がアメリカ軍に占領される
- 1944年10月沖縄が大きな空襲を受ける(10月10日)
- 1944年11月東京への本格的な空襲が始まる
- 1945年3月東京大空襲(3月10日)。アメリカ軍が慶良間諸島に上陸(3月26日)
- 1945年4月アメリカ軍が沖縄本島に上陸(4月1日)
- 1945年6月沖縄で日本軍の組織的な戦いが終わる(6月23日)
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、空襲と沖縄戦について、もう少しくわしく習います。
| 小学校 | 中学校で加わること |
| 最初の空襲 | 1944年11月から本格的な空襲 | 日本本土への最初の空襲は、1942年4月18日。アメリカ軍の爆撃機が、東京・名古屋・神戸などを空襲した |
| 空襲のやり方 | 焼夷弾で町を焼いた | はじめは工場などをねらう爆撃だったが、1945年3月10日の東京大空襲から、夜に市街地を焼夷弾で焼きはらう空襲が本格化した |
| 沖縄の空襲 | 1944年10月10日の空襲 | 「10・10空襲」とよばれる。5回にわたって、のべ1,000機をこえる飛行機がおそい、那覇の市内の90%が焼けた |
| 学徒隊 | 生徒が戦場に動員された | 沖縄の21の中等学校の生徒が動員された。男子は「鉄血勤皇隊」「通信隊」に、女子はひめゆり学徒隊などとして看護にあたった |
| 沖縄戦の終わり | 6月23日 | 6月23日(22日という説もある)に組織的な戦いが終わった。そのあとも戦いは続き、南西諸島の日本軍が降伏の文書に調印したのは9月7日 |
重要なところ
東京大空襲は、1945年3月10日です。
3月10日は「東京都平和の日」になっています。
沖縄戦は、住民をまきこんだ地上戦で、20万人をこえる人がなくなりました。
軍人だけでなく、多くの住民や、動員された生徒もなくなりました。
沖縄県の「慰霊の日」は6月23日です。
日本軍の組織的な戦いが終わったとされる日です。
たしかめ問題1/8
落ちたところで火をふき出し、火事を起こす爆弾を何といいますか。
たしかめ問題2/8
日本の都市を空襲した、アメリカ軍の大型の爆撃機を何といいますか。
たしかめ問題3/8
1945年3月10日、東京の下町が焼かれ、およそ10万人がなくなった空襲を何といいますか。
たしかめ問題4/8
空襲を受けたのは、東京などの大都市だけでしたか。
いいえ。全国の中小の都市も空襲を受けた
たしかめ問題5/8
アメリカ軍が沖縄本島に上陸したのは、1945年の何月何日ですか。
たしかめ問題6/8
住民をまきこんで行われ、20万人をこえる人がなくなった、沖縄での地上戦を何といいますか。
たしかめ問題7/8
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒たちで、看護にあたった学徒隊を何とよびますか。
たしかめ問題8/8
国籍や軍人・住民を問わず、沖縄戦などでなくなった人の名前を刻んだ、糸満市摩文仁の碑を何といいますか。
問いへの答え
日本の都市や沖縄は、戦争の終わりごろ、どのような被害を受けたのだろう。
1944年の終わりから、アメリカ軍の爆撃機B-29による空襲が本格的になりました。1945年3月10日の東京大空襲では、焼夷弾で下町が焼かれ、およそ10万人がなくなりました。空襲はその後、全国の都市に広がり、工場だけでなく住宅地も焼け野原になりました。沖縄では、1945年3月末からアメリカ軍が上陸し、住民をまきこんだ地上戦(沖縄戦)が行われました。中学校や女学校の生徒も動員され、軍人と住民をあわせて20万人をこえる人がなくなりました。
画像の出典
- 焼夷弾を投下するB-29(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年7月16日) 342-FH-3A03338-58138AC(アメリカ国立公文書館(NARA))
- 東京・浅草地区の焼けあと(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A03889-B58452AC(アメリカ国立公文書館(NARA))
- 那覇の空中写真(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A04100-57865AC(アメリカ国立公文書館(NARA))
- 沖縄本島西海岸の上陸地点(パープル・ビーチ)と船団(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A04437-63374AC(アメリカ国立公文書館(NARA))
- 首里の空中写真 1945年4月28日(アメリカ陸軍航空軍撮影) 342-FH-3A04104-83751AC(アメリカ国立公文書館(NARA))
- 首里の空中写真 1945年5月23日(アメリカ陸軍航空軍撮影) 342-FH-3A04105-83752AC(アメリカ国立公文書館(NARA))
- 平和の礎 2019年撮影(Balon Greyjoy)(Wikimedia Commons(CC0))