教科書補助小6 社会 / 長く続いた戦争と人々のくらし / 5本中の4本目

空襲(くうしゅう)と沖縄戦(おきなわせん)とは? 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)・焼夷弾(しょういだん)・沖縄戦(おきなわせん)・慰霊(いれい)の日(ひ)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「長く続いた戦争と人々のくらし」の「空襲で日本の都市が焼かれる」/教育出版「戦争と人々の暮らし」の「おそいかかる空襲」/日本文教出版「アジア・太平洋に広がる戦争」の「空襲で焼きつくされる国土」「戦場となった沖縄」

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  1. 1944年(ねん)の終(お)わりから、アメリカ軍(ぐん)のが本格的(ほんかくてき)になりました。で、木造(もくぞう)の家(いえ)が多(おお)い日本(にほん)の町(まち)が焼(や)かれました。
  2. 1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)のでは、およそ10万人(まんにん)がなくなりました。その後(ご)、空襲(くうしゅう)は全国(ぜんこく)の都市(とし)に広(ひろ)がりました。
  3. 1945年(ねん)3月(さんがつ)末(すえ)から、住民(じゅうみん)をまきこんだが行(おこな)われ、20万人(まんにん)をこえる人(ひと)がなくなりました。6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)は沖縄県(おきなわけん)のです。
今日(きょう)の問(と)い

日本(にほん)の都市(とし)や沖縄(おきなわ)は、戦争(せんそう)の終(お)わりごろ、どのような被害(ひがい)を受(う)けたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

日本(にほん)の都市(とし)への空襲(くうしゅう)が始(はじ)まる

B-29がとんでくる

戦争(せんそう)が長引(ながび)くと、アメリカ軍(ぐん)は太平洋(たいへいよう)の島々(しまじま)を次々(つぎつぎ)に占領(せんりょう)しました。1944年(ねん)の夏(なつ)には、サイパン島(とう)も占領(せんりょう)されました。

サイパン島(とう)などからは、大型(おおがた)の爆撃機(ばくげきき)が、日本(にほん)本土(ほんど)までとんでこられるようになりました。1944年(ねん)11月(じゅういちがつ)からは、東京(とうきょう)への本格的(ほんかくてき)な空襲(くうしゅう)が始(はじ)まりました。

はじめのころは、飛行機(ひこうき)をつくる工場(こうじょう)などが、おもにねらわれました。

飛行機の窓のわくごしに、尾翼に大きな文字のある4つのプロペラの爆撃機がとび、その下に小さな爆弾がたくさん落ちていく白黒の写真
焼夷弾(しょういだん)を落(お)とすB-29(びーにじゅうく)(1945年(ねん)7月(しちがつ))。うしろの飛行機(ひこうき)の窓(まど)から写(うつ)したもので、たくさんの焼夷弾(しょういだん)が落(お)ちていくのが見(み)えます。焼夷弾を投下するB-29(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年7月16日) 342-FH-3A03338-58138AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)

焼夷弾(しょういだん)で町(まち)を焼(や)く

やがてアメリカ軍(ぐん)は、焼夷弾(しょういだん)で町全体(まちぜんたい)を焼(や)く空襲(くうしゅう)を、夜(よる)に行(おこな)うようになりました。焼夷弾(しょういだん)は、落(お)ちたところで火(ひ)をふき出(だ)し、火事(かじ)を起(お)こす爆弾(ばくだん)です。

そのころの日本(にほん)の町(まち)には、木(き)でできた家(いえ)がぎっしりとならんでいました。そのため、火(ひ)はまたたくまに燃(も)え広(ひろ)がりました。

なぜ? 空襲(くうしゅう)のとき、人々(ひとびと)はどうしていたの?
人々(ひとびと)は防空壕(ぼうくうごう)をつくり、空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴(な)るとそこへひなんしました。町内(ちょうない)では、焼夷弾(しょういだん)の火(ひ)を消(け)す訓練(くんれん)がくり返(かえ)し行(おこな)われました。

1944年(ねん)の終(お)わりから、B-29(びーにじゅうく)による空襲(くうしゅう)が本格的(ほんかくてき)になりました。焼夷弾(しょういだん)で、木造(もくぞう)の家(いえ)が多(おお)い町(まち)が焼(や)かれました。

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)

1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)の夜明(よあ)け前(まえ)

1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)の夜明(よあ)け前(まえ)、B-29(びーにじゅうく)の大部隊(だいぶたい)が、東京(とうきょう)の下町(したまち)をおそいました。今(いま)の台東区(たいとうく)・墨田区(すみだく)・江東区(こうとうく)のあたりです。これを東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)といいます。

家(いえ)がたくさん集(あつ)まったところをねらって、約(やく)1,700トンもの焼夷弾(しょういだん)が落(お)とされました。その夜(よる)は強(つよ)い風(かぜ)がふいていて、町(まち)は火(ひ)の海(うみ)になりました。

この空襲(くうしゅう)で、およそ10万人(まんにん)がなくなったといわれています。家(いえ)を焼(や)かれるなどの被害(ひがい)を受(う)けた人(ひと)は、約(やく)100万人(まんにん)にのぼりました。

見わたすかぎり、がれきが広がる焼けあとの町。遠くに、焼け残ったビルや細長いえんとつがぽつぽつと立っている白黒の写真
空襲(くうしゅう)で焼(や)け野原(のはら)になった、東京(とうきょう)・浅草(あさくさ)のあたり(1945年(ねん))。家(いえ)が建(た)ちならんでいた町(まち)が、がれきだけになりました。東京・浅草地区の焼けあと(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A03889-B58452AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)

3月(さんがつ)10日(とおか)は「東京都平和(とうきょうとへいわ)の日(ひ)」

東京都(とうきょうと)は、1990年(ねん)に条例(じょうれい)をつくり、3月(さんがつ)10日(とおか)を「東京都平和(とうきょうとへいわ)の日(ひ)」と決(き)めました。戦争(せんそう)の悲(かな)しみを二度(にど)とくり返(かえ)さないことを、ちかう日(ひ)です。

毎年(まいとし)この日(ひ)には、空襲(くうしゅう)などでなくなった人々(ひとびと)を追悼(ついとう)し、平和(へいわ)を願(ねが)う式典(しきてん)が開(ひら)かれています。

1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)の東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)で、下町(したまち)は火(ひ)の海(うみ)になり、およそ10万人(まんにん)がなくなりました。

全国(ぜんこく)の都市(とし)が焼(や)かれる

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)のあと、名古屋(なごや)・大阪(おおさか)・神戸(こうべ)などの大都市(だいとし)も、次々(つぎつぎ)に焼夷弾(しょういだん)の空襲(くうしゅう)を受(う)けました。空襲(くうしゅう)は、やがて全国(ぜんこく)の中小(ちゅうしょう)の都市(とし)にも広(ひろ)がりました。

北海道(ほっかいどう)から沖縄(おきなわ)まで、多(おお)くの町(まち)が焼(や)け野原(のはら)になりました。

ねらわれたのは、工場(こうじょう)や軍(ぐん)の施設(しせつ)だけではありません。人々(ひとびと)がくらす住宅地(じゅうたくち)も焼(や)かれ、たくさんの命(いのち)や家(いえ)がうばわれました。

空襲(くうしゅう)は全国(ぜんこく)の都市(とし)に広(ひろ)がりました。工場(こうじょう)だけでなく住宅地(じゅうたくち)も焼(や)かれ、多(おお)くの命(いのち)がうばわれました。

住民(じゅうみん)をまきこんだ沖縄戦(おきなわせん)

アメリカ軍(ぐん)が沖縄(おきなわ)に上陸(じょうりく)する

沖縄(おきなわ)では、1944年(ねん)10月(じゅうがつ)10日(とおか)に大(おお)きな空襲(くうしゅう)があり、那覇(なは)の町(まち)の約(やく)9割(わり)が焼(や)けました。

空から写した、川と海に面した町。建物はほとんどなく、道と家のあとのしきりだけが広がっている白黒の写真
1945年(ねん)、空(そら)から写(うつ)した那覇(なは)の町(まち)。空襲(くうしゅう)や戦(たたか)いで、ほとんどの建物(たてもの)がこわされました。那覇の空中写真(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A04100-57865AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)

1945年(ねん)3月(さんがつ)26日(にじゅうろくにち)、アメリカ軍(ぐん)は慶良間諸島(けらましょとう)に上陸(じょうりく)しました。4月(しがつ)1日に(いちにちに)は、沖縄本島(おきなわほんとう)の読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)にかけての海岸(かいがん)に上陸(じょうりく)しました。

空から写した海岸。手前に道路や小屋、畑が広がり、おきの海には、たくさんの船がうかんでいる白黒の写真
アメリカ軍(ぐん)が上陸(じょうりく)した、沖縄本島(おきなわほんとう)の西(にし)の海岸(かいがん)(1945年(ねん))。おきには、兵士(へいし)や物(もの)を運(はこ)ぶたくさんの船(ふね)が集(あつ)まっています。沖縄本島西海岸の上陸地点(パープル・ビーチ)と船団(アメリカ陸軍航空軍撮影、1945年) 342-FH-3A04437-63374AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
なぜ?沖縄(おきなわ)が戦場(せんじょう)になったの?
日本(にほん)軍(ぐん)は、沖縄(おきなわ)を、本土(ほんど)を守(まも)るための最後(さいご)のとりでと考(かんが)えていました。1944年(ねん)3月(さんがつ)には、沖縄(おきなわ)を守(まも)る軍(ぐん)をつくり、アメリカ軍(ぐん)をむかえうつ用意(ようい)をしていたのです。

「鉄(てつ)の暴風(ぼうふう)」とよばれた地上戦(ちじょうせん)

沖縄(おきなわ)では、日本(にほん)軍(ぐん)とアメリカ軍(ぐん)が、住民(じゅうみん)をまきこんで激(はげ)しい地上戦(ちじょうせん)を行(おこな)いました。これを沖縄戦(おきなわせん)といい、国内(こくない)で最大(さいだい)の地上戦(ちじょうせん)でした。

砲弾(ほうだん)や爆弾(ばくだん)が、雨(あめ)のように打(う)ちこまれました。そのようすは「鉄(てつ)の暴風(ぼうふう)」とよばれ、戦(たたか)いはおよそ3か月(げつ)続(つづ)きました。

空から写した、木々の間に家々がならぶ丘の町と、手前の段々の畑の白黒の写真
1945年(ねん)4月(しがつ)28日(にじゅうはちにち)の首里(しゅり)。木々(きぎ)の間(あいだ)に、家々(いえいえ)がならんでいます。首里の空中写真 1945年4月28日(アメリカ陸軍航空軍撮影) 342-FH-3A04104-83751AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)
空から写した、木も家もなくなり、土がむき出しになった丘。ところどころから煙が上がっている白黒の写真
1945年(ねん)5月(ごがつ)23日(にじゅうさんにち)の首里(しゅり)。くり返(かえ)し攻撃(こうげき)を受(う)け、木(き)も家(いえ)もほとんどなくなりました。首里の空中写真 1945年5月23日(アメリカ陸軍航空軍撮影) 342-FH-3A04105-83752AC出典:アメリカ国立公文書館(NARA)(部分)

5月(ごがつ)下旬(げじゅん)、日本(にほん)軍(ぐん)は首里(しゅり)から南部(なんぶ)へしりぞきました。南部(なんぶ)には住民(じゅうみん)も多(おお)くひなんしていて、住民(じゅうみん)と兵士(へいし)が入(い)りまじる戦場(せんじょう)になりました。

戦場(せんじょう)に動員(どういん)された生徒(せいと)たち

中学校(ちゅうがっこう)や女学校(じょがっこう)などの生徒(せいと)も、戦場(せんじょう)に動員(どういん)されました。男子生徒(だんしせいと)は、陣地(じんち)づくりや物(もの)を運(はこ)ぶ仕事(しごと)、通信(つうしん)の仕事(しごと)などにあたりました。

女子生徒(じょしせいと)は、陸軍病院(りくぐんびょういん)などで、けがをした兵士(へいし)の看護(かんご)にあたりました。沖縄師範学校(おきなわしはんがっこう)女子部(じょしぶ)と沖縄県立第一(おきなわけんりつだいいち)高等女学校(こうとうじょがっこう)の生徒(せいと)たちは、とよばれています。

動員(どういん)された生徒(せいと)は約(やく)2,000人(にん)で、そのうち約(やく)1,000人(にん)がなくなりました。

6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)は「慰霊(いれい)の日(ひ)」

6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)、日本(にほん)軍(ぐん)の司令官(しれいかん)がなくなり、日本(にほん)軍(ぐん)の組織的(そしきてき)な戦(たたか)いは終(お)わったとされています。ただし、その後(あと)も各地(かくち)で戦(たたか)いは続(つづ)きました。

沖縄戦(おきなわせん)でなくなった人(ひと)は、軍人(ぐんじん)と住民(じゅうみん)をあわせて20万人(まんにん)をこえます。そのうち約(やく)9万(まん)4千人(せんにん)は、一般(いっぱん)の沖縄県民(おきなわけんみん)と推計(すいけい)されています。

沖縄戦(おきなわせん)でなくなった人(ひと)(推計(すいけい))(単位(たんい):人(ひと))
  1. 一般(いっぱん)の沖縄県民(おきなわけんみん)94,000
  2. ほかの都道府県出身(とどうふけんしゅっしん)の兵士(へいし)65,908
  3. 沖縄県出身(おきなわけんしゅっしん)の軍人(ぐんじん)・軍属(ぐんぞく)28,228
  4. アメリカ軍(ぐん)12,520

合計200,656人。一般の沖縄県民は、1944年と1946年の人口をくらべて推計した数(約9万4千人)。 出典:総務省「沖縄県における戦災の状況」(もとの資料は沖縄県生活福祉部『沖縄の援護のあゆみ』1996年)

沖縄県(おきなわけん)は、6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)を慰霊(いれい)の日(ひ)としています。毎年(まいとし)この日(ひ)には、糸満市(いとまんし)摩文仁(まぶに)の平和祈念公園(へいわきねんこうえん)で、沖縄全戦没者追悼式(おきなわぜんせんぼつしゃついとうしき)が開(ひら)かれます。

公園(こうえん)には、1995年(ねん)にがつくられました。国籍(こくせき)や、軍人(ぐんじん)か住民(じゅうみん)かを問(と)わず、沖縄戦(おきなわせん)などでなくなったすべての人(ひと)の名前(なまえ)が刻(きざ)まれています。

刻(きざ)まれた名前(なまえ)は、242,659人(にん)です(2026年(ねん)6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)現在(げんざい))。日本(にほん)とアメリカのほか、イギリス・台湾(たいわん)・大韓民国(だいかんみんこく)・北朝鮮(きたちょうせん)の人々(ひとびと)の名前(なまえ)もあります。

晴れた空の下、花をつけた木々の向こうに、名前がびっしり刻まれた黒い石の壁が何列もならんでいる写真
平和(へいわ)の礎(いしじ)(沖縄県(おきなわけん)糸満市(いとまんし))。黒(くろ)い石(いし)の壁(かべ)に、沖縄戦(おきなわせん)などでなくなった人々(ひとびと)の名前(なまえ)が刻(きざ)まれています。平和の礎 2019年撮影(Balon Greyjoy)出典:Wikimedia Commons(CC0)(部分)(CC0 1.0)
空襲(くうしゅう)を受(う)けたおもな都市(とし)と、沖縄戦(おきなわせん)の場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 東京都(とうきょうと)。東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)で焼(や)かれた地域(ちいき)。今(いま)の台東区(たいとうく)・墨田区(すみだく)・江東区(こうとうく)のあたり。およそ10万人(まんにん)がなくなったといわれる。
  • 愛知県(あいちけん)。飛行機(ひこうき)の工場(こうじょう)が多(おお)く、くり返(かえ)し空襲(くうしゅう)を受(う)けた。東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)のあと、焼夷弾(しょういだん)による大(おお)きな空襲(くうしゅう)も受(う)けた。
  • 大阪府(おおさかふ)。1945年(ねん)3月(さんがつ)から、焼夷弾(しょういだん)による大(おお)きな空襲(くうしゅう)を何度(なんど)も受(う)けた。
  • 兵庫県(ひょうごけん)。1945年(ねん)3月(さんがつ)17日(じゅうしちにち)の空襲(くうしゅう)で、市(し)の西半分(にしはんぶん)が焼(や)かれた。6月(ろくがつ)5日(か)にも大(おお)きな空襲(くうしゅう)を受(う)けた。
  • 沖縄県(おきなわけん)。1944年(ねん)10月(じゅうがつ)10日(とおか)の空襲(くうしゅう)(10・10空襲(くうしゅう))で、市内(しない)の約(やく)9割(わり)が焼(や)けた。
  • 沖縄県(おきなわけん)。1945年(ねん)3月(さんがつ)26日(にじゅうろくにち)、アメリカ軍(ぐん)が最初(さいしょ)に上陸(じょうりく)した島々(しまじま)。沖縄戦(おきなわせん)はここから始(はじ)まった。
  • 沖縄県(おきなわけん)。1945年(ねん)4月(しがつ)1日(ついたち)、アメリカ軍(ぐん)が沖縄本島(おきなわほんとう)に上陸(じょうりく)した海岸(かいがん)。その日(ひ)のうちに、近(ちか)くの飛行場(ひこうじょう)が占領(せんりょう)された。
  • 沖縄県(おきなわけん)。日本(にほん)軍(ぐん)の司令部(しれいぶ)があった場所(ばしょ)。激(はげ)しい戦(たたか)いのあと、5月(ごがつ)下旬(げじゅん)に日本(にほん)軍(ぐん)は南部(なんぶ)へしりぞいた。
  • 沖縄県(おきなわけん)。沖縄戦(おきなわせん)の最後(さいご)の戦場(せんじょう)となった沖縄本島南部(おきなわほんとうなんぶ)にある公園(こうえん)。平和(へいわ)の礎(いしじ)があり、毎年(まいとし)6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)に沖縄全戦没者追悼式(おきなわぜんせんぼつしゃついとうしき)が開(ひら)かれる。

●赤は戦いの場所、●緑は空襲を受けた都市や慰霊の場所です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

1945年(ねん)3月(さんがつ)から、沖縄(おきなわ)では住民(じゅうみん)をまきこんだ地上戦(ちじょうせん)が行(おこな)われ、20万人(まんにん)をこえる人(ひと)がなくなりました。6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)は沖縄県(おきなわけん)の慰霊(いれい)の日(ひ)です。

年(ねん)の流(なが)れでふり返(かえ)る

  1. 1944年(ねん)7月(しちがつ)サイパン島(とう)がアメリカ軍(ぐん)に占領(せんりょう)される
  2. 1944年(ねん)10月(じゅうがつ)沖縄(おきなわ)が大(おお)きな空襲(くうしゅう)を受(う)ける(10月(じゅうがつ)10日(とおか))
  3. 1944年(ねん)11月(じゅういちがつ)東京(とうきょう)への本格的(ほんかくてき)な空襲(くうしゅう)が始(はじ)まる
  4. 1945年(ねん)3月(さんがつ)東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)(3月(さんがつ)10日(とおか))。アメリカ軍(ぐん)が慶良間諸島(けらましょとう)に上陸(じょうりく)(3月(さんがつ)26日(にじゅうろくにち))
  5. 1945年(ねん)4月(しがつ)アメリカ軍(ぐん)が沖縄本島(おきなわほんとう)に上陸(じょうりく)(4月(しがつ)1日(ついたち))
  6. 1945年(ねん)6月(ろくがつ)沖縄(おきなわ)で日本(にほん)軍(ぐん)の組織的(そしきてき)な戦(たたか)いが終(お)わる(6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち))

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、空襲(くうしゅう)と沖縄戦(おきなわせん)について、もう少(すこ)しくわしく習(なら)います。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
最初(さいしょ)の空襲(くうしゅう)1944年(ねん)11月(じゅういちがつ)から本格的(ほんかくてき)な空襲(くうしゅう)日本(にほん)本土(ほんど)への最初(さいしょ)の空襲(くうしゅう)は、1942年(ねん)4月(しがつ)18日(じゅうはちにち)。アメリカ軍(ぐん)の爆撃機(ばくげきき)が、東京(とうきょう)・名古屋(なごや)・神戸(こうべ)などを空襲(くうしゅう)した
空襲(くうしゅう)のやり方(かた)焼夷弾(しょういだん)で町(まち)を焼(や)いたはじめは工場(こうじょう)などをねらう爆撃(ばくげき)だったが、1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)の東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)から、夜(よる)に市街地(しがいち)を焼夷弾(しょういだん)で焼(や)きはらう空襲(くうしゅう)が本格化(ほんかくか)した
沖縄(おきなわ)の空襲(くうしゅう)1944年(ねん)10月(じゅうがつ)10日(とおか)の空襲(くうしゅう)「10・10空襲(くうしゅう)」とよばれる。5回(かい)にわたって、のべ1,000機(き)をこえる飛行機(ひこうき)がおそい、那覇(なは)の市内(しない)の90%が焼(や)けた
学徒隊(がくとたい)生徒(せいと)が戦場(せんじょう)に動員(どういん)された沖縄(おきなわ)の21の中等学校(ちゅうとうがっこう)の生徒(せいと)が動員(どういん)された。男子(だんし)は「鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)」「通信隊(つうしんたい)」に、女子(じょし)はひめゆり学徒隊(がくとたい)などとして看護(かんご)にあたった
沖縄戦(おきなわせん)の終(お)わり6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)(22日(にじゅうににち)という説(せつ)もある)に組織的(そしきてき)な戦(たたか)いが終(お)わった。そのあとも戦(たたか)いは続(つづ)き、南西諸島(なんせいしょとう)の日本(にほん)軍(ぐん)が降伏(こうふく)の文書(ぶんしょ)に調印(ちょういん)したのは9月(くがつ)7日(なのか)

重要(じゅうよう)なところ

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)です。
3月(さんがつ)10日(とおか)は「東京都平和(とうきょうとへいわ)の日(ひ)」になっています。
沖縄戦(おきなわせん)は、住民(じゅうみん)をまきこんだ地上戦(ちじょうせん)で、20万人(まんにん)をこえる人(ひと)がなくなりました。
軍人(ぐんじん)だけでなく、多(おお)くの住民(じゅうみん)や、動員(どういん)された生徒(せいと)もなくなりました。
沖縄県(おきなわけん)の「慰霊(いれい)の日(ひ)」は6月(ろくがつ)23日(にじゅうさんにち)です。
日本(にほん)軍(ぐん)の組織的(そしきてき)な戦(たたか)いが終(お)わったとされる日(ひ)です。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「長く続いた戦争と人々のくらし」の授業「空襲で日本の都市が焼かれる」
  • 教育出版:「戦争と人々の暮らし」の授業「おそいかかる空襲」
  • 日本文教出版:「アジア・太平洋に広がる戦争」の授業「空襲で焼きつくされる国土」「戦場となった沖縄」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(サ):日華事変(にっかじへん)(日中戦争(にっちゅうせんそう))、日本(にほん)が関(かか)わった第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)、日本国憲法(にほんこくけんぽう)の制定(せいてい)、オリンピック・パラリンピックの開催(かいさい)などから、戦後(せんご)に民主的(みんしゅてき)な国家(こっか)として出発(しゅっぱつ)し、国民生活(こくみんせいかつ)が向上(こうじょう)して国際社会(こくさいしゃかい)で重要(じゅうよう)な役割(やくわり)を果(は)たしてきたことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 026321B000000)

「長(なが)く続(つづ)いた戦争(せんそう)と人々(ひとびと)のくらし」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

落(お)ちたところで火(ひ)をふき出(だ)し、火事(かじ)を起(お)こす爆弾(ばくだん)を何(なん)といいますか。焼夷弾(しょういだん)
日本(にほん)の都市(とし)を空襲(くうしゅう)した、アメリカ軍(ぐん)の大型(おおがた)の爆撃機(ばくげきき)を何(なん)といいますか。B-29
1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)、東京(とうきょう)の下町(したまち)が焼(や)かれ、およそ10万人(まんにん)がなくなった空襲(くうしゅう)を何(なん)といいますか。東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)
空襲(くうしゅう)を受(う)けたのは、東京(とうきょう)などの大都市(だいとし)だけでしたか。いいえ。全国(ぜんこく)の中小(ちゅうしょう)の都市(とし)も空襲(くうしゅう)を受(う)けた
アメリカ軍(ぐん)が沖縄本島(おきなわほんとう)に上陸(じょうりく)したのは、1945年(ねん)の何月何日(なんがつなんにち)ですか。4月(しがつ)1日(ついたち)
住民(じゅうみん)をまきこんで行(おこな)われ、20万人(まんにん)をこえる人(ひと)がなくなった、沖縄(おきなわ)での地上戦(ちじょうせん)を何(なん)といいますか。沖縄戦(おきなわせん)
沖縄師範学校(おきなわしはんがっこう)女子部(じょしぶ)と沖縄県立第一(おきなわけんりつだいいち)高等女学校(こうとうじょがっこう)の生徒(せいと)たちで、看護(かんご)にあたった学徒隊(がくとたい)を何(なん)とよびますか。ひめゆり学徒隊(がくとたい)
国籍(こくせき)や軍人(ぐんじん)・住民(じゅうみん)を問(と)わず、沖縄戦(おきなわせん)などでなくなった人(ひと)の名前(なまえ)を刻(きざ)んだ、糸満市(いとまんし)摩文仁(まぶに)の碑(ひ)を何(なん)といいますか。平和(へいわ)の礎(いしじ)
問(と)いへの答(こた)え

1944年(ねん)の終(お)わりから、アメリカ軍(ぐん)の爆撃機(ばくげきき)B-29(びーにじゅうく)による空襲(くうしゅう)が本格的(ほんかくてき)になりました。1945年(ねん)3月(さんがつ)10日(とおか)の東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)では、焼夷弾(しょういだん)で下町(したまち)が焼(や)かれ、およそ10万人(まんにん)がなくなりました。空襲(くうしゅう)はその後(ご)、全国(ぜんこく)の都市(とし)に広(ひろ)がり、工場(こうじょう)だけでなく住宅地(じゅうたくち)も焼(や)け野原(のはら)になりました。沖縄(おきなわ)では、1945年(ねん)3月(さんがつ)末(すえ)からアメリカ軍(ぐん)が上陸(じょうりく)し、住民(じゅうみん)をまきこんだ地上戦(ちじょうせん)(沖縄戦(おきなわせん))が行(おこな)われました。中学校(ちゅうがっこう)や女学校(じょがっこう)の生徒(せいと)も動員(どういん)され、軍人(ぐんじん)と住民(じゅうみん)をあわせて20万人(まんにん)をこえる人(ひと)がなくなりました。

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出典

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