小6社会/長く続いた戦争と人々のくらし
満州事変と日中戦争
今日の問い日本が中国で行った戦争は、どのように始まり、どのように広がっていったのだろう。
3行でわかる
- (1929年)で日本も不景気になり、中国に勢力をのばして景気を回復させようという考えが広がりました。
- 1931年にが起こり、日本はをつくりました。国際連盟が認めなかったため、1933年にを脱退しました。
- 1937年にが始まり、戦争は中国の各地に広がって長く続きました。中国の人々は、命やくらしをうばわれる大きな被害を受けました。
世界恐慌と、苦しくなったくらし
世界中に広がった不景気
1929年、アメリカで大きな不景気が始まりました。会社や銀行がつぶれ、仕事を失う人が大きくふえました。
この不景気は、アメリカと取り引きをしていた国々に次々と広がりました。これを世界恐慌といいます。
日本の不景気
日本もこの不景気にまきこまれました。日本の品物は外国に売れなくなり、輸出額は2年で約半分にへりました。
日本の輸出額の移り変わり(1927〜1933年)- 19.9億円1927年
- 19.7億円1928年
- 21.5億円1929年
- 14.7億円1930年
- 11.5億円1931年
- 14.1億円1932年
- 18.6億円1933年
内地(今の日本の範囲にあたる地域)の輸出額。統計年鑑の千円単位の数字を、億円にして小数第1位まで表した。当時のお金の価値で、今とはくらべられない。 出典:内閣統計局『第55回 日本帝国統計年鑑』(1936年)表141「輸移出入品総額及貿易外収支」
とくに大きくへったのが、糸や布などのせんい製品の輸出です。1929年から1931年の間に、約半分になりました。
品物が売れないので、会社や工場の仕事もへりました。都市でも農村でも、人々のくらしはとても苦しくなりました。
中国に目を向ける考え
人々が不景気に苦しむなかで、ある考えが広まっていきました。中国に日本の勢力をのばすことで、景気を回復させようという考えです。
とくに注目されたのが、中国の東北部の満州です。満州には、石炭や鉄などの資源と、広い土地がありました。
なぜ? 満州に目が向けられたの?
日本は日露戦争のあと、満州の南部で鉄道(南満州鉄道)などの権利を得ていました。満州には日本の軍隊(関東軍)も置かれていて、日本の勢力がすでにおよんでいたのです。
1929年の世界恐慌で、日本も深刻な不景気になりました。中国に勢力をのばして景気を回復させようという考えが広がりました。
満州事変と満州国
1931年、満州事変が起こる
1931年9月18日の夜、満州の奉天(今の瀋陽)の近くの柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破されました。
これは、満州にいた日本軍()の将校たちが計画したものでした。日本軍は、これを中国軍のしわざだとして攻撃を始めました。
日本軍は戦いを広げ、1932年の初めまでに満州のほぼ全体を占領しました。このできごとを満州事変といいます。
満州事変と日中戦争に関係する場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 中国。奉天(今の瀋陽)の近く。1931年9月18日、ここで南満州鉄道の線路が爆破され、満州事変が始まった。
- 中国。満州国の首都とされた町。もとの名前は長春で、満州国の時代に「新京」とよばれた。
- 中国。北京の西の川にかかる石の橋。1937年7月7日、この近くで日本軍と中国軍がしょうとつし、日中戦争が始まった。
- 中国。中国の大きな港町。1937年8月、日中戦争の戦いがここに広がった。
- 中国。そのころの中国の首都。1937年12月、日本軍が占領した。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
1932年、満州国をつくる
1932年3月、日本は満州に満州国をつくりました。清の最後の皇帝だった溥儀を、国の代表にしました。
満州国は、形のうえでは独立した国でした。しかし、政治の大事なことは、日本がにぎっていました。
満州国の首都とされた新京(今の長春)の、国の役所(国務院)の建物。満州国の絵はがきです。〔満州国絵はがき〕国務院(新京) 満州建設勤労奉仕隊実践本部発行 昭和(戦前) 広島市公文書館蔵出典:広島市公文書館(CC BY)(部分)(CC BY)
満州の北部の広い畑。同じ絵はがきの1枚で、「大地(北満の沃野)」と書かれています。〔満州国絵はがき〕大地(北満の沃野) 満州建設勤労奉仕隊実践本部発行 昭和(戦前) 広島市公文書館蔵出典:広島市公文書館(CC BY)(部分)(CC BY)
首都は長春に置かれ、「新京」とよばれました。日本からは、農業などをするために、多くの人々が満州にわたりました。
1931年、満州にいた日本軍が満州事変を起こし、満州の大部分を占領しました。1932年には、日本が満州国をつくりました。
国際連盟の脱退と、強まる軍部の力
リットン調査団
中国は、日本の行動を国際連盟にうったえました。国際連盟は、イギリスのリットンを代表とする調査団を送りました。
国際連盟が送った調査団の5人。左から2人目が、代表のリットン(イギリス)です。ほかに、アメリカ・ドイツ・イタリア・フランスの人がいました。国際聯盟支那調査委員(『リットン報告書全文』朝日新聞社、1932年の口絵)出典:国立国会図書館デジタルコレクション
調査団は、1932年に報告書をまとめました。この報告書をもとに、国際連盟で話し合いが進められました。
1933年、国際連盟を脱退する
1933年2月、国際連盟の総会が開かれました。満州は中国の領土だと認め、日本軍に引きあげを求める案に、42か国が賛成しました。
反対したのは日本だけでした。日本の代表の松岡洋右らは、会議の場から出ていきました。
1933年2月24日、国際連盟の総会から退場したあと、ホテルで写した日本の代表団。前の列のまん中が松岡洋右です。日本全権部の記念撮影(『国際聯盟に於ける日支問題議事録 後編』国際聯盟事務局東京支局編、1933年の口絵)出典:国立国会図書館デジタルコレクション
1933年3月、日本は国際連盟からの脱退を通告しました。こうして日本は、世界の国々の中で孤立を深めていきました。
軍部が政治に強い力をもつ
国内では、軍人が政治を動かそうとする事件が起こりました。
- (1932年):海軍の青年将校らが首相官邸などをおそい、犬養毅首相の命をうばいました。
- (1936年):陸軍の青年将校らが大臣などをおそい、東京の中心部を占拠しました。
五・一五事件のあと、政党の代表が首相になる政治(政党政治)はとだえました。こうして、陸軍や海軍()が、政治に強い力をもつようになりました。
国際連盟が満州国を認めなかったため、日本は1933年に国際連盟を脱退しました。国内では、軍部の力が強まっていきました。
日中戦争が始まる
1937年、中国との全面的な戦争へ
1937年7月7日、北京の近くの盧溝橋で、日本軍と中国軍がしょうとつしました。これをきっかけに、日本と中国の戦争が始まりました。
空から見た盧溝橋(まん中を横切る長い橋)。北京の西の川にかかる、古くからの石の橋です。1937年、この近くでのしょうとつから、日中戦争が始まりました。盧溝橋の空中写真(極東国際軍事裁判 法廷証第201号)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(連合国最高司令官総司令部国際検察局文書)(部分)
戦いは、北京や天津から、上海へと広がっていきました。この日本と中国の全面的な戦争を、日中戦争といいます。
中国の人々が受けた被害
1937年12月、日本軍は、中国の首都の南京を占領しました。占領のあと、兵士ではない人々の命をうばったり、物をうばったりする行いがありました(南京事件)。
犠牲になった人の数については、さまざまな説があります。
戦争は中国の各地に広がりました。中国の多くの人々が、戦いにまきこまれて命を落としたり、家や田畑を失ったりしました。
長く続いた戦争
中国は、首都の南京を占領されたあとも、戦いを続けました。そのため、戦争は長引きました。
戦争が長引くにつれて、日本は多くの兵士や物資を、中国の戦場に送り続けることになりました。日中戦争は、1945年まで続きました。
- 1929年世界恐慌が起こる
- 1931年満州事変が起こる
- 1932年満州国をつくる。五・一五事件が起こる
- 1933年国際連盟を脱退する
- 1936年二・二六事件が起こる
- 1937年日中戦争が始まる。日本軍が南京を占領する
1937年に日中戦争が始まり、戦争は中国の各地に広がって長引きました。中国の人々は、命やくらしをうばわれる大きな被害を受けました。
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、この時代をもう少しくわしく習います。
| 小学校 | 中学校で加わること |
| 不景気 | 世界恐慌で不景気になる | 1927年の金融恐慌、1929年からの世界恐慌の影響による不景気を「昭和恐慌」とよぶ |
| 満州事変と政府 | 日本軍が満州を占領する | 政府(若槻礼次郎内閣)は、戦いを広げない方針(不拡大方針)を発表したが、関東軍は戦いを広げ続けた |
| 満州国の承認 | 1932年に満州国をつくる | 1932年3月1日に建国が宣言された。9月、日本は日満議定書を結び、満州国を正式に認めた |
| 国際連盟の総会 | 42か国が賛成し、日本だけが反対 | 1933年2月24日の採決は、賛成42、反対1(日本)、棄権1だった。3月27日に脱退を通告した |
| 二・二六事件 | 陸軍の青年将校らが大臣などをおそう | 「国家改造」を求めた。翌日、東京に戒厳令が出され、29日に反乱軍としてしずめられた |
| 日中戦争 | 1937年に始まる | 8月に戦いは上海へ広がった。政府はこの戦争を「支那事変」とよんだ |
この時代の人物

犬養毅
岡山県の出身。新聞記者をへて政治家になり、1931年に首相になった。満州国を認めることに慎重だったが、1932年5月15日、五・一五事件で海軍の青年将校らに命をうばわれた。

松岡洋右
山口県の出身。外交官をへて政治家になった。1933年、国際連盟の総会に日本の代表として出席し、満州国を認めない案に反対して議場から退場した。
重要なところ
満州事変は1931年、日中戦争は1937年に始まりました。
満州事変で満州を占領したあと、1937年に中国との全面的な戦争(日中戦争)が始まりました。
日本は、国際連盟が満州国を認めなかったため、1933年に国際連盟を脱退しました。
総会で満州国を認めない案に反対したのは日本だけでした。
五・一五事件は海軍の青年将校ら(1932年)、二・二六事件は陸軍の青年将校ら(1936年)が起こしました。
2つの事件のあと、軍部が政治に強い力をもつようになりました。
たしかめ問題1/7
1929年にアメリカで始まり、世界中に広がった大きな不景気を何といいますか。
たしかめ問題2/7
1931年、満州にいた日本軍が南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍のしわざとして始めた戦いを何といいますか。
たしかめ問題3/7
1932年に、日本が中国の東北部につくった国を何といいますか。
たしかめ問題4/7
満州国を調べるために、国際連盟が送った調査団を、代表の名前をとって何といいますか。
たしかめ問題5/7
日本が1933年に脱退した、世界の平和を守るための組織を何といいますか。
たしかめ問題6/7
1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などをおそい、首相の命をうばった事件を何といいますか。
たしかめ問題7/7
1937年、北京の近くの盧溝橋での日中両軍のしょうとつをきっかけに始まった戦争を何といいますか。
問いへの答え
日本が中国で行った戦争は、どのように始まり、どのように広がっていったのだろう。
1929年に世界恐慌が起こると、日本も深刻な不景気になりました。中国に勢力をのばして景気を回復させようという考えが広がるなか、1931年、満州にいた日本軍が南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍のしわざとして攻撃を始めました(満州事変)。日本は1932年に満州国をつくりましたが、国際連盟はこれを認めず、日本は1933年に国際連盟を脱退しました。国内では、五・一五事件や二・二六事件が起こり、軍部が政治に強い力をもつようになりました。1937年には北京の近くで日中両軍がしょうとつし、日中戦争が始まりました。戦争は中国の各地に広がって長引き、中国の多くの人々が命やくらしをうばわれました。
画像の出典
- 〔満州国絵はがき〕国務院(新京) 満州建設勤労奉仕隊実践本部発行 昭和(戦前) 広島市公文書館蔵(広島市公文書館(CC BY))
- 〔満州国絵はがき〕大地(北満の沃野) 満州建設勤労奉仕隊実践本部発行 昭和(戦前) 広島市公文書館蔵(広島市公文書館(CC BY))
- 国際聯盟支那調査委員(『リットン報告書全文』朝日新聞社、1932年の口絵)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 日本全権部の記念撮影(『国際聯盟に於ける日支問題議事録 後編』国際聯盟事務局東京支局編、1933年の口絵)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 盧溝橋の空中写真(極東国際軍事裁判 法廷証第201号)(国立国会図書館デジタルコレクション(連合国最高司令官総司令部国際検察局文書))
- 犬養毅(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 松岡洋右(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)