教科書補助小6 社会 / 長く続いた戦争と人々のくらし / 5本中の1本目

満州事変(まんしゅうじへん)と日中戦争(にっちゅうせんそう)とは? 世界恐慌(せかいきょうこう)・満州国(まんしゅうこく)・国際連盟(こくさいれんめい)の脱退(だったい)・日中戦争(にっちゅうせんそう)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「長く続いた戦争と人々のくらし」の「中国との戦争が広がる」/教育出版「戦争と人々の暮らし」の「中国との戦争が始まる」/日本文教出版「アジア・太平洋に広がる戦争」の「好景気から不景気へ」「満州事変と孤立する日本」「長引く中国との戦争」

更新(こうしん)

文字
ふりがな
行の間
3行(ぎょう)でわかる
  1. (1929年(ねん))で日本(にほん)も不景気(ふけいき)になり、中国(ちゅうごく)に勢力(せいりょく)をのばして景気(けいき)を回復(かいふく)させようという考(かんが)えが広(ひろ)がりました。
  2. 1931年(ねん)にが起(お)こり、日本(にほん)はをつくりました。国際連盟(こくさいれんめい)が認(みと)めなかったため、1933年(ねん)にを脱退(だったい)しました。
  3. 1937年(ねん)にが始(はじ)まり、戦争(せんそう)は中国(ちゅうごく)の各地(かくち)に広(ひろ)がって長(なが)く続(つづ)きました。中国(ちゅうごく)の人々(ひとびと)は、命(いのち)やくらしをうばわれる大(おお)きな被害(ひがい)を受(う)けました。
今日(きょう)の問(と)い

日本(にほん)が中国(ちゅうごく)で行(おこな)った戦争(せんそう)は、どのように始(はじ)まり、どのように広(ひろ)がっていったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

世界恐慌(せかいきょうこう)と、苦(くる)しくなったくらし

世界中(せかいちゅう)に広(ひろ)がった不景気(ふけいき)

1929年(ねん)、アメリカで大(おお)きな不景気(ふけいき)が始(はじ)まりました。会社(かいしゃ)や銀行(ぎんこう)がつぶれ、仕事(しごと)を失(うしな)う人(ひと)が大(おお)きくふえました。

この不景気(ふけいき)は、アメリカと取(と)り引(ひ)きをしていた国々(くにぐに)に次々(つぎつぎ)と広(ひろ)がりました。これを世界恐慌(せかいきょうこう)といいます。

日本(にほん)の不景気(ふけいき)

日本(にほん)もこの不景気(ふけいき)にまきこまれました。日本(にほん)の品物(しなもの)は外国(がいこく)に売(う)れなくなり、輸出(ゆしゅつ)額(がく)は2年(ねん)で約半分(やくはんぶん)にへりました。

日本(にほん)の輸出(ゆしゅつ)額(がく)の移(うつ)り変(か)わり(1927〜1933年(ねん))
  1. 19.9億円(おくえん)1927年(ねん)
  2. 19.7億円(おくえん)1928年(ねん)
  3. 21.5億円(おくえん)1929年(ねん)
  4. 14.7億円(おくえん)1930年(ねん)
  5. 11.5億円(おくえん)1931年(ねん)
  6. 14.1億円(おくえん)1932年(ねん)
  7. 18.6億円(おくえん)1933年(ねん)

内地(今の日本の範囲にあたる地域)の輸出額。統計年鑑の千円単位の数字を、億円にして小数第1位まで表した。当時のお金の価値で、今とはくらべられない。 出典:内閣統計局『第55回 日本帝国統計年鑑』(1936年)表141「輸移出入品総額及貿易外収支」

とくに大(おお)きくへったのが、糸(いと)や布(ぬの)などのせんい製品(せいひん)の輸出(ゆしゅつ)です。1929年(ねん)から1931年(ねん)の間(あいだ)に、約半分(やくはんぶん)になりました。

品物(しなもの)が売(う)れないので、会社(かいしゃ)や工場(こうじょう)の仕事(しごと)もへりました。都市(とし)でも農村(のうそん)でも、人々(ひとびと)のくらしはとても苦(くる)しくなりました。

中国(ちゅうごく)に目(め)を向(む)ける考(かんが)え

人々(ひとびと)が不景気(ふけいき)に苦(くる)しむなかで、ある考(かんが)えが広(ひろ)まっていきました。中国(ちゅうごく)に日本(にほん)の勢力(せいりょく)をのばすことで、景気(けいき)を回復(かいふく)させようという考(かんが)えです。

とくに注目(ちゅうもく)されたのが、中国(ちゅうごく)の東北部(とうほくぶ)の満州(まんしゅう)です。満州(まんしゅう)には、石炭(せきたん)や鉄(てつ)などの資源(しげん)と、広(ひろ)い土地(とち)がありました。

なぜ? 満州(まんしゅう)に目(め)が向(む)けられたの?
日本(にほん)は日露戦争(にちろせんそう)のあと、満州(まんしゅう)の南部(なんぶ)で鉄道(てつどう)(南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう))などの権利(けんり)を得(え)ていました。満州(まんしゅう)には日本(にほん)の軍隊(ぐんたい)(関東軍(かんとうぐん))も置(お)かれていて、日本(にほん)の勢力(せいりょく)がすでにおよんでいたのです。

1929年(ねん)の世界恐慌(せかいきょうこう)で、日本(にほん)も深刻(しんこく)な不景気(ふけいき)になりました。中国(ちゅうごく)に勢力(せいりょく)をのばして景気(けいき)を回復(かいふく)させようという考(かんが)えが広(ひろ)がりました。

満州事変(まんしゅうじへん)と満州国(まんしゅうこく)

1931年(ねん)、満州事変(まんしゅうじへん)が起(お)こる

1931年(ねん)9月(くがつ)18日(じゅうはちにち)の夜(よる)、満州(まんしゅう)の奉天(ほうてん)(今(いま)の瀋陽(しんよう))の近(ちか)くの柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう)の線路(せんろ)が爆破(ばくは)されました。

これは、満州(まんしゅう)にいた日本(にほん)軍(ぐん)()の将校(しょうこう)たちが計画(けいかく)したものでした。日本(にほん)軍(ぐん)は、これを中国軍(ちゅうごくぐん)のしわざだとして攻撃(こうげき)を始(はじ)めました。

日本(にほん)軍(ぐん)は戦(たたか)いを広(ひろ)げ、1932年(ねん)の初(はじ)めまでに満州(まんしゅう)のほぼ全体(ぜんたい)を占領(せんりょう)しました。このできごとを満州事変(まんしゅうじへん)といいます。

満州事変(まんしゅうじへん)と日中戦争(にっちゅうせんそう)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 中国(ちゅうごく)。奉天(ほうてん)(今(いま)の瀋陽(しんよう))の近(ちか)く。1931年(ねん)9月(くがつ)18日(じゅうはちにち)、ここで南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう)の線路(せんろ)が爆破(ばくは)され、満州事変(まんしゅうじへん)が始(はじ)まった。
  • 中国(ちゅうごく)。満州国(まんしゅうこく)の首都(しゅと)とされた町(まち)。もとの名前(なまえ)は長春(ちょうしゅん)で、満州国(まんしゅうこく)の時代(じだい)に「新京(しんきょう)」とよばれた。
  • 中国(ちゅうごく)。北京(ぺきん)の西(にし)の川(かわ)にかかる石(いし)の橋(はし)。1937年(ねん)7月(しちがつ)7日(なのか)、この近(ちか)くで日本(にほん)軍(ぐん)と中国軍(ちゅうごくぐん)がしょうとつし、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始(はじ)まった。
  • 中国(ちゅうごく)。中国(ちゅうごく)の大(おお)きな港町(みなとまち)。1937年(ねん)8月(はちがつ)、日中戦争(にっちゅうせんそう)の戦(たたか)いがここに広(ひろ)がった。
  • 中国(ちゅうごく)。そのころの中国(ちゅうごく)の首都(しゅと)。1937年(ねん)12月(じゅうにがつ)、日本(にほん)軍(ぐん)が占領(せんりょう)した。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

1932年(ねん)、満州国(まんしゅうこく)をつくる

1932年(ねん)3月(さんがつ)、日本(にほん)は満州(まんしゅう)に満州国(まんしゅうこく)をつくりました。清(しん)の最後(さいご)の皇帝(こうてい)だった溥儀(ふぎ)を、国(くに)の代表(だいひょう)にしました。

満州国(まんしゅうこく)は、形(かたち)のうえでは独立(どくりつ)した国(くに)でした。しかし、政治(せいじ)の大事(だいじ)なことは、日本(にほん)がにぎっていました。

広い芝生の向こうに、中央に塔のある、白い柱の大きな建物が建っている白黒の写真
満州国(まんしゅうこく)の首都(しゅと)とされた新京(しんきょう)(今(いま)の長春(ちょうしゅん))の、国(くに)の役所(やくしょ)(国務院(こくむいん))の建物(たてもの)。満州国(まんしゅうこく)の絵(え)はがきです。〔満州国絵はがき〕国務院(新京) 満州建設勤労奉仕隊実践本部発行 昭和(戦前) 広島市公文書館蔵出典:広島市公文書館(CC BY)(部分)(CC BY)
地平線までつづく、すじのように耕された広い畑と、雲の広がる空の白黒の写真
満州(まんしゅう)の北部(ほくぶ)の広(ひろ)い畑(はたけ)。同(おな)じ絵(え)はがきの1枚(まい)で、「大地(だいち)(北満(ほくまん)の沃野(よくや))」と書(か)かれています。〔満州国絵はがき〕大地(北満の沃野) 満州建設勤労奉仕隊実践本部発行 昭和(戦前) 広島市公文書館蔵出典:広島市公文書館(CC BY)(部分)(CC BY)

首都(しゅと)は長春(ちょうしゅん)に置(お)かれ、「新京(しんきょう)」とよばれました。日本(にほん)からは、農業(のうぎょう)などをするために、多(おお)くの人々(ひとびと)が満州(まんしゅう)にわたりました。

1931年(ねん)、満州(まんしゅう)にいた日本(にほん)軍(ぐん)が満州事変(まんしゅうじへん)を起(お)こし、満州(まんしゅう)の大部分(だいぶぶん)を占領(せんりょう)しました。1932年(ねん)には、日本(にほん)が満州国(まんしゅうこく)をつくりました。

国際連盟(こくさいれんめい)の脱退(だったい)と、強(つよ)まる軍部(ぐんぶ)の力(ちから)

リットン調査団(ちょうさだん)

中国(ちゅうごく)は、日本(にほん)の行動(こうどう)を国際連盟(こくさいれんめい)にうったえました。国際連盟(こくさいれんめい)は、イギリスのリットンを代表(だいひょう)とする調査団(ちょうさだん)を送(おく)りました。

長いコートを着た5人の西洋の男性が、船の通路のような場所にならんで立っている白黒の写真
国際連盟(こくさいれんめい)が送(おく)った調査団(ちょうさだん)の5人(にん)。左(ひだり)から2人(ふたり)目(め)が、代表(だいひょう)のリットン(イギリス)です。ほかに、アメリカ・ドイツ・イタリア・フランスの人(ひと)がいました。国際聯盟支那調査委員(『リットン報告書全文』朝日新聞社、1932年の口絵)出典:国立国会図書館デジタルコレクション

調査団(ちょうさだん)は、1932年(ねん)に報告書(ほうこくしょ)をまとめました。この報告書(ほうこくしょ)をもとに、国際連盟(こくさいれんめい)で話(はな)し合(あ)いが進(すす)められました。

1933年(ねん)、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)する

1933年(ねん)2月(にがつ)、国際連盟(こくさいれんめい)の総会(そうかい)が開(ひら)かれました。満州(まんしゅう)は中国(ちゅうごく)の領土(りょうど)だと認(みと)め、日本(にほん)軍(ぐん)に引(ひ)きあげを求(もと)める案(あん)に、42か国(こく)が賛成(さんせい)しました。

反対(はんたい)したのは日本(にほん)だけでした。日本(にほん)の代表(だいひょう)の松岡洋右(まつおかようすけ)らは、会議(かいぎ)の場(ば)から出(で)ていきました。

カーテンのある部屋で、スーツを着た大勢の男性が、前の列はいすにすわり、うしろは何列にも立ってならんでいる白黒の写真
1933年(ねん)2月(にがつ)24日(にじゅうよっか)、国際連盟(こくさいれんめい)の総会(そうかい)から退場(たいじょう)したあと、ホテルで写(うつ)した日本(にほん)の代表団(だいひょうだん)。前(まえ)の列(れつ)のまん中(なか)が松岡洋右(まつおかようすけ)です。日本全権部の記念撮影(『国際聯盟に於ける日支問題議事録 後編』国際聯盟事務局東京支局編、1933年の口絵)出典:国立国会図書館デジタルコレクション

1933年(ねん)3月(さんがつ)、日本(にほん)は国際連盟(こくさいれんめい)からの脱退(だったい)を通告(つうこく)しました。こうして日本(にほん)は、世界(せかい)の国々(くにぐに)の中(なか)で孤立(こりつ)を深(ふか)めていきました。

軍部(ぐんぶ)が政治(せいじ)に強(つよ)い力(ちから)をもつ

国内(こくない)では、軍人(ぐんじん)が政治(せいじ)を動(うご)かそうとする事件(じけん)が起(お)こりました。

  • (1932年(ねん)):海軍(かいぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)らが首相官邸(しゅしょうかんてい)などをおそい、犬養毅(いぬかいつよし)首相(しゅしょう)の命(いのち)をうばいました。
  • (1936年(ねん)):陸軍(りくぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)らが大臣(だいじん)などをおそい、東京(とうきょう)の中心部(ちゅうしんぶ)を占拠(せんきょ)しました。

五・一五事件(ごいちごじけん)のあと、政党(せいとう)の代表(だいひょう)が首相(しゅしょう)になる政治(せいじ)(政党政治(せいとうせいじ))はとだえました。こうして、陸軍(りくぐん)や海軍(かいぐん)()が、政治(せいじ)に強(つよ)い力(ちから)をもつようになりました。

国際連盟(こくさいれんめい)が満州国(まんしゅうこく)を認(みと)めなかったため、日本(にほん)は1933年(ねん)に国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)しました。国内(こくない)では、軍部(ぐんぶ)の力(ちから)が強(つよ)まっていきました。

日中戦争(にっちゅうせんそう)が始(はじ)まる

1937年(ねん)、中国(ちゅうごく)との全面的(ぜんめんてき)な戦争(せんそう)へ

1937年(ねん)7月(しちがつ)7日(なのか)、北京(ぺきん)の近(ちか)くの盧溝橋(ろこうきょう)で、日本(にほん)軍(ぐん)と中国軍(ちゅうごくぐん)がしょうとつしました。これをきっかけに、日本(にほん)と中国(ちゅうごく)の戦争(せんそう)が始(はじ)まりました。

空から写した、はばの広い川の白黒の写真。まん中を、たくさんの橋げたのある長い橋がわたり、右はしには城壁に囲まれた町がある。手前には鉄骨の橋も見える
空(そら)から見(み)た盧溝橋(ろこうきょう)(まん中(なか)を横切(よこぎ)る長(なが)い橋(はし))。北京(ぺきん)の西(にし)の川(かわ)にかかる、古(ふる)くからの石(いし)の橋(はし)です。1937年(ねん)、この近(ちか)くでのしょうとつから、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始(はじ)まりました。盧溝橋の空中写真(極東国際軍事裁判 法廷証第201号)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(連合国最高司令官総司令部国際検察局文書)(部分)

戦(たたか)いは、北京(ぺきん)や天津(てんしん)から、上海(しゃんはい)へと広(ひろ)がっていきました。この日本(にほん)と中国(ちゅうごく)の全面的(ぜんめんてき)な戦争(せんそう)を、日中戦争(にっちゅうせんそう)といいます。

中国(ちゅうごく)の人々(ひとびと)が受(う)けた被害(ひがい)

1937年(ねん)12月(じゅうにがつ)、日本(にほん)軍(ぐん)は、中国(ちゅうごく)の首都(しゅと)の南京(なんきん)を占領(せんりょう)しました。占領(せんりょう)のあと、兵士(へいし)ではない人々(ひとびと)の命(いのち)をうばったり、物(もの)をうばったりする行(おこな)いがありました(南京事件(なんきんじけん))。

犠牲(ぎせい)になった人(ひと)の数(かず)については、さまざまな説(せつ)があります。

戦争(せんそう)は中国(ちゅうごく)の各地(かくち)に広(ひろ)がりました。中国(ちゅうごく)の多(おお)くの人々(ひとびと)が、戦(たたか)いにまきこまれて命(いのち)を落(お)としたり、家(いえ)や田畑(たはた)を失(うしな)ったりしました。

長(なが)く続(つづ)いた戦争(せんそう)

中国(ちゅうごく)は、首都(しゅと)の南京(なんきん)を占領(せんりょう)されたあとも、戦(たたか)いを続(つづ)けました。そのため、戦争(せんそう)は長引(ながび)きました。

戦争(せんそう)が長引(ながび)くにつれて、日本(にほん)は多(おお)くの兵士(へいし)や物資(ぶっし)を、中国(ちゅうごく)の戦場(せんじょう)に送(おく)り続(つづ)けることになりました。日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1945年(ねん)まで続(つづ)きました。

  1. 1929年(ねん)世界恐慌(せかいきょうこう)が起(お)こる
  2. 1931年(ねん)満州事変(まんしゅうじへん)が起(お)こる
  3. 1932年(ねん)満州国(まんしゅうこく)をつくる。五・一五事件(ごいちごじけん)が起(お)こる
  4. 1933年(ねん)国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)する
  5. 1936年(ねん)二・二六事件(ににろくじけん)が起(お)こる
  6. 1937年(ねん)日中戦争(にっちゅうせんそう)が始(はじ)まる。日本(にほん)軍(ぐん)が南京(なんきん)を占領(せんりょう)する

1937年(ねん)に日中戦争(にっちゅうせんそう)が始(はじ)まり、戦争(せんそう)は中国(ちゅうごく)の各地(かくち)に広(ひろ)がって長引(ながび)きました。中国(ちゅうごく)の人々(ひとびと)は、命(いのち)やくらしをうばわれる大(おお)きな被害(ひがい)を受(う)けました。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、この時代(じだい)をもう少(すこ)しくわしく習(なら)います。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
不景気(ふけいき)世界恐慌(せかいきょうこう)で不景気(ふけいき)になる1927年(ねん)の金融恐慌(きんゆうきょうこう)、1929年(ねん)からの世界恐慌(せかいきょうこう)の影響(えいきょう)による不景気(ふけいき)を「昭和恐慌(しょうわきょうこう)」とよぶ
満州事変(まんしゅうじへん)と政府(せいふ)日本(にほん)軍(ぐん)が満州(まんしゅう)を占領(せんりょう)する政府(せいふ)(若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣(ないかく))は、戦(たたか)いを広(ひろ)げない方針(ほうしん)(不拡大方針(ふかくだいほうしん))を発表(はっぴょう)したが、関東軍(かんとうぐん)は戦(たたか)いを広(ひろ)げ続(つづ)けた
満州国(まんしゅうこく)の承認(しょうにん)1932年(ねん)に満州国(まんしゅうこく)をつくる1932年(ねん)3月(さんがつ)1日に(いちにちに)建国(けんこく)が宣言(せんげん)された。9月(くがつ)、日本(にほん)は日満議定書(にちまんぎていしょ)を結(むす)び、満州国(まんしゅうこく)を正式(せいしき)に認(みと)めた
国際連盟(こくさいれんめい)の総会(そうかい)42か国(こく)が賛成(さんせい)し、日本(にほん)だけが反対(はんたい)1933年(ねん)2月(にがつ)24日(にじゅうよっか)の採決(さいけつ)は、賛成(さんせい)42、反対(はんたい)1(日本(にほん))、棄権(きけん)1だった。3月(さんがつ)27日(なのか)に脱退(だったい)を通告(つうこく)した
二・二六事件(ににろくじけん)陸軍(りくぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)らが大臣(だいじん)などをおそう「国家改造(こっかかいぞう)」を求(もと)めた。翌日(よくじつ)、東京(とうきょう)に戒厳令(かいげんれい)が出(だ)され、29日(にじゅうくにち)に反乱軍(はんらんぐん)としてしずめられた
日中戦争(にっちゅうせんそう)1937年(ねん)に始(はじ)まる8月(はちがつ)に戦(たたか)いは上海(しゃんはい)へ広(ひろ)がった。政府(せいふ)はこの戦争(せんそう)を「支那事変(しなじへん)」とよんだ

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

白いあごひげをはやし、もようのある礼服に勲章をつけた、年配の男性
犬養毅(いぬかいつよし)
岡山県(おかやまけん)の出身(しゅっしん)。新聞記者(しんぶんきしゃ)をへて政治家(せいじか)になり、1931年(ねん)に首相(しゅしょう)になった。満州国(まんしゅうこく)を認(みと)めることに慎重(しんちょう)だったが、1932年(ねん)5月(ごがつ)15日(じゅうごにち)、五・一五事件(ごいちごじけん)で海軍(かいぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)らに命(いのち)をうばわれた。
口ひげをはやし、スーツにネクタイの男性
松岡洋右(まつおかようすけ)
山口県(やまぐちけん)の出身(しゅっしん)。外交官(がいこうかん)をへて政治家(せいじか)になった。1933年(ねん)、国際連盟(こくさいれんめい)の総会(そうかい)に日本(にほん)の代表(だいひょう)として出席(しゅっせき)し、満州国(まんしゅうこく)を認(みと)めない案(あん)に反対(はんたい)して議場(ぎじょう)から退場(たいじょう)した。

重要(じゅうよう)なところ

満州事変(まんしゅうじへん)は1931年(ねん)、日中戦争(にっちゅうせんそう)は1937年(ねん)に始(はじ)まりました。
満州事変(まんしゅうじへん)で満州(まんしゅう)を占領(せんりょう)したあと、1937年(ねん)に中国(ちゅうごく)との全面的(ぜんめんてき)な戦争(せんそう)(日中戦争(にっちゅうせんそう))が始(はじ)まりました。
日本(にほん)は、国際連盟(こくさいれんめい)が満州国(まんしゅうこく)を認(みと)めなかったため、1933年(ねん)に国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)しました。
総会(そうかい)で満州国(まんしゅうこく)を認(みと)めない案(あん)に反対(はんたい)したのは日本(にほん)だけでした。
五・一五事件(ごいちごじけん)は海軍(かいぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)ら(1932年(ねん))、二・二六事件(ににろくじけん)は陸軍(りくぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)ら(1936年(ねん))が起(お)こしました。
2つの事件(じけん)のあと、軍部(ぐんぶ)が政治(せいじ)に強(つよ)い力(ちから)をもつようになりました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「長く続いた戦争と人々のくらし」の授業「中国との戦争が広がる」
  • 教育出版:「戦争と人々の暮らし」の授業「中国との戦争が始まる」
  • 日本文教出版:「アジア・太平洋に広がる戦争」の授業「好景気から不景気へ」「満州事変と孤立する日本」「長引く中国との戦争」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(サ):日華事変(にっかじへん)(日中戦争(にっちゅうせんそう))、日本(にほん)が関(かか)わった第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)、日本国憲法(にほんこくけんぽう)の制定(せいてい)、オリンピック・パラリンピックの開催(かいさい)などから、戦後(せんご)に民主的(みんしゅてき)な国家(こっか)として出発(しゅっぱつ)し、国民生活(こくみんせいかつ)が向上(こうじょう)して国際社会(こくさいしゃかい)で重要(じゅうよう)な役割(やくわり)を果(は)たしてきたことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 026321B000000)

「長(なが)く続(つづ)いた戦争(せんそう)と人々(ひとびと)のくらし」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1929年(ねん)にアメリカで始(はじ)まり、世界中(せかいちゅう)に広(ひろ)がった大(おお)きな不景気(ふけいき)を何(なん)といいますか。世界恐慌(せかいきょうこう)
1931年(ねん)、満州(まんしゅう)にいた日本(にほん)軍(ぐん)が南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう)の線路(せんろ)を爆破(ばくは)し、中国軍(ちゅうごくぐん)のしわざとして始(はじ)めた戦(たたか)いを何(なん)といいますか。満州事変(まんしゅうじへん)
1932年(ねん)に、日本(にほん)が中国(ちゅうごく)の東北部(とうほくぶ)につくった国(くに)を何(なん)といいますか。満州国(まんしゅうこく)
満州国(まんしゅうこく)を調(しら)べるために、国際連盟(こくさいれんめい)が送(おく)った調査団(ちょうさだん)を、代表(だいひょう)の名前(なまえ)をとって何(なん)といいますか。リットン調査団(ちょうさだん)
日本(にほん)が1933年(ねん)に脱退(だったい)した、世界(せかい)の平和(へいわ)を守(まも)るための組織(そしき)を何(なん)といいますか。国際連盟(こくさいれんめい)
1932年(ねん)5月(ごがつ)15日(じゅうごにち)、海軍(かいぐん)の青年将校(せいねんしょうこう)らが首相官邸(しゅしょうかんてい)などをおそい、首相(しゅしょう)の命(いのち)をうばった事件(じけん)を何(なん)といいますか。五・一五事件(ごいちごじけん)
1937年(ねん)、北京(ぺきん)の近(ちか)くの盧溝橋(ろこうきょう)での日中両軍(にっちゅうりょうぐん)のしょうとつをきっかけに始(はじ)まった戦争(せんそう)を何(なん)といいますか。日中戦争(にっちゅうせんそう)
問(と)いへの答(こた)え

1929年(ねん)に世界恐慌(せかいきょうこう)が起(お)こると、日本(にほん)も深刻(しんこく)な不景気(ふけいき)になりました。中国(ちゅうごく)に勢力(せいりょく)をのばして景気(けいき)を回復(かいふく)させようという考(かんが)えが広(ひろ)がるなか、1931年(ねん)、満州(まんしゅう)にいた日本(にほん)軍(ぐん)が南満州鉄道(みなみまんしゅうてつどう)の線路(せんろ)を爆破(ばくは)し、中国軍(ちゅうごくぐん)のしわざとして攻撃(こうげき)を始(はじ)めました(満州事変(まんしゅうじへん))。日本(にほん)は1932年(ねん)に満州国(まんしゅうこく)をつくりましたが、国際連盟(こくさいれんめい)はこれを認(みと)めず、日本(にほん)は1933年(ねん)に国際連盟(こくさいれんめい)を脱退(だったい)しました。国内(こくない)では、五・一五事件(ごいちごじけん)や二・二六事件(ににろくじけん)が起(お)こり、軍部(ぐんぶ)が政治(せいじ)に強(つよ)い力(ちから)をもつようになりました。1937年(ねん)には北京(ぺきん)の近(ちか)くで日中両軍(にっちゅうりょうぐん)がしょうとつし、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始(はじ)まりました。戦争(せんそう)は中国(ちゅうごく)の各地(かくち)に広(ひろ)がって長引(ながび)き、中国(ちゅうごく)の多(おお)くの人々(ひとびと)が命(いのち)やくらしをうばわれました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

教科書補助のトップへ