小6社会/長く続いた戦争と人々のくらし
戦争中のくらし
今日の問い戦争中、人々は、どのようなくらしをしていたのだろう。
3行でわかる
- 1938年にができ、国は人や物を、戦争のために使えるようになりました。
- 物が足りなくなり、米や衣料などはや切符制になりました。が、配給や防空訓練を受けもちました。
- 子どもたちはで学び、中学生や女学生は工場で働きました(勤労動員)。1944年からは、都市の子どもたちのが始まりました。
すべてが戦争のために
国家総動員法
中国との戦争は、なかなか終わりませんでした。戦争を続けるには、たくさんの兵士や武器、物資が必要です。
そこで1938年、近衛文麿を首相とする政府は、国家総動員法をつくりました。国が、人や物を戦争のために使えるようにする法律です。
なぜ?どうして国の力をすべて集めようとしたの?
戦争が長引き、兵士や武器、燃料などが大量に必要になったからです。国は、工場の生産や人々の仕事まで、戦争を中心に動かそうとしました。
標語と取りしまり
町には、戦争への協力をよびかける看板や標語があふれました。人々の気持ちを、戦争に向けるためです。
- 「ぜいたくは敵だ」
- 「欲しがりません勝つまでは」
はでな服や、ぜいたくな品物はひかえるように求められました。戦争に協力しない行動は、きびしく取りしまられました。
1938年の国家総動員法によって、国は人や物を戦争のために使えるようになり、くらしのすべてが戦争中心になりました。
品物が足りなくなる
配給制と切符制
工場では武器づくりが優先され、くらしに必要な品物が足りなくなりました。食料も不足していきました。
そこで、国が品物を割り当てて配る配給制が始まりました。砂糖やマッチ、米などは、決められた量しか買えなくなりました。
1942年からは、衣料も切符制になりました。服を買うときは、お金といっしょに、衣料切符を店にわたしたのです。
衣料切符(1944年度)。品物を買うと、店が点数の分だけ左の小さな切符を切り取りました。右の注意書きには「国民学校児童服」などの言葉も見えます。衣料切符 越谷市教育委員会 生涯学習課所蔵写真(市史資料 諸家文書)出典:越谷市デジタルアーカイブ(CC BY 4.0)(部分)(CC BY 4.0)
金属も集められる
武器をつくるための金属も足りなくなりました。1941年には、金属を集める命令が出されました。
家庭のなべややかん、寺の鐘、学校の銅像まで、金属でできたものが国に差し出されました。
金沢市の酒店の前に集められた金属の品々(1943年ごろ)。火ばちやろうそく立て、置物などが差し出されました。金属器の供出(津端 岩ヰ屋酒店) 昭和18年(1943) 石川県立図書館蔵出典:石川県立図書館(著作権なし)
学校の銅像も差し出されました。像を送り出す前に、子どもたちが頭を下げています(埼玉県、1942年2月)。金属回収のため供出された二宮金次郎や楠公の像 昭和17年(1942)2月 『目でみる埼玉百年』より出典:埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY)(CC BY)
品物が足りなくなり、米や衣料は配給制・切符制になりました。武器をつくるため、身近な金属も集められました。
隣組とくらし
1940年ごろから、近所の家どうしで隣組がつくられました。配給の品物を分けたり、回覧板で国の知らせを回したりしました。
隣組では、空襲にそなえた防空訓練も行われました。バケツリレーで火を消す練習を、みんなでくり返しました。
防空訓練をする隣組の人々(埼玉県浦和、1944年ごろ)。防空ずきんにもんぺ姿で、バケツを持っています。防空ずきんに、もんぺ、ゲートル姿で防空演習の隣組(浦和市) 昭和19年(1944)ごろ 『目でみる埼玉百年』より出典:埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY)(CC BY)
隣組は助け合いのしくみでしたが、おたがいの行動を見はり合う役目もありました。
近所の家どうしでつくられた隣組は、配給や防空訓練を受けもち、人々を戦争に協力させるしくみにもなりました。
子どもたちと学校
国民学校
1941年4月、小学校は国民学校に名前が変わりました。教科書も新しくなり、戦争の話が多くのせられました。
学校では、体をきたえる運動や、軍隊のような訓練がさかんに行われました。子どもたちも、戦争に協力するよう教えられたのです。
勤労動員と学徒出陣
働き手の男性が兵士として戦場に行き、工場や農村では人手が足りなくなりました。そこで、中学生や女学生が工場などで働きました。これをといいます。
工場で働く女学生(石川県、1943〜44年ごろ)。輪島の女学生が、航空機の会社の工場に動員されました。女学生勤労動員作業風景(輪島高校、大聖寺航空工業へ動員) 昭和18〜19年(1943〜44)ごろ 石川県立図書館蔵出典:石川県立図書館(著作権なし)(部分)
1944年には、中学生以上の多くが、一年中工場で働くようになりました。学校の授業は、ほとんど行われなくなりました。
1943年には、大学などの学生も兵士として戦場に送られるようになりました。これをといいます。
小学校は国民学校になり、中学生や女学生は工場で働きました。大学生も、兵士として戦場に送られました。
朝鮮や台湾の人々
そのころ日本のだった朝鮮や台湾でも、人々は戦争に協力させられました。日本語を使うことや、日本式の名前に改めることが進められました。
戦争が長引くと、朝鮮や台湾の人々も、兵士として戦場に送られました。また、多くの朝鮮の人々が日本に連れてこられ、鉱山や工場などで、きびしい条件のもとで働かされました。
朝鮮や台湾の人々も、日本の戦争に協力させられ、兵士や働き手として動員されました。
都市の子どもたちの学童疎開
戦争の終わりが近づくと、アメリカ軍による空襲のおそれが高まりました。そこで1944年、都市の子どもたちを地方に移す学童疎開が決まりました。
親せきをたよって移る子どものほか、国民学校の3〜6年生が、先生といっしょに集団で移りました。東京の子どもたちの集団疎開は、1944年8月に始まりました。
列車で疎開先へ向かう子どもたち(1945年7月ごろ)。あみだなには、かばんや水とうがかけられています。集団疎開の児童 昭和20年(1945)7月ごろ 国鉄松任工場蔵の写真 石川県立図書館蔵出典:石川県立図書館(著作権なし)
子どもたちは、家族とはなれて、寺や旅館などで集団でくらしました。食べ物も少なく、さびしい思いをしながら生活したのです。
1944年から、空襲をさけるため、都市の子どもたちが家族とはなれて地方へ疎開しました。
年の流れでふり返る
- 1938年国家総動員法ができる
- 1940年砂糖・マッチなどが切符制になる。隣組がつくられる
- 1941年小学校が国民学校になる。金属を集める命令が出る
- 1942年衣料が切符制になる
- 1943年学徒出陣が始まる
- 1944年中学生以上が一年中、工場などで働くようになる。学童の集団疎開が始まる
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、戦争中の国のしくみを、もう少しくわしく習います。
| 小学校 | 中学校で加わること |
| 国家総動員法 | 人や物を戦争のために使える | 1939年には、国民を軍需工場などで働かせる国民徴用令が出された |
| 政党 | (あつかわない) | 1940年、政党は解散し、大政翼賛会がつくられた |
| 朝鮮・台湾 | 日本式の名前・日本語 | こうした政策は「皇民化政策」とよばれる。朝鮮の「創氏改名」はその一つ |
| 学徒出陣 | 大学生も兵士に | 1943年10月、大学生などの徴兵猶予がなくなり、12月から兵士として召集された |
この時代の人物

近衛文麿
1937年に首相となり、日中戦争が全面戦争になったときの内閣を率いた。1938年に国家総動員法をつくり、1940年には大政翼賛会をつくった。
重要なところ
国家総動員法は1938年にできた法律で、国が人や物を戦争のために使えるようにしました。
このあと、くらしのすべてが戦争中心になっていきました。
学童疎開は、空襲をさけるために、都市の子どもたちを地方に移したものです。
集団疎開は1944年に決まり、東京では8月に始まりました。
配給制は、足りない品物を国が割り当てて配るしくみです。
衣料は、点数のついた衣料切符で買いました。
たしかめ問題1/7
1938年にできた、国が人や物を戦争のために使えるようにした法律を何といいますか。
たしかめ問題2/7
米や砂糖などの品物を、国が割り当てて配るしくみを何といいますか。
たしかめ問題3/7
近所の家どうしでつくられ、配給や防空訓練を受けもった組織を何といいますか。
たしかめ問題4/7
1941年4月、小学校は何という名前に変わりましたか。
たしかめ問題5/7
中学生や女学生が、工場などで働かされたことを何といいますか。
たしかめ問題6/7
1943年から、大学などの学生が兵士として戦場に送られたことを何といいますか。
たしかめ問題7/7
空襲をさけるため、都市の子どもたちが地方に移ったことを何といいますか。
問いへの答え
戦争中、人々は、どのようなくらしをしていたのだろう。
戦争が長引くと、国は国家総動員法(1938年)によって、人や物を戦争のために使えるようにしました。米や衣料などの品物は足りなくなり、配給制や切符制になりました。なべや鐘などの金属も集められました。人々は隣組をつくり、配給や防空訓練を協力して行いました。「ぜいたくは敵だ」などの標語が広められ、戦争に協力しない行動はきびしく取りしまられました。子どもたちは国民学校で学び、中学生や女学生は工場で働き、大学生も兵士として戦場に送られました。1944年からは、空襲をさけるために、都市の子どもたちが地方へ集団で疎開しました。
画像の出典
- 衣料切符 越谷市教育委員会 生涯学習課所蔵写真(市史資料 諸家文書)(越谷市デジタルアーカイブ(CC BY 4.0))
- 金属器の供出(津端 岩ヰ屋酒店) 昭和18年(1943) 石川県立図書館蔵(石川県立図書館(著作権なし))
- 金属回収のため供出された二宮金次郎や楠公の像 昭和17年(1942)2月 『目でみる埼玉百年』より(埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY))
- 防空ずきんに、もんぺ、ゲートル姿で防空演習の隣組(浦和市) 昭和19年(1944)ごろ 『目でみる埼玉百年』より(埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY))
- 国民学校教科書「初等科国語 一」 昭和17年(1942) 金沢くらしの博物館蔵(金沢ミュージアム⁺(金沢くらしの博物館所蔵、CC0))
- 国民学校教科書「初等科国史 上・下」のうち上 昭和19年(1944) 金沢くらしの博物館蔵(金沢ミュージアム⁺(金沢くらしの博物館所蔵、CC0))
- 女学生勤労動員作業風景(輪島高校、大聖寺航空工業へ動員) 昭和18〜19年(1943〜44)ごろ 石川県立図書館蔵(石川県立図書館(著作権なし))
- 集団疎開の児童 昭和20年(1945)7月ごろ 国鉄松任工場蔵の写真 石川県立図書館蔵(石川県立図書館(著作権なし))
- 近衛文麿(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)