教科書補助小6 社会 / 長く続いた戦争と人々のくらし / 5本中の3本目

戦争中(せんそうちゅう)のくらしとは?国家総動員法(こっかそうどういんほう)・配給制(はいきゅうせい)・隣組(となりぐみ)・学童疎開(がくどうそかい)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「長く続いた戦争と人々のくらし」の「すべてが戦争のために」/教育出版「戦争と人々の暮らし」の「戦争と人々の暮らし」「子どもたちと戦争」/日本文教出版「アジア・太平洋に広がる戦争」の「戦争で大きく変わった人々のくらし」

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  1. 1938年(ねん)にができ、国(くに)は人(ひと)や物(もの)を、戦争(せんそう)のために使(つか)えるようになりました。
  2. 物(もの)が足(た)りなくなり、米(こめ)や衣料(いりょう)などはや切符制(きっぷせい)になりました。が、配給(はいきゅう)や防空訓練(ぼうくうくんれん)を受(う)けもちました。
  3. 子(こ)どもたちはで学(まな)び、中学生(ちゅうがくせい)や女学生(じょがくせい)は工場(こうじょう)で働(はたら)きました(勤労動員(きんろうどういん))。1944年(ねん)からは、都市(とし)の子(こ)どもたちのが始(はじ)まりました。
今日(きょう)の問(と)い

戦争中(せんそうちゅう)、人々(ひとびと)は、どのようなくらしをしていたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

すべてが戦争(せんそう)のために

国家総動員法(こっかそうどういんほう)

中国(ちゅうごく)との戦争(せんそう)は、なかなか終(お)わりませんでした。戦争(せんそう)を続(つづ)けるには、たくさんの兵士(へいし)や武器(ぶき)、物資(ぶっし)が必要(ひつよう)です。

そこで1938年(ねん)、近衛文麿(このえふみまろ)を首相(しゅしょう)とする政府(せいふ)は、国家総動員法(こっかそうどういんほう)をつくりました。国(くに)が、人(ひと)や物(もの)を戦争(せんそう)のために使(つか)えるようにする法律(ほうりつ)です。

なぜ?どうして国(くに)の力(ちから)をすべて集(あつ)めようとしたの?
戦争(せんそう)が長引(ながび)き、兵士(へいし)や武器(ぶき)、燃料(ねんりょう)などが大量(たいりょう)に必要(ひつよう)になったからです。国(くに)は、工場(こうじょう)の生産(せいさん)や人々(ひとびと)の仕事(しごと)まで、戦争(せんそう)を中心(ちゅうしん)に動(うご)かそうとしました。

標語(ひょうご)と取(と)りしまり

町(まち)には、戦争(せんそう)への協力(きょうりょく)をよびかける看板(かんばん)や標語(ひょうご)があふれました。人々(ひとびと)の気持(きも)ちを、戦争(せんそう)に向(む)けるためです。

  • 「ぜいたくは敵(てき)だ」
  • 「欲(ほ)しがりません勝(か)つまでは」

はでな服(ふく)や、ぜいたくな品物(しなもの)はひかえるように求(もと)められました。戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)しない行動(こうどう)は、きびしく取(と)りしまられました。

1938年(ねん)の国家総動員法(こっかそうどういんほう)によって、国(くに)は人(ひと)や物(もの)を戦争(せんそう)のために使(つか)えるようになり、くらしのすべてが戦争中心(せんそうちゅうしん)になりました。

品物(しなもの)が足(た)りなくなる

配給制(はいきゅうせい)と切符制(きっぷせい)

工場(こうじょう)では武器(ぶき)づくりが優先(ゆうせん)され、くらしに必要(ひつよう)な品物(しなもの)が足(た)りなくなりました。食料(しょくりょう)も不足(ふそく)していきました。

そこで、国(くに)が品物(しなもの)を割(わ)り当(あ)てて配(くば)る配給制(はいきゅうせい)が始(はじ)まりました。砂糖(さとう)やマッチ、米(こめ)などは、決(き)められた量(りょう)しか買(か)えなくなりました。

1942年(ねん)からは、衣料(いりょう)も切符制(きっぷせい)になりました。服(ふく)を買(か)うときは、お金(かね)といっしょに、衣料切符(いりょうきっぷ)を店(みせ)にわたしたのです。

「昭和19年4月1日以降有効」と書かれた小さな切符がたくさん並び、右に「靴下」「手拭タオル」「縫糸」などの切符と、注意書きが印刷された紙
衣料切符(いりょうきっぷ)(1944年度(ねんど))。品物(しなもの)を買(か)うと、店(みせ)が点数(てんすう)の分(ぶん)だけ左(ひだり)の小(ちい)さな切符(きっぷ)を切(き)り取(と)りました。右(みぎ)の注意(ちゅうい)書(か)きには「国民学校(こくみんがっこう)児童服(じどうふく)」などの言葉(ことば)も見(み)えます。衣料切符 越谷市教育委員会 生涯学習課所蔵写真(市史資料 諸家文書)出典:越谷市デジタルアーカイブ(CC BY 4.0)(部分)(CC BY 4.0)

金属(きんぞく)も集(あつ)められる

武器(ぶき)をつくるための金属(きんぞく)も足(た)りなくなりました。1941年(ねん)には、金属(きんぞく)を集(あつ)める命令(めいれい)が出(だ)されました。

家庭(かてい)のなべややかん、寺(てら)の鐘(かね)、学校(がっこう)の銅像(どうぞう)まで、金属(きんぞく)でできたものが国(くに)に差(さ)し出(だ)されました。

店の格子戸の前に、金属の火ばちが何十個も積み上げられ、手前にろうそく立てや鶴の置物、なべなどが並べられている白黒の写真
金沢市(かなざわし)の酒店(さけてん)の前(まえ)に集(あつ)められた金属(きんぞく)の品々(しなじな)(1943年(ねん)ごろ)。火(ひ)ばちやろうそく立(た)て、置物(おきもの)などが差(さ)し出(だ)されました。金属器の供出(津端 岩ヰ屋酒店) 昭和18年(1943) 石川県立図書館蔵出典:石川県立図書館(著作権なし)
日の丸の旗が立てられた校舎の前に、まきを背負った少年の像と、馬に乗った武将の像が置かれ、大勢の子どもと大人が頭を下げている白黒の写真
学校(がっこう)の銅像(どうぞう)も差(さ)し出(だ)されました。像(ぞう)を送(おく)り出(だ)す前(まえ)に、子(こ)どもたちが頭(あたま)を下(さ)げています(埼玉県(さいたまけん)、1942年(ねん)2月(にがつ))。金属回収のため供出された二宮金次郎や楠公の像 昭和17年(1942)2月 『目でみる埼玉百年』より出典:埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY)(CC BY)

品物(しなもの)が足(た)りなくなり、米(こめ)や衣料(いりょう)は配給制(はいきゅうせい)・切符制(きっぷせい)になりました。武器(ぶき)をつくるため、身近(みぢか)な金属(きんぞく)も集(あつ)められました。

隣組(となりぐみ)とくらし

1940年(ねん)ごろから、近所(きんじょ)の家(いえ)どうしで隣組(となりぐみ)がつくられました。配給(はいきゅう)の品物(しなもの)を分(わ)けたり、回覧板(かいらんばん)で国(くに)の知(し)らせを回(まわ)したりしました。

隣組(となりぐみ)では、空襲(くうしゅう)にそなえた防空訓練(ぼうくうくんれん)も行(おこな)われました。バケツリレーで火(ひ)を消(け)す練習(れんしゅう)を、みんなでくり返(かえ)しました。

頭に防空ずきんをかぶり、もんぺをはいた女性たちが、バケツを手に持って並んでいる白黒の写真
防空訓練(ぼうくうくんれん)をする隣組(となりぐみ)の人々(ひとびと)(埼玉県浦和(さいたまけんうらわ)、1944年(ねん)ごろ)。防空(ぼうくう)ずきんにもんぺ姿(すがた)で、バケツを持(も)っています。防空ずきんに、もんぺ、ゲートル姿で防空演習の隣組(浦和市) 昭和19年(1944)ごろ 『目でみる埼玉百年』より出典:埼玉県立図書館デジタルライブラリー(CC BY)(CC BY)

隣組(となりぐみ)は助(たす)け合(あ)いのしくみでしたが、おたがいの行動(こうどう)を見(み)はり合(あ)う役目(やくめ)もありました。

近所(きんじょ)の家(いえ)どうしでつくられた隣組(となりぐみ)は、配給(はいきゅう)や防空訓練(ぼうくうくんれん)を受(う)けもち、人々(ひとびと)を戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)させるしくみにもなりました。

子(こ)どもたちと学校(がっこう)

国民学校(こくみんがっこう)

1941年(ねん)4月(しがつ)、小学校(しょうがっこう)は国民学校(こくみんがっこう)に名前(なまえ)が変(か)わりました。教科書(きょうかしょ)も新(あたら)しくなり、戦争(せんそう)の話(はなし)が多(おお)くのせられました。

うすいピンクの鳥の模様の表紙に「初等科國語 一」「文部省」と書かれた教科書
国民学校(こくみんがっこう)の国語(こくご)の教科書(きょうかしょ)『初等科国語一(しょとうかこくごいち)』(1942年(ねん))。国民学校教科書「初等科国語 一」 昭和17年(1942) 金沢くらしの博物館蔵出典:金沢ミュージアム⁺(金沢くらしの博物館所蔵、CC0)(CC0)
波の模様の表紙に「初等科國史 上」「文部省」と書かれた教科書
国民学校(こくみんがっこう)の歴史(れきし)の教科書(きょうかしょ)『初等科国史上(しょとうかこくしじょう)』(1944年(ねん))。国民学校教科書「初等科国史 上・下」のうち上 昭和19年(1944) 金沢くらしの博物館蔵出典:金沢ミュージアム⁺(金沢くらしの博物館所蔵、CC0)(CC0)

学校(がっこう)では、体(からだ)をきたえる運動(うんどう)や、軍隊(ぐんたい)のような訓練(くんれん)がさかんに行(おこな)われました。子(こ)どもたちも、戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)するよう教(おし)えられたのです。

勤労動員(きんろうどういん)と学徒出陣(がくとしゅつじん)

働(はたら)き手(て)の男性(だんせい)が兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に行(い)き、工場(こうじょう)や農村(のうそん)では人手(ひとで)が足(た)りなくなりました。そこで、中学生(ちゅうがくせい)や女学生(じょがくせい)が工場(こうじょう)などで働(はたら)きました。これをといいます。

木造の工場の中で、帽子をかぶり、もんぺや作業着を着た女学生たちが、長い作業台にならんで万力を使って作業している白黒の写真
工場(こうじょう)で働(はたら)く女学生(じょがくせい)(石川県(いしかわけん)、1943〜44年(ねん)ごろ)。輪島(わじま)の女学生(じょがくせい)が、航空機(こうくうき)の会社(かいしゃ)の工場(こうじょう)に動員(どういん)されました。女学生勤労動員作業風景(輪島高校、大聖寺航空工業へ動員) 昭和18〜19年(1943〜44)ごろ 石川県立図書館蔵出典:石川県立図書館(著作権なし)(部分)

1944年(ねん)には、中学生以上(ちゅうがくせいいじょう)の多(おお)くが、一年中工場(いちねんちゅうこうじょう)で働(はたら)くようになりました。学校(がっこう)の授業(じゅぎょう)は、ほとんど行(おこな)われなくなりました。

1943年(ねん)には、大学(だいがく)などの学生(がくせい)も兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に送(おく)られるようになりました。これをといいます。

小学校(しょうがっこう)は国民学校(こくみんがっこう)になり、中学生(ちゅうがくせい)や女学生(じょがくせい)は工場(こうじょう)で働(はたら)きました。大学生(だいがくせい)も、兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に送(おく)られました。

朝鮮(ちょうせん)や台湾(たいわん)の人々(ひとびと)

そのころ日本(にほん)のだった朝鮮(ちょうせん)や台湾(たいわん)でも、人々(ひとびと)は戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)させられました。日本語(にほんご)を使(つか)うことや、日本(にほん)式(しき)の名前(なまえ)に改(あらた)めることが進(すす)められました。

戦争(せんそう)が長引(ながび)くと、朝鮮(ちょうせん)や台湾(たいわん)の人々(ひとびと)も、兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に送(おく)られました。また、多(おお)くの朝鮮(ちょうせん)の人々(ひとびと)が日本(にほん)に連(つ)れてこられ、鉱山(こうざん)や工場(こうじょう)などで、きびしい条件(じょうけん)のもとで働(はたら)かされました。

朝鮮(ちょうせん)や台湾(たいわん)の人々(ひとびと)も、日本(にほん)の戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)させられ、兵士(へいし)や働(はたら)き手(て)として動員(どういん)されました。

都市(とし)の子(こ)どもたちの学童疎開(がくどうそかい)

戦争(せんそう)の終(お)わりが近(ちか)づくと、アメリカ軍(ぐん)による空襲(くうしゅう)のおそれが高(たか)まりました。そこで1944年(ねん)、都市(とし)の子(こ)どもたちを地方(ちほう)に移(うつ)す学童疎開(がくどうそかい)が決(き)まりました。

親(しん)せきをたよって移(うつ)る子(こ)どものほか、国民学校(こくみんがっこう)の3〜6年生(ねんせい)が、先生(せんせい)といっしょに集団(しゅうだん)で移(うつ)りました。東京(とうきょう)の子(こ)どもたちの集団疎開(しゅうだんそかい)は、1944年(ねん)8月(はちがつ)に始(はじ)まりました。

列車の木の座席に、たくさんの子どもたちがすわり、あみだなにはかばんや水とうがたくさんかけられている白黒の写真
列車(れっしゃ)で疎開(そかい)先(さき)へ向(む)かう子(こ)どもたち(1945年(ねん)7月(しちがつ)ごろ)。あみだなには、かばんや水(すい)とうがかけられています。集団疎開の児童 昭和20年(1945)7月ごろ 国鉄松任工場蔵の写真 石川県立図書館蔵出典:石川県立図書館(著作権なし)

子(こ)どもたちは、家族(かぞく)とはなれて、寺(てら)や旅館(りょかん)などで集団(しゅうだん)でくらしました。食(た)べ物(もの)も少(すく)なく、さびしい思(おも)いをしながら生活(せいかつ)したのです。

1944年(ねん)から、空襲(くうしゅう)をさけるため、都市(とし)の子(こ)どもたちが家族(かぞく)とはなれて地方(ちほう)へ疎開(そかい)しました。

年(ねん)の流(なが)れでふり返(かえ)る

  1. 1938年(ねん)国家総動員法(こっかそうどういんほう)ができる
  2. 1940年(ねん)砂糖(さとう)・マッチなどが切符制(きっぷせい)になる。隣組(となりぐみ)がつくられる
  3. 1941年(ねん)小学校(しょうがっこう)が国民学校(こくみんがっこう)になる。金属(きんぞく)を集(あつ)める命令(めいれい)が出(で)る
  4. 1942年(ねん)衣料(いりょう)が切符制(きっぷせい)になる
  5. 1943年(ねん)学徒出陣(がくとしゅつじん)が始(はじ)まる
  6. 1944年(ねん)中学生以上(ちゅうがくせいいじょう)が一年中(いちねんちゅう)、工場(こうじょう)などで働(はたら)くようになる。学童(がくどう)の集団疎開(しゅうだんそかい)が始(はじ)まる

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、戦争中(せんそうちゅう)の国(くに)のしくみを、もう少(すこ)しくわしく習(なら)います。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
国家総動員法(こっかそうどういんほう)人(ひと)や物(もの)を戦争(せんそう)のために使(つか)える1939年(ねん)には、国民(こくみん)を軍需工場(ぐんじゅこうじょう)などで働(はたら)かせる国民徴用令(こくみんちょうようれい)が出(だ)された
政党(せいとう)(あつかわない)1940年(ねん)、政党(せいとう)は解散(かいさん)し、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)がつくられた
朝鮮(ちょうせん)・台湾(たいわん)日本(にほん)式(しき)の名前(なまえ)・日本語(にほんご)こうした政策(せいさく)は「皇民化政策(こうみんかせいさく)」とよばれる。朝鮮(ちょうせん)の「創氏改名(そうしかいめい)」はその一(ひと)つ
学徒出陣(がくとしゅつじん)大学生(だいがくせい)も兵士(へいし)に1943年(ねん)10月(じゅうがつ)、大学生(だいがくせい)などの徴兵猶予(ちょうへいゆうよ)がなくなり、12月(じゅうにがつ)から兵士(へいし)として召集(しょうしゅう)された

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

髪をなでつけ、口ひげをはやした、スーツにネクタイの男性
近衛文麿(このえふみまろ)
1937年(ねん)に首相(しゅしょう)となり、日中戦争(にっちゅうせんそう)が全面戦争(ぜんめんせんそう)になったときの内閣(ないかく)を率(ひき)いた。1938年(ねん)に国家総動員法(こっかそうどういんほう)をつくり、1940年(ねん)には大政翼賛会(たいせいよくさんかい)をつくった。

重要(じゅうよう)なところ

国家総動員法(こっかそうどういんほう)は1938年(ねん)にできた法律(ほうりつ)で、国(くに)が人(ひと)や物(もの)を戦争(せんそう)のために使(つか)えるようにしました。
このあと、くらしのすべてが戦争中心(せんそうちゅうしん)になっていきました。
学童疎開(がくどうそかい)は、空襲(くうしゅう)をさけるために、都市(とし)の子(こ)どもたちを地方(ちほう)に移(うつ)したものです。
集団疎開(しゅうだんそかい)は1944年(ねん)に決(き)まり、東京(とうきょう)では8月(はちがつ)に始(はじ)まりました。
配給制(はいきゅうせい)は、足(た)りない品物(しなもの)を国(くに)が割(わ)り当(あ)てて配(くば)るしくみです。
衣料(いりょう)は、点数(てんすう)のついた衣料切符(いりょうきっぷ)で買(か)いました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「長く続いた戦争と人々のくらし」の授業「すべてが戦争のために」
  • 教育出版:「戦争と人々の暮らし」の授業「戦争と人々の暮らし」「子どもたちと戦争」
  • 日本文教出版:「アジア・太平洋に広がる戦争」の授業「戦争で大きく変わった人々のくらし」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(サ):日華事変(にっかじへん)(日中戦争(にっちゅうせんそう))、日本(にほん)が関(かか)わった第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)、日本国憲法(にほんこくけんぽう)の制定(せいてい)、オリンピック・パラリンピックの開催(かいさい)などから、戦後(せんご)に民主的(みんしゅてき)な国家(こっか)として出発(しゅっぱつ)し、国民生活(こくみんせいかつ)が向上(こうじょう)して国際社会(こくさいしゃかい)で重要(じゅうよう)な役割(やくわり)を果(は)たしてきたことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 026321B000000)

「長(なが)く続(つづ)いた戦争(せんそう)と人々(ひとびと)のくらし」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1938年(ねん)にできた、国(くに)が人(ひと)や物(もの)を戦争(せんそう)のために使(つか)えるようにした法律(ほうりつ)を何(なん)といいますか。国家総動員法(こっかそうどういんほう)
米(こめ)や砂糖(さとう)などの品物(しなもの)を、国(くに)が割(わ)り当(あ)てて配(くば)るしくみを何(なん)といいますか。配給制(はいきゅうせい)
近所(きんじょ)の家(いえ)どうしでつくられ、配給(はいきゅう)や防空訓練(ぼうくうくんれん)を受(う)けもった組織(そしき)を何(なん)といいますか。隣組(となりぐみ)
1941年(ねん)4月(しがつ)、小学校(しょうがっこう)は何(なん)という名前(なまえ)に変(か)わりましたか。国民学校(こくみんがっこう)
中学生(ちゅうがくせい)や女学生(じょがくせい)が、工場(こうじょう)などで働(はたら)かされたことを何(なん)といいますか。勤労動員(きんろうどういん)
1943年(ねん)から、大学(だいがく)などの学生(がくせい)が兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に送(おく)られたことを何(なん)といいますか。学徒出陣(がくとしゅつじん)
空襲(くうしゅう)をさけるため、都市(とし)の子(こ)どもたちが地方(ちほう)に移(うつ)ったことを何(なん)といいますか。学童疎開(がくどうそかい)
問(と)いへの答(こた)え

戦争(せんそう)が長引(ながび)くと、国(くに)は国家総動員法(こっかそうどういんほう)(1938年(ねん))によって、人(ひと)や物(もの)を戦争(せんそう)のために使(つか)えるようにしました。米(こめ)や衣料(いりょう)などの品物(しなもの)は足(た)りなくなり、配給制(はいきゅうせい)や切符制(きっぷせい)になりました。なべや鐘(かね)などの金属(きんぞく)も集(あつ)められました。人々(ひとびと)は隣組(となりぐみ)をつくり、配給(はいきゅう)や防空訓練(ぼうくうくんれん)を協力(きょうりょく)して行(おこな)いました。「ぜいたくは敵(てき)だ」などの標語(ひょうご)が広(ひろ)められ、戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)しない行動(こうどう)はきびしく取(と)りしまられました。子(こ)どもたちは国民学校(こくみんがっこう)で学(まな)び、中学生(ちゅうがくせい)や女学生(じょがくせい)は工場(こうじょう)で働(はたら)き、大学生(だいがくせい)も兵士(へいし)として戦場(せんじょう)に送(おく)られました。1944年(ねん)からは、空襲(くうしゅう)をさけるために、都市(とし)の子(こ)どもたちが地方(ちほう)へ集団(しゅうだん)で疎開(そかい)しました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

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