小6社会/明治の国づくりを進めた人々
文明開化とは
今日の問い明治のはじめ、人々のくらしは、どのように変わったのだろう。
3行でわかる
- 明治のはじめ、西洋の文化や生活のしかたがさかんに取り入れられ、人々のくらしが変わりました。これをといいます。
- 1872年に新橋と横浜の間に鉄道が開通し、1871年には郵便が始まりました。1873年からはが使われるようになりました。
- 福沢諭吉はで、人は生まれながらに平等で、学ぶことが大切だと説きました。
文明開化―西洋の文化が入ってくる
「文明開化」ということば
明治の新しい政府は、欧米の国々に追いつくことをめざしました。そのため、西洋の制度や技術を次々と取り入れました。
人々のくらしにも、西洋の文化や生活のしかたが入ってきました。このような世の中の変化を、文明開化といいます。
新しい文化は、横浜や神戸などの外国に開いた港や、東京などの大きな都市から広がっていきました。
れんがの町と、新しい乗り物
1872年、東京の銀座で大きな火事がありました。そのあと、火事に強い、れんが造りの町がつくられました。
銀座のれんが街をえがいた錦絵(1874年)。通りには、人力車や馬車、洋服を着た人と着物の人が見えます。東京名所銀座通りレンガセキ商家繁栄之図 歌川広重(3世) 明治7年(1874)出典:東京都立中央図書館(部分)
通りには、人が引いて走る人力車や、馬が引く馬車が行き来しました。夜の町を明るくするガス灯もともりました。
ガス灯は、1872年に横浜で初めてともりました。1874年には、東京の銀座通りなどに85基のガス灯がならびました。
服や髪型、食べ物も変わる
くらしの中でも、次のような変化が見られました。
- 洋服:西洋風の服を着る人が出てきた。
- :1871年、まげを切ってよいというきまりが出され、まげを切る人が出てきた。
- 牛肉を食べる:牛肉をなべで煮る牛鍋が、新しい食べ物として広まった。
牛鍋屋の客をえがいた、1871〜1872年の本のさし絵。火にかけたなべで牛肉を煮て食べます。そばには、西洋から入ってきた、こうもりがさが置かれています。仮名垣魯文『安愚楽鍋』初編(明治4〜5年)のさし絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
なぜ?まげは、切らなくてもよかったの?
1871年のきまりは、「髪型は自由にしてよい」というものでした。まげを切れという命令ではありません。そのため、しばらくは、まげのままの人も多くいました。
明治のはじめ、西洋の文化や生活のしかたが取り入れられ、町や服、食べ物が変わりました。これを文明開化といいます。
鉄道と郵便―人と手紙が速く動く
1872年、新橋と横浜の間に鉄道
1872年(明治5年)、東京の新橋と横浜の間に、日本で最初の鉄道が開通しました。
約29kmの道のりを、蒸気機関車が53分で結びました。歩けば何時間もかかる道のりです。
新橋駅(新橋ステーション)と蒸気機関車(1875年)。左の石造りの建物が駅舎です。客車は上等・中等・下等に分かれていました。東京名所新橋ステンション蒸気車之図 歌川広重(3世) 明治8年(1875)出典:東京都立中央図書館(部分)
文明開化の町と、最初の鉄道地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 東京都。日本で最初の鉄道の東京側の駅。いまの汐留のあたりにあり、駅舎が復元されている。
- 神奈川県。日本で最初の鉄道の横浜側の駅。いまの桜木町駅のあたり。
- 東京都。1872年の大火のあと、れんが造りの町がつくられた。新聞社が集まり、1874年にはガス灯もともった。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
鉄道は、人やものを速く運び、産業をさかんにするためにも役立ちました。そのあと、鉄道は全国へのびていきました。
1871年、郵便が始まる
江戸時代、遠くへの手紙は、飛脚などが運んでいました。
明治になると、前島密の提案をもとに、国が手紙を運ぶ郵便のしくみがつくられました。1871年、東京・京都・大阪の間で郵便が始まりました。
東京の江戸橋のそばにあった、駅逓寮(郵便の仕事をした役所)をえがいた錦絵。郵便は、この場所から始まりました。東京開化卅六景 江戸橋駅逓寮図 歌川広重(3世) 明治7年(1874)出典:東京都立中央図書館(部分)
同じ1871年には郵便切手が発行されました。1873年には、全国どこへ送っても同じ料金になりました。
電線で文字を送る電信も、1869年に東京と横浜の間で始まりました。
1872年に新橋と横浜の間に鉄道が開通し、1871年には前島密の考えで郵便が始まりました。
こよみと新聞―時の数え方と情報が変わる
太陽暦に変わる
江戸時代までは、月の満ち欠けをもとにしたこよみ(旧暦)が使われていました。
政府は欧米に合わせて、1873年(明治6年)から、いまと同じ太陽暦を使うことにしました。
このとき、明治5年12月3日が、明治6年1月1日になりました。発表から実施までの日数が少なく、人々はとまどいました。
初めての太陽暦(明治6年)の1月のページ。上の段の「一月一日」の下に、旧暦(太陰暦)の「十二月三日」が書かれています。水曜日などの曜日も書かれています。『太陽暦 明治6年』(活版舎、1872年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
新聞や雑誌が広まる
このころ、新聞や雑誌がつぎつぎに発行されるようになりました。人々は、新聞で世の中の出来事を知るようになりました。
銀座のれんが街には、新聞社がたくさん集まりました。
銀座の朝野新聞社をえがいた錦絵(1879年)。建物に「朝野新聞」の看板があります。通りには街灯や人力車も見えます。東京名所銀座通朝野新聞社盛大之真図 歌川広重(3世) 明治12年(1879)出典:東京都立中央図書館(部分)
1873年から太陽暦が使われるようになりました。新聞や雑誌も広まり、人々は新しい情報にふれるようになりました。
新しい学問―福沢諭吉『学問のすゝめ』
「天は人の上に人を造らず」
福沢諭吉は、江戸時代の終わりに、幕府の使節について3度欧米へわたりました。そして、西洋のようすを本で日本に紹介しました。
1872年には、学問のすゝめを出版しました。その書き出しは、次の一文です。
もとの言葉
天は
人の
上に
人を
造らず
人の
下に
人を
造らずと
云へり
意味
人は
生まれながらに
平等で、
上も
下もないと
言われている
『学問のすゝめ』初編の最初のページ。右から2行目が「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」です。作者として、福沢諭吉と小幡篤次郎の名前があります。福沢諭吉・小幡篤次郎『学問ノスヽメ』初編(1873年の版)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
学ぶことで、人は変われる
福沢は、人に差がつくのは、学んだかどうかによると考えました。だから、だれもが学問にはげむことが大切だと説きました。
『学問のすゝめ』は、1876年までに17の冊子として出され、とてもよく売れました。小学校の読み物にも使われました。
同じ1872年にはが出され、全国に小学校がつくられ始めていました。身分の区別をなくすとあわせて、「学べばだれでも活躍できる」という考えが広がりました。
明治の改革(学制・四民平等・徴兵令・地租改正)
福沢諭吉は『学問のすゝめ』で、人は生まれながらに平等で、学ぶことが大切だと説きました。
都市と農村―変化には差があった
ここまで見てきた変化は、東京や横浜などの都市や、開港地から始まりました。
一方、農村では、すぐにくらしが変わったわけではありません。しばらくは、それまでとあまり変わらないくらしを続ける人も多くいました。
新しい文化は、時間をかけて、少しずつ全国へ広がっていきました。地方でも、県が牛乳を飲むことをすすめるなど、新しい習慣を広めようとしました。
なぜ?変化は、都市から始まったの?
外国の人が住む開港地や、政府のある東京には、西洋の品物や情報がまっさきに入ってきました。鉄道やガス灯のような新しい設備も、まず都市につくられたからです。
文明開化は都市から始まり、農村には時間をかけて広がりました。
年の流れでふり返る
- 1869年東京と横浜の間で電信が始まる
- 1871年郵便が始まる。まげを切ってよいというきまりが出る
- 1872年新橋と横浜の間に鉄道が開通する。学制が出る。『学問のすゝめ』初編が出る。横浜にガス灯がともる
- 1873年太陽暦が使われ始める
- 1874年東京の銀座通りにガス灯がともる
どれも、明治になってわずか数年の間に起こったことです。それだけ、世の中が急に変わったのです。
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史でも、文明開化は必ず習います。小学校で覚えたことに、次のような見方が加わります。
| 小学校 | 中学校で加わること |
| 『学問のすゝめ』 | 人は平等で、学ぶことが大切 | 人はだれでも生まれながらに権利をもつという考え(天賦人権)が、書き出しにあらわれているとされる |
| 鉄道・郵便・電信 | くらしを便利にした | 政府が産業をさかんにする政策()の一部として、国が中心になって進めた |
| くらしの変化 | 都市から変わった | 政府が主導した「上からの」近代化だったこと、伝統的な生活との間にずれがあったことも考える |
『学問のすゝめ』の書き出しは、アメリカ独立宣言の言葉がもとではないか、ともいわれています。独立宣言には「すべての人は平等につくられている」とあります。
この時代の人物

福沢諭吉
中津藩の武士の家に生まれ、緒方洪庵に蘭学を学んだ。幕府の使節について3度欧米へわたり、西洋のようすを紹介した。慶応義塾をつくり、1872年から『学問のすゝめ』を出した。

前島密
新潟の生まれ。明治の政府で、国が手紙を運ぶ郵便のしくみをつくることを提案し、その創設に力をつくした。1871年に郵便が始まった。
重要なところ
文明開化は、明治のはじめに、西洋の文化や生活のしかたが取り入れられ、くらしが変わったことです。
変化は東京や横浜などの都市から始まり、農村には時間をかけて広がりました。
日本で最初の鉄道は、1872年に開通した、東京の新橋と横浜の間の鉄道です。
約29kmの短い区間でしたが、そのあと全国へのびていきました。
郵便は1871年に始まりました。しくみづくりに力をつくしたのは前島密です。
鉄道(1872年)より1年早いことも、いっしょに覚えておきましょう。
太陽暦は、1873年(明治6年)から使われるようになりました。
明治5年12月3日が、明治6年1月1日になりました。
たしかめ問題1/8
明治のはじめ、西洋の文化や生活のしかたが取り入れられ、くらしが変わったことを何といいますか。
たしかめ問題2/8
1872年に、日本で最初の鉄道が開通したのは、どことどこの間ですか。
新橋と横浜(の間)
たしかめ問題3/8
1871年に始まった、国が手紙を運ぶしくみを何といいますか。また、そのしくみをつくるのに力をつくした人物はだれですか。
たしかめ問題4/8
1873年から使われるようになった、いまと同じこよみを何といいますか。
たしかめ問題5/8
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」で始まる本を何といいますか。また、その作者はだれですか。
学問のすゝめ・福沢諭吉
たしかめ問題6/8
まげを切った髪型を何といいますか。
たしかめ問題7/8
火事のあと、東京の銀座につくられたのは、何で造られた町ですか。
たしかめ問題8/8
文明開化による変化は、都市と農村のどちらから始まりましたか。
ヒント:開港地や東京を思い出そう
問いへの答え
明治のはじめ、人々のくらしは、どのように変わったのだろう。
明治のはじめ、政府は欧米に追いつくため、西洋の制度や技術を取り入れました。東京や横浜などの都市では、れんが造りの建物が建ち、ガス灯がともり、人力車や馬車が走るようになりました。洋服を着たり、まげを切ったざんぎり頭にしたり、牛肉を食べたりする人も出てきました。1872年には新橋と横浜の間に鉄道が開通し、1871年には郵便が始まりました。1873年からは、いまと同じ太陽暦が使われました。新聞や雑誌も発行され、福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、人は生まれながらに平等で、学ぶことが大切だと説いて、多くの人に読まれました。このような変化を文明開化といいます。ただし、変化は都市から始まり、農村では、しばらくはそれまでに近いくらしが続きました。
画像の出典
- 東京名所銀座通りレンガセキ商家繁栄之図 歌川広重(3世) 明治7年(1874)(東京都立中央図書館)
- 仮名垣魯文『安愚楽鍋』初編(明治4〜5年)のさし絵(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 東京名所新橋ステンション蒸気車之図 歌川広重(3世) 明治8年(1875)(東京都立中央図書館)
- 東京開化卅六景 江戸橋駅逓寮図 歌川広重(3世) 明治7年(1874)(東京都立中央図書館)
- 『太陽暦 明治6年』(活版舎、1872年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 東京名所銀座通朝野新聞社盛大之真図 歌川広重(3世) 明治12年(1879)(東京都立中央図書館)
- 福沢諭吉・小幡篤次郎『学問ノスヽメ』初編(1873年の版)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 福沢諭吉(『近世名士写真』其2、1935年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 前島密(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)