教科書補助小6 社会 / 明治の国づくりを進めた人々 / 6本中の3本目

明治(めいじ)の改革(かいかく)とは?廃藩置県(はいはんちけん)・四民平等(しみんびょうどう)・徴兵令(ちょうへいれい)・地租改正(ちそかいせい)・学制(がくせい)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」の「大久保利通と明治新政府の改革」/教育出版「明治の新しい国づくり」の「新政府による国づくりの始まり」「欧米の国々に追いつけ」/日本文教出版「明治の新しい国づくり」の「新しい政府による政治」「明治政府の改革」

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  1. 新(あたら)しい政府(せいふ)は、1871年(ねん)にを行(おこな)い、全国(ぜんこく)を政府(せいふ)が直接(ちょくせつ)治(おさ)めるしくみにしました。
  2. 欧米(おうべい)に負(ま)けない国(くに)をつくるため、で軍隊(ぐんたい)をつくり、で税(ぜい)のしくみを変(か)え、で学校(がっこう)をつくりました。
  3. が欧米(おうべい)を見(み)て回(まわ)り、政府(せいふ)は富岡製糸場(とみおかせいしじょう)などの工場(こうじょう)を建(た)てて産業(さんぎょう)をさかんにしました()。
今日(きょう)の問(と)い

明治(めいじ)の新(あたら)しい政府(せいふ)は、どのような国(くに)づくりを進(すす)めたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

藩(はん)をなくして県(けん)を置(お)く―廃藩置県(はいはんちけん)

版籍奉還(はんせきほうかん)

明治維新(めいじいしん)のあとも、しばらくは、それぞれの藩(はん)で元(もと)の大名(だいみょう)が土地(とち)と人々(ひとびと)を治(おさ)めていました。

そこで新(あたら)しい政府(せいふ)は、1869年(ねん)、大名(だいみょう)が治(おさ)めていた土地(とち)(版(はん))と人々(ひとびと)(籍(せき))を天皇(てんのう)に返(かえ)させました。これをといいます。

しかし、元(もと)の大名(だいみょう)はそのまま「知藩事(ちはんじ)」として、自分(じぶん)の藩(はん)を治(おさ)め続(つづ)けました。藩(はん)は税(ぜい)を集(あつ)め、軍隊(ぐんたい)ももっていたため、政府(せいふ)の力(ちから)は全国(ぜんこく)にゆきわたりませんでした。

1871年(ねん)、廃藩置県(はいはんちけん)

そこで政府(せいふ)は、1871年(ねん)7月(しちがつ)14日(じゅうよっか)、藩(はん)をすべてやめて、かわりに県(けん)を置(お)きました。これを廃藩置県(はいはんちけん)といいます。

知藩事(ちはんじ)はやめさせられて、東京(とうきょう)に住(す)むことになりました。府(ふ)や県(けん)は、政府(せいふ)が直接(ちょくせつ)治(おさ)めることになりました。こうして、政府(せいふ)が全国(ぜんこく)を直接(ちょくせつ)治(おさ)める、中央集権(ちゅうおうしゅうけん)のしくみができあがりました。

なぜ? 大名(だいみょう)たちは、廃藩置県(はいはんちけん)に反対(はんたい)しなかったの?
政府(せいふ)は、反対(はんたい)があったときにそなえて、薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)・土佐(とさ)の3藩(はん)から兵(へい)を集(あつ)め、天皇(てんのう)を守(まも)る軍隊(ぐんたい)(御親兵(ごしんぺい))をつくっておきました。そして、一度(いちど)に廃藩置県(はいはんちけん)を行(おこな)いました。この計画(けいかく)は、西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝允(きどたかよし)らが中心(ちゅうしん)になって進(すす)めました。

四民平等(しみんびょうどう)

1871年(ねん)には、えた・ひにんとよばれた人々(ひとびと)の身分(みぶん)を廃止(はいし)する布告(ふこく)も出(だ)されました。江戸時代(えどじだい)の身分(みぶん)による区別(くべつ)をなくし、すべての人(ひと)を平等(びょうどう)とする考(かんが)え方(かた)をといいます。

ただし、差別(さべつ)されてきた人々(ひとびと)への、結婚(けっこん)や仕事(しごと)、住(す)む場所(ばしょ)などでのきびしい差別(さべつ)は、そのあとも残(のこ)りました。

1871年(ねん)の廃藩置県(はいはんちけん)で藩(はん)をやめて県(けん)を置(お)き、政府(せいふ)が全国(ぜんこく)を直接(ちょくせつ)治(おさ)めるしくみができました。

欧米(おうべい)に負(ま)けない国(くに)をつくる

新(あたら)しい政府(せいふ)は、欧米(おうべい)の国々(くにぐに)に負(ま)けない国(くに)をつくろうとしました。国(くに)を豊(ゆた)かにし、強(つよ)い軍隊(ぐんたい)をもつことをめざしたのです。これをといいます。

そのために、軍隊(ぐんたい)・税(ぜい)・教育(きょういく)のしくみを大(おお)きく改(あらた)めました。

改革(かいかく)年(ねん)おもな内容(ないよう)
学制(がくせい)1872年(ねん)小学校(しょうがっこう)から大学(だいがく)までの学校(がっこう)のしくみを定(さだ)めた。6歳以上(さいいじょう)の男女(だんじょ)すべてが小学校(しょうがっこう)で学(まな)ぶことをめざした
徴兵令(ちょうへいれい)1873年(ねん)20歳(さい)になった男性(だんせい)は、身分(みぶん)に関係(かんけい)なく、3年間軍隊(ねんかんぐんたい)に入(はい)ることになった
地租改正(ちそかいせい)1873年(ねん)土地(とち)の価格(かかく)(地価(ちか))を決(き)め、その3%を、土地(とち)の持(も)ち主(ぬし)が現金(げんきん)で納(おさ)めることになった

地租改正(ちそかいせい) ― 米(こめ)から現金(げんきん)へ

江戸時代(えどじだい)の年貢(ねんぐ)は、米(こめ)でおさめるもので、その年(とし)のとれ具合(ぐあい)によって量(りょう)が変(か)わることもありました。

政府(せいふ)は、収入(しゅうにゅう)を安定(あんてい)させるため、1872年(ねん)に土地(とち)の売(う)り買(か)いを認(みと)め、土地(とち)の持(も)ち主(ぬし)にをわたしました。そして1873年(ねん)からの地租改正(ちそかいせい)で、豊作(ほうさく)の年(とし)も不作(ふさく)の年(とし)も、地価(ちか)の3%を現金(げんきん)で納(おさ)めることにしました。

「大日本帝国政府」「地券」と書かれ、土地の場所や地価、地租の額が書かれた、緑色のふちどりの証書
1878年(ねん)に出(だ)された地券(ちけん)。「地価九円九十銭(ちかきゅうえんきゅうじゅうせん)」と、地租(ちそ)の額(がく)が書(か)かれています。持(も)ち主(ぬし)の名前(なまえ)などは白(しろ)くかくされています。地券「砺波郡本領八百村」 石川県 明治11年(1878年)9月 高岡市立博物館蔵出典:文化遺産オンライン(CC BY)

しかし、税(ぜい)の重(おも)さは江戸時代(えどじだい)とあまり変(か)わらず、1876年(ねん)には、各地(かくち)で地租改正(ちそかいせい)に反対(はんたい)する一揆(いっき)が起(お)こりました。

政府(せいふ)は、1877年(ねん)に地租(ちそ)を地価(ちか)の2.5%に引(ひ)き下(さ)げました。上(うえ)の地券(ちけん)にも、明治(めいじ)10年(ねん)(1877年(ねん))から「百分ノ二ヶ半(ひゃくぶんのにかはん)」(2.5%)に変(か)わったことが書(か)かれています。

計算(けいさん)してみよう
上(うえ)の地券(ちけん)の土地(とち)は、地価(ちか)が9円(えん)90銭(せん)です。地租(ちそ)が3%のときは、9円(えん)90銭(せん)×0.03=約(やく)30銭(せん)です。2.5%のときは、9円(えん)90銭(せん)×0.025=約(やく)25銭(せん)になります(地券(ちけん)に書(か)かれた額(がく)は、29銭(せん)7厘(りん)と24銭(せん)8厘(りん))。

徴兵令(ちょうへいれい)と学制(がくせい)

政府(せいふ)は、それまで武士(ぶし)が受(う)けもっていた軍隊(ぐんたい)を、国民(こくみん)が支(ささ)える軍隊(ぐんたい)に変(か)えようとしました。1873年(ねん)に徴兵令(ちょうへいれい)を出(だ)しました。

しかし、働(はたら)き手(て)をとられる家(いえ)にとっては大(おお)きな負担(ふたん)で、反対(はんたい)する一揆(いっき)も起(お)こりました。

1872年(ねん)には学制(がくせい)が出(だ)され、全国(ぜんこく)に小学校(しょうがっこう)がつくられることになりました。6歳以上(さいいじょう)の男女(だんじょ)が等(ひと)しく学(まな)ぶことをめざしました。

はじめのうちは、寺子屋(てらこや)で使(つか)っていた手習(てなら)いの本(ほん)もまだ使(つか)われていました。民家(みんか)を校舎(こうしゃ)にして始(はじ)まった小学校(しょうがっこう)もありました。

政府(せいふ)は富国強兵(ふこくきょうへい)をめざし、学制(がくせい)・徴兵令(ちょうへいれい)・地租改正(ちそかいせい)で、教育(きょういく)・軍隊(ぐんたい)・税(ぜい)のしくみを改(あらた)めました。

欧米(おうべい)に学(まな)ぶ―岩倉使節団(いわくらしせつだん)と殖産興業(しょくさんこうぎょう)

岩倉使節団(いわくらしせつだん)

1871年(ねん)11月(じゅういちがつ)、政府(せいふ)は、岩倉具視(いわくらともみ)を代表(だいひょう)とする岩倉使節団(いわくらしせつだん)を、欧米(おうべい)に送(おく)りました。木戸孝允(きどたかよし)・大久保利通(おおくぼとしみち)・伊藤博文(いとうひろぶみ)らも加(くわ)わりました。

一行(いっこう)は留学生(りゅうがくせい)などもふくめて約(やく)100人(にん)で、1年(ねん)10か月(げつ)をかけて、アメリカやヨーロッパの12か国(こく)を回(まわ)りました。

いすにすわった和服の男性を中心に、洋服の男性4人がならんだ古い写真
岩倉使節団(いわくらしせつだん)の中心(ちゅうしん)メンバー。左(ひだり)から、木戸孝允(きどたかよし)・山口尚芳(やまぐちなおよし)・岩倉具視(いわくらともみ)・伊藤博文(いとうひろぶみ)・大久保利通(おおくぼとしみち)。1871年(ねん)(明治(めいじ)4年(ねん))12月(じゅうにがつ)、アメリカのサンフランシスコで写(うつ)されました。岩倉大使一行(永見徳太郎編『珍らしい写真』粋古堂、1932年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

使節団(しせつだん)の目的(もくてき)の1つは、を改(あらた)める話(はな)し合(あ)いでしたが、これはうまくいきませんでした。

しかし、欧米(おうべい)の進(すす)んだ政治(せいじ)のしくみや工場(こうじょう)、学校(がっこう)などを自分(じぶん)の目(め)で見(み)たことは、そのあとの国(くに)づくりに大(おお)きく役立(やくだ)ちました。

殖産興業(しょくさんこうぎょう)と富岡製糸場(とみおかせいしじょう)

政府(せいふ)は、産業(さんぎょう)をさかんにするため、国(くに)が自分(じぶん)で工場(こうじょう)を建(た)てて、民間(みんかん)の手本(てほん)にしました。これを殖産興業(しょくさんこうぎょう)といいます。

その代表(だいひょう)が、1872年(ねん)に群馬県(ぐんまけん)に建(た)てられた富岡製糸場(とみおかせいしじょう)です。外国(がいこく)に売(う)る生糸(きいと)の品質(ひんしつ)を高(たか)めるため、フランス人(にん)の技術者(ぎじゅつしゃ)を招(まね)き、フランスの機械(きかい)を入(い)れました。

全国(ぜんこく)から集(あつ)まった工女(こうじょ)たちが、技術(ぎじゅつ)を学(まな)びました。技術(ぎじゅつ)を身(み)につけた工女(こうじょ)は、出身地(しゅっしんち)にもどって、器械製糸(きかいせいし)の指導者(しどうしゃ)になることが期待(きたい)されました。

れんがのかべと青い鉄の骨組みの長い建物の中で、たくさんの女性が機械の前にすわって糸をとっている錦絵
富岡製糸場(とみおかせいしじょう)の中(なか)のようすをえがいた錦絵(にしきえ)。開業(かいぎょう)の翌年(よくねん)(1873年(ねん))に出版(しゅっぱん)されました。上州富岡製糸場之図 歌川国輝(2世) 1873年出典:東京都立図書館 TOKYOアーカイブ(部分)
明治(めいじ)の改革(かいかく)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 群馬県(ぐんまけん)。政府(せいふ)がつくった製糸工場(せいしこうじょう)。フランスの技術(ぎじゅつ)を取(と)り入(い)れた。2014年(ねん)に世界遺産(せかいいさん)になった。
  • 兵庫県(ひょうごけん)。廃城令(はいじょうれい)のあとも、取(と)りこわされずに残(のこ)されたお城(しろ)の1つ。
  • 滋賀県(しがけん)。廃城令(はいじょうれい)のあとも、取(と)りこわされずに残(のこ)されたお城(しろ)の1つ。

●緑はおもな産地や都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

富岡製糸場(とみおかせいしじょう)は、2014年(ねん)に世界遺産(せかいいさん)になり、建物(たてもの)の一部(いちぶ)は国宝(こくほう)になっています。

  1. 1869年(ねん)版籍奉還(はんせきほうかん)
  2. 1871年(ねん)廃藩置県(はいはんちけん)。身分(みぶん)の廃止(はいし)。岩倉使節団(いわくらしせつだん)が出発(しゅっぱつ)する
  3. 1872年(ねん)学制(がくせい)が出(だ)される。富岡製糸場(とみおかせいしじょう)が開業(かいぎょう)する
  4. 1873年(ねん)徴兵令(ちょうへいれい)が出(だ)される。地租改正(ちそかいせい)が始(はじ)まる。岩倉使節団(いわくらしせつだん)が帰国(きこく)する
  5. 1877年(ねん)地租(ちそ)を2.5%に引(ひ)き下(さ)げる

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は欧米(おうべい)の進(すす)んだしくみを見(み)て学(まな)びました。政府(せいふ)は富岡製糸場(とみおかせいしじょう)などの工場(こうじょう)を建(た)て、殖産興業(しょくさんこうぎょう)を進(すす)めました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

着物に勲章をつけた男性の顔
岩倉具視(いわくらともみ)
公家(くげ)の出身(しゅっしん)。王政復古(おうせいふっこ)を進(すす)めた。1871年(ねん)から岩倉使節団(いわくらしせつだん)の代表(だいひょう)(特命(とくめい)全権(ぜんけん)大使(たいし))として、欧米(おうべい)を回(まわ)った。
岩倉具視(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
ほおひげを長くのばした、洋服の男性の顔
大久保利通(おおくぼとしみち)
薩摩藩(さつまはん)の出身(しゅっしん)。版籍奉還(はんせきほうかん)や廃藩置県(はいはんちけん)を進(すす)め、岩倉使節団(いわくらしせつだん)にも加(くわ)わった。帰国後(きこくご)は政府(せいふ)の中心(ちゅうしん)となり、地租改正(ちそかいせい)や殖産興業(しょくさんこうぎょう)を進(すす)めた。
大久保利通(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
洋服に蝶ネクタイの男性の顔
木戸孝允(きどたかよし)
長州藩(ちょうしゅうはん)の出身(しゅっしん)。版籍奉還(はんせきほうかん)・廃藩置県(はいはんちけん)など、藩(はん)をなくして中央集権(ちゅうおうしゅうけん)を進(すす)める改革(かいかく)につとめた。岩倉使節団(いわくらしせつだん)にも加(くわ)わった。
木戸孝允(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
着物を着た、目の大きな男性の顔
西郷隆盛(さいごうたかもり)
薩摩藩(さつまはん)の出身(しゅっしん)。廃藩置県(はいはんちけん)を進(すす)めた中心(ちゅうしん)の1人(にん)。岩倉使節団(いわくらしせつだん)が欧米(おうべい)を回(まわ)っている間(あいだ)、日本(にほん)に残(のこ)って政府(せいふ)を支(ささ)えた。
西郷隆盛(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)

重要(じゅうよう)なところ

版籍奉還(はんせきほうかん)(1869年(ねん))は土地(とち)と人々(ひとびと)を天皇(てんのう)に返(かえ)させたこと、廃藩置県(はいはんちけん)(1871年(ねん))は藩(はん)をやめて県(けん)を置(お)いたことです。
版籍奉還(はんせきほうかん)のあとも元(もと)の大名(だいみょう)が藩(はん)を治(おさ)めていたので、廃藩置県(はいはんちけん)で政府(せいふ)が直接(ちょくせつ)治(おさ)めるようになりました。
地租改正(ちそかいせい)では、地価(ちか)の3%を、土地(とち)の持(も)ち主(ぬし)が現金(げんきん)で納(おさ)めました。
江戸時代(えどじだい)の年貢(ねんぐ)は、米(こめ)でおさめていました。1877年(ねん)に2.5%に引(ひ)き下(さ)げられました。
富岡製糸場(とみおかせいしじょう)は、1872年(ねん)に群馬県(ぐんまけん)につくられた、国(くに)(政府(せいふ))が建(た)てた製糸工場(せいしこうじょう)です。
殖産興業(しょくさんこうぎょう)の代表的(だいひょうてき)な工場(こうじょう)で、フランスの技術(ぎじゅつ)を取(と)り入(い)れました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」の授業「大久保利通と明治新政府の改革」
  • 教育出版:「明治の新しい国づくり」の授業「新政府による国づくりの始まり」「欧米の国々に追いつけ」
  • 日本文教出版:「明治の新しい国づくり」の授業「新しい政府による政治」「明治政府の改革」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ケ):黒船(くろふね)の来航(らいこう)、廃藩置県(はいはんちけん)や四民平等(しみんびょうどう)などの改革(かいかく)、文明開化(ぶんめいかいか)から、明治維新(めいじいしん)で近代化(きんだいか)が進(すす)んだことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263219000000)

「明治(めいじ)の国(くに)づくりを進(すす)めた人々(ひとびと)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1871年(ねん)に、藩(はん)をやめて県(けん)を置(お)いた改革(かいかく)を何(なん)といいますか。廃藩置県(はいはんちけん)
1873年(ねん)に出(だ)された、20歳(さい)になった男性(だんせい)に兵役(へいえき)を義務(ぎむ)づけた法令(ほうれい)を何(なん)といいますか。徴兵令(ちょうへいれい)
地租改正(ちそかいせい)で、税(ぜい)は地価(ちか)の何(なん)%を現金(げんきん)で納(おさ)めることになりましたか。3%
1872年(ねん)に出(だ)された、全国(ぜんこく)に小学校(しょうがっこう)をつくることなどを定(さだ)めたきまりを何(なん)といいますか。学制(がくせい)
1872年(ねん)に群馬県(ぐんまけん)につくられた、政府(せいふ)の製糸工場(せいしこうじょう)を何(なん)といいますか。富岡製糸場(とみおかせいしじょう)
問(と)いへの答(こた)え

新(あたら)しい政府(せいふ)は、欧米(おうべい)の国々(くにぐに)に負(ま)けない強(つよ)い国(くに)をつくることをめざしました。まず、大名(だいみょう)が治(おさ)めていた土地(とち)と人々(ひとびと)を天皇(てんのう)に返(かえ)させ(版籍奉還(はんせきほうかん))、1871年(ねん)には藩(はん)をやめて県(けん)を置(お)き(廃藩置県(はいはんちけん))、政府(せいふ)が全国(ぜんこく)を直接(ちょくせつ)治(おさ)めるようにしました。江戸時代(えどじだい)の身分(みぶん)制度(せいど)もなくしました(四民平等(しみんびょうどう))。さらに、20歳(さい)になった男性(だんせい)に兵役(へいえき)を義務(ぎむ)づける徴兵令(ちょうへいれい)、土地(とち)の価格(かかく)(地価(ちか))の3%を現金(げんきん)で納(おさ)めさせる地租改正(ちそかいせい)、6歳以上(さいいじょう)の子(こ)どもを学校(がっこう)で学(まな)ばせる学制(がくせい)など、軍隊(ぐんたい)・税(ぜい)・教育(きょういく)のしくみを次々(つぎつぎ)と改(あらた)めました。また、岩倉使節団(いわくらしせつだん)を欧米(おうべい)に送(おく)って進(すす)んだ制度(せいど)を学(まな)び、富岡製糸場(とみおかせいしじょう)のような官営(かんえい)の工場(こうじょう)を建(た)てて、産業(さんぎょう)をさかんにしようとしました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

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