小6社会/世界に歩み出した日本
日清戦争と日露戦争
今日の問い二つの戦争を通して、日本と世界の国々との関係は、どのように変わっていったのだろう。
3行でわかる
- 朝鮮をめぐって清と対立した日本は、1894年にを起こして勝ち、で台湾や賠償金を得ました。
- その後ロシアと対立し、1904年にが始まりました。東郷平八郎がひきいる艦隊がで勝ちました。
- では賠償金がとれず、国民は不満をもちました。二つの戦争で、多くの命と重い税の負担が国民にのしかかりました。
朝鮮をめぐる対立―日清戦争
朝鮮をめぐる日本と清
明治の日本は、となりの朝鮮に勢力をのばそうとしていました。いっぽう中国の清は、朝鮮を古くから自分に従う国と考えていました。こうして、日本と清の対立が深まりました。
1894年、日清戦争が始まる
1894年、朝鮮で農民たちの大きな反乱が起こりました。朝鮮の政府が清に助けを求めると、日本も朝鮮に軍隊を送りました。
反乱がおさまっても、両国は軍隊を引きませんでした。7月に戦いが始まり、8月に日本は清に宣戦布告しました。これが日清戦争です。近代的な軍隊をととのえていた日本は、各地で勝ち進みました。
朝鮮をめぐる対立から、1894年に日清戦争が始まり、日本は勝ち進みました。
下関条約と三国干渉
下関で講和会議
1895年3月、戦争を終わらせる話し合い(講和会議)が、山口県の下関で開かれました。日本の代表は伊藤博文と陸奥宗光、清の代表は李鴻章です。
下関の講和会議をえがいた錦絵(3枚つづき)。右上の文には、清の李鴻章が下関に来て、日本の全権の伊藤博文・陸奥宗光と話し合ったことが書かれています。清国媾和使来朝談判之図 小国政 明治28年(1895)出典:国立国会図書館デジタルコレクションを加工して作成
4月17日に結ばれた条約を下関条約といいます。おもな内容は、次のとおりです。
- 清は、朝鮮の独立を認める
- 清は、遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本にゆずる
- 清は、2億両(日本のお金で約3億円)を日本に支はらう
日清講和条約(下関条約)の文書の1ページ目。伊藤博文・陸奥宗光・李鴻章の名前があり、第一条に「清国は朝鮮国が完全な独立の国であることを確かに認める」という内容が書かれています。〔日清講和条約〕 明治28年(1895)4月17日(伊藤博文関係文書)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
日本は、このあと台湾をとして治めていきました。
日清戦争と下関条約に関係する場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 山口県。日清戦争の講和会議が開かれた下関の料理旅館。1895年4月17日、ここで下関条約が結ばれた。となりに日清講和記念館がある。
- 中国。中国の東北部から黄海につき出た半島。下関条約で日本のものになったが、三国干渉で清に返した。
- 中国。遼東半島の先にある港町。日露戦争では、ロシア軍が守るここを日本軍が半年近くせめ、1905年1月に手に入れた。
- 台湾。下関条約で清から日本にゆずられた島。日本はここを植民地として治めた。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
三国干渉 ― 遼東半島を返す
ところが条約から6日後、ロシア・ドイツ・フランスの3か国が、遼東半島を清に返すよう日本に求めてきました。これをといいます。3か国と戦う力のなかった日本は、この求めを受け入れました。
なぜ?3か国は遼東半島を返させたの?
遼東半島は、中国の都の北京や満州(中国の東北部)に近い、大事な場所でした。とくにロシアは、満州や朝鮮に勢力をのばそうとしていたので、日本がここを持つことを強くきらったのです。
日本の国内では、ロシアへの反発が強まり、軍備を広げていきました。
下関条約で日本は台湾や賠償金を得ましたが、三国干渉で遼東半島を清に返しました。
ロシアとの対立―日露戦争
ロシアの進出と日英同盟
三国干渉のあと、ロシアは遼東半島の旅順や大連を清から借りました。さらに満州に軍隊を置き、朝鮮(韓国)にも勢力を広げようとしました。
ロシアの進出を心配していたイギリスと日本は、1902年にを結びました。
1904年、日露戦争が始まる
1904年2月、日本とロシアの間で日露戦争が始まりました。日本軍は多くの死傷者を出しながら、1905年1月に旅順を、3月に奉天を手に入れました。
日本海海戦
ロシアは、バルチック艦隊とよばれる大艦隊を、ヨーロッパから日本へ向かわせました。
1905年5月27日から28日、東郷平八郎がひきいる日本の連合艦隊は、対馬の沖でこの艦隊を破りました。これを日本海海戦といいます。
日本海海戦をえがいた油絵。手前の軍艦の右の柱の上に、日本の海軍の旗が見えます。遠くでは、けむりを上げる軍艦がえがかれています。日本海大海戦 東城鉦太郎筆 明治時代・20世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
日露戦争とポーツマス条約に関係する場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 中国。遼東半島の先にある港町。日露戦争では、ロシア軍が守るここを日本軍が半年近くせめ、1905年1月に手に入れた。
- 中国。満州の大きな町(今の瀋陽)。1905年3月、日露戦争で最大の陸の戦いがここで行われた。
- 長崎県の沖。1905年5月27〜28日、東郷平八郎のひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った海。位置はおおよそ。
- ロシア。ポーツマス条約で、北緯50度より南が日本の領土になった。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
1904年に日露戦争が始まり、日本は旅順や奉天、日本海海戦で勝ちました。
ポーツマス条約と国民の不満
アメリカの仲立ちで講和
日本は勝ち続けましたが、兵士もお金も足りなくなっていました。そこでアメリカの大統領の仲立ちで、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれました。日本の代表は、外務大臣の小村寿太郎です。
1905年9月5日に結ばれたポーツマス条約のおもな内容は、次のとおりです。
- ロシアは、韓国で日本が強い力をもつことを認める
- ロシアは、北緯50度より南の樺太を日本にゆずる
- ロシアは、旅順・大連を借りる権利と、満州の鉄道の権利を日本にゆずる
賠償金がとれない ― 日比谷焼き打ち事件
しかし、賠償金をとることはできませんでした。国民は重い税にたえて戦争に協力してきたので、大きな不満が高まりました。
9月5日、東京の日比谷公園で条約に反対する集会が開かれ、一部の人々が警察署や交番などをおそって火をつけました。これをといいます。
| 日清戦争 | 日露戦争 |
| 年 | 1894〜1895年 | 1904〜1905年 |
| 相手 | 清(中国) | ロシア |
| 講和条約 | 下関条約 | ポーツマス条約 |
| 得た領土など | 台湾・澎湖諸島(遼東半島は返した) | 樺太の南部、旅順・大連を借りる権利、満州の鉄道 |
| 賠償金 | あり(2億両) | なし |
| 戦争に使ったお金 | 2億円あまり | 20億円あまり |
ポーツマス条約で樺太の南部などを得ましたが、賠償金はとれず、国民の不満が高まりました。
戦争の重い負担と、世界の見る目
多くの命と、重い税
日露戦争で使ったお金は、日清戦争の約10倍でした。税を重くしたり、国内や外国から借金をしたりしてまかなったので、国民のくらしは苦しくなりました。戦場では、多くの兵士がなくなりました。
「君死にたまふことなかれ」
歌人の与謝野晶子は、1904年、戦地にいる弟を思う長い詩を発表しました。題名は「弟よ、どうか死なないでおくれ」という意味で、大きな反響をよびました。
もとの言葉(はじめの部分)
あゝをとうとよ
君を
泣く
君死にたまふことなかれ
意味
ああ、
弟よ。あなたのことを
思って
泣いています。どうか
死なないでください。
世界の国々との関係が変わる
大国の清とロシアに勝ったことで、日本の力は欧米の国々に認められるようになりました。いっぽうで日本は、台湾を植民地にし、朝鮮(韓国)や満州へも勢力を広げていきました。
二つの戦争で日本の国際的な地位は高まりましたが、国民は多くの命と重い税という大きな負担を負いました。
年の流れでふり返る
- 1894年朝鮮で農民の反乱が起こる。日清戦争が始まる
- 1895年下関条約を結ぶ。三国干渉で遼東半島を返す
- 1902年日英同盟を結ぶ
- 1904年日露戦争が始まる。与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表する
- 1905年日本海海戦。ポーツマス条約を結ぶ。日比谷焼き打ち事件が起こる
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、二つの戦争の原因や、戦争のあとの国内のようすを、さらにくわしく習います。
| 小学校 | 中学校で加わること |
| 日清戦争のきっかけ | 朝鮮で反乱が起こる | 反乱の名前をという |
| 三国干渉のあと | ロシアへの反発が強まる | 「」(つらさをたえしのぶ)を合言葉に、軍備を広げる |
| 日露戦争への反対 | 与謝野晶子の詩 | キリスト教徒の内村鑑三や、社会主義者の幸徳秋水らも、戦争に反対した |
| 日露戦争の講和 | アメリカの大統領が仲立ちをする | 大統領の名前はセオドア・ルーズベルト。ロシアでも、国内で政府への反対運動が広がっていた |
| 戦争のあと | 樺太の南部などを得る | 満州の鉄道を運営する南満州鉄道株式会社(満鉄)をつくる(1906年) |
この時代の人物

陸奥宗光
外務大臣。日清戦争のあと、伊藤博文とともに日本の代表として下関条約を結び、三国干渉の後始末にもあたった。

東郷平八郎
日露戦争のときの連合艦隊司令長官。1905年の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破った。

小村寿太郎
外務大臣。日英同盟を結び、日露戦争のあとは日本の代表としてポーツマス条約を結んだ。

与謝野晶子
歌人・詩人。日露戦争に行った弟を思って、1904年に「君死にたまふことなかれ」を発表した。
重要なところ
日清戦争は1894年、日露戦争は1904年に始まりました。
ちょうど10年はなれています。相手が「清(中国)→ロシア」の順です。
日清戦争のあとが下関条約、日露戦争のあとがポーツマス条約です。
下関は日本(山口県)、ポーツマスはアメリカの町です。
遼東半島は、下関条約でいったん日本のものになりましたが、三国干渉で清に返しました。
三国干渉をしたのは、ロシア・ドイツ・フランスの3か国です。
賠償金を得たのは日清戦争です。日露戦争では、賠償金はとれませんでした。
賠償金がなかったことへの不満から、日比谷焼き打ち事件が起こりました。
たしかめ問題1/8
1894年に、朝鮮をめぐって日本と清の間で起こった戦争を何といいますか。
たしかめ問題2/8
日清戦争のあとに結ばれ、日本が台湾や賠償金を得た条約を何といいますか。
たしかめ問題3/8
ロシア・ドイツ・フランスが、遼東半島を清に返すよう日本に求めたできごとを何といいますか。
たしかめ問題4/8
日本海海戦で、日本の連合艦隊をひきいた人物はだれですか。
たしかめ問題5/8
日露戦争のあと、小村寿太郎が日本の代表として結んだ条約を何といいますか。
たしかめ問題6/8
ポーツマス条約のあと、国民が不満をもったのはなぜですか。
税の負担などにたえて戦争に協力したのに、賠償金がとれなかったから。
たしかめ問題7/8
日露戦争に行った弟を思って、「君死にたまふことなかれ」という詩を発表した歌人はだれですか。
たしかめ問題8/8
(中学)三国干渉のあと、ロシアに負けない力をつけようと合言葉にされた四字熟語は何ですか。
問いへの答え
二つの戦争を通して、日本と世界の国々との関係は、どのように変わっていったのだろう。
日本は、朝鮮(韓国)や満州をめぐって、1894年に清と日清戦争を、1904年にロシアと日露戦争を戦い、どちらにも勝ちました。日清戦争のあとの下関条約で、日本は台湾などの領土と多額の賠償金を得ましたが、三国干渉で遼東半島を返しました。日露戦争のあとのポーツマス条約では、樺太の南部や満州の鉄道などを得ましたが、賠償金はとれませんでした。二つの勝利で、日本の力は欧米の国々に認められるようになりました。いっぽうで、戦争では多くの人がなくなり、国民は重い税の負担に苦しみました。
画像の出典
- 清国媾和使来朝談判之図 小国政 明治28年(1895)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 〔日清講和条約〕 明治28年(1895)4月17日(伊藤博文関係文書)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 日本海大海戦 東城鉦太郎筆 明治時代・20世紀(ColBase(東京国立博物館))
- 陸奥宗光(『近世名士写真』其2、1935年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 東郷平八郎(年をとってからの写真。国立国会図書館「近代日本人の肖像」)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 小村寿太郎(『近世名士写真』其1、1935年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 与謝野晶子(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)