教科書補助小6 社会 / 世界に歩み出した日本 / 6本中の3本目

日清戦争(にっしんせんそう)と日露戦争(にちろせんそう)とは? 下関条約(しものせきじょうやく)・三国干渉(さんごくかんしょう)・日本海海戦(にほんかいかいせん)・ポーツマス条約(じょうやく)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「世界に歩み出した日本」の「中国やロシアと戦う」/教育出版「近代国家を目ざして」の「日清・日露の戦い」/日本文教出版「国力の充実をめざす日本と国際社会」の「日清・日露の戦い」

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  1. 朝鮮(ちょうせん)をめぐって清(しん)と対立(たいりつ)した日本(にほん)は、1894年(ねん)にを起(お)こして勝(か)ち、で台湾(たいわん)や賠償金(ばいしょうきん)を得(え)ました。
  2. その後(ご)ロシアと対立(たいりつ)し、1904年(ねん)にが始(はじ)まりました。東郷平八郎(とうごうへいはちろう)がひきいる艦隊(かんたい)がで勝(か)ちました。
  3. では賠償金(ばいしょうきん)がとれず、国民(こくみん)は不満(ふまん)をもちました。二(ふた)つの戦争(せんそう)で、多(おお)くの命(いのち)と重(おも)い税(ぜい)の負担(ふたん)が国民(こくみん)にのしかかりました。
今日(きょう)の問(と)い

二(ふた)つの戦争(せんそう)を通(とお)して、日本(にほん)と世界(せかい)の国々(くにぐに)との関係(かんけい)は、どのように変(か)わっていったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

朝鮮(ちょうせん)をめぐる対立(たいりつ)―日清戦争(にっしんせんそう)

朝鮮(ちょうせん)をめぐる日本(にほん)と清(しん)

明治(めいじ)の日本(にほん)は、となりの朝鮮(ちょうせん)に勢力(せいりょく)をのばそうとしていました。いっぽう中国(ちゅうごく)の清(しん)は、朝鮮(ちょうせん)を古(ふる)くから自分(じぶん)に従(したが)う国(くに)と考(かんが)えていました。こうして、日本(にほん)と清(しん)の対立(たいりつ)が深(ふか)まりました。

1894年(ねん)、日清戦争(にっしんせんそう)が始(はじ)まる

1894年(ねん)、朝鮮(ちょうせん)で農民(のうみん)たちの大(おお)きな反乱(はんらん)が起(お)こりました。朝鮮(ちょうせん)の政府(せいふ)が清(しん)に助(たす)けを求(もと)めると、日本(にほん)も朝鮮(ちょうせん)に軍隊(ぐんたい)を送(おく)りました。

反乱(はんらん)がおさまっても、両国(りょうこく)は軍隊(ぐんたい)を引(ひ)きませんでした。7月(しちがつ)に戦(たたか)いが始(はじ)まり、8月(はちがつ)に日本(にほん)は清(しん)に宣戦(せんせん)布告(ふこく)しました。これが日清戦争(にっしんせんそう)です。近代的(きんだいてき)な軍隊(ぐんたい)をととのえていた日本(にほん)は、各地(かくち)で勝(か)ち進(すす)みました。

朝鮮(ちょうせん)をめぐる対立(たいりつ)から、1894年(ねん)に日清戦争(にっしんせんそう)が始(はじ)まり、日本(にほん)は勝(か)ち進(すす)みました。

下関条約(しものせきじょうやく)と三国干渉(さんごくかんしょう)

下関(しものせき)で講和会議(こうわかいぎ)

1895年(ねん)3月(さんがつ)、戦争(せんそう)を終(お)わらせる話(はな)し合(あ)い(講和会議(こうわかいぎ))が、山口県(やまぐちけん)の下関(しものせき)で開(ひら)かれました。日本(にほん)の代表(だいひょう)は伊藤博文(いとうひろぶみ)と陸奥宗光(むつむねみつ)、清(しん)の代表(だいひょう)は李鴻章(りこうしょう)です。

じゅうたんのしかれた広い部屋で、赤い布の机をはさんで、かざりのついた洋服の日本の人々と、中国の服を着た清の人々が向かい合っている錦絵。左に花をいけた大きな花びん、右上に説明の文がある
下関(しものせき)の講和会議(こうわかいぎ)をえがいた錦絵(にしきえ)(3枚(まい)つづき)。右上(みぎうえ)の文(ぶん)には、清(しん)の李鴻章(りこうしょう)が下関(しものせき)に来(き)て、日本(にほん)の全権(ぜんけん)の伊藤博文(いとうひろぶみ)・陸奥宗光(むつむねみつ)と話(はな)し合(あ)ったことが書(か)かれています。清国媾和使来朝談判之図 小国政 明治28年(1895)出典:国立国会図書館デジタルコレクションを加工して作成

4月(しがつ)17日(じゅうしちにち)に結(むす)ばれた条約(じょうやく)を下関条約(しものせきじょうやく)といいます。おもな内容(ないよう)は、次(つぎ)のとおりです。

  • 清(しん)は、朝鮮(ちょうせん)の独立(どくりつ)を認(みと)める
  • 清(しん)は、遼東半島(りょうとうはんとう)・台湾(たいわん)・澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本(にほん)にゆずる
  • 清(しん)は、2億両(におくてーる)(日本(にほん)のお金(かね)で約(やく)3億円(おくえん))を日本(にほん)に支(し)はらう
茶色っぽい紙に、むらさき色の文字で縦書きの文がならぶ文書の1ページ目
日清(にっしん)講和条約(こうわじょうやく)(下関条約(しものせきじょうやく))の文書(ぶんしょ)の1ページ目(め)。伊藤博文(いとうひろぶみ)・陸奥宗光(むつむねみつ)・李鴻章(りこうしょう)の名前(なまえ)があり、第一条(だいいちじょう)に「清国(しんこく)は朝鮮国(ちょうせんこく)が完全(かんぜん)な独立(どくりつ)の国(くに)であることを確(たし)かに認(みと)める」という内容(ないよう)が書(か)かれています。〔日清講和条約〕 明治28年(1895)4月17日(伊藤博文関係文書)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

日本(にほん)は、このあと台湾(たいわん)をとして治(おさ)めていきました。

日清戦争(にっしんせんそう)と下関条約(しものせきじょうやく)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 山口県(やまぐちけん)。日清戦争(にっしんせんそう)の講和会議(こうわかいぎ)が開(ひら)かれた下関(しものせき)の料理旅館(りょうりりょかん)。1895年(ねん)4月(しがつ)17日(じゅうしちにち)、ここで下関条約(しものせきじょうやく)が結(むす)ばれた。となりに日清講和記念館(にっしんこうわきねんかん)がある。
  • 中国(ちゅうごく)。中国(ちゅうごく)の東北部(とうほくぶ)から黄海(こうかい)につき出(で)た半島(はんとう)。下関条約(しものせきじょうやく)で日本(にほん)のものになったが、三国干渉(さんごくかんしょう)で清(しん)に返(かえ)した。
  • 中国(ちゅうごく)。遼東半島(りょうとうはんとう)の先(さき)にある港町(みなとまち)。日露戦争(にちろせんそう)では、ロシア軍(ぐん)が守(まも)るここを日本(にほん)軍(ぐん)が半年(はんとし)近(ちか)くせめ、1905年(ねん)1月(いちがつ)に手(て)に入(い)れた。
  • 台湾(たいわん)。下関条約(しものせきじょうやく)で清(しん)から日本(にほん)にゆずられた島(しま)。日本(にほん)はここを植民地(しょくみんち)として治(おさ)めた。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

三国干渉(さんごくかんしょう) ― 遼東半島(りょうとうはんとう)を返(かえ)す

ところが条約(じょうやく)から6日後(むいかご)、ロシア・ドイツ・フランスの3か国(こく)が、遼東半島(りょうとうはんとう)を清(しん)に返(かえ)すよう日本(にほん)に求(もと)めてきました。これをといいます。3か国(こく)と戦(たたか)う力(ちから)のなかった日本(にほん)は、この求(もと)めを受(う)け入(い)れました。

なぜ?3か国(こく)は遼東半島(りょうとうはんとう)を返(かえ)させたの?
遼東半島(りょうとうはんとう)は、中国(ちゅうごく)の都(みやこ)の北京(ぺきん)や満州(まんしゅう)(中国(ちゅうごく)の東北部(とうほくぶ))に近(ちか)い、大事(だいじ)な場所(ばしょ)でした。とくにロシアは、満州(まんしゅう)や朝鮮(ちょうせん)に勢力(せいりょく)をのばそうとしていたので、日本(にほん)がここを持(も)つことを強(つよ)くきらったのです。

日本(にほん)の国内(こくない)では、ロシアへの反発(はんぱつ)が強(つよ)まり、軍備(ぐんび)を広(ひろ)げていきました。

下関条約(しものせきじょうやく)で日本(にほん)は台湾(たいわん)や賠償金(ばいしょうきん)を得(え)ましたが、三国干渉(さんごくかんしょう)で遼東半島(りょうとうはんとう)を清(しん)に返(かえ)しました。

ロシアとの対立(たいりつ)―日露戦争(にちろせんそう)

ロシアの進出(しんしゅつ)と日英同盟(にちえいどうめい)

三国干渉(さんごくかんしょう)のあと、ロシアは遼東半島(りょうとうはんとう)の旅順(りょじゅん)や大連(だいれん)を清(しん)から借(か)りました。さらに満州(まんしゅう)に軍隊(ぐんたい)を置(お)き、朝鮮(ちょうせん)(韓国(かんこく))にも勢力(せいりょく)を広(ひろ)げようとしました。

ロシアの進出(しんしゅつ)を心配(しんぱい)していたイギリスと日本(にほん)は、1902年(ねん)にを結(むす)びました。

1904年(ねん)、日露戦争(にちろせんそう)が始(はじ)まる

1904年(ねん)2月(にがつ)、日本(にほん)とロシアの間(あいだ)で日露戦争(にちろせんそう)が始(はじ)まりました。日本(にほん)軍(ぐん)は多(おお)くの死傷者(ししょうしゃ)を出(だ)しながら、1905年(ねん)1月(いちがつ)に旅順(りょじゅん)を、3月(さんがつ)に奉天(ほうてん)を手(て)に入(い)れました。

日本海海戦(にほんかいかいせん)

ロシアは、バルチック艦隊(かんたい)とよばれる大艦隊(だいかんたい)を、ヨーロッパから日本(にほん)へ向(む)かわせました。

1905年(ねん)5月(ごがつ)27日(なのか)から28日(にじゅうはちにち)、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)がひきいる日本(にほん)の連合艦隊(れんごうかんたい)は、対馬(つしま)の沖(おき)でこの艦隊(かんたい)を破(やぶ)りました。これを日本海海戦(にほんかいかいせん)といいます。

波の高い海の上に、たくさんの軍艦がならび、遠くの何せきかの軍艦から黒いけむりと火が上がっている油絵。海面には、砲弾が落ちてできた白い水しぶきがいくつも立っている
日本海海戦(にほんかいかいせん)をえがいた油絵(あぶらえ)。手前(てまえ)の軍艦(ぐんかん)の右(みぎ)の柱(はしら)の上(うえ)に、日本(にほん)の海軍(かいぐん)の旗(はた)が見(み)えます。遠(とお)くでは、けむりを上(あ)げる軍艦(ぐんかん)がえがかれています。日本海大海戦 東城鉦太郎筆 明治時代・20世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
日露戦争(にちろせんそう)とポーツマス条約(じょうやく)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 中国(ちゅうごく)。遼東半島(りょうとうはんとう)の先(さき)にある港町(みなとまち)。日露戦争(にちろせんそう)では、ロシア軍(ぐん)が守(まも)るここを日本(にほん)軍(ぐん)が半年(はんとし)近(ちか)くせめ、1905年(ねん)1月(いちがつ)に手(て)に入(い)れた。
  • 中国(ちゅうごく)。満州(まんしゅう)の大(おお)きな町(まち)(今(いま)の瀋陽(しんよう))。1905年(ねん)3月(さんがつ)、日露戦争(にちろせんそう)で最大(さいだい)の陸(りく)の戦(たたか)いがここで行(おこな)われた。
  • 長崎県(ながさきけん)の沖(おき)。1905年(ねん)5月(ごがつ)27〜28日(にじゅうはちにち)、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)のひきいる連合艦隊(れんごうかんたい)が、ロシアのバルチック艦隊(かんたい)を破(やぶ)った海(うみ)。位置(いち)はおおよそ。
  • ロシア。ポーツマス条約(じょうやく)で、北緯50度(ほくいごじゅうど)より南(みなみ)が日本(にほん)の領土(りょうど)になった。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

1904年(ねん)に日露戦争(にちろせんそう)が始(はじ)まり、日本(にほん)は旅順(りょじゅん)や奉天(ほうてん)、日本海海戦(にほんかいかいせん)で勝(か)ちました。

ポーツマス条約(じょうやく)と国民(こくみん)の不満(ふまん)

アメリカの仲立(なかだ)ちで講和(こうわ)

日本(にほん)は勝(か)ち続(つづ)けましたが、兵士(へいし)もお金(かね)も足(た)りなくなっていました。そこでアメリカの大統領(だいとうりょう)の仲立(なかだ)ちで、アメリカのポーツマスで講和会議(こうわかいぎ)が開(ひら)かれました。日本(にほん)の代表(だいひょう)は、外務大臣(がいむだいじん)の小村寿太郎(こむらじゅたろう)です。

1905年(ねん)9月(くがつ)5日(か)に結(むす)ばれたポーツマス条約(じょうやく)のおもな内容(ないよう)は、次(つぎ)のとおりです。

  • ロシアは、韓国(かんこく)で日本(にほん)が強(つよ)い力(ちから)をもつことを認(みと)める
  • ロシアは、北緯50度(ほくいごじゅうど)より南(みなみ)の樺太(からふと)を日本(にほん)にゆずる
  • ロシアは、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)を借(か)りる権利(けんり)と、満州(まんしゅう)の鉄道(てつどう)の権利(けんり)を日本(にほん)にゆずる

賠償金(ばいしょうきん)がとれない ― 日比谷焼(ひびやや)き打(う)ち事件(じけん)

しかし、賠償金(ばいしょうきん)をとることはできませんでした。国民(こくみん)は重(おも)い税(ぜい)にたえて戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)してきたので、大(おお)きな不満(ふまん)が高(たか)まりました。

9月(くがつ)5日(か)、東京(とうきょう)の日比谷(ひびや)公園(こうえん)で条約(じょうやく)に反対(はんたい)する集会(しゅうかい)が開(ひら)かれ、一部(いちぶ)の人々(ひとびと)が警察署(けいさつしょ)や交番(こうばん)などをおそって火(ひ)をつけました。これをといいます。

日清戦争(にっしんせんそう)日露戦争(にちろせんそう)
年(ねん)1894〜1895年(ねん)1904〜1905年(ねん)
相手(あいて)清(しん)(中国(ちゅうごく))ロシア
講和条約(こうわじょうやく)下関条約(しものせきじょうやく)ポーツマス条約(じょうやく)
得(え)た領土(りょうど)など台湾(たいわん)・澎湖諸島(ほうこしょとう)(遼東半島(りょうとうはんとう)は返(かえ)した)樺太(からふと)の南部(なんぶ)、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)を借(か)りる権利(けんり)、満州(まんしゅう)の鉄道(てつどう)
賠償金(ばいしょうきん)あり(2億両(におくてーる))なし
戦争(せんそう)に使(つか)ったお金(かね)2億円(おくえん)あまり20億円(おくえん)あまり

ポーツマス条約(じょうやく)で樺太(からふと)の南部(なんぶ)などを得(え)ましたが、賠償金(ばいしょうきん)はとれず、国民(こくみん)の不満(ふまん)が高(たか)まりました。

戦争(せんそう)の重(おも)い負担(ふたん)と、世界(せかい)の見(み)る目(め)

多(おお)くの命(いのち)と、重(おも)い税(ぜい)

日露戦争(にちろせんそう)で使(つか)ったお金(かね)は、日清戦争(にっしんせんそう)の約(やく)10倍(ばい)でした。税(ぜい)を重(おも)くしたり、国内(こくない)や外国(がいこく)から借金(しゃっきん)をしたりしてまかなったので、国民(こくみん)のくらしは苦(くる)しくなりました。戦場(せんじょう)では、多(おお)くの兵士(へいし)がなくなりました。

「君死にたまふ(きみしにたまう)ことなかれ」

歌人(かじん)の与謝野晶子(よさのあきこ)は、1904年(ねん)、戦地(せんち)にいる弟(おとうと)を思(おも)う長(なが)い詩(し)を発表(はっぴょう)しました。題名(だいめい)は「弟(おとうと)よ、どうか死(し)なないでおくれ」という意味(いみ)で、大(おお)きな反響(はんきょう)をよびました。

もとの言葉(ことば)(はじめの部分(ぶぶん))
あゝをとうとよ君(きみ)を泣(な)く
君死にたまふ(きみしにたまう)ことなかれ
意味(いみ)
ああ、弟(おとうと)よ。あなたのことを思(おも)って泣(な)いています。どうか死(し)なないでください。

世界(せかい)の国々(くにぐに)との関係(かんけい)が変(か)わる

大国(たいこく)の清(しん)とロシアに勝(か)ったことで、日本(にほん)の力(ちから)は欧米(おうべい)の国々(くにぐに)に認(みと)められるようになりました。いっぽうで日本(にほん)は、台湾(たいわん)を植民地(しょくみんち)にし、朝鮮(ちょうせん)(韓国(かんこく))や満州(まんしゅう)へも勢力(せいりょく)を広(ひろ)げていきました。

二(ふた)つの戦争(せんそう)で日本(にほん)の国際的(こくさいてき)な地位(ちい)は高(たか)まりましたが、国民(こくみん)は多(おお)くの命(いのち)と重(おも)い税(ぜい)という大(おお)きな負担(ふたん)を負(お)いました。

年(ねん)の流(なが)れでふり返(かえ)る

  1. 1894年(ねん)朝鮮(ちょうせん)で農民(のうみん)の反乱(はんらん)が起(お)こる。日清戦争(にっしんせんそう)が始(はじ)まる
  2. 1895年(ねん)下関条約(しものせきじょうやく)を結(むす)ぶ。三国干渉(さんごくかんしょう)で遼東半島(りょうとうはんとう)を返(かえ)す
  3. 1902年(ねん)日英同盟(にちえいどうめい)を結(むす)ぶ
  4. 1904年(ねん)日露戦争(にちろせんそう)が始(はじ)まる。与謝野晶子(よさのあきこ)が「君死にたまふ(きみしにたまう)ことなかれ」を発表(はっぴょう)する
  5. 1905年(ねん)日本海海戦(にほんかいかいせん)。ポーツマス条約(じょうやく)を結(むす)ぶ。日比谷焼(ひびやや)き打(う)ち事件(じけん)が起(お)こる

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、二(ふた)つの戦争(せんそう)の原因(げんいん)や、戦争(せんそう)のあとの国内(こくない)のようすを、さらにくわしく習(なら)います。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
日清戦争(にっしんせんそう)のきっかけ朝鮮(ちょうせん)で反乱(はんらん)が起(お)こる反乱(はんらん)の名前(なまえ)をという
三国干渉(さんごくかんしょう)のあとロシアへの反発(はんぱつ)が強(つよ)まる「」(つらさをたえしのぶ)を合言葉(あいことば)に、軍備(ぐんび)を広(ひろ)げる
日露戦争(にちろせんそう)への反対(はんたい)与謝野晶子(よさのあきこ)の詩(し)キリスト教(きょう)徒(と)の内村鑑三(うちむらかんぞう)や、社会主義者(しゃかいしゅぎしゃ)の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らも、戦争(せんそう)に反対(はんたい)した
日露戦争(にちろせんそう)の講和(こうわ)アメリカの大統領(だいとうりょう)が仲立(なかだ)ちをする大統領(だいとうりょう)の名前(なまえ)はセオドア・ルーズベルト。ロシアでも、国内(こくない)で政府(せいふ)への反対運動(はんたいうんどう)が広(ひろ)がっていた
戦争(せんそう)のあと樺太(からふと)の南部(なんぶ)などを得(え)る満州(まんしゅう)の鉄道(てつどう)を運営(うんえい)する南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ)(満鉄(まんてつ))をつくる(1906年(ねん))

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

あごひげをのばし、洋服に蝶ネクタイをした男性の写真
陸奥宗光(むつむねみつ)
外務大臣(がいむだいじん)。日清戦争(にっしんせんそう)のあと、伊藤博文(いとうひろぶみ)とともに日本(にほん)の代表(だいひょう)として下関条約(しものせきじょうやく)を結(むす)び、三国干渉(さんごくかんしょう)の後始末(あとしまつ)にもあたった。
陸奥宗光(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
かざりのついた帽子と軍服を着て、白いひげをはやした年配の男性の写真
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
日露戦争(にちろせんそう)のときの連合艦隊(れんごうかんたい)司令長官(しれいちょうかん)。1905年(ねん)の日本海海戦(にほんかいかいせん)で、ロシアのバルチック艦隊(かんたい)を破(やぶ)った。
東郷平八郎(年をとってからの写真。国立国会図書館「近代日本人の肖像」)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
こい口ひげをはやし、洋服に勲章をつけた男性の写真
小村寿太郎(こむらじゅたろう)
外務大臣(がいむだいじん)。日英同盟(にちえいどうめい)を結(むす)び、日露戦争(にちろせんそう)のあとは日本(にほん)の代表(だいひょう)としてポーツマス条約(じょうやく)を結(むす)んだ。
小村寿太郎(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
着物を着て、短めの髪をした女性の写真
与謝野晶子(よさのあきこ)
歌人(かじん)・詩人(しじん)。日露戦争(にちろせんそう)に行(い)った弟(おとうと)を思(おも)って、1904年(ねん)に「君死にたまふ(きみしにたまう)ことなかれ」を発表(はっぴょう)した。
与謝野晶子(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)

重要(じゅうよう)なところ

日清戦争(にっしんせんそう)は1894年(ねん)、日露戦争(にちろせんそう)は1904年(ねん)に始(はじ)まりました。
ちょうど10年(ねん)はなれています。相手(あいて)が「清(しん)(中国(ちゅうごく))→ロシア」の順(じゅん)です。
日清戦争(にっしんせんそう)のあとが下関条約(しものせきじょうやく)、日露戦争(にちろせんそう)のあとがポーツマス条約(じょうやく)です。
下関(しものせき)は日本(にほん)(山口県(やまぐちけん))、ポーツマスはアメリカの町(まち)です。
遼東半島(りょうとうはんとう)は、下関条約(しものせきじょうやく)でいったん日本(にほん)のものになりましたが、三国干渉(さんごくかんしょう)で清(しん)に返(かえ)しました。
三国干渉(さんごくかんしょう)をしたのは、ロシア・ドイツ・フランスの3か国(こく)です。
賠償金(ばいしょうきん)を得(え)たのは日清戦争(にっしんせんそう)です。日露戦争(にちろせんそう)では、賠償金(ばいしょうきん)はとれませんでした。
賠償金(ばいしょうきん)がなかったことへの不満(ふまん)から、日比谷焼(ひびやや)き打(う)ち事件(じけん)が起(お)こりました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「世界に歩み出した日本」の授業「中国やロシアと戦う」
  • 教育出版:「近代国家を目ざして」の授業「日清・日露の戦い」
  • 日本文教出版:「国力の充実をめざす日本と国際社会」の授業「日清・日露の戦い」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(コ):大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の発布(はっぷ)、日清(にっしん)・日露(にちろ)の戦争(せんそう)、条約(じょうやく)改正(かいせい)、科学(かがく)の発展(はってん)から、日本(にほん)の国力(こくりょく)が充実(じゅうじつ)し国際的(こくさいてき)な地位(ちい)が上(あ)がったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 026321A000000)

「世界(せかい)に歩(あゆ)み出(だ)した日本(にほん)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1894年(ねん)に、朝鮮(ちょうせん)をめぐって日本(にほん)と清(しん)の間(あいだ)で起(お)こった戦争(せんそう)を何(なん)といいますか。日清戦争(にっしんせんそう)
日清戦争(にっしんせんそう)のあとに結(むす)ばれ、日本(にほん)が台湾(たいわん)や賠償金(ばいしょうきん)を得(え)た条約(じょうやく)を何(なん)といいますか。下関条約(しものせきじょうやく)
ロシア・ドイツ・フランスが、遼東半島(りょうとうはんとう)を清(しん)に返(かえ)すよう日本(にほん)に求(もと)めたできごとを何(なん)といいますか。三国干渉(さんごくかんしょう)
日本海海戦(にほんかいかいせん)で、日本(にほん)の連合艦隊(れんごうかんたい)をひきいた人物(じんぶつ)はだれですか。東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
日露戦争(にちろせんそう)のあと、小村寿太郎(こむらじゅたろう)が日本(にほん)の代表(だいひょう)として結(むす)んだ条約(じょうやく)を何(なん)といいますか。ポーツマス条約(じょうやく)
ポーツマス条約(じょうやく)のあと、国民(こくみん)が不満(ふまん)をもったのはなぜですか。税(ぜい)の負担(ふたん)などにたえて戦争(せんそう)に協力(きょうりょく)したのに、賠償金(ばいしょうきん)がとれなかったから。
日露戦争(にちろせんそう)に行(い)った弟(おとうと)を思(おも)って、「君死にたまふ(きみしにたまう)ことなかれ」という詩(し)を発表(はっぴょう)した歌人(かじん)はだれですか。与謝野晶子(よさのあきこ)
(中学(ちゅうがく))三国干渉(さんごくかんしょう)のあと、ロシアに負(ま)けない力(ちから)をつけようと合言葉(あいことば)にされた四字熟語(よんじじゅくご)は何(なん)ですか。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
問(と)いへの答(こた)え

日本(にほん)は、朝鮮(ちょうせん)(韓国(かんこく))や満州(まんしゅう)をめぐって、1894年(ねん)に清(しん)と日清戦争(にっしんせんそう)を、1904年(ねん)にロシアと日露戦争(にちろせんそう)を戦(たたか)い、どちらにも勝(か)ちました。日清戦争(にっしんせんそう)のあとの下関条約(しものせきじょうやく)で、日本(にほん)は台湾(たいわん)などの領土(りょうど)と多額(たがく)の賠償金(ばいしょうきん)を得(え)ましたが、三国干渉(さんごくかんしょう)で遼東半島(りょうとうはんとう)を返(かえ)しました。日露戦争(にちろせんそう)のあとのポーツマス条約(じょうやく)では、樺太(からふと)の南部(なんぶ)や満州(まんしゅう)の鉄道(てつどう)などを得(え)ましたが、賠償金(ばいしょうきん)はとれませんでした。二(ふた)つの勝利(しょうり)で、日本(にほん)の力(ちから)は欧米(おうべい)の国々(くにぐに)に認(みと)められるようになりました。いっぽうで、戦争(せんそう)では多(おお)くの人(ひと)がなくなり、国民(こくみん)は重(おも)い税(ぜい)の負担(ふたん)に苦(くる)しみました。

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