小6社会/世界に歩み出した日本
世界で活躍した人々
今日の問い明治から大正にかけて、どのような日本人が世界で活躍したのだろう。
3行でわかる
- 北里柴三郎は破傷風のを生み出し、ペスト菌を発見しました。志賀潔は菌を発見しました。
- 野口英世はアメリカを中心に病気の研究を進め、の研究中にアフリカでなくなりました。
- 津田梅子はとともにアメリカで学び、を開いて女子教育の道を開きました。
世界に認められる日本人
国の力が認められていったころ
明治時代の終わりに、日本はの改正をなしとげました。日清戦争と日露戦争にも勝ち、国際的な地位が高まっていきました。
そのころ、医学や教育などの分野でも、世界に認められる日本人があらわれました。このページでは、教科書に出てくる4人を中心に見ていきます。
- 北里柴三郎:破傷風の血清療法を生み出し、ペスト菌を発見した(医学)
- 志賀潔:赤痢菌を発見した(医学)
- 野口英世:アメリカを中心に、世界で病気の研究をした(医学)
- 津田梅子:女子英学塾を開き、女子教育の道を開いた(教育)
明治の終わりには、国の力だけでなく、医学や教育の面でも、世界に認められる日本人があらわれました。
北里柴三郎 ― 破傷風の血清療法とペスト菌
ドイツでコッホに学ぶ
北里柴三郎は、1853年、今の熊本県小国町に生まれました。東京で医学を学んだあと、1886年からドイツに留学しました。
ドイツでは、細菌の研究で知られるコッホのもとで学びました。は目に見えないほど小さな生き物で、病気の原因になるものもあります。
破傷風菌の純粋培養と血清療法
1889年、北里は、破傷風という病気の菌だけを取り出して育てることに成功しました。これを純粋培養といい、世界で初めてのことでした。
ドイツで破傷風の研究をしていたころの北里柴三郎(1889年)。机の上には、実験に使うガラスの器具がならんでいます。「破傷風研究と論文草稿」研究中の先生(明治22年) 『北里柴三郎伝』(北里研究所、1932年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
1890年には、血清療法を生み出しました。病気の毒に負けない力をもった血清を注射して、病気を治したり防いだりする方法です。
この研究は世界で高く評価され、北里は第1回のノーベル生理学・医学賞の候補にもなりました。
伝染病研究所とペスト菌の発見
1892年に帰国すると、福沢諭吉らの助けで、東京に研究所を開きました。うつる病気を研究して、人々を守るための研究所です。
1892年に開いた、最初の伝染病研究所の建物をえがいた絵。小さな2階建ての家から始まりました。「我国最初の伝染病研究所」 『北里柴三郎伝』(北里研究所、1932年)のさし絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
1894年、香港でペストという病気が広がると、政府の求めで現地に向かいました。そして、ペストの原因となる菌を発見しました。
なぜ? 北里柴三郎は、世界に認められたの?
破傷風菌の純粋培養は、それまでだれも成功していなかったことでした。血清療法も、病気を治す新しい方法として注目されました。
北里柴三郎は、破傷風菌の純粋培養と血清療法で世界に認められ、ペスト菌も発見しました。
志賀潔 ― 赤痢菌の発見
志賀潔は、1871年、今の宮城県仙台市に生まれました。大学を出たあと、北里の伝染病研究所に入って研究しました。
そのころの日本では、赤痢という病気がたびたび流行していました。赤痢は、熱が出て、はげしい腹いたや下痢がおこる病気です。
1897年、赤痢菌を発見
1897年、志賀は、赤痢の原因となる菌を発見しました。この菌を、赤痢菌といいます。
志賀潔が発見を報告した本にのせられた、赤痢菌の図(1000倍に拡大)。1898年1月に出版されました。「赤痢菌図解」第一図 赤痢菌純粋培養(拡大千倍) 志賀潔『赤痢病原研究報告』第1(1898年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
赤痢菌のなかまは、今では学名で「シゲラ(Shigella)」とよばれています。発見した志賀の名前から名づけられたものです。
北里のもとで学んだ志賀潔は、1897年に赤痢菌を発見しました。赤痢菌のなかまは、志賀の名前から「シゲラ」とよばれています。
野口英世―世界で病気と戦った医学者
大やけどをのりこえて
野口英世は、1876年、今の福島県猪苗代町に生まれました。幼いころ、いろりに落ちて、左手に大やけどをしました。
野口英世が生まれた家(1933年ごろのようす)。うしろに見えるのは磐梯山です。今も野口英世記念館に残されています。「生家(現在)」 奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、1933年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
のちに左手の手術を受けたことから、医学の道に進もうと決めました。1897年、20歳で医師の試験に合格しました。
アメリカの研究所で
1898年に北里の伝染病研究所で働いたあと、1900年にアメリカへわたりました。1904年からは、ロックフェラー医学研究所で研究しました。
野口英世が研究したアメリカのロックフェラー医学研究所(ニューヨーク)。「ロックフェラー医学研究所全景」 奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、1933年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
1913年には、体がまひしていく脳の病気の患者の脳から、梅毒の病原体を見つけました。こうした研究で、ノーベル賞の候補にもなりました。
黄熱病の研究に命をかける
野口は、蚊がうつす黄熱病の研究のため、中南米やアフリカへ出かけました。
1928年、西アフリカのアクラ(今のガーナ)で、自分も黄熱病にかかりました。そして、51歳でなくなりました。
野口英世は、アメリカの研究所を中心に病気の研究を進め、黄熱病の研究中にアフリカでなくなりました。
津田梅子―女子教育の道を開く
6歳でアメリカへ
津田梅子は、1864年に生まれました。1871年、岩倉使節団と一緒に、5人の女子留学生の1人としてアメリカへわたりました。
このとき梅子は満6歳で、5人の中でいちばん年下でした。アメリカの家庭で育ち、11年間学んで、1882年に帰国しました。
アメリカにわたった5人の女子留学生。まん中に立つ、いちばん小さな少女が津田梅子です。右から3人目の洋服の女性は、アメリカの公使の夫人です。「最初の女子留学生」 右より永井繁子・吉益亮子・デ・ロング夫人・津田梅子・上田悌子・山川捨松 『幕末・明治・大正回顧八十年史』第5輯(東洋文化協会、1935年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
女子英学塾を開く
そのころの日本では、女子が男子と同じように、高い教育を受けられる学校はほとんどありませんでした。梅子は1889年にふたたびアメリカへわたり、大学で学びました。
1900年、梅子は東京に女子英学塾を開きました。はじめの生徒は10人で、今の津田塾大学のはじまりです。
梅子は、男性と力を合わせて、対等に力を出せる女性を育てようとしました。生徒には、広い知識と教養をもつ女性になるよう求めました。
なぜ? 梅子は、女子教育の先がけといわれるの?
梅子は、アメリカで学んだことを生かして、英語や広い教養を女子に教えました。一人ひとりを大切にする教育を進め、女子が高い教育を受ける道を開いたのです。
津田梅子は、岩倉使節団とともにアメリカで学び、1900年に女子英学塾を開いて、女子教育の道を開きました。
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、この時代の科学や文化を、もう少しくわしく習います。
北里と志賀のその後
北里は、血清療法の研究をドイツのベーリングと一緒に発表しました。第1回のノーベル賞は、ベーリングが受けました。
北里は1914年に北里研究所をつくり、1917年には慶應義塾大学の医学科の初代科長になりました。
志賀は1901年にドイツへ留学し、のちに北里研究所や慶應義塾大学でも研究を続けました。1944年には文化勲章を受けています。
世界の平和のために働いた新渡戸稲造
新渡戸稲造は、ができると、その事務局次長として働きました。英語で書いた『武士道』で、日本人の考え方を世界に伝えた人でもあります。
新渡戸と国際連盟のことは、第一次世界大戦のところでくわしく学びます。
文学で活やくした人々
文学では、夏目漱石・樋口一葉・与謝野晶子・正岡子規らが活やくしました。樋口一葉は、明治の女性の小説家で、『たけくらべ』などを書きました。
| 人物 | 分野 | おもなこと |
| 北里柴三郎 | 医学 | 破傷風の血清療法(1890年)、ペスト菌の発見(1894年) |
| 志賀潔 | 医学 | 赤痢菌の発見(1897年) |
| 野口英世 | 医学 | アメリカで研究。黄熱病の研究中になくなる(1928年) |
| 津田梅子 | 教育 | 女子英学塾を開く(1900年) |
| 新渡戸稲造 | 国際 | 国際連盟の事務局次長として働く |
医学・教育・国際・文学など、いろいろな分野で、世界に認められる日本人が活やくしました。
この時代の人物

北里柴三郎
熊本県出身の医学者。ドイツで破傷風菌の純粋培養と血清療法に成功し、帰国後は伝染病研究所を開いて、香港でペスト菌を発見した。

志賀潔
宮城県仙台市出身の医学者。北里の伝染病研究所で研究し、1897年に赤痢菌を発見した。赤痢菌のなかまの学名「シゲラ」は、志賀の名前から。

野口英世
福島県猪苗代町出身の医学者。1900年にアメリカへわたり、ロックフェラー医学研究所で研究した。黄熱病の研究中、1928年にアフリカでなくなった。

津田梅子
1871年、岩倉使節団とともに6歳でアメリカへわたった女子留学生。1900年に女子英学塾(今の津田塾大学)を開き、女子教育の道を開いた。
重要なところ
破傷風の血清療法を生み出し、ペスト菌を発見したのは北里柴三郎です。赤痢菌を発見したのは志賀潔です。
「北里=破傷風・ペスト」「志賀=赤痢」と、組で覚えましょう。志賀は北里の伝染病研究所で学びました。
野口英世は、黄熱病の研究中に、アフリカで自分も黄熱病にかかってなくなりました。
野口は1900年にアメリカへわたり、アメリカの研究所を中心に研究しました。
津田梅子は、岩倉使節団とともにアメリカへわたり、帰国後に女子英学塾を開きました。
女子英学塾は、今の津田塾大学のはじまりです。
たしかめ問題1/6
ドイツで破傷風の血清療法を生み出し、香港でペスト菌を発見した医学者はだれですか。
たしかめ問題2/6
北里柴三郎が1892年に東京に開いた、うつる病気を研究する研究所を何といいますか。
たしかめ問題3/6
1897年に赤痢菌を発見した医学者はだれですか。
たしかめ問題4/6
アメリカの研究所を中心に研究し、黄熱病の研究中にアフリカでなくなった医学者はだれですか。
たしかめ問題5/6
1871年、岩倉使節団とともに6歳でアメリカへわたった女子留学生はだれですか。
たしかめ問題6/6
津田梅子が1900年に東京に開いた、今の津田塾大学のはじまりとなった学校を何といいますか。
問いへの答え
明治から大正にかけて、どのような日本人が世界で活躍したのだろう。
条約改正をなしとげ、国の力が認められていったころ、医学や教育などの分野でも、世界に認められる日本人があらわれました。北里柴三郎はドイツで破傷風の血清療法を生み出し、帰国後は伝染病研究所をつくって、香港でペスト菌を発見しました。北里のもとで学んだ志賀潔は赤痢菌を発見し、赤痢菌のなかまは志賀の名前から「シゲラ」とよばれています。野口英世はアメリカの研究所を中心に病気の研究を進め、黄熱病の研究中にアフリカでなくなりました。津田梅子は岩倉使節団とともに6歳でアメリカへわたって学び、帰国後に女子英学塾を開いて、女子の高い教育の道を開きました。
画像の出典
- 「破傷風研究と論文草稿」研究中の先生(明治22年) 『北里柴三郎伝』(北里研究所、1932年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「我国最初の伝染病研究所」 『北里柴三郎伝』(北里研究所、1932年)のさし絵(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「赤痢菌図解」第一図 赤痢菌純粋培養(拡大千倍) 志賀潔『赤痢病原研究報告』第1(1898年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「生家(現在)」 奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、1933年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「ロックフェラー医学研究所全景」 奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、1933年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 「最初の女子留学生」 右より永井繁子・吉益亮子・デ・ロング夫人・津田梅子・上田悌子・山川捨松 『幕末・明治・大正回顧八十年史』第5輯(東洋文化協会、1935年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 北里柴三郎(『北里柴三郎伝』北里研究所、1932年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 志賀潔(『偉人の光』偕成社、1961年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 野口英世(奈良島知堂『少年野口英世博士』大同館、1933年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 津田梅子(吉川利一『津田梅子』婦女新聞社、1930年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)