教科書補助小6 社会 / 世界に歩み出した日本 / 6本中の5本目

世界(せかい)で活躍(かつやく)した人々(ひとびと)とは?北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)・志賀潔(しがきよし)・野口英世(のぐちひでよ)・津田梅子(つだうめこ)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「世界に歩み出した日本」/教育出版「近代国家を目ざして」/日本文教出版「国力の充実をめざす日本と国際社会」

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  1. 北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は破傷風(はしょうふう)のを生(う)み出(だ)し、ペスト菌(きん)を発見(はっけん)しました。志賀潔(しがきよし)は菌(きん)を発見(はっけん)しました。
  2. 野口英世(のぐちひでよ)はアメリカを中心(ちゅうしん)に病気(びょうき)の研究(けんきゅう)を進(すす)め、の研究中(けんきゅうちゅう)にアフリカでなくなりました。
  3. 津田梅子(つだうめこ)はとともにアメリカで学(まな)び、を開(ひら)いて女子教育(じょしきょういく)の道(みち)を開(ひら)きました。
今日(きょう)の問(と)い

明治(めいじ)から大正(たいしょう)にかけて、どのような日本(にほん)人(ひと)が世界(せかい)で活躍(かつやく)したのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

世界(せかい)に認(みと)められる日本(にほん)人(ひと)

国(くに)の力(ちから)が認(みと)められていったころ

明治時代(めいじじだい)の終(お)わりに、日本(にほん)はの改正(かいせい)をなしとげました。日清戦争(にっしんせんそう)と日露戦争(にちろせんそう)にも勝(か)ち、国際的(こくさいてき)な地位(ちい)が高(たか)まっていきました。

そのころ、医学(いがく)や教育(きょういく)などの分野(ぶんや)でも、世界(せかい)に認(みと)められる日本(にほん)人(ひと)があらわれました。このページでは、教科書(きょうかしょ)に出(で)てくる4人(にん)を中心(ちゅうしん)に見(み)ていきます。

  • 北里柴三郎(きたさとしばさぶろう):破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)を生(う)み出(だ)し、ペスト菌(きん)を発見(はっけん)した(医学(いがく))
  • 志賀潔(しがきよし):赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)した(医学(いがく))
  • 野口英世(のぐちひでよ):アメリカを中心(ちゅうしん)に、世界(せかい)で病気(びょうき)の研究(けんきゅう)をした(医学(いがく))
  • 津田梅子(つだうめこ):女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)き、女子教育(じょしきょういく)の道(みち)を開(ひら)いた(教育(きょういく))

明治(めいじ)の終(お)わりには、国(くに)の力(ちから)だけでなく、医学(いがく)や教育(きょういく)の面(めん)でも、世界(せかい)に認(みと)められる日本(にほん)人(ひと)があらわれました。

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう) ― 破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)とペスト菌(きん)

ドイツでコッホに学(まな)ぶ

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、1853年(ねん)、今(いま)の熊本県(くまもとけん)小国町(おぐにまち)に生(う)まれました。東京(とうきょう)で医学(いがく)を学(まな)んだあと、1886年(ねん)からドイツに留学(りゅうがく)しました。

ドイツでは、細菌(さいきん)の研究(けんきゅう)で知(し)られるコッホのもとで学(まな)びました。は目(め)に見(み)えないほど小(ちい)さな生(い)き物(もの)で、病気(びょうき)の原因(げんいん)になるものもあります。

破傷風菌(はしょうふうきん)の純粋培養(じゅんすいばいよう)と血清療法(けっせいりょうほう)

1889年(ねん)、北里(きたさと)は、破傷風(はしょうふう)という病気(びょうき)の菌(きん)だけを取(と)り出(だ)して育(そだ)てることに成功(せいこう)しました。これを純粋培養(じゅんすいばいよう)といい、世界(せかい)で初(はじ)めてのことでした。

洋服を着た男性が、ガラスの器具や容器がならんだ机の前に立っている古い写真
ドイツで破傷風(はしょうふう)の研究(けんきゅう)をしていたころの北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)(1889年(ねん))。机(つくえ)の上(うえ)には、実験(じっけん)に使(つか)うガラスの器具(きぐ)がならんでいます。「破傷風研究と論文草稿」研究中の先生(明治22年) 『北里柴三郎伝』(北里研究所、1932年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

1890年(ねん)には、血清療法(けっせいりょうほう)を生(う)み出(だ)しました。病気(びょうき)の毒(どく)に負(ま)けない力(ちから)をもった血清(けっせい)を注射(ちゅうしゃ)して、病気(びょうき)を治(なお)したり防(ふせ)いだりする方法(ほうほう)です。

この研究(けんきゅう)は世界(せかい)で高(たか)く評価(ひょうか)され、北里(きたさと)は第(だい)1回(かい)のノーベル生理学(せいりがく)・医学賞(いがくしょう)の候補(こうほ)にもなりました。

伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)とペスト菌(きん)の発見(はっけん)

1892年(ねん)に帰国(きこく)すると、福沢諭吉(ふくざわゆきち)らの助(たす)けで、東京(とうきょう)に研究所(けんきゅうしょ)を開(ひら)きました。うつる病気(びょうき)を研究(けんきゅう)して、人々(ひとびと)を守(まも)るための研究所(けんきゅうしょ)です。

2階建ての小さな木造の洋館と門をえがいた、線の絵
1892年(ねん)に開(ひら)いた、最初(さいしょ)の伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)の建物(たてもの)をえがいた絵(え)。小(ちい)さな2階(かい)建(だ)ての家(いえ)から始(はじ)まりました。「我国最初の伝染病研究所」 『北里柴三郎伝』(北里研究所、1932年)のさし絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

1894年(ねん)、香港(ほんこん)でペストという病気(びょうき)が広(ひろ)がると、政府(せいふ)の求(もと)めで現地(げんち)に向(む)かいました。そして、ペストの原因(げんいん)となる菌(きん)を発見(はっけん)しました。

なぜ? 北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、世界(せかい)に認(みと)められたの?
破傷風菌(はしょうふうきん)の純粋培養(じゅんすいばいよう)は、それまでだれも成功(せいこう)していなかったことでした。血清療法(けっせいりょうほう)も、病気(びょうき)を治(なお)す新(あたら)しい方法(ほうほう)として注目(ちゅうもく)されました。

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、破傷風菌(はしょうふうきん)の純粋培養(じゅんすいばいよう)と血清療法(けっせいりょうほう)で世界(せかい)に認(みと)められ、ペスト菌(きん)も発見(はっけん)しました。

志賀潔(しがきよし) ― 赤痢菌(せきりきん)の発見(はっけん)

志賀潔(しがきよし)は、1871年(ねん)、今(いま)の宮城県(みやぎけん)仙台市(せんだいし)に生(う)まれました。大学(だいがく)を出(で)たあと、北里(きたさと)の伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)に入(はい)って研究(けんきゅう)しました。

そのころの日本(にほん)では、赤痢(せきり)という病気(びょうき)がたびたび流行(りゅうこう)していました。赤痢(せきり)は、熱(ねつ)が出(で)て、はげしい腹(はら)いたや下痢(げり)がおこる病気(びょうき)です。

1897年(ねん)、赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)

1897年(ねん)、志賀(しが)は、赤痢(せきり)の原因(げんいん)となる菌(きん)を発見(はっけん)しました。この菌(きん)を、赤痢菌(せきりきん)といいます。

まるい視野の中に、小さな点やつぶがたくさん見える、顕微鏡でのぞいたような図
志賀潔(しがきよし)が発見(はっけん)を報告(ほうこく)した本(ほん)にのせられた、赤痢菌(せきりきん)の図(ず)(1000倍(ばい)に拡大(かくだい))。1898年(ねん)1月(いちがつ)に出版(しゅっぱん)されました。「赤痢菌図解」第一図 赤痢菌純粋培養(拡大千倍) 志賀潔『赤痢病原研究報告』第1(1898年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

赤痢菌(せきりきん)のなかまは、今(いま)では学名(がくめい)で「シゲラ(Shigella)」とよばれています。発見(はっけん)した志賀(しが)の名前(なまえ)から名(な)づけられたものです。

北里(きたさと)のもとで学(まな)んだ志賀潔(しがきよし)は、1897年(ねん)に赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)しました。赤痢菌(せきりきん)のなかまは、志賀(しが)の名前(なまえ)から「シゲラ」とよばれています。

野口英世(のぐちひでよ)―世界(せかい)で病気(びょうき)と戦(たたか)った医学者(いがくしゃ)

大(おお)やけどをのりこえて

野口英世(のぐちひでよ)は、1876年(ねん)、今(いま)の福島県(ふくしまけん)猪苗代町(いなわしろまち)に生(う)まれました。幼(おさな)いころ、いろりに落(お)ちて、左手(ひだりて)に大(おお)やけどをしました。

かやぶき屋根の古い農家と、そのうしろにそびえる山の写真
野口英世(のぐちひでよ)が生(う)まれた家(いえ)(1933年(ねん)ごろのようす)。うしろに見(み)えるのは磐梯山(ばんだいさん)です。今(いま)も野口英世(のぐちひでよ)記念館(きねんかん)に残(のこ)されています。「生家(現在)」 奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、1933年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

のちに左手(ひだりて)の手術(しゅじゅつ)を受(う)けたことから、医学(いがく)の道(みち)に進(すす)もうと決(き)めました。1897年(ねん)、20歳(さい)で医師(いし)の試験(しけん)に合格(ごうかく)しました。

アメリカの研究所(けんきゅうしょ)で

1898年(ねん)に北里(きたさと)の伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)で働(はたら)いたあと、1900年(ねん)にアメリカへわたりました。1904年(ねん)からは、ロックフェラー医学研究所(いがくけんきゅうしょ)で研究(けんきゅう)しました。

木々の向こうに、何階建てもの大きな建物がいくつもならんでいる写真
野口英世(のぐちひでよ)が研究(けんきゅう)したアメリカのロックフェラー医学研究所(いがくけんきゅうしょ)(ニューヨーク)。「ロックフェラー医学研究所全景」 奥村鶴吉編『野口英世』(岩波書店、1933年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

1913年(ねん)には、体(からだ)がまひしていく脳(のう)の病気(びょうき)の患者(かんじゃ)の脳(のう)から、梅毒(ばいどく)の病原体(びょうげんたい)を見(み)つけました。こうした研究(けんきゅう)で、ノーベル賞(しょう)の候補(こうほ)にもなりました。

黄熱病(おうねつびょう)の研究(けんきゅう)に命(いのち)をかける

野口(のぐち)は、蚊(か)がうつす黄熱病(おうねつびょう)の研究(けんきゅう)のため、中南米(ちゅうなんべい)やアフリカへ出(で)かけました。

1928年(ねん)、西(にし)アフリカのアクラ(今(いま)のガーナ)で、自分(じぶん)も黄熱病(おうねつびょう)にかかりました。そして、51歳(さい)でなくなりました。

野口英世(のぐちひでよ)は、アメリカの研究所(けんきゅうしょ)を中心(ちゅうしん)に病気(びょうき)の研究(けんきゅう)を進(すす)め、黄熱病(おうねつびょう)の研究中(けんきゅうちゅう)にアフリカでなくなりました。

津田梅子(つだうめこ)―女子教育(じょしきょういく)の道(みち)を開(ひら)く

6歳(さい)でアメリカへ

津田梅子(つだうめこ)は、1864年(ねん)に生(う)まれました。1871年(ねん)、岩倉使節団(いわくらしせつだん)と一緒(いっしょ)に、5人(にん)の女子留学生(じょしりゅうがくせい)の1人(にん)としてアメリカへわたりました。

このとき梅子(うめこ)は満(まん)6歳(さい)で、5人(にん)の中(なか)でいちばん年下(としした)でした。アメリカの家庭(かてい)で育(そだ)ち、11年間(ねんかん)学(まな)んで、1882年(ねん)に帰国(きこく)しました。

着物を着た5人の少女と、洋服を着た女性1人がならんだ古い写真
アメリカにわたった5人(にん)の女子留学生(じょしりゅうがくせい)。まん中(なか)に立(た)つ、いちばん小(ちい)さな少女(しょうじょ)が津田梅子(つだうめこ)です。右(みぎ)から3人目(にんめ)の洋服(ようふく)の女性(じょせい)は、アメリカの公使(こうし)の夫人(ふじん)です。「最初の女子留学生」 右より永井繁子・吉益亮子・デ・ロング夫人・津田梅子・上田悌子・山川捨松 『幕末・明治・大正回顧八十年史』第5輯(東洋文化協会、1935年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)く

そのころの日本(にほん)では、女子(じょし)が男子(だんし)と同(おな)じように、高(たか)い教育(きょういく)を受(う)けられる学校(がっこう)はほとんどありませんでした。梅子(うめこ)は1889年(ねん)にふたたびアメリカへわたり、大学(だいがく)で学(まな)びました。

1900年(ねん)、梅子(うめこ)は東京(とうきょう)に女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)きました。はじめの生徒(せいと)は10人(にん)で、今(いま)の津田塾大学(つだじゅくだいがく)のはじまりです。

梅子(うめこ)は、男性(だんせい)と力(ちから)を合(あ)わせて、対等(たいとう)に力(ちから)を出(だ)せる女性(じょせい)を育(そだ)てようとしました。生徒(せいと)には、広(ひろ)い知識(ちしき)と教養(きょうよう)をもつ女性(じょせい)になるよう求(もと)めました。

なぜ? 梅子(うめこ)は、女子教育(じょしきょういく)の先(さき)がけといわれるの?
梅子(うめこ)は、アメリカで学(まな)んだことを生(い)かして、英語(えいご)や広(ひろ)い教養(きょうよう)を女子(じょし)に教(おし)えました。一人(ひとり)ひとりを大切(たいせつ)にする教育(きょういく)を進(すす)め、女子(じょし)が高(たか)い教育(きょういく)を受(う)ける道(みち)を開(ひら)いたのです。

津田梅子(つだうめこ)は、岩倉使節団(いわくらしせつだん)とともにアメリカで学(まな)び、1900年(ねん)に女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)いて、女子教育(じょしきょういく)の道(みち)を開(ひら)きました。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、この時代(じだい)の科学(かがく)や文化(ぶんか)を、もう少(すこ)しくわしく習(なら)います。

北里(きたさと)と志賀(しが)のその後(あと)

北里(きたさと)は、血清療法(けっせいりょうほう)の研究(けんきゅう)をドイツのベーリングと一緒(いっしょ)に発表(はっぴょう)しました。第(だい)1回(かい)のノーベル賞(しょう)は、ベーリングが受(う)けました。

北里(きたさと)は1914年(ねん)に北里研究所(きたさとけんきゅうしょ)をつくり、1917年(ねん)には慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)の医学科(いがくか)の初代科長(しょだいかちょう)になりました。

志賀(しが)は1901年(ねん)にドイツへ留学(りゅうがく)し、のちに北里研究所(きたさとけんきゅうしょ)や慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく)でも研究(けんきゅう)を続(つづ)けました。1944年(ねん)には文化勲章(ぶんかくんしょう)を受(う)けています。

世界(せかい)の平和(へいわ)のために働(はたら)いた新渡戸稲造(にとべいなぞう)

新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、ができると、その事務局次長(じむきょくじちょう)として働(はたら)きました。英語(えいご)で書(か)いた『武士道(ぶしどう)』で、日本(にほん)人(ひと)の考(かんが)え方(かた)を世界(せかい)に伝(つた)えた人(ひと)でもあります。

新渡戸(にとべ)と国際連盟(こくさいれんめい)のことは、第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)のところでくわしく学(まな)びます。

文学(ぶんがく)で活(かつ)やくした人々(ひとびと)

文学(ぶんがく)では、夏目漱石(なつめそうせき)・樋口一葉(ひぐちいちよう)・与謝野晶子(よさのあきこ)・正岡子規(まさおかしき)らが活(かつ)やくしました。樋口一葉(ひぐちいちよう)は、明治(めいじ)の女性(じょせい)の小説家(しょうせつか)で、『たけくらべ』などを書(か)きました。

人物(じんぶつ)分野(ぶんや)おもなこと
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)医学(いがく)破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)(1890年(ねん))、ペスト菌(きん)の発見(はっけん)(1894年(ねん))
志賀潔(しがきよし)医学(いがく)赤痢菌(せきりきん)の発見(はっけん)(1897年(ねん))
野口英世(のぐちひでよ)医学(いがく)アメリカで研究(けんきゅう)。黄熱病(おうねつびょう)の研究中(けんきゅうちゅう)になくなる(1928年(ねん))
津田梅子(つだうめこ)教育(きょういく)女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)く(1900年(ねん))
新渡戸稲造(にとべいなぞう)国際(こくさい)国際連盟(こくさいれんめい)の事務局次長(じむきょくじちょう)として働(はたら)く

医学(いがく)・教育(きょういく)・国際(こくさい)・文学(ぶんがく)など、いろいろな分野(ぶんや)で、世界(せかい)に認(みと)められる日本(にほん)人(ひと)が活(かつ)やくしました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

めがねをかけ、洋服を着た年配の男性の顔
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)
熊本県出身(くまもとけんしゅっしん)の医学者(いがくしゃ)。ドイツで破傷風菌(はしょうふうきん)の純粋培養(じゅんすいばいよう)と血清療法(けっせいりょうほう)に成功(せいこう)し、帰国後(きこくご)は伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)を開(ひら)いて、香港(ほんこん)でペスト菌(きん)を発見(はっけん)した。
北里柴三郎(『北里柴三郎伝』北里研究所、1932年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
かんかん帽をかぶり、洋服を着た男性の顔と上半身
志賀潔(しがきよし)
宮城県(みやぎけん)仙台市(せんだいし)出身(しゅっしん)の医学者(いがくしゃ)。北里(きたさと)の伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)で研究(けんきゅう)し、1897年(ねん)に赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)した。赤痢菌(せきりきん)のなかまの学名(がくめい)「シゲラ」は、志賀(しが)の名前(なまえ)から。
志賀潔(『偉人の光』偕成社、1961年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
口ひげがあり、えりの高いシャツに洋服を着た男性の顔
野口英世(のぐちひでよ)
福島県(ふくしまけん)猪苗代町(いなわしろまち)出身(しゅっしん)の医学者(いがくしゃ)。1900年(ねん)にアメリカへわたり、ロックフェラー医学研究所(いがくけんきゅうしょ)で研究(けんきゅう)した。黄熱病(おうねつびょう)の研究中(けんきゅうちゅう)、1928年(ねん)にアフリカでなくなった。
野口英世(奈良島知堂『少年野口英世博士』大同館、1933年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
髪を上にまとめ、着物を着た女性の顔と上半身
津田梅子(つだうめこ)
1871年(ねん)、岩倉使節団(いわくらしせつだん)とともに6歳(さい)でアメリカへわたった女子留学生(じょしりゅうがくせい)。1900年(ねん)に女子英学塾(じょしえいがくじゅく)(今(いま)の津田塾大学(つだじゅくだいがく))を開(ひら)き、女子教育(じょしきょういく)の道(みち)を開(ひら)いた。
津田梅子(吉川利一『津田梅子』婦女新聞社、1930年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)

重要(じゅうよう)なところ

破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)を生(う)み出(だ)し、ペスト菌(きん)を発見(はっけん)したのは北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)です。赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)したのは志賀潔(しがきよし)です。
「北里(きたさと)=破傷風(はしょうふう)・ペスト」「志賀(しが)=赤痢(せきり)」と、組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。志賀(しが)は北里(きたさと)の伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)で学(まな)びました。
野口英世(のぐちひでよ)は、黄熱病(おうねつびょう)の研究中(けんきゅうちゅう)に、アフリカで自分(じぶん)も黄熱病(おうねつびょう)にかかってなくなりました。
野口(のぐち)は1900年(ねん)にアメリカへわたり、アメリカの研究所(けんきゅうしょ)を中心(ちゅうしん)に研究(けんきゅう)しました。
津田梅子(つだうめこ)は、岩倉使節団(いわくらしせつだん)とともにアメリカへわたり、帰国後(きこくご)に女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)きました。
女子英学塾(じょしえいがくじゅく)は、今(いま)の津田塾大学(つだじゅくだいがく)のはじまりです。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「世界に歩み出した日本」
  • 教育出版:「近代国家を目ざして」
  • 日本文教出版:「国力の充実をめざす日本と国際社会」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(コ):大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の発布(はっぷ)、日清(にっしん)・日露(にちろ)の戦争(せんそう)、条約(じょうやく)改正(かいせい)、科学(かがく)の発展(はってん)から、日本(にほん)の国力(こくりょく)が充実(じゅうじつ)し国際的(こくさいてき)な地位(ちい)が上(あ)がったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 026321A000000)

「世界(せかい)に歩(あゆ)み出(だ)した日本(にほん)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

ドイツで破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)を生(う)み出(だ)し、香港(ほんこん)でペスト菌(きん)を発見(はっけん)した医学者(いがくしゃ)はだれですか。北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)が1892年(ねん)に東京(とうきょう)に開(ひら)いた、うつる病気(びょうき)を研究(けんきゅう)する研究所(けんきゅうしょ)を何(なん)といいますか。伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)
1897年(ねん)に赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)した医学者(いがくしゃ)はだれですか。志賀潔(しがきよし)
アメリカの研究所(けんきゅうしょ)を中心(ちゅうしん)に研究(けんきゅう)し、黄熱病(おうねつびょう)の研究中(けんきゅうちゅう)にアフリカでなくなった医学者(いがくしゃ)はだれですか。野口英世(のぐちひでよ)
1871年(ねん)、岩倉使節団(いわくらしせつだん)とともに6歳(さい)でアメリカへわたった女子留学生(じょしりゅうがくせい)はだれですか。津田梅子(つだうめこ)
津田梅子(つだうめこ)が1900年(ねん)に東京(とうきょう)に開(ひら)いた、今(いま)の津田塾大学(つだじゅくだいがく)のはじまりとなった学校(がっこう)を何(なん)といいますか。女子英学塾(じょしえいがくじゅく)
問(と)いへの答(こた)え

条約(じょうやく)改正(かいせい)をなしとげ、国(くに)の力(ちから)が認(みと)められていったころ、医学(いがく)や教育(きょういく)などの分野(ぶんや)でも、世界(せかい)に認(みと)められる日本(にほん)人(ひと)があらわれました。北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)はドイツで破傷風(はしょうふう)の血清療法(けっせいりょうほう)を生(う)み出(だ)し、帰国後(きこくご)は伝染病(でんせんびょう)研究所(けんきゅうしょ)をつくって、香港(ほんこん)でペスト菌(きん)を発見(はっけん)しました。北里(きたさと)のもとで学(まな)んだ志賀潔(しがきよし)は赤痢菌(せきりきん)を発見(はっけん)し、赤痢菌(せきりきん)のなかまは志賀(しが)の名前(なまえ)から「シゲラ」とよばれています。野口英世(のぐちひでよ)はアメリカの研究所(けんきゅうしょ)を中心(ちゅうしん)に病気(びょうき)の研究(けんきゅう)を進(すす)め、黄熱病(おうねつびょう)の研究中(けんきゅうちゅう)にアフリカでなくなりました。津田梅子(つだうめこ)は岩倉使節団(いわくらしせつだん)とともに6歳(さい)でアメリカへわたって学(まな)び、帰国後(きこくご)に女子英学塾(じょしえいがくじゅく)を開(ひら)いて、女子(じょし)の高(たか)い教育(きょういく)の道(みち)を開(ひら)きました。

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