小6社会/町人の文化と新しい学問
一揆と打ちこわし
今日の問い江戸時代の後半、人々はなぜ、一揆や打ちこわしをおこしたのだろう。
3行でわかる
- 江戸時代の後半、ききんがたびたびおこり、多くの人が食べ物に苦しみました。
- 村の百姓は年貢を軽くするよう訴えてをおこし、町の人々は米屋などをおそうをおこしました。
- 1837年、大阪で、幕府の元役人の大塩平八郎が、苦しむ人々を救おうとして兵をあげました。
くらしが苦しくなる人々
江戸時代の後半になると、村にも町にも、お金が広く使われるようになりました。
村の中では、田畑を増やしてゆたかになる百姓と、田畑を失う百姓との差が大きくなっていきました。田畑を失った百姓は、人の田畑を借りて耕す小作人になりました。
江戸時代の後半、お金が広く使われるようになり、ゆたかな百姓と貧しい百姓の差が大きくなりました。
ききんがおそう
天候が悪かったり、災害がおこったりして作物がとれず、食べ物が足りなくなることをといいます。江戸時代の後半には、大きなききんがたびたびおこりました。
天明のききんと浅間山の噴火
天明のききん(1780年代)のころ、1783年には浅間山(今の長野県と群馬県の境)が大噴火しました。
ふもとの村々は、流れ出た土砂や熱いけむりにのみこまれました。火山灰は、田畑に大きな被害をあたえました。空高くまい上がった火山灰で日の光がさえぎられたことも、ききんの原因の一つと考えられています。
1783年の浅間山の大噴火をえがいた絵巻。黒いけむりとほのおが高くふき上がっています。天明三年浅間山大焼画図 江戸時代・18世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
同じ絵巻の一場面。噴火のときに、ほのおを上げて燃える大きな石がえがかれています。天明三年浅間山大焼画図 江戸時代・18世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
天保のききん
1830年代には、天保のききんがおこりました。多くの人が飢えて亡くなりました。
江戸時代の後半には、天明のききんや天保のききんなど、大きなききんがたびたびおこりました。
百姓一揆と打ちこわし
村の百姓一揆
ききんで米がとれなくても、年貢は納めなければなりません。苦しくなった村の百姓たちは、力を合わせて、年貢を軽くすることなどを領主に訴えました。
大勢で城下におしかけることもありました。これを百姓一揆といいます。百姓一揆は、江戸時代のはじめから明治時代のはじめまでに、全国で3700件あまりおこったとされています。
町の打ちこわし
町でも、米の値段が大きく上がると、人々の暮らしは苦しくなりました。
米を買いしめて値段をつり上げる大商人に怒った人々は、米屋や大商人の店や家をおそってこわしました。これを打ちこわしといいます。
百姓一揆
村の
百姓が
集まって、
年貢を
軽くすることなどを
領主に
訴える。
打ちこわし
町の
人々が、
米を
買いしめた
米屋や
大商人の
店や
家をおそう。
なぜ? ききんのときに、一揆や打ちこわしが多くなったの?
ききんで米が足りなくなると、米の値段が大きく上がります。そのうえ、米を買いしめて、もっと高く売ろうとする商人もいました。村の百姓は食べる米も足りないのに年貢を取られ、町の人々は高い米を買えなくなります。どうにもならなくなった人々が、力を合わせて立ち上がったのです。
村では百姓一揆、町では打ちこわしがおこりました。ききんで米が足りなくなり、値段が上がったことが大きな原因です。
大塩平八郎の乱
人々を救おうとした元役人
天保のききんのとき、大阪の町でも、多くの人が飢えて亡くなりました。
大塩平八郎は、大阪町奉行所の役人(与力)だった人です。学者としても知られ、自分の家で塾を開いていました。
大塩平八郎の肖像画。昭和の本にのせられた写真です。「大塩平八郎肖像」『大塩平八郎』(幸田成友、1942年)の口絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
役人をやめていた大塩は、人々を救うよう奉行所に願い出ましたが、聞き入れられませんでした。そこで、自分の数万冊の本をすべて売り、そのお金で苦しむ人々を助けました。
1837年、兵をあげる
さらに大塩は、米を買いしめてもうける大商人たちに怒りました。そして1837年、「救民(民を救う)」をかかげて、仲間とともに兵をあげました。
乱は半日でしずめられました。しかし、幕府が直接治める大阪で、幕府の元役人が乱をおこしたことは、世の中に大きな衝撃をあたえました。
- 1783年浅間山が大噴火する(天明のききんのころ)
- 1833年ごろ天保のききんがおこる
- 1837年大阪で、大塩平八郎が兵をあげる
1837年、大阪の元役人の大塩平八郎が、人々を救うために兵をあげました。幕府に大きな衝撃をあたえました。
中学ではここがくわしくなる
村方騒動
貧しい百姓たちが、村の役人(庄屋や組頭)に、村をもっと公平に運営するよう求めることもおこりました。これを村方騒動といいます。
ききんのときの村の決まり
今の長野県のある村には、1833年と1834年に、村の人たちが話し合って決めた記録が残っています。「ひどい凶作なので、雑穀をまぜた粗末な食事にすること」「法事などでごちそうをふるまわないこと」などです。
全国に伝わった大塩の檄文
大塩が村々に立ち上がるよう呼びかけた文章(檄文)は、幕府の取りしまりをくぐりぬけて書き写され、全国に伝わりました。
越後(今の新潟県)では、これに影響を受けた国学者の生田万が、代官所をおそいました。
この時代の人物

大塩平八郎
大阪町奉行所の元役人で、学者としても知られた。天保のききんで苦しむ人々を救おうとして、1837年に兵をあげた。
重要なところ
百姓一揆は、村の百姓たちが、年貢を軽くすることなどを領主に訴えたものです。
町でおこった打ちこわしと、組で覚えましょう。
打ちこわしは、町の人々が、米を買いしめた米屋や大商人の店や家をおそったものです。
米の値段が上がると、打ちこわしが多くなりました。
大塩平八郎は、1837年に大阪で、苦しむ人々を救うために兵をあげました。
大塩は、幕府の役人だった人です。そのため、幕府に大きな衝撃をあたえました。
たしかめ問題1/5
天候が悪かったり災害がおこったりして作物がとれず、食べ物が足りなくなることを何といいますか。
たしかめ問題2/5
村の百姓たちが、年貢を軽くすることなどを集団で領主に訴えたことを何といいますか。
たしかめ問題3/5
町の人々が、米を買いしめた米屋や大商人の店や家をおそったことを何といいますか。
たしかめ問題4/5
1837年に、大阪で苦しむ人々を救おうとして兵をあげた、幕府の元役人はだれですか。
たしかめ問題5/5
1783年に大噴火して、ききんの原因の一つになった山はどこですか。
問いへの答え
江戸時代の後半、人々はなぜ、一揆や打ちこわしをおこしたのだろう。
江戸時代の後半には、冷たい夏や火山の噴火などで米がとれないききんが、たびたびおこりました。米が足りなくなると、米の値段が大きく上がり、食べるものに困る人が増えました。それでも年貢を納めなければならない村の百姓たちは、力を合わせて領主に年貢を軽くするよう訴えました(百姓一揆)。町では、米を買いしめて値段をつり上げる商人に怒った人々が、店や家をこわしました(打ちこわし)。こうした動きは、幕府や藩の政治をゆさぶりました。
画像の出典
- 天明三年浅間山大焼画図 江戸時代・18世紀(ColBase(東京国立博物館))
- 「大塩平八郎肖像」『大塩平八郎』(幸田成友、1942年)の口絵(国立国会図書館デジタルコレクション)