教科書補助小6 社会 / 町人の文化と新しい学問 / 4本中の4本目

百姓一揆(ひゃくしょういっき)と打(う)ちこわしとは? ききんに苦(くる)しんだ人々(ひとびと)と大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱(らん)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「町人の文化と新しい学問」/教育出版「新しい文化と学問」の「人々と学問、新しい時代への動き」/日本文教出版「江戸の社会と文化・学問」

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  1. 江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)、ききんがたびたびおこり、多(おお)くの人(ひと)が食(た)べ物(もの)に苦(くる)しみました。
  2. 村(むら)の百姓(ひゃくしょう)は年貢(ねんぐ)を軽(かる)くするよう訴(うった)えてをおこし、町(まち)の人々(ひとびと)は米屋(こめや)などをおそうをおこしました。
  3. 1837年(ねん)、大阪(おおさか)で、幕府(ばくふ)の元役人(もとやくにん)の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、苦(くる)しむ人々(ひとびと)を救(すく)おうとして兵(へい)をあげました。
今日(きょう)の問(と)い

江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)、人々(ひとびと)はなぜ、一揆(いっき)や打(う)ちこわしをおこしたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

くらしが苦(くる)しくなる人々(ひとびと)

江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)になると、村(むら)にも町(まち)にも、お金(かね)が広(ひろ)く使(つか)われるようになりました。

村(むら)の中(なか)では、田畑(たはた)を増(ふ)やしてゆたかになる百姓(ひゃくしょう)と、田畑(たはた)を失(うしな)う百姓(ひゃくしょう)との差(さ)が大(おお)きくなっていきました。田畑(たはた)を失(うしな)った百姓(ひゃくしょう)は、人(ひと)の田畑(たはた)を借(か)りて耕(たがや)す小作人(しょうさくにん)になりました。

江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)、お金(かね)が広(ひろ)く使(つか)われるようになり、ゆたかな百姓(ひゃくしょう)と貧(まず)しい百姓(ひゃくしょう)の差(さ)が大(おお)きくなりました。

ききんがおそう

天候(てんこう)が悪(わる)かったり、災害(さいがい)がおこったりして作物(さくもつ)がとれず、食(た)べ物(もの)が足(た)りなくなることをといいます。江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)には、大(おお)きなききんがたびたびおこりました。

天明(てんめい)のききんと浅間山(あさまやま)の噴火(ふんか)

天明(てんめい)のききん(1780年代(ねんだい))のころ、1783年(ねん)には浅間山(あさまやま)(今(いま)の長野県(ながのけん)と群馬県(ぐんまけん)の境(さかい))が大噴火(だいふんか)しました。

ふもとの村々(むらむら)は、流(なが)れ出(で)た土砂(どしゃ)や熱(あつ)いけむりにのみこまれました。火山灰(かざんはい)は、田畑(たはた)に大(おお)きな被害(ひがい)をあたえました。空(そら)高(たか)くまい上(あ)がった火山灰(かざんはい)で日(ひ)の光(ひかり)がさえぎられたことも、ききんの原因(げんいん)の一(ひと)つと考(かんが)えられています。

山の火口から、黒いけむりと赤いほのおがふき出しているようすをえがいた絵巻
1783年(ねん)の浅間山(あさまやま)の大噴火(だいふんか)をえがいた絵巻(えまき)。黒(くろ)いけむりとほのおが高(たか)くふき上(あ)がっています。天明三年浅間山大焼画図 江戸時代・18世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
ほのおを上げて燃える大きな岩と、ごつごつした岩がならぶようすをえがいた絵巻。横に文字が書かれている
同(おな)じ絵巻(えまき)の一場面(いちばめん)。噴火(ふんか)のときに、ほのおを上(あ)げて燃(も)える大(おお)きな石(いし)がえがかれています。天明三年浅間山大焼画図 江戸時代・18世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

天保(てんぽう)のききん

1830年代(ねんだい)には、天保(てんぽう)のききんがおこりました。多(おお)くの人(ひと)が飢(う)えて亡(な)くなりました。

江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)には、天明(てんめい)のききんや天保(てんぽう)のききんなど、大(おお)きなききんがたびたびおこりました。

百姓一揆(ひゃくしょういっき)と打(う)ちこわし

村(むら)の百姓一揆(ひゃくしょういっき)

ききんで米(こめ)がとれなくても、年貢(ねんぐ)は納(おさ)めなければなりません。苦(くる)しくなった村(むら)の百姓(ひゃくしょう)たちは、力(ちから)を合(あ)わせて、年貢(ねんぐ)を軽(かる)くすることなどを領主(りょうしゅ)に訴(うった)えました。

大勢(おおぜい)で城下(じょうか)におしかけることもありました。これを百姓一揆(ひゃくしょういっき)といいます。百姓一揆(ひゃくしょういっき)は、江戸時代(えどじだい)のはじめから明治時代(めいじじだい)のはじめまでに、全国(ぜんこく)で3700件(けん)あまりおこったとされています。

町(まち)の打(う)ちこわし

町(まち)でも、米(こめ)の値段(ねだん)が大(おお)きく上(あ)がると、人々(ひとびと)の暮(く)らしは苦(くる)しくなりました。

米(こめ)を買(か)いしめて値段(ねだん)をつり上(あ)げる大商人(だいしょうにん)に怒(おこ)った人々(ひとびと)は、米屋(こめや)や大商人(だいしょうにん)の店(みせ)や家(いえ)をおそってこわしました。これを打(う)ちこわしといいます。

百姓一揆(ひゃくしょういっき)
村(むら)の百姓(ひゃくしょう)が集(あつ)まって、年貢(ねんぐ)を軽(かる)くすることなどを領主(りょうしゅ)に訴(うった)える。
打(う)ちこわし
町(まち)の人々(ひとびと)が、米(こめ)を買(か)いしめた米屋(こめや)や大商人(だいしょうにん)の店(みせ)や家(いえ)をおそう。
なぜ? ききんのときに、一揆(いっき)や打(う)ちこわしが多(おお)くなったの?
ききんで米(こめ)が足(た)りなくなると、米(こめ)の値段(ねだん)が大(おお)きく上(あ)がります。そのうえ、米(こめ)を買(か)いしめて、もっと高(たか)く売(う)ろうとする商人(しょうにん)もいました。村(むら)の百姓(ひゃくしょう)は食(た)べる米(こめ)も足(た)りないのに年貢(ねんぐ)を取(と)られ、町(まち)の人々(ひとびと)は高(たか)い米(こめ)を買(か)えなくなります。どうにもならなくなった人々(ひとびと)が、力(ちから)を合(あ)わせて立(た)ち上(あ)がったのです。

村(むら)では百姓一揆(ひゃくしょういっき)、町(まち)では打(う)ちこわしがおこりました。ききんで米(こめ)が足(た)りなくなり、値段(ねだん)が上(あ)がったことが大(おお)きな原因(げんいん)です。

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱(らん)

人々(ひとびと)を救(すく)おうとした元役人(もとやくにん)

天保(てんぽう)のききんのとき、大阪(おおさか)の町(まち)でも、多(おお)くの人(ひと)が飢(う)えて亡(な)くなりました。

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、大阪町奉行所(おおさかちょうぶぎょうしょ)の役人(やくにん)(与力(よりき))だった人(ひと)です。学者(がくしゃ)としても知(し)られ、自分(じぶん)の家(いえ)で塾(じゅく)を開(ひら)いていました。

着物とはかまを着て、刀を横に置いて座る武士の絵
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の肖像画(しょうぞうが)。昭和(しょうわ)の本(ほん)にのせられた写真(しゃしん)です。「大塩平八郎肖像」『大塩平八郎』(幸田成友、1942年)の口絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

役人(やくにん)をやめていた大塩(おおしお)は、人々(ひとびと)を救(すく)うよう奉行所(ぶぎょうしょ)に願(ねが)い出(で)ましたが、聞(き)き入(い)れられませんでした。そこで、自分(じぶん)の数万冊(すうまんさつ)の本(ほん)をすべて売(う)り、そのお金(かね)で苦(くる)しむ人々(ひとびと)を助(たす)けました。

1837年(ねん)、兵(へい)をあげる

さらに大塩(おおしお)は、米(こめ)を買(か)いしめてもうける大商人(だいしょうにん)たちに怒(おこ)りました。そして1837年(ねん)、「救民(きゅうみん)(民(たみ)を救(すく)う)」をかかげて、仲間(なかま)とともに兵(へい)をあげました。

乱(らん)は半日(はんにち)でしずめられました。しかし、幕府(ばくふ)が直接(ちょくせつ)治(おさ)める大阪(おおさか)で、幕府(ばくふ)の元役人(もとやくにん)が乱(らん)をおこしたことは、世(よ)の中(なか)に大(おお)きな衝撃(しょうげき)をあたえました。

  1. 1783年(ねん)浅間山(あさまやま)が大噴火(だいふんか)する(天明(てんめい)のききんのころ)
  2. 1833年(ねん)ごろ天保(てんぽう)のききんがおこる
  3. 1837年(ねん)大阪(おおさか)で、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が兵(へい)をあげる

1837年(ねん)、大阪(おおさか)の元役人(もとやくにん)の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、人々(ひとびと)を救(すく)うために兵(へい)をあげました。幕府(ばくふ)に大(おお)きな衝撃(しょうげき)をあたえました。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

村方騒動(むらかたそうどう)

貧(まず)しい百姓(ひゃくしょう)たちが、村(むら)の役人(やくにん)(庄屋(しょうや)や組頭(くみがしら))に、村(むら)をもっと公平(こうへい)に運営(うんえい)するよう求(もと)めることもおこりました。これを村方騒動(むらかたそうどう)といいます。

ききんのときの村(むら)の決(き)まり

今(いま)の長野県(ながのけん)のある村(むら)には、1833年(ねん)と1834年(ねん)に、村(むら)の人(ひと)たちが話(はな)し合(あ)って決(き)めた記録(きろく)が残(のこ)っています。「ひどい凶作(きょうさく)なので、雑穀(ざっこく)をまぜた粗末(そまつ)な食事(しょくじ)にすること」「法事(ほうじ)などでごちそうをふるまわないこと」などです。

全国(ぜんこく)に伝(つた)わった大塩(おおしお)の檄文(げきぶん)

大塩(おおしお)が村々(むらむら)に立(た)ち上(あ)がるよう呼(よ)びかけた文章(ぶんしょう)(檄文(げきぶん))は、幕府(ばくふ)の取(と)りしまりをくぐりぬけて書(か)き写(うつ)され、全国(ぜんこく)に伝(つた)わりました。

越後(えちご)(今(いま)の新潟県(にいがたけん))では、これに影響(えいきょう)を受(う)けた国学者(こくがくしゃ)の生田万(いくたよろず)が、代官所(だいかんしょ)をおそいました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

武士の顔と上半身の絵
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
大阪町奉行所(おおさかちょうぶぎょうしょ)の元役人(もとやくにん)で、学者(がくしゃ)としても知(し)られた。天保(てんぽう)のききんで苦(くる)しむ人々(ひとびと)を救(すく)おうとして、1837年(ねん)に兵(へい)をあげた。
「大塩平八郎肖像」『大塩平八郎』(幸田成友、1942年)の口絵。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

重要(じゅうよう)なところ

百姓一揆(ひゃくしょういっき)は、村(むら)の百姓(ひゃくしょう)たちが、年貢(ねんぐ)を軽(かる)くすることなどを領主(りょうしゅ)に訴(うった)えたものです。
町(まち)でおこった打(う)ちこわしと、組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
打(う)ちこわしは、町(まち)の人々(ひとびと)が、米(こめ)を買(か)いしめた米屋(こめや)や大商人(だいしょうにん)の店(みせ)や家(いえ)をおそったものです。
米(こめ)の値段(ねだん)が上(あ)がると、打(う)ちこわしが多(おお)くなりました。
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、1837年(ねん)に大阪(おおさか)で、苦(くる)しむ人々(ひとびと)を救(すく)うために兵(へい)をあげました。
大塩(おおしお)は、幕府(ばくふ)の役人(やくにん)だった人(ひと)です。そのため、幕府(ばくふ)に大(おお)きな衝撃(しょうげき)をあたえました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「町人の文化と新しい学問」
  • 教育出版:「新しい文化と学問」の授業「人々と学問、新しい時代への動き」
  • 日本文教出版:「江戸の社会と文化・学問」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ク):歌舞伎(かぶき)や浮世絵(うきよえ)、国学(こくがく)や蘭学(らんがく)から、町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)が栄(さか)え、新(あたら)しい学問(がくもん)がおこったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263218000000)

「町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)と新(あたら)しい学問(がくもん)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

天候(てんこう)が悪(わる)かったり災害(さいがい)がおこったりして作物(さくもつ)がとれず、食(た)べ物(もの)が足(た)りなくなることを何(なん)といいますか。ききん
村(むら)の百姓(ひゃくしょう)たちが、年貢(ねんぐ)を軽(かる)くすることなどを集団(しゅうだん)で領主(りょうしゅ)に訴(うった)えたことを何(なん)といいますか。百姓一揆(ひゃくしょういっき)
町(まち)の人々(ひとびと)が、米(こめ)を買(か)いしめた米屋(こめや)や大商人(だいしょうにん)の店(みせ)や家(いえ)をおそったことを何(なん)といいますか。打(う)ちこわし
1837年(ねん)に、大阪(おおさか)で苦(くる)しむ人々(ひとびと)を救(すく)おうとして兵(へい)をあげた、幕府(ばくふ)の元役人(もとやくにん)はだれですか。大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
1783年(ねん)に大噴火(だいふんか)して、ききんの原因(げんいん)の一(ひと)つになった山(やま)はどこですか。浅間山(あさまやま)
問(と)いへの答(こた)え

江戸時代(えどじだい)の後半(こうはん)には、冷(つめ)たい夏(なつ)や火山(かざん)の噴火(ふんか)などで米(こめ)がとれないききんが、たびたびおこりました。米(こめ)が足(た)りなくなると、米(こめ)の値段(ねだん)が大(おお)きく上(あ)がり、食(た)べるものに困(こま)る人(ひと)が増(ふ)えました。それでも年貢(ねんぐ)を納(おさ)めなければならない村(むら)の百姓(ひゃくしょう)たちは、力(ちから)を合(あ)わせて領主(りょうしゅ)に年貢(ねんぐ)を軽(かる)くするよう訴(うった)えました(百姓一揆(ひゃくしょういっき))。町(まち)では、米(こめ)を買(か)いしめて値段(ねだん)をつり上(あ)げる商人(しょうにん)に怒(おこ)った人々(ひとびと)が、店(みせ)や家(いえ)をこわしました(打(う)ちこわし)。こうした動(うご)きは、幕府(ばくふ)や藩(はん)の政治(せいじ)をゆさぶりました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

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