教科書補助小6 社会 / 江戸幕府と政治の安定 / 5本中の5本目

鎖国(さこく)とは? キリスト教(きょう)の禁止(きんし)から出島(でじま)・4つの窓口(まどぐち)まで、江戸幕府(えどばくふ)の外国(がいこく)とのつきあい方(かた)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「江戸幕府と政治の安定」の「キリスト教の禁止と鎖国」/教育出版「幕府の政治と人々の暮らし」の「鎖国への道」「鎖国のもとでの交流」/日本文教出版「武士による政治の安定」の「キリスト教の禁止と貿易の取りしまり」「江戸時代の外国との交流」

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  1. 江戸幕府(えどばくふ)はキリスト教(きょう)を禁止(きんし)し、日本(にほん)人(ひと)が海外(かいがい)へ行(い)き来(き)することも禁(きん)じました。
  2. ヨーロッパの国(くに)ではオランダだけが、長崎(ながさき)ので貿易(ぼうえき)を許(ゆる)されました。
  3. 外国(がいこく)とのつきあいは、長崎(ながさき)・対馬(つしま)・薩摩(さつま)・松前(まつまえ)の4つの窓口(まどぐち)にかぎられました。このような体制(たいせい)を、のちにとよびます。
今日(きょう)の問(と)い

江戸幕府(えどばくふ)は、なぜ外国(がいこく)とのつきあいを、かぎられた場所(ばしょ)だけにしたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

キリスト教(きょう)の禁止(きんし)

信者(しんじゃ)が増(ふ)えることをおそれた幕府(ばくふ)

戦国時代(せんごくじだい)の終(お)わりごろから、日本(にほん)ではの信者(しんじゃ)が増(ふ)えていました。

しかし江戸幕府(えどばくふ)は、信者(しんじゃ)たちが神(かみ)を大切(たいせつ)にして団結(だんけつ)し、幕府(ばくふ)の命令(めいれい)に従(したが)わなくなることをおそれました。

キリスト教(きょう)の禁止(きんし)と絵踏(えぶみ)

そこで幕府(ばくふ)は、1612年(ねん)に幕府(ばくふ)の領地(りょうち)でキリスト教(きょう)を禁止(きんし)し、まもなく全国(ぜんこく)でも禁止(きんし)しました。

教会(きょうかい)はこわされ、は国外(こくがい)へ追放(ついほう)されました。信者(しんじゃ)たちは、信仰(しんこう)を捨(す)てるよう、きびしくせまられました。

長崎(ながさき)などでは、人々(ひとびと)にキリストやマリアの像(ぞう)をふませて、信者(しんじゃ)でないことを確(たし)かめました。これをといいます。

木の板の真ん中に、手を組んだキリストの姿をうき出させた、小さな金属の板がはめこまれたもの
絵踏(えぶみ)に使(つか)われた板(いた)。取(と)り上(あ)げたキリスト教(きょう)の銅(どう)の像(ぞう)を、木(き)の板(いた)にはめこんでいます。はじめは紙(かみ)の絵(え)をふませましたが、すぐにやぶれるため、1630年(ねん)ごろからこのような板(いた)が使(つか)われました。板踏絵 キリスト像(エッケ・ホモ) 江戸時代・17世紀出典:ColBase(東京国立博物館)

幕府(ばくふ)は、信者(しんじゃ)が団結(だんけつ)して命令(めいれい)に従(したが)わなくなることをおそれ、キリスト教(きょう)を禁止(きんし)しました。絵踏(えぶみ)で信者(しんじゃ)を見(み)つけ出(だ)しました。

島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)

1637年(ねん)、九州(きゅうしゅう)の島原(しまばら)(今(いま)の長崎県(ながさきけん))と天草(あまくさ)(今(いま)の熊本県(くまもとけん))で、人々(ひとびと)がいっせいに立(た)ち上(あ)がりました。重(おも)い年貢(ねんぐ)の取(と)り立(た)てと、キリスト教(きょう)の信者(しんじゃ)へのきびしい取(と)りしまりに苦(くる)しんだのです。これをといいます。

一揆(いっき)の人々(ひとびと)は、少年(しょうねん)の天草四郎(あまくさしろう)(益田時貞(ますだときさだ))を大将(たいしょう)にして、原城(はらじょう)に立(た)てこもりました。

鎖国(さこく)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 長崎県(ながさきけん)。島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)で、一揆(いっき)の人々(ひとびと)が立(た)てこもった城(しろ)。今(いま)の長崎県南島原市(ながさきけんみなみしまばらし)。
  • 長崎県(ながさきけん)。長崎(ながさき)の港(みなと)の人工(じんこう)の島(しま)。オランダの商館(しょうかん)が置(お)かれた。長崎(ながさき)では中国(ちゅうごく)とも貿易(ぼうえき)をした。
  • 長崎県(ながさきけん)。朝鮮(ちょうせん)との窓口(まどぐち)。対馬藩(つしまはん)(宗氏(そうし))が朝鮮(ちょうせん)との交流(こうりゅう)を受(う)け持(も)った。
  • 鹿児島県(かごしまけん)。琉球(りゅうきゅう)(今(いま)の沖縄県(おきなわけん))との窓口(まどぐち)。薩摩藩(さつまはん)(島津氏(しまづし))が受(う)け持(も)った。
  • 北海道(ほっかいどう)。蝦夷(えみし)地(ち)(今(いま)の北海道(ほっかいどう))のアイヌの人々(ひとびと)との窓口(まどぐち)。松前藩(まつまえはん)(松前(まつまえ)氏(し))が受(う)け持(も)った。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

幕府(ばくふ)は大軍(たいぐん)を送(おく)り、4か月(げつ)ほどかかって、ようやく一揆(いっき)をしずめました。この一揆(いっき)のあと、幕府(ばくふ)はキリスト教(きょう)を、いっそうきびしく取(と)りしまるようになりました。

1637年(ねん)、重(おも)い年貢(ねんぐ)とキリスト教(きょう)の取(と)りしまりに苦(くる)しんだ人々(ひとびと)が、島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)をおこしました。

出島(でじま)とオランダ

日本(にほん)人(ひと)の海外渡航(かいがいとこう)とポルトガル船(せん)の禁止(きんし)

幕府(ばくふ)は1635年(ねん)、日本(にほん)人(ひと)が海外(かいがい)へ行(い)くことと、海外(かいがい)にいる日本(にほん)人(ひと)が帰(かえ)ってくることを禁止(きんし)しました。

そして島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)のあとの1639年(ねん)、キリスト教(きょう)を広(ひろ)めようとするポルトガルの船(ふね)が来(く)ることを禁止(きんし)しました。

出島(でじま)で貿易(ぼうえき)を続(つづ)けたオランダ

ヨーロッパの国(くに)で、日本(にほん)との貿易(ぼうえき)を許(ゆる)されたのは、キリスト教(きょう)を広(ひろ)めないオランダだけでした。

1641年(ねん)、オランダの商館(しょうかん)(貿易(ぼうえき)のための役所(やくしょ))は、平戸(ひらど)(今(いま)の長崎県(ながさきけん))から長崎(ながさき)の出島(でじま)に移(うつ)されました。出島(でじま)は、長崎(ながさき)の港(みなと)につくられた人工(じんこう)の島(しま)です。

山にかこまれた細長い湾と、手前の海にうかぶ扇の形の島や、たくさんの船をえがいた絵
江戸時代(えどじだい)の終(お)わりごろの長崎(ながさき)の港(みなと)。手前(てまえ)の、扇(おうぎ)の形(かたち)をした島(しま)が出島(でじま)です。長崎港図 川原慶賀筆 江戸時代・1840〜1842年出典:ColBase(九州国立博物館)(部分)

長崎(ながさき)では、中国(ちゅうごく)(明(みん)、のちの清(しん))の船(ふね)も来(き)て、貿易(ぼうえき)をしました。

長崎(ながさき)に入(はい)ってきたおもな品物(しなもの)
中国産(ちゅうごくさん)の生糸(きいと)・絹織物(きぬおりもの)、砂糖(さとう)、香木(こうぼく)、こしょう、薬(くすり)など。
長崎(ながさき)から出(で)ていったおもな品物(しなもの)
はじめは銀(ぎん)、のちに金(かね)。やがて銅(どう)が中心(ちゅうしん)になり、陶磁器(とうじき)や漆器(しっき)も。
  1. 1612年(ねん)幕府(ばくふ)の領地(りょうち)でキリスト教(きょう)を禁止(きんし)する(まもなく全国(ぜんこく)でも禁止(きんし))
  2. 1635年(ねん)日本(にほん)人(ひと)が海外(かいがい)へ行(い)くことと、帰国(きこく)を禁止(きんし)する
  3. 1637年(ねん)島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)がおこる
  4. 1639年(ねん)ポルトガルの船(ふね)が来(く)ることを禁止(きんし)する
  5. 1641年(ねん)オランダの商館(しょうかん)を、長崎(ながさき)の出島(でじま)に移(うつ)す
なぜ? オランダだけは、貿易(ぼうえき)を許(ゆる)されたの?
オランダは、キリスト教(きょう)を広(ひろ)めることより、貿易(ぼうえき)でもうけることを大切(たいせつ)にしていました。幕府(ばくふ)にとっては、キリスト教(きょう)が入(はい)ってくる心配(しんぱい)がなく、貿易(ぼうえき)の利益(りえき)や海外(かいがい)の情報(じょうほう)も手(て)に入(はい)る相手(あいて)だったのです。

ポルトガル船(せん)の来航(らいこう)を禁止(きんし)し、ヨーロッパではオランダだけが、長崎(ながさき)の出島(でじま)で貿易(ぼうえき)を許(ゆる)されました。

4つの窓口(まどぐち)

幕府(ばくふ)は、外国(がいこく)とのつきあいを、まったくやめたわけではありません。長崎(ながさき)・対馬(つしま)・薩摩(さつま)・松前(まつまえ)の4つの窓口(まどぐち)を通(つう)じて、外国(がいこく)やまわりの地域(ちいき)の人々(ひとびと)と交流(こうりゅう)を続(つづ)けました。

窓口(まどぐち)相手(あいて)担当(たんとう)
長崎(ながさき)オランダ・中国(ちゅうごく)幕府(ばくふ)が直接(ちょくせつ)
対馬(つしま)朝鮮(ちょうせん)対馬藩(つしまはん)(宗氏(そうし))
薩摩(さつま)琉球(りゅうきゅう)(今(いま)の沖縄県(おきなわけん))薩摩藩(さつまはん)(島津氏(しまづし))
松前(まつまえ)蝦夷(えみし)地(ち)(今(いま)の北海道(ほっかいどう))のアイヌの人々(ひとびと)松前藩(まつまえはん)(松前(まつまえ)氏(し))

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と琉球(りゅうきゅう)の使節(しせつ)

朝鮮(ちょうせん)からは、おもに将軍(しょうぐん)がかわるたびに、とよばれる使節(しせつ)が、全部(ぜんぶ)で12回(かい)やってきました。一行(いっこう)は、多(おお)いときには500人(にん)にもなりました。

黒い帽子をかぶり、黒い服を着た、ひげのある男性の絵。右に文字が書かれている
1811年(ねん)に対馬(つしま)に来(き)た朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)の代表(だいひょう)(正使(せいし))をえがいた絵(え)。朝鮮通信使人物図巻 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
赤い屋根のかごに乗った人と、それを取りかこむたくさんの人の行列をえがいた絵巻
江戸城(えどじょう)に向(む)かう琉球(りゅうきゅう)の使節(しせつ)の行列(ぎょうれつ)。かごに乗(の)っているのが、使節(しせつ)の代表(だいひょう)(正使(せいし))です。琉球使節江戸登城行列図 江戸時代・19世紀出典:ColBase(九州国立博物館)(部分)

琉球(りゅうきゅう)からは、将軍(しょうぐん)がかわったときにはお祝(いわ)いの使節(しせつ)が、琉球(りゅうきゅう)の国王(こくおう)がかわったときにはお礼(れい)の使節(しせつ)が、江戸(えど)へやってきました。

外国(がいこく)とのつきあいは、長崎(ながさき)・対馬(つしま)・薩摩(さつま)・松前(まつまえ)の4つの窓口(まどぐち)にかぎられました。この体制(たいせい)を、のちに鎖国(さこく)とよびます。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

オランダ風説書(ふうせつしょ)

幕府(ばくふ)は、貿易(ぼうえき)だけでなく、海外(かいがい)の情報(じょうほう)も手(て)に入(い)れました。オランダの船(ふね)が長崎(ながさき)に入(はい)るたびに、海外(かいがい)のようすを報告(ほうこく)させたのです。

それを通訳(つうやく)が日本語(にほんご)に訳(やく)して、江戸(えど)へ送(おく)りました。これを「オランダ風説書(ふうせつしょ)」といいます。幕府(ばくふ)は、こうして得(え)た海外(かいがい)の情報(じょうほう)を、自分(じぶん)たちだけで管理(かんり)しました。

オランダ商館長(しょうかんちょう)の江戸参府(えどさんぷ)

出島(でじま)のオランダ商館長(しょうかんちょう)は、貿易(ぼうえき)を許(ゆる)されたお礼(れい)に、江戸(えど)へ行(い)って将軍(しょうぐん)にあいさつしました。これを江戸参府(えどさんぷ)といいます。

はじめは毎年(まいとし)、のちに4年(ねん)に1回(かい)となり、全部(ぜんぶ)で166回(かい)も行(おこな)われました。江戸(えど)では、蘭学者(らんがくしゃ)などがオランダ人(にん)の宿(やど)をたずねて、いろいろな質問(しつもん)をしました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

黒い着物で冠をかぶって座る将軍の浮世絵
徳川家光(とくがわいえみつ)
江戸幕府(えどばくふ)の3代将軍(だいしょうぐん)。キリスト教(きょう)の取(と)りしまりを強(つよ)め、ポルトガルの船(ふね)が来(く)ることを禁(きん)じるなど、鎖国(さこく)の体制(たいせい)を完成(かんせい)させた。
「徳川十五代記略 家光公諸藩主江佩刀を給ふ図」月岡芳年 1875年(明治時代に想像でえがいた絵)。出典:東京都立中央図書館(部分)
天草四郎(あまくさしろう)
島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)で、一揆(いっき)の人々(ひとびと)の大将(たいしょう)になった少年(しょうねん)。本名(ほんみょう)は益田時貞(ますだときさだ)。

重要(じゅうよう)なところ

鎖国(さこく)のあいだも、オランダと中国(ちゅうごく)とは、長崎(ながさき)で貿易(ぼうえき)を続(つづ)けました。
ヨーロッパの国(くに)で貿易(ぼうえき)を許(ゆる)されたのはオランダだけです。
オランダの商館(しょうかん)は、1641年(ねん)に長崎(ながさき)の出島(でじま)に移(うつ)されました。
出島(でじま)は、もともとポルトガル人(にん)を住(す)まわせるためにつくられた人工(じんこう)の島(しま)です。
外国(がいこく)とのつきあいの窓口(まどぐち)は、長崎(ながさき)・対馬(つしま)・薩摩(さつま)・松前(まつまえ)の4つでした。
対馬(つしま)は朝鮮(ちょうせん)、薩摩(さつま)は琉球(りゅうきゅう)、松前(まつまえ)はアイヌの人々(ひとびと)との窓口(まどぐち)です。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「江戸幕府と政治の安定」の授業「キリスト教の禁止と鎖国」
  • 教育出版:「幕府の政治と人々の暮らし」の授業「鎖国への道」「鎖国のもとでの交流」
  • 日本文教出版:「武士による政治の安定」の授業「キリスト教の禁止と貿易の取りしまり」「江戸時代の外国との交流」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(キ):江戸幕府(えどばくふ)の始(はじ)まり、参勤交代(さんきんこうたい)や鎖国(さこく)、身分(みぶん)のしくみから、武士(ぶし)による政治(せいじ)が安定(あんてい)したことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263217000000)

「江戸幕府(えどばくふ)と政治(せいじ)の安定(あんてい)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

キリスト教(きょう)の信者(しんじゃ)でないことを確(たし)かめるため、キリストやマリアの像(ぞう)をふませたことを何(なん)といいますか。絵踏(えぶみ)
1637年(ねん)に、九州(きゅうしゅう)でおこった大(おお)きな一揆(いっき)を何(なん)といいますか。島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)
ヨーロッパの国(くに)で、鎖国(さこく)のあいだも日本(にほん)との貿易(ぼうえき)を許(ゆる)された国(くに)はどこですか。オランダ
オランダの商館(しょうかん)が置(お)かれた、長崎(ながさき)の人工(じんこう)の島(しま)を何(なん)といいますか。出島(でじま)
朝鮮(ちょうせん)から日本(にほん)にやってきた使節(しせつ)を何(なん)といいますか。朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)
問(と)いへの答(こた)え

幕府(ばくふ)は、キリスト教(きょう)の信者(しんじゃ)が団結(だんけつ)して幕府(ばくふ)に従(したが)わなくなることをおそれ、キリスト教(きょう)を禁止(きんし)しました。そのため、キリスト教(きょう)を広(ひろ)めようとするポルトガルの船(ふね)が来(く)ることを禁(きん)じ、日本(にほん)人(ひと)が海外(かいがい)へ行(い)き来(き)することも禁(きん)じました。一方(いっぽう)で、外国(がいこく)との貿易(ぼうえき)や交流(こうりゅう)は大切(たいせつ)だったので、キリスト教(きょう)を広(ひろ)めないオランダと中国(ちゅうごく)とは長崎(ながさき)で貿易(ぼうえき)を続(つづ)けました。朝鮮(ちょうせん)・琉球(りゅうきゅう)・アイヌの人々(ひとびと)とは、対馬(つしま)・薩摩(さつま)・松前(まつまえ)を通(つう)じて交流(こうりゅう)しました。こうして幕府(ばくふ)は、外国(がいこく)とのつきあいを自分(じぶん)で管理(かんり)し、貿易(ぼうえき)の利益(りえき)や海外(かいがい)の情報(じょうほう)を手(て)にしたのです。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)
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出典

画像

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