教科書補助小6 社会 / 町人の文化と新しい学問 / 4本中の2本目

町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)とは?歌舞伎(かぶき)・人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)・浮世絵(うきよえ)・俳句(はいく)と寺子屋(てらこや)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「町人の文化と新しい学問」の「人々が歌舞伎や浮世絵を楽しむ」/教育出版「新しい文化と学問」の「活気あふれる町人の文化」「今につながる江戸の文化」/日本文教出版「江戸の社会と文化・学問」の「町人文化の広がり」

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  1. 江戸時代(えどじだい)、ゆたかになった町人(ちょうにん)が、新(あたら)しい文化(ぶんか)を楽(たの)しみ、生(う)み出(だ)しました。
  2. 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)はやの台本(だいほん)を、歌川広重(うたがわひろしげ)や葛飾北斎(かつしかほくさい)はをかきました。
  3. 松尾芭蕉(まつおばしょう)は俳句(はいく)を芸術(げいじゅつ)に高(たか)め、町(まち)や村(むら)ではで子(こ)どもたちが読(よ)み書(か)きを学(まな)びました。
今日(きょう)の問(と)い

江戸時代(えどじだい)の町人(ちょうにん)たちは、どのような文化(ぶんか)を楽(たの)しんでいたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

町人(ちょうにん)がゆたかになる

江戸時代(えどじだい)は、大(おお)きな戦(たたか)いのない世(よ)の中(なか)が長(なが)く続(つづ)きました。街道(かいどう)や海(うみ)の交通(こうつう)が整(ととの)い、全国(ぜんこく)の品物(しなもの)が、大阪(おおさか)や京都(きょうと)、江戸(えど)などの大(おお)きな町(まち)に集(あつ)まるようになりました。

こうした町(まち)で商売(しょうばい)をする町人(ちょうにん)の中(なか)には、ゆたかになる人(ひと)が増(ふ)えていきました。

ゆたかになった町人(ちょうにん)たちは、芝居(しばい)を見(み)たり、絵(え)を買(か)ったり、本(ほん)を読(よ)んだりして、くらしを楽(たの)しむようになりました。こうして、町人(ちょうにん)が中心(ちゅうしん)となった新(あたら)しい文化(ぶんか)が生(う)まれました。

芝居小屋ののぼりや看板が立ちならぶ通りを、大勢の人々が行き交うようすをえがいた浮世絵
江戸(えど)の芝居町(しばいまち)のにぎわい。芝居小屋(しばいこや)の前(まえ)には、のぼりや看板(かんばん)が立(た)ちならび、たくさんの人(ひと)が集(あつ)まっています。東都名所 芝居町繁栄之図 歌川広重 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

戦(たたか)いのない世(よ)の中(なか)が続(つづ)いてゆたかになった町人(ちょうにん)が、芝居(しばい)や絵(え)、本(ほん)を楽(たの)しむ新(あたら)しい文化(ぶんか)を生(う)み出(だ)しました。

歌舞伎(かぶき)と人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)―近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

町人(ちょうにん)が楽(たの)しんだ芝居(しばい)

町人(ちょうにん)たちが楽(たの)しんだのが、歌舞伎(かぶき)と人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)です。歌舞伎(かぶき)は、役者(やくしゃ)が演(えん)じる芝居(しばい)です。

人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は、三味線(しゃみせん)に合(あ)わせて語(かた)られる物語(ものがたり)に合(あ)わせ、人形(にんぎょう)をあやつって演(えん)じる芝居(しばい)です。今(いま)の文楽(ぶんらく)につながっています。

台本(だいほん)を書(か)いた近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)

大阪(おおさか)や京都(きょうと)で活(かつ)やくした近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、歌舞伎(かぶき)と人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の台本(だいほん)をたくさん書(か)きました。人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)では、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)などのために、100をこえる作品(さくひん)を書(か)いています。

机に向かって筆を持ち、紙に文字を書いている年をとった男性の絵
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の絵(え)。明治時代(めいじじだい)の本(ほん)にのせられた、想像(そうぞう)でえがいた絵(え)です。『近松門左衛門』(塚越芳太郎、1894年)の口絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

1703年(ねん)に大阪(おおさか)の竹本座(たけもとざ)で初(はじ)めて上演(じょうえん)された「曽根崎心中(そねざきしんちゅう)」は、実際(じっさい)におこった事件(じけん)をもとにした物語(ものがたり)です。たいへんな評判(ひょうばん)になり、町人(ちょうにん)の世界(せかい)をえがいた芝居(しばい)がはやるようになりました。

近松(ちかまつ)は、このあとも「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」など、次々(つぎつぎ)に名作(めいさく)を書(か)きました。

町人(ちょうにん)は歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)を楽(たの)しみました。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、町人(ちょうにん)の世界(せかい)をえがいた台本(だいほん)をたくさん書(か)きました。

浮世絵(うきよえ)―歌川広重(うたがわひろしげ)と葛飾北斎(かつしかほくさい)

たくさん刷(す)られた浮世絵(うきよえ)

町(まち)の人々(ひとびと)のくらしや、役者(やくしゃ)、名所(めいしょ)などをえがいた絵(え)を、浮世絵(うきよえ)といいます。

浮世絵(うきよえ)の多(おお)くは木版画(もくはんが)です。同(おな)じ絵(え)を何枚(なんまい)も刷(す)ることができたので、たくさんの人(ひと)が手(て)に入(い)れられました。

広重(ひろしげ)と北斎(ほくさい)

歌川広重(うたがわひろしげ)は、江戸(えど)から京都(きょうと)までの東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)のようすを、「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」としてえがきました。にわか雨(あめ)の中(なか)を急(いそ)ぐ旅人(たびびと)など、旅(たび)のようすがいきいきとえがかれています。

強い雨と風の中、かさや荷物を持って坂道を急ぐ旅人たちをえがいた浮世絵
東海道(とうかいどう)の庄野(しょう)の宿(のしゅく)の近(ちか)くで、にわか雨(あめ)にあった旅人(たびびと)たち。「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」の1枚(まい)です。東海道五拾三次之内 庄野 白雨 歌川広重 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

葛飾北斎(かつしかほくさい)は、いろいろな場所(ばしょ)から見(み)た富士山(ふじさん)をえがいた「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」で知(し)られています。大(おお)きな波(なみ)の向(む)こうに富士山(ふじさん)が見(み)える絵(え)は、今(いま)では世界中(せかいちゅう)で知(し)られています。

大きくもり上がる波と、波にもまれる小舟、遠くに小さく見える富士山をえがいた浮世絵
大(おお)きな波(なみ)の向(む)こうに富士山(ふじさん)が見(み)える「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」。「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」の1枚(まい)です。冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
歌川広重(うたがわひろしげ)
東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)をえがいた「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」。旅(たび)のようすや、雨(あめ)・雪(ゆき)などの天気(てんき)もえがいた。
葛飾北斎(かつしかほくさい)
富士山(ふじさん)をえがいた「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」。いろいろな場所(ばしょ)から見(み)た富士山(ふじさん)をえがいた。

浮世絵(うきよえ)は木版画(もくはんが)で、たくさん刷(す)られました。歌川広重(うたがわひろしげ)は「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」、葛飾北斎(かつしかほくさい)は「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」をえがきました。

俳句(はいく)―松尾芭蕉(まつおばしょう)

五(ご)・七(なな)・五(ご)の17音(おん)でよむ(当時(とうじ)は俳諧(はいかい)とよばれました)も、町人(ちょうにん)たちの間(あいだ)で楽(たの)しまれました。松尾芭蕉(まつおばしょう)は、俳句(はいく)を、自然(しぜん)や人生(じんせい)を深(ふか)く表(あらわ)す芸術(げいじゅつ)に高(たか)めました。

ずきんをかぶり、杖を持っていすに座る年をとった男性の浮世絵。上に文字が書かれている
松尾芭蕉(まつおばしょう)の絵(え)。江戸時代(えどじだい)の画家(がか)、渡辺崋山(わたなべかざん)がえがいた芭蕉(ばしょう)の姿(すがた)をもとにした版画(はんが)です。「芭蕉肖像真蹟」(渡辺崋山画による) 天保年間(1830〜1844)ごろ出典:東京都立中央図書館(部分)

「おくのほそ道(みち)」の旅(たび)

芭蕉(ばしょう)は1689年(ねん)、弟子(でし)の曽良(そら)と、江戸(えど)から東北(とうほく)・北陸地方(ほくりくちほう)への長(なが)い旅(たび)に出(で)ました。156日(むいか)間(あいだ)、ほとんど歩(ある)いて旅(たび)をしました。

その旅(たび)のようすを、俳句(はいく)と文章(ぶんしょう)で書(か)いたのが「おくのほそ道(みち)」です。芭蕉(ばしょう)の作品(さくひん)の中(なか)で、いちばんよく知(し)られています。

今(いま)の山形県(やまがたけん)の山寺(やまでら)(立石寺(りっしゃくじ))では、「閑(しずか)さや岩(いわ)にしみ入(い)る蝉(せみ)の声(こえ)」という句(く)をよみました。山(やま)の寺(てら)の静(しず)けさを、岩(いわ)にしみこんでいくような蝉(せみ)の声(こえ)でえがいた句(く)です。

なぜ? 町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)は、全国(ぜんこく)に広(ひろ)がったの?
街道(かいどう)や海(うみ)の交通(こうつう)が整(ととの)って、人(ひと)や品物(しなもの)が行(い)き来(き)しやすくなりました。浮世絵(うきよえ)や本(ほん)は、何枚(なんまい)も刷(す)ることができました。さらに、寺子屋(てらこや)で読(よ)み書(か)きを学(まな)んだ人(ひと)が増(ふ)えて、本(ほん)を読(よ)んだり俳句(はいく)をつくったりする人(ひと)が多(おお)くなったのです。

松尾芭蕉(まつおばしょう)は俳句(はいく)を芸術(げいじゅつ)に高(たか)め、旅(たび)のようすを「おくのほそ道(みち)」に書(か)きました。

寺子屋(てらこや)で学(まな)ぶ子(こ)どもたち

町(まち)や村(むら)では、子(こ)どもたちが寺子屋(てらこや)に通(とお)って学(まな)びました。寺子屋(てらこや)は、幕末(ばくまつ)には全国(ぜんこく)に1万(まん)5000以上(いじょう)もあったといわれています。

机の上に紙を広げ、筆で字を書く練習をする子どもたちと、それを見る女性たちをえがいた浮世絵
寺子屋(てらこや)で、書(か)き初(ぞ)め(新年(しんねん)に初(はじ)めて字(じ)を書(か)くこと)をする子(こ)どもたち。3枚(まい)続(つづ)きの浮世絵(うきよえ)のまん中(なか)の1枚(まい)です。寺子屋書初 歌川豊国 江戸時代出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

寺子屋(てらこや)の先生(せんせい)は、師匠(ししょう)とよばれました。明治時代(めいじじだい)のはじめに東京府(とうきょうふ)が調(しら)べたところでは、江戸(えど)の寺子屋(てらこや)の師匠(ししょう)の多(おお)くは町人(ちょうにん)でした。

本(ほん)を出版(しゅっぱん)して売(う)る商売(しょうばい)も広(ひろ)がり、たくさんの人(ひと)が本(ほん)にふれるようになりました。読(よ)み書(か)きのできる人(ひと)が増(ふ)えたことが、町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)が全国(ぜんこく)に広(ひろ)がることを支(ささ)えました。

  1. 戦(たたか)いのない世(よ)の中(なか)が続(つづ)き、交通(こうつう)が整(ととの)う
  2. 大阪(おおさか)・京都(きょうと)・江戸(えど)などの町(まち)に品物(しなもの)が集(あつ)まり、町人(ちょうにん)がゆたかになる
  3. 町人(ちょうにん)が、芝居(しばい)・浮世絵(うきよえ)・俳句(はいく)などを楽(たの)しむ
  4. 寺子屋(てらこや)で読(よ)み書(か)きを学(まな)ぶ人(ひと)が増(ふ)え、文化(ぶんか)が全国(ぜんこく)に広(ひろ)がる

寺子屋(てらこや)で読(よ)み書(か)きを学(まな)ぶ人(ひと)が増(ふ)え、町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)が全国(ぜんこく)に広(ひろ)がることを支(ささ)えました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

筆を持つ年をとった男性の顔と上半身の絵
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
大阪(おおさか)や京都(きょうと)で活(かつ)やくした、歌舞伎(かぶき)と人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の台本作者(だいほんさくしゃ)。「曽根崎心中(そねざきしんちゅう)」など、町人(ちょうにん)のくらしをえがいた作品(さくひん)を多(おお)く書(か)いた。
『近松門左衛門』(塚越芳太郎、1894年)の口絵(明治時代に想像でえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
ずきんをかぶった年をとった男性の顔と上半身の浮世絵
松尾芭蕉(まつおばしょう)
俳句(はいく)(俳諧(はいかい))を芸術(げいじゅつ)に高(たか)めた人(ひと)。1689年(ねん)に東北(とうほく)・北陸(ほくりく)を旅(たび)して「おくのほそ道(みち)」を書(か)いた。
「芭蕉肖像真蹟」(渡辺崋山画による) 天保年間ごろ。出典:東京都立中央図書館(部分)
青い着物を着て、数珠を持って座る男性の浮世絵
歌川広重(うたがわひろしげ)
浮世絵(うきよえ)師(し)。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)をえがいた「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」で知(し)られる。
歌川広重 死絵 歌川国貞(三代豊国)筆 1858年。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
頭がはげ、しわのある年をとった男性が、うつむいている墨の線の絵
葛飾北斎(かつしかほくさい)
浮世絵(うきよえ)師(し)。富士山(ふじさん)をえがいた「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」で知(し)られる。
Hokusai as an old man(年をとった北斎。北斎のえがいた絵を明治時代に版画で写したもの)。出典:Smithsonian National Museum of Asian Art(フリーア美術館)(部分)

重要(じゅうよう)なところ

「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」をえがいたのは歌川広重(うたがわひろしげ)、「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」をえがいたのは葛飾北斎(かつしかほくさい)です。
「広重(ひろしげ)=東海道(とうかいどう)」「北斎(ほくさい)=富士山(ふじさん)」と、組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の台本(だいほん)を書(か)きました。
「曽根崎心中(そねざきしんちゅう)」は、近松(ちかまつ)の代表的(だいひょうてき)な作品(さくひん)です。
松尾芭蕉(まつおばしょう)は、旅(たび)をして「おくのほそ道(みち)」を書(か)きました。
芭蕉(ばしょう)は俳句(はいく)、近松(ちかまつ)は芝居(しばい)の台本(だいほん)、と分(わ)けて覚(おぼ)えましょう。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「町人の文化と新しい学問」の授業「人々が歌舞伎や浮世絵を楽しむ」
  • 教育出版:「新しい文化と学問」の授業「活気あふれる町人の文化」「今につながる江戸の文化」
  • 日本文教出版:「江戸の社会と文化・学問」の授業「町人文化の広がり」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ク):歌舞伎(かぶき)や浮世絵(うきよえ)、国学(こくがく)や蘭学(らんがく)から、町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)が栄(さか)え、新(あたら)しい学問(がくもん)がおこったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263218000000)

「町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)と新(あたら)しい学問(がくもん)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

「曽根崎心中(そねざきしんちゅう)」など、歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の台本(だいほん)を書(か)いた人(ひと)はだれですか。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)
「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんじ)」をえがいた浮世絵(うきよえ)師(し)はだれですか。歌川広重(うたがわひろしげ)
「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)」をえがいた浮世絵(うきよえ)師(し)はだれですか。葛飾北斎(かつしかほくさい)
旅(たび)をして「おくのほそ道(みち)」を書(か)いた人(ひと)はだれですか。松尾芭蕉(まつおばしょう)
江戸時代(えどじだい)、子(こ)どもたちが読(よ)み書(か)きやそろばんを学(まな)んだところを何(なん)といいますか。寺子屋(てらこや)
問(と)いへの答(こた)え

大(おお)きな戦(たたか)いのない世(よ)の中(なか)が続(つづ)き、商売(しょうばい)でゆたかになった町人(ちょうにん)たちは、芝居(しばい)や絵(え)、文学(ぶんがく)などを楽(たの)しむようになりました。町人(ちょうにん)は、歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の芝居(しばい)を見(み)に行(い)き、旅(たび)や名所(めいしょ)をえがいた浮世絵(うきよえ)を買(か)い、俳句(はいく)をよみました。寺子屋(てらこや)で読(よ)み書(か)きを学(まな)ぶ子(こ)どもも増(ふ)え、本(ほん)を読(よ)む人(ひと)も多(おお)くなりました。こうして、町人(ちょうにん)が中心(ちゅうしん)となった文化(ぶんか)が、大阪(おおさか)や京都(きょうと)、江戸(えど)などの町(まち)から全国(ぜんこく)に広(ひろ)がっていったのです。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

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