小6社会/江戸幕府と政治の安定
参勤交代とは
今日の問い幕府は、なぜ大名に、江戸と領地を行き来させたのだろう。
3行でわかる
- は、大名が1年ごとに江戸と領地を行き来する決まりです。
- 1635年、3代将軍徳川家光が、武家諸法度で定めました。
- 大名には大きな負担になりましたが、街道や宿場が整い、文化が全国に広がりました。
武家諸法度 ― 大名が守る決まり
江戸時代、全国にはおよそ260の大名がいて、それぞれの領地(藩)を治めていました。大名は、領地の城下町に城を構えて住んでいました。
幕府は、大名が守らなければならない決まりを定めました。これをといいます。1615年に、2代将軍秀忠の名で出されました。
- 新しく城をきずいてはいけない
- 城を直すときは、幕府にとどけ出る
- 幕府の許しなく、大名どうしで結婚してはいけない
決まりを破った大名は、領地を取り上げられたり、減らされたり、ほかの土地へ移されたりしました。武家諸法度は、将軍がかわるたびに出され、少しずつ内容が改められていきました。
武家諸法度は、大名が守らなければならない決まりです。破った大名は、領地を取り上げられることもありました。
参勤交代のしくみ
1年ごとに江戸と領地を行き来する
1635年、3代将軍の徳川家光は、武家諸法度を改めました。そして、大名が江戸と領地を行き来する決まりを定めました。これを参勤交代といいます。
大名は原則として、1年間は江戸に住んで将軍に仕えました(参勤)。次の1年は、領地に帰って住みました(交代)。
奥に座るのが徳川家光です。家光が大名たちに刀をあたえる場面を、明治時代に想像でえがいた絵です。「徳川十五代記略 家光公諸藩主江佩刀を給ふ図」月岡芳年 1875年出典:東京都立中央図書館(部分)
はじめは外様の大名だけが対象でしたが、1642年には譜代の大名にも広げられました。
妻や子は江戸に住む
江戸には、それぞれの大名の屋敷(大名屋敷)がありました。大名の妻や子は、人質の意味をこめて、この江戸の屋敷でくらすことになっていました。
参勤(1年目)
大名は
江戸の
屋敷に
住み、
将軍に
仕える。
交代(2年目)
大名は
領地に
帰り、
城に
住んで
領地を
治める。
妻や
子は
江戸に
残る。
なぜ? 大名の妻や子は、江戸に住んだの?
妻や子が江戸にいることは、家族を将軍のもとにあずけているのと同じです。もし大名が幕府に逆らえば、江戸にいる家族があぶなくなります。そのため、大名は幕府に逆らいにくくなりました。
参勤交代は、大名が1年ごとに江戸と領地を行き来する決まりです。1635年、3代将軍の徳川家光が定めました。
大名行列
何千人もの行列
大名が江戸と領地を行き来するときは、たくさんの家来を連れて、行列をつくって進みました。これをといいます。
大名屋敷の門から出ていく大名行列。江戸時代の中ごろに、遠近法を使ってえがかれた絵です。浮絵 御大名行列之図 歌川豊春 江戸時代出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
行列の大きさは、大名によってちがいました。いちばん大きな大名の1つ、加賀藩(今の石川県)の行列は、ふつう2000〜3000人にもなりました。
金沢から江戸まで、おおむね12泊13日かけて進みました。
参勤交代に関係する場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 石川県。大きな大名だった加賀藩の城下町。行列は2000〜3000人にもなり、江戸までおおむね12泊13日かかった。
- 三重県。東海道の宿場の1つ。今の三重県亀山市。古い町なみが残っている。
- 神奈川県。東海道の芦ノ湖のほとりに置かれた関所。江戸から出ていく女の人を特にきびしく調べた。
- 東京都。江戸の日本橋。五街道の出発点だった。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
大名には大きな負担
行列の食事や宿代、荷物を運ぶ人や馬のお金は、すべて大名が出しました。そのうえ、江戸の屋敷と領地の城の、2か所でくらすお金もかかります。
参勤交代は、大名にとってとても大きな負担でした。だんだんと、藩のお金のやりくりを苦しめるようになりました。
東海道の出発点、江戸の日本橋をわたる大名行列。手前には、魚などを売りに来た人たちがえがかれています。東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景 歌川広重 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
大名行列には大勢の家来が加わり、そのお金はすべて大名が出しました。参勤交代は、大名にとって大きな負担でした。
街道と宿場が整う
江戸の日本橋から五街道
多くの大名行列が行き来するようになると、道や、とまる場所が整えられていきました。
幕府は、江戸の日本橋を出発点に、全国へのびる5つの大きな道を整えました。これをといいます。東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道です。
中でも東海道は、東海・近畿・西日本の大名が通り、大名行列がいちばん多く通った道でした。
宿場と本陣、関所
街道には、が一定の間かくでつくられました。旅人がとまったり、荷物を運ぶ人や馬を取りかえたりする場所です。
宿場には、大名などがとまるという、特別な宿がありました。本陣は土地の古くからの家がつとめ、門や玄関、床の間のある部屋などをそなえた、大きな建物でした。
東海道の関宿(今の三重県亀山市)の本陣を、大名の一行が夜明け前に出発するところ。宿の前には、大名の紋のついた幕がはられています。東海道五拾三次 関・本陣早立 歌川広重 江戸時代・19世紀出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
また、街道の大事な場所にはが置かれ、通る人や荷物が調べられました。
- 大名が、行列をつくって江戸と領地を行き来する
- 街道が整えられ、宿場や本陣が増える
- 宿場町が栄え、人や物の行き来がさかんになる
- 江戸の文化や、各地の産物・情報が、全国に広がる
江戸の日本橋から五街道が整えられ、宿場や本陣、関所が置かれました。
参勤交代が広げたもの
参勤交代によって、毎年たくさんの武士が、全国と江戸の間を行き来しました。
大名や家来は、江戸で見聞きしたことや、江戸ではやっている物を、領地へ持ち帰りました。反対に、各地の産物も江戸へ運ばれました。
こうして、街道や宿場町がにぎわい、江戸の文化や情報が全国に行きわたりました。参勤交代は、日本の各地を結びつける役わりもはたしたのです。
| だれにとって | 参勤交代でおきたこと |
| 幕府 | 大名を江戸に来させて将軍に仕えさせ、全国の大名をおさえることができた |
| 大名 | 行列や江戸のくらしにお金がかかり、藩のお金のやりくりが苦しくなった |
| 街道や宿場の人々 | 街道や宿場が整い、宿場町がにぎわった |
| 全国 | 人や物、文化や情報の行き来がさかんになった |
参勤交代は、幕末に制度がゆるめられ、そのあと終わりました。
参勤交代は大名には大きな負担でしたが、人や物、文化や情報の行き来をさかんにし、各地を結びつけました。
この時代の人物

徳川家光
江戸幕府の3代将軍。1635年に武家諸法度を改めて、参勤交代の決まりを定めた。
重要なところ
参勤交代を武家諸法度で定めたのは、3代将軍の徳川家光です。1635年のことです。
武家諸法度を初めて出したのは2代将軍秀忠(1615年)、参勤交代を加えたのは家光(1635年)、と分けて覚えましょう。
参勤交代では、大名は原則として1年ごとに、江戸と領地を行き来しました。大名の妻や子は、江戸に住みました。
「大名は行き来する」「妻と子は江戸に住む」を、組で覚えましょう。
参勤交代は大名にとって大きな負担でしたが、街道や宿場が整い、文化が全国に広がるきっかけにもなりました。
よいえいきょうと、大名の負担の両方を説明できるようにしましょう。
たしかめ問題1/5
大名が、1年ごとに江戸と領地を行き来した決まりを何といいますか。
たしかめ問題2/5
参勤交代を武家諸法度で定めた、江戸幕府の3代将軍はだれですか。
たしかめ問題3/5
参勤交代のとき、大名の妻や子はどこに住みましたか。
江戸(江戸の大名屋敷)
たしかめ問題4/5
江戸の日本橋を出発点とする、5つの大きな道をまとめて何といいますか。
たしかめ問題5/5
宿場にあった、大名などがとまる特別な宿を何といいますか。
問いへの答え
幕府は、なぜ大名に、江戸と領地を行き来させたのだろう。
参勤交代は、大名が江戸に来て将軍に仕えることで、将軍と大名の主従の関係をはっきりさせるしくみでした。大名の妻や子は江戸に住むことになっていたので、大名は幕府に逆らいにくくなりました。また、大勢の家来を連れた行列や、江戸と領地の二重のくらしには、たくさんのお金がかかりました。こうして、幕府は全国の大名をしっかりおさえることができました。
画像の出典
- 「徳川十五代記略 家光公諸藩主江佩刀を給ふ図」月岡芳年 1875年(東京都立中央図書館)
- 浮絵 御大名行列之図 歌川豊春 江戸時代(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景 歌川広重 江戸時代・19世紀(ColBase(東京国立博物館))
- 東海道五拾三次 関・本陣早立 歌川広重 江戸時代・19世紀(国立国会図書館デジタルコレクション)