小6社会/江戸幕府と政治の安定
関ケ原の戦いと江戸幕府
今日の問い徳川家康は、どのようにして、長く続く幕府をつくったのだろう。
3行でわかる
- 1600年ので、徳川家康の東軍が、石田三成らの西軍を破りました。
- 家康は1603年に征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。
- 幕府は武家諸法度という決まりと、大名の置き場所の工夫で、大名をしっかりおさえました。
秀吉が亡くなったあと
幼い秀頼と、力の強い家康
1598年、全国を統一した豊臣秀吉が亡くなりました。あとつぎの豊臣秀頼は、まだ幼い子どもでした。秀吉は、徳川家康など力のある大名に、秀頼をささえるようたのんでいました。
家康は、三河(今の愛知県の東部)の大名の家に生まれました。織田信長と手を結び、そのあとは秀吉に従いました。
1590年、家康は関東に移り、江戸を本拠地にしました。大名の中でいちばん広い領地をもつ、とても力の強い大名になっていました。
徳川家康の絵。亡くなったあと、神(東照大権現)としてまつられた家康の姿です。下のお坊さんは天海です。徳川家康像(模本) 原本は狩野探幽筆・江戸時代17世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
家康と石田三成の対立
秀吉が亡くなると、家康はほかの大名と結びつきを強め、しだいに政治の中心に立つようになりました。
これに反対したのが、秀吉の家来として政治を動かしてきた石田三成です。三成は、家康をたおそうと、各地の大名に呼びかけました。
秀吉の死後、いちばん力の強い大名だった徳川家康が、政治の中心に立つようになりました。
関ケ原の戦い―天下分け目の戦い
1600年、美濃の関ケ原(今の岐阜県関ケ原町)で、全国の大名が2つに分かれて戦いました。家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍です。これを、関ケ原の戦いといいます。
だれが天下を治めるかが決まる戦いだったので、「天下分け目の戦い」とよばれます。
関ケ原の戦いと江戸幕府に関係する場所地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 岐阜県。徳川家康の東軍と、石田三成らの西軍が戦った場所。今の岐阜県関ケ原町。
- 大阪府。家康が2度にわたってせめ、豊臣氏がほろびた城。秀吉が築いた城で、子の秀頼が住んでいた。
- 東京都。家康が幕府を開いた場所。江戸城は将軍の住む城で、幕府の政治の中心だった。今の東京。
- 静岡県。将軍をやめた家康が住み、亡くなるまで政治を動かした場所。今の静岡県静岡市。
- 栃木県。亡くなった家康が、神(東照大権現)としてまつられた場所。日光東照宮がある。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
小早川秀秋の動き
戦いは、はじめは西軍が有利に進んでいたといわれます。ところが、西軍にいた小早川秀秋が、とちゅうで東軍に味方して、西軍をせめました。
これで流れが大きく変わり、戦いはその日のうちに、東軍の勝ちで終わりました。
関ケ原の戦いをえがいた絵の写し(模本)。のぼりや旗の紋で、どの大名の軍かがわかるようにえがかれ、大名の名前の札もついています。関ケ原合戦屏風絵(模本) 江戸時代・1836年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
勝った家康が大名を従える
勝った家康は、西軍についた大名の領地を、取り上げたり減らしたりしました。そして、その土地を、味方した大名に分けあたえました。
こうして家康は、全国の大名を従えるようになりました。
1600年の関ケ原の戦いで、家康の東軍が石田三成の西軍に勝ち、家康は全国の大名を従えました。
江戸幕府を開く
征夷大将軍になる(1603年)
1603年、家康は朝廷からに任じられ、江戸に幕府を開きました。これをといい、ここから江戸時代が始まります。
家康は、全国の大名に命じて、江戸の城や町づくりを手伝わせました。町には武士や商人、職人がたくさん集まり、江戸は全国の政治の中心になっていきました。
江戸城の建物の1つ(やぐら)。明治時代のはじめ(1872年)に、高橋由一が油絵でえがきました。江戸時代には、江戸城が将軍の住む城で、幕府の政治の中心でした。旧江戸城之図 高橋由一筆 1872年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
将軍の位を子にゆずる
1605年、家康は、将軍の位を子の徳川秀忠にゆずりました。将軍の位が徳川家に受けつがれていくことを、全国の大名に示したのです。
将軍をやめたあとの家康は「大御所」とよばれました。駿府(今の静岡県静岡市)に住みながら、亡くなるまで政治を動かしました。
1603年、家康は征夷大将軍になり、江戸幕府を開きました。将軍の位は、徳川家に受けつがれました。
大坂の陣―豊臣氏がほろびる
関ケ原の戦いのあとも、大坂城には、秀吉の子の豊臣秀頼がいました。豊臣家を大切に思う大名や武士もいました。
家康は、豊臣氏が幕府の力をおびやかさないよう、1614年と1615年の2度、大坂城をせめました。これをといいます。1度目を冬の陣、2度目を夏の陣といいます。
夏の陣で大坂城は落ち、豊臣氏はほろびました。これで、幕府に逆らえる大きな力はなくなりました。翌年の1616年、家康は駿府で亡くなりました。
- 1598年豊臣秀吉が亡くなる
- 1600年関ケ原の戦いで、家康の東軍が勝つ
- 1603年家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開く
- 1605年将軍の位を、子の秀忠にゆずる
- 1614年大坂冬の陣
- 1615年大坂夏の陣で豊臣氏がほろびる。武家諸法度を出す
- 1616年家康が亡くなる
1614年と1615年の大坂の陣で豊臣氏がほろび、幕府に逆らえる大きな力はなくなりました。
大名をおさえるしくみ
幕府は、全国の大名が逆らわないように、さまざまなしくみを考えました。
武家諸法度
その1つが、大名が守らなければならない決まり、です。1615年に、2代将軍秀忠の名で出されました。
くわしくは、次の「参勤交代とは」で学びます。
大名の置き場所の工夫
幕府は、大名を、徳川家との関係によって3つに分けました。
| 大名の種類 | どんな大名か | おもに置かれた場所 |
| 徳川家の親類の大名(尾張・紀伊・水戸の徳川家など) | 江戸の近くや、全国の大事な場所 |
| 関ケ原の戦いの前から、徳川家の家来だった大名 | 江戸の近くや、大事な場所 |
| 関ケ原の戦いのころから、徳川家に従った大名 | 江戸から遠い場所 |
なぜ? 外様の大名を、江戸から遠い場所に置いたの?
外様の大名は、もとは家康と同じように豊臣家に仕えていた大名です。大きな領地をもつ大名もいました。もし逆らっても、すぐに江戸まで攻めてこられないよう、遠い場所に置いたのです。その間には、信頼できる親藩や譜代を置いて、見はらせました。
都市と鉱山を直接治める
幕府は、全国の大事な都市や、金や銀がとれる鉱山を、自分で直接治めました。こうして幕府は、ほかのどの大名よりも大きな力をもちました。
戦国の世
大名どうしが
争い、
力の
強い
者が
勝ち
上がる。
江戸時代
将軍が
全国の
大名をおさえ、
大きな
戦いのない
時代が
長く
続く。
こうしたしくみによって、江戸幕府は、1867年まで260年あまり続きました。
幕府は大名を親藩・譜代・外様に分けて置き場所を工夫し、大事な都市や鉱山を直接治めました。江戸幕府は260年あまり続きました。
この時代の人物

徳川家康
関ケ原の戦いに勝ち、1603年に征夷大将軍になって江戸幕府を開いた。大坂の陣で豊臣氏をほろぼした。

石田三成
豊臣秀吉の家来。秀吉が亡くなったあと、家康をたおそうと大名に呼びかけ、関ケ原の戦いで西軍を率いて敗れた。

徳川秀忠
家康の子で、江戸幕府の2代将軍。1615年に武家諸法度を出した。
豊豊臣秀頼
秀吉の子。大坂城に住んでいたが、1615年の大坂夏の陣で豊臣氏はほろびた。
重要なところ
関ケ原の戦いは1600年、江戸幕府が開かれたのは1603年です。
「戦いに勝つ(1600年)」→「将軍になって幕府を開く(1603年)」の順番で覚えましょう。
江戸幕府を開いたのは、徳川家康です。
天下統一をしたのは秀吉、幕府を開いたのは家康、と分けて覚えましょう。
武家諸法度は、大名が守る決まりです。1615年に出されました。
百姓から武器を取り上げた「刀狩」(秀吉)とは、別のものです。
外様の大名は、関ケ原の戦いのころから徳川家に従った大名で、江戸から遠い場所に置かれました。
親藩・譜代・外様の3つと、置かれた場所を、組で説明できるようにしましょう。
たしかめ問題1/6
1600年に、全国の大名が東軍と西軍に分かれて戦った戦いを何といいますか。
たしかめ問題2/6
関ケ原の戦いで、西軍の中心になった人はだれですか。
たしかめ問題3/6
徳川家康が江戸幕府を開いたのは何年ですか。
たしかめ問題4/6
1614年と1615年に、家康が大坂城をせめて豊臣氏をほろぼした戦いを何といいますか。
大坂の陣(大坂冬の陣・夏の陣)
たしかめ問題5/6
幕府が、大名が守らなければならない決まりとして出したものを何といいますか。
たしかめ問題6/6
関ケ原の戦いのころから徳川家に従い、江戸から遠い場所に置かれた大名を何といいますか。
外様(外様大名)
問いへの答え
徳川家康は、どのようにして、長く続く幕府をつくったのだろう。
家康は、関ケ原の戦いに勝って全国の大名を従え、1603年に江戸幕府を開きました。大坂の陣で豊臣氏をほろぼして、幕府に逆らう大きな力をなくしました。さらに、武家諸法度で大名が守る決まりを定め、徳川家と関係の深い大名を江戸の近くや大事な場所に、関ケ原のころに従った大名を江戸から遠い場所に置きました。こうして大名が幕府に逆らいにくいしくみをつくったので、江戸幕府は260年あまり続きました。
画像の出典
- 徳川家康像(模本) 原本は狩野探幽筆・江戸時代17世紀(ColBase(東京国立博物館))
- 関ケ原合戦屏風絵(模本) 江戸時代・1836年(ColBase(東京国立博物館))
- 旧江戸城之図 高橋由一筆 1872年(ColBase(東京国立博物館))
- 「太平記英勇伝」岸田光成(石田三成のこと) 落合芳幾 1867年。江戸時代の浮世絵は、名前を少し変えてえがいた(東京都立中央図書館)
- 「徳川十五代記略 秀忠公女使を送り給ふ図」月岡芳年 1875年(明治時代に想像でえがいた絵)(東京都立中央図書館)