教科書補助小6 社会 / 江戸幕府と政治の安定 / 5本中の1本目

関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)と江戸幕府(えどばくふ)とは? 徳川家康(とくがわいえやす)が260年(ねん)あまり続(つづ)く幕府(ばくふ)を開(ひら)くまでをわかりやすく

教科書では:東京書籍「江戸幕府と政治の安定」の「徳川家康と江戸幕府」/教育出版「全国統一への動き」の「江戸幕府を開いた徳川家康」/日本文教出版「武士による政治の安定」の「江戸幕府を開いた徳川家康」

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  1. 1600年(ねん)ので、徳川家康(とくがわいえやす)の東軍(とうぐん)が、石田三成(いしだみつなり)らの西軍(せいぐん)を破(やぶ)りました。
  2. 家康(いえやす)は1603年(ねん)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、江戸(えど)に幕府(ばくふ)を開(ひら)きました。
  3. 幕府(ばくふ)は武家諸法度(ぶけしょはっと)という決(き)まりと、大名(だいみょう)の置(お)き場所(ばしょ)の工夫(くふう)で、大名(だいみょう)をしっかりおさえました。
今日(きょう)の問(と)い

徳川家康(とくがわいえやす)は、どのようにして、長(なが)く続(つづ)く幕府(ばくふ)をつくったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

秀吉(ひでよし)が亡(な)くなったあと

幼(おさな)い秀頼(ひでより)と、力(ちから)の強(つよ)い家康(いえやす)

1598年(ねん)、全国(ぜんこく)を統一(とういつ)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡(な)くなりました。あとつぎの豊臣秀頼(とよとみひでより)は、まだ幼(おさな)い子(こ)どもでした。秀吉(ひでよし)は、徳川家康(とくがわいえやす)など力(ちから)のある大名(だいみょう)に、秀頼(ひでより)をささえるようたのんでいました。

家康(いえやす)は、三河(みかわ)(今(いま)の愛知県(あいちけん)の東部(とうぶ))の大名(だいみょう)の家(いえ)に生(う)まれました。織田信長(おだのぶなが)と手(て)を結(むす)び、そのあとは秀吉(ひでよし)に従(したが)いました。

1590年(ねん)、家康(いえやす)は関東(かんとう)に移(うつ)り、江戸(えど)を本拠地(ほんきょち)にしました。大名(だいみょう)の中(なか)でいちばん広(ひろ)い領地(りょうち)をもつ、とても力(ちから)の強(つよ)い大名(だいみょう)になっていました。

黒い着物すがたで冠をかぶり、笏を持って正面を向いて座る男性と、その下でむかいあって座る、緑とだいだい色の衣のお坊さんの絵
徳川家康(とくがわいえやす)の絵(え)。亡(な)くなったあと、神(かみ)(東照大権現(とうしょうだいごんげん))としてまつられた家康(いえやす)の姿(すがた)です。下(した)のお坊(ぼう)さんは天海(てんかい)です。徳川家康像(模本) 原本は狩野探幽筆・江戸時代17世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

家康(いえやす)と石田三成(いしだみつなり)の対立(たいりつ)

秀吉(ひでよし)が亡(な)くなると、家康(いえやす)はほかの大名(だいみょう)と結(むす)びつきを強(つよ)め、しだいに政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)に立(た)つようになりました。

これに反対(はんたい)したのが、秀吉(ひでよし)の家来(けらい)として政治(せいじ)を動(うご)かしてきた石田三成(いしだみつなり)です。三成(みつなり)は、家康(いえやす)をたおそうと、各地(かくち)の大名(だいみょう)に呼(よ)びかけました。

秀吉(ひでよし)の死後(しご)、いちばん力(ちから)の強(つよ)い大名(だいみょう)だった徳川家康(とくがわいえやす)が、政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)に立(た)つようになりました。

関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)―天下(てんか)分(わ)け目(め)の戦(たたか)い

1600年(ねん)、美濃(みの)の関ケ原(せきがはら)(今(いま)の岐阜県(ぎふけん)関ケ原(せきがはら)町(ちょう))で、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)が2つに分(わ)かれて戦(たたか)いました。家康(いえやす)を中心(ちゅうしん)とする東軍(とうぐん)と、石田三成(いしだみつなり)を中心(ちゅうしん)とする西軍(せいぐん)です。これを、関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)といいます。

だれが天下(てんか)を治(おさ)めるかが決(き)まる戦(たたか)いだったので、「天下(てんか)分(わ)け目(め)の戦(たたか)い」とよばれます。

関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)と江戸幕府(えどばくふ)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 岐阜県(ぎふけん)。徳川家康(とくがわいえやす)の東軍(とうぐん)と、石田三成(いしだみつなり)らの西軍(せいぐん)が戦(たたか)った場所(ばしょ)。今(いま)の岐阜県(ぎふけん)関ケ原(せきがはら)町(まち)。
  • 大阪府(おおさかふ)。家康(いえやす)が2度(ど)にわたってせめ、豊臣氏(とよとみし)がほろびた城(しろ)。秀吉(ひでよし)が築(きず)いた城(しろ)で、子(こ)の秀頼(ひでより)が住(す)んでいた。
  • 東京都(とうきょうと)。家康(いえやす)が幕府(ばくふ)を開(ひら)いた場所(ばしょ)。江戸城(えどじょう)は将軍(しょうぐん)の住(す)む城(しろ)で、幕府(ばくふ)の政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)だった。今(いま)の東京(とうきょう)。
  • 静岡県(しずおかけん)。将軍(しょうぐん)をやめた家康(いえやす)が住(す)み、亡(な)くなるまで政治(せいじ)を動(うご)かした場所(ばしょ)。今(いま)の静岡県静岡市(しずおかけんしずおかし)。
  • 栃木県(とちぎけん)。亡(な)くなった家康(いえやす)が、神(かみ)(東照大権現(とうしょうだいごんげん))としてまつられた場所(ばしょ)。日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)がある。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

小早川秀秋(こばやかわひであき)の動(うご)き

戦(たたか)いは、はじめは西軍(せいぐん)が有利(ゆうり)に進(すす)んでいたといわれます。ところが、西軍(せいぐん)にいた小早川秀秋(こばやかわひであき)が、とちゅうで東軍(とうぐん)に味方(みかた)して、西軍(せいぐん)をせめました。

これで流(なが)れが大(おお)きく変(か)わり、戦(たたか)いはその日(ひ)のうちに、東軍(とうぐん)の勝(か)ちで終(お)わりました。

旗やのぼりを立てた、たくさんの武士や馬の行列が、画面いっぱいにえがかれた合戦の絵
関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)をえがいた絵(え)の写(うつ)し(模本(もほん))。のぼりや旗(はた)の紋(もん)で、どの大名(だいみょう)の軍(ぐん)かがわかるようにえがかれ、大名(だいみょう)の名前(なまえ)の札(ふだ)もついています。関ケ原合戦屏風絵(模本) 江戸時代・1836年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

勝(か)った家康(いえやす)が大名(だいみょう)を従(したが)える

勝(か)った家康(いえやす)は、西軍(せいぐん)についた大名(だいみょう)の領地(りょうち)を、取(と)り上(あ)げたり減(へ)らしたりしました。そして、その土地(とち)を、味方(みかた)した大名(だいみょう)に分(わ)けあたえました。

こうして家康(いえやす)は、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)を従(したが)えるようになりました。

1600年(ねん)の関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で、家康(いえやす)の東軍(とうぐん)が石田三成(いしだみつなり)の西軍(せいぐん)に勝(か)ち、家康(いえやす)は全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)を従(したが)えました。

江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)く

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になる(1603年(ねん))

1603年(ねん)、家康(いえやす)は朝廷(ちょうてい)からに任(にん)じられ、江戸(えど)に幕府(ばくふ)を開(ひら)きました。これをといい、ここから江戸時代(えどじだい)が始(はじ)まります。

家康(いえやす)は、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)に命(めい)じて、江戸(えど)の城(しろ)や町(まち)づくりを手伝(てつだ)わせました。町(まち)には武士(ぶし)や商人(しょうにん)、職人(しょくにん)がたくさん集(あつ)まり、江戸(えど)は全国(ぜんこく)の政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)になっていきました。

夕方の空の下、高い石垣の上に立つ、白いかべの3階建ての城の建物をえがいた油絵
江戸城(えどじょう)の建物(たてもの)の1つ(やぐら)。明治時代(めいじじだい)のはじめ(1872年(ねん))に、高橋由一(たかはしゆいち)が油絵(あぶらえ)でえがきました。江戸時代(えどじだい)には、江戸城(えどじょう)が将軍(しょうぐん)の住(す)む城(しろ)で、幕府(ばくふ)の政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)でした。旧江戸城之図 高橋由一筆 1872年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

将軍(しょうぐん)の位(くらい)を子(こ)にゆずる

1605年(ねん)、家康(いえやす)は、将軍(しょうぐん)の位(くらい)を子(こ)の徳川秀忠(とくがわひでただ)にゆずりました。将軍(しょうぐん)の位(くらい)が徳川家(とくがわけ)に受(う)けつがれていくことを、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)に示(しめ)したのです。

将軍(しょうぐん)をやめたあとの家康(いえやす)は「大御所(おおごしょ)」とよばれました。駿府(すんぷ)(今(いま)の静岡県静岡市(しずおかけんしずおかし))に住(す)みながら、亡(な)くなるまで政治(せいじ)を動(うご)かしました。

1603年(ねん)、家康(いえやす)は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)きました。将軍(しょうぐん)の位(くらい)は、徳川家(とくがわけ)に受(う)けつがれました。

大坂(おおさか)の陣(じん)―豊臣氏(とよとみし)がほろびる

関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)のあとも、大坂城(おおさかじょう)には、秀吉(ひでよし)の子(こ)の豊臣秀頼(とよとみひでより)がいました。豊臣家(とよとみけ)を大切(たいせつ)に思(おも)う大名(だいみょう)や武士(ぶし)もいました。

家康(いえやす)は、豊臣氏(とよとみし)が幕府(ばくふ)の力(ちから)をおびやかさないよう、1614年(ねん)と1615年(ねん)の2度(ど)、大坂城(おおさかじょう)をせめました。これをといいます。1度目(どめ)を冬(ふゆ)の陣(じん)、2度目(どめ)を夏(なつ)の陣(じん)といいます。

夏(なつ)の陣(じん)で大坂城(おおさかじょう)は落(お)ち、豊臣氏(とよとみし)はほろびました。これで、幕府(ばくふ)に逆(さか)らえる大(おお)きな力(ちから)はなくなりました。翌年(よくねん)の1616年(ねん)、家康(いえやす)は駿府(すんぷ)で亡(な)くなりました。

  1. 1598年(ねん)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が亡(な)くなる
  2. 1600年(ねん)関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で、家康(いえやす)の東軍(とうぐん)が勝(か)つ
  3. 1603年(ねん)家康(いえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)く
  4. 1605年(ねん)将軍(しょうぐん)の位(くらい)を、子(こ)の秀忠(ひでただ)にゆずる
  5. 1614年(ねん)大坂冬(おおさかふゆ)の陣(じん)
  6. 1615年(ねん)大坂夏(おおさかなつ)の陣(じん)で豊臣氏(とよとみし)がほろびる。武家諸法度(ぶけしょはっと)を出(だ)す
  7. 1616年(ねん)家康(いえやす)が亡(な)くなる

1614年(ねん)と1615年(ねん)の大坂(おおさか)の陣(じん)で豊臣氏(とよとみし)がほろび、幕府(ばくふ)に逆(さか)らえる大(おお)きな力(ちから)はなくなりました。

大名(だいみょう)をおさえるしくみ

幕府(ばくふ)は、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)が逆(さか)らわないように、さまざまなしくみを考(かんが)えました。

武家諸法度(ぶけしょはっと)

その1つが、大名(だいみょう)が守(まも)らなければならない決(き)まり、です。1615年(ねん)に、2代将軍秀忠(だいしょうぐんひでただ)の名(な)で出(だ)されました。

くわしくは、次(つぎ)の「参勤交代(さんきんこうたい)とは」で学(まな)びます。

大名(だいみょう)の置(お)き場所(ばしょ)の工夫(くふう)

幕府(ばくふ)は、大名(だいみょう)を、徳川家(とくがわけ)との関係(かんけい)によって3つに分(わ)けました。

大名(だいみょう)の種類(しゅるい)どんな大名(だいみょう)かおもに置(お)かれた場所(ばしょ)
徳川家(とくがわけ)の親類(しんるい)の大名(だいみょう)(尾張(おわり)・紀伊(きい)・水戸(みと)の徳川家(とくがわけ)など)江戸(えど)の近(ちか)くや、全国(ぜんこく)の大事(だいじ)な場所(ばしょ)
関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)の前(まえ)から、徳川家(とくがわけ)の家来(けらい)だった大名(だいみょう)江戸(えど)の近(ちか)くや、大事(だいじ)な場所(ばしょ)
関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)のころから、徳川家(とくがわけ)に従(したが)った大名(だいみょう)江戸(えど)から遠(とお)い場所(ばしょ)
なぜ? 外様(とざま)の大名(だいみょう)を、江戸(えど)から遠(とお)い場所(ばしょ)に置(お)いたの?
外様(とざま)の大名(だいみょう)は、もとは家康(いえやす)と同(おな)じように豊臣家(とよとみけ)に仕(つか)えていた大名(だいみょう)です。大(おお)きな領地(りょうち)をもつ大名(だいみょう)もいました。もし逆(さか)らっても、すぐに江戸(えど)まで攻(せ)めてこられないよう、遠(とお)い場所(ばしょ)に置(お)いたのです。その間(あいだ)には、信頼(しんらい)できる親藩(しんぱん)や譜代(ふだい)を置(お)いて、見(み)はらせました。

都市(とし)と鉱山(こうざん)を直接(ちょくせつ)治(おさ)める

幕府(ばくふ)は、全国(ぜんこく)の大事(だいじ)な都市(とし)や、金(きん)や銀(ぎん)がとれる鉱山(こうざん)を、自分(じぶん)で直接(ちょくせつ)治(おさ)めました。こうして幕府(ばくふ)は、ほかのどの大名(だいみょう)よりも大(おお)きな力(ちから)をもちました。

戦国(せんごく)の世(よ)
大名(だいみょう)どうしが争(あらそ)い、力(ちから)の強(つよ)い者(もの)が勝(か)ち上(あ)がる。
江戸時代(えどじだい)
将軍(しょうぐん)が全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)をおさえ、大(おお)きな戦(たたか)いのない時代(じだい)が長(なが)く続(つづ)く。

こうしたしくみによって、江戸幕府(えどばくふ)は、1867年(ねん)まで260年(ねん)あまり続(つづ)きました。

幕府(ばくふ)は大名(だいみょう)を親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)に分(わ)けて置(お)き場所(ばしょ)を工夫(くふう)し、大事(だいじ)な都市(とし)や鉱山(こうざん)を直接(ちょくせつ)治(おさ)めました。江戸幕府(えどばくふ)は260年(ねん)あまり続(つづ)きました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

黒い着物すがたで冠をかぶり、笏を持って正面を向く男性の絵
徳川家康(とくがわいえやす)
関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)に勝(か)ち、1603年(ねん)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)いた。大坂(おおさか)の陣(じん)で豊臣氏(とよとみし)をほろぼした。
徳川家康像(模本) 原本は狩野探幽筆・江戸時代17世紀。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
白いはち巻きをしめ、紺色の陣羽織を着た武将の浮世絵
石田三成(いしだみつなり)
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家来(けらい)。秀吉(ひでよし)が亡(な)くなったあと、家康(いえやす)をたおそうと大名(だいみょう)に呼(よ)びかけ、関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で西軍(せいぐん)を率(ひき)いて敗(やぶ)れた。
「太平記英勇伝」岸田光成(石田三成のこと) 落合芳幾 1867年。江戸時代の浮世絵は、名前を少し変えてえがいた。出典:東京都立中央図書館(部分)
水色の着物すがたで、刀を持って立つ若い武士の浮世絵
徳川秀忠(とくがわひでただ)
家康(いえやす)の子(こ)で、江戸幕府(えどばくふ)の2代将軍(だいしょうぐん)。1615年(ねん)に武家諸法度(ぶけしょはっと)を出(だ)した。
「徳川十五代記略 秀忠公女使を送り給ふ図」月岡芳年 1875年(明治時代に想像でえがいた絵)。出典:東京都立中央図書館(部分)
豊臣秀頼(とよとみひでより)
秀吉(ひでよし)の子(こ)。大坂城(おおさかじょう)に住(す)んでいたが、1615年(ねん)の大坂夏(おおさかなつ)の陣(じん)で豊臣氏(とよとみし)はほろびた。

重要(じゅうよう)なところ

関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)は1600年(ねん)、江戸幕府(えどばくふ)が開(ひら)かれたのは1603年(ねん)です。
「戦(たたか)いに勝(か)つ(1600年(ねん))」→「将軍(しょうぐん)になって幕府(ばくふ)を開(ひら)く(1603年(ねん))」の順番(じゅんばん)で覚(おぼ)えましょう。
江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)いたのは、徳川家康(とくがわいえやす)です。
天下統一(てんかとういつ)をしたのは秀吉(ひでよし)、幕府(ばくふ)を開(ひら)いたのは家康(いえやす)、と分(わ)けて覚(おぼ)えましょう。
武家諸法度(ぶけしょはっと)は、大名(だいみょう)が守(まも)る決(き)まりです。1615年(ねん)に出(だ)されました。
百姓(ひゃくしょう)から武器(ぶき)を取(と)り上(あ)げた「刀狩(かたながり)」(秀吉(ひでよし))とは、別(べつ)のものです。
外様(とざま)の大名(だいみょう)は、関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)のころから徳川家(とくがわけ)に従(したが)った大名(だいみょう)で、江戸(えど)から遠(とお)い場所(ばしょ)に置(お)かれました。
親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)・外様(とざま)の3つと、置(お)かれた場所(ばしょ)を、組(くみ)で説明(せつめい)できるようにしましょう。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「江戸幕府と政治の安定」の授業「徳川家康と江戸幕府」
  • 教育出版:「全国統一への動き」の授業「江戸幕府を開いた徳川家康」
  • 日本文教出版:「武士による政治の安定」の授業「江戸幕府を開いた徳川家康」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(キ):江戸幕府(えどばくふ)の始(はじ)まり、参勤交代(さんきんこうたい)や鎖国(さこく)、身分(みぶん)のしくみから、武士(ぶし)による政治(せいじ)が安定(あんてい)したことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263217000000)

「江戸幕府(えどばくふ)と政治(せいじ)の安定(あんてい)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1600年(ねん)に、全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)が東軍(とうぐん)と西軍(せいぐん)に分(わ)かれて戦(たたか)った戦(たたか)いを何(なん)といいますか。関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)
関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)で、西軍(せいぐん)の中心(ちゅうしん)になった人(ひと)はだれですか。石田三成(いしだみつなり)
徳川家康(とくがわいえやす)が江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)いたのは何年(なんねん)ですか。1603年(ねん)
1614年(ねん)と1615年(ねん)に、家康(いえやす)が大坂城(おおさかじょう)をせめて豊臣氏(とよとみし)をほろぼした戦(たたか)いを何(なん)といいますか。大坂(おおさか)の陣(じん)(大坂冬(おおさかふゆ)の陣(じん)・夏(なつ)の陣(じん))
幕府(ばくふ)が、大名(だいみょう)が守(まも)らなければならない決(き)まりとして出(だ)したものを何(なん)といいますか。武家諸法度(ぶけしょはっと)
関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)のころから徳川家(とくがわけ)に従(したが)い、江戸(えど)から遠(とお)い場所(ばしょ)に置(お)かれた大名(だいみょう)を何(なん)といいますか。外様(とざま)(外様(とざま)大名(だいみょう))
問(と)いへの答(こた)え

家康(いえやす)は、関ケ原の戦い(せきがはらのたたかい)に勝(か)って全国(ぜんこく)の大名(だいみょう)を従(したが)え、1603年(ねん)に江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)きました。大坂(おおさか)の陣(じん)で豊臣氏(とよとみし)をほろぼして、幕府(ばくふ)に逆(さか)らう大(おお)きな力(ちから)をなくしました。さらに、武家諸法度(ぶけしょはっと)で大名(だいみょう)が守(まも)る決(き)まりを定(さだ)め、徳川家(とくがわけ)と関係(かんけい)の深(ふか)い大名(だいみょう)を江戸(えど)の近(ちか)くや大事(だいじ)な場所(ばしょ)に、関ケ原(せきがはら)のころに従(したが)った大名(だいみょう)を江戸(えど)から遠(とお)い場所(ばしょ)に置(お)きました。こうして大名(だいみょう)が幕府(ばくふ)に逆(さか)らいにくいしくみをつくったので、江戸幕府(えどばくふ)は260年(ねん)あまり続(つづ)きました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

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