関ケ原の戦いと江戸幕府とは? 徳川家康が260年あまり続く幕府を開くまでをわかりやすく
教科書では:東京書籍「江戸幕府と政治の安定」の「徳川家康と江戸幕府」/教育出版「全国統一への動き」の「江戸幕府を開いた徳川家康」/日本文教出版「武士による政治の安定」の「江戸幕府を開いた徳川家康」
- 1600年ので、徳川家康の東軍が、石田三成らの西軍を破りました。
- 家康は1603年に征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。
- 幕府は武家諸法度という決まりと、大名の置き場所の工夫で、大名をしっかりおさえました。
徳川家康は、どのようにして、長く続く幕府をつくったのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。秀吉が亡くなったあと
幼い秀頼と、力の強い家康
1598年、全国を統一した豊臣秀吉が亡くなりました。あとつぎの豊臣秀頼は、まだ幼い子どもでした。秀吉は、徳川家康など力のある大名に、秀頼をささえるようたのんでいました。
家康は、三河(今の愛知県の東部)の大名の家に生まれました。織田信長と手を結び、そのあとは秀吉に従いました。
1590年、家康は関東に移り、江戸を本拠地にしました。大名の中でいちばん広い領地をもつ、とても力の強い大名になっていました。

家康と石田三成の対立
秀吉が亡くなると、家康はほかの大名と結びつきを強め、しだいに政治の中心に立つようになりました。
これに反対したのが、秀吉の家来として政治を動かしてきた石田三成です。三成は、家康をたおそうと、各地の大名に呼びかけました。
秀吉の死後、いちばん力の強い大名だった徳川家康が、政治の中心に立つようになりました。
関ケ原の戦い―天下分け目の戦い
1600年、美濃の関ケ原(今の岐阜県関ケ原町)で、全国の大名が2つに分かれて戦いました。家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍です。これを、関ケ原の戦いといいます。
だれが天下を治めるかが決まる戦いだったので、「天下分け目の戦い」とよばれます。
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 岐阜県。徳川家康の東軍と、石田三成らの西軍が戦った場所。今の岐阜県関ケ原町。
- 大阪府。家康が2度にわたってせめ、豊臣氏がほろびた城。秀吉が築いた城で、子の秀頼が住んでいた。
- 東京都。家康が幕府を開いた場所。江戸城は将軍の住む城で、幕府の政治の中心だった。今の東京。
- 静岡県。将軍をやめた家康が住み、亡くなるまで政治を動かした場所。今の静岡県静岡市。
- 栃木県。亡くなった家康が、神(東照大権現)としてまつられた場所。日光東照宮がある。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
小早川秀秋の動き
戦いは、はじめは西軍が有利に進んでいたといわれます。ところが、西軍にいた小早川秀秋が、とちゅうで東軍に味方して、西軍をせめました。
これで流れが大きく変わり、戦いはその日のうちに、東軍の勝ちで終わりました。

勝った家康が大名を従える
勝った家康は、西軍についた大名の領地を、取り上げたり減らしたりしました。そして、その土地を、味方した大名に分けあたえました。
こうして家康は、全国の大名を従えるようになりました。
1600年の関ケ原の戦いで、家康の東軍が石田三成の西軍に勝ち、家康は全国の大名を従えました。
江戸幕府を開く
征夷大将軍になる(1603年)
1603年、家康は朝廷からに任じられ、江戸に幕府を開きました。これをといい、ここから江戸時代が始まります。
家康は、全国の大名に命じて、江戸の城や町づくりを手伝わせました。町には武士や商人、職人がたくさん集まり、江戸は全国の政治の中心になっていきました。

将軍の位を子にゆずる
1605年、家康は、将軍の位を子の徳川秀忠にゆずりました。将軍の位が徳川家に受けつがれていくことを、全国の大名に示したのです。
将軍をやめたあとの家康は「大御所」とよばれました。駿府(今の静岡県静岡市)に住みながら、亡くなるまで政治を動かしました。
1603年、家康は征夷大将軍になり、江戸幕府を開きました。将軍の位は、徳川家に受けつがれました。
大坂の陣―豊臣氏がほろびる
関ケ原の戦いのあとも、大坂城には、秀吉の子の豊臣秀頼がいました。豊臣家を大切に思う大名や武士もいました。
家康は、豊臣氏が幕府の力をおびやかさないよう、1614年と1615年の2度、大坂城をせめました。これをといいます。1度目を冬の陣、2度目を夏の陣といいます。
夏の陣で大坂城は落ち、豊臣氏はほろびました。これで、幕府に逆らえる大きな力はなくなりました。翌年の1616年、家康は駿府で亡くなりました。
- 1598年豊臣秀吉が亡くなる
- 1600年関ケ原の戦いで、家康の東軍が勝つ
- 1603年家康が征夷大将軍になり、江戸幕府を開く
- 1605年将軍の位を、子の秀忠にゆずる
- 1614年大坂冬の陣
- 1615年大坂夏の陣で豊臣氏がほろびる。武家諸法度を出す
- 1616年家康が亡くなる
1614年と1615年の大坂の陣で豊臣氏がほろび、幕府に逆らえる大きな力はなくなりました。
大名をおさえるしくみ
幕府は、全国の大名が逆らわないように、さまざまなしくみを考えました。
武家諸法度
その1つが、大名が守らなければならない決まり、です。1615年に、2代将軍秀忠の名で出されました。
くわしくは、次の「参勤交代とは」で学びます。
大名の置き場所の工夫
幕府は、大名を、徳川家との関係によって3つに分けました。
| 大名の種類 | どんな大名か | おもに置かれた場所 |
|---|---|---|
| 徳川家の親類の大名(尾張・紀伊・水戸の徳川家など) | 江戸の近くや、全国の大事な場所 | |
| 関ケ原の戦いの前から、徳川家の家来だった大名 | 江戸の近くや、大事な場所 | |
| 関ケ原の戦いのころから、徳川家に従った大名 | 江戸から遠い場所 |
外様の大名は、もとは家康と同じように豊臣家に仕えていた大名です。大きな領地をもつ大名もいました。もし逆らっても、すぐに江戸まで攻めてこられないよう、遠い場所に置いたのです。その間には、信頼できる親藩や譜代を置いて、見はらせました。
都市と鉱山を直接治める
幕府は、全国の大事な都市や、金や銀がとれる鉱山を、自分で直接治めました。こうして幕府は、ほかのどの大名よりも大きな力をもちました。
こうしたしくみによって、江戸幕府は、1867年まで260年あまり続きました。
幕府は大名を親藩・譜代・外様に分けて置き場所を工夫し、大事な都市や鉱山を直接治めました。江戸幕府は260年あまり続きました。
この時代の人物



重要なところ
「戦いに勝つ(1600年)」→「将軍になって幕府を開く(1603年)」の順番で覚えましょう。
天下統一をしたのは秀吉、幕府を開いたのは家康、と分けて覚えましょう。
百姓から武器を取り上げた「刀狩」(秀吉)とは、別のものです。
親藩・譜代・外様の3つと、置かれた場所を、組で説明できるようにしましょう。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「江戸幕府と政治の安定」の授業「徳川家康と江戸幕府」
- 教育出版:「全国統一への動き」の授業「江戸幕府を開いた徳川家康」
- 日本文教出版:「武士による政治の安定」の授業「江戸幕府を開いた徳川家康」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(キ):江戸幕府の始まり、参勤交代や鎖国、身分のしくみから、武士による政治が安定したことを理解する。(学習指導要領コード 0263217000000)
たしかめ問題
1600年に、全国の大名が東軍と西軍に分かれて戦った戦いを何といいますか。
関ケ原の戦い関ケ原の戦いで、西軍の中心になった人はだれですか。
石田三成徳川家康が江戸幕府を開いたのは何年ですか。
1603年1614年と1615年に、家康が大坂城をせめて豊臣氏をほろぼした戦いを何といいますか。
大坂の陣(大坂冬の陣・夏の陣)幕府が、大名が守らなければならない決まりとして出したものを何といいますか。
武家諸法度関ケ原の戦いのころから徳川家に従い、江戸から遠い場所に置かれた大名を何といいますか。
外様(外様大名)家康は、関ケ原の戦いに勝って全国の大名を従え、1603年に江戸幕府を開きました。大坂の陣で豊臣氏をほろぼして、幕府に逆らう大きな力をなくしました。さらに、武家諸法度で大名が守る決まりを定め、徳川家と関係の深い大名を江戸の近くや大事な場所に、関ケ原のころに従った大名を江戸から遠い場所に置きました。こうして大名が幕府に逆らいにくいしくみをつくったので、江戸幕府は260年あまり続きました。
出典
- 岐阜県観光連盟「関ケ原古戦場 決戦地」
- 明治大学博物館「武家諸法度」(展示の解説)
- 静岡市「徳川家康~大御所と駿府城下町~」
- ColBase「徳川家康像(模本)」の解説(東京国立博物館)
- 大阪府「大坂城跡(大阪城公園)」(大坂夏の陣で焼失)
- 白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(宮帯出版社、2014年)
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