教科書補助小6 社会 / 今に伝わる室町文化 / 3本中の1本目

室町幕府(むろまちばくふ)と金閣(きんかく)・銀閣(ぎんかく)とは? 足利義満(あしかがよしみつ)・義政(よしまさ)と応仁(おうにん)の乱(らん)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「今に伝わる室町文化」の「足利義政が建てた銀閣」/教育出版「室町文化と力をつける人々」/日本文教出版「今に伝わる室町の文化と人々のくらし」の「京都に幕府がおかれたころのようす」「金閣と銀閣を調べる」

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  1. 鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)がたおれたあと、足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都(きょうと)に幕府(ばくふ)を開(ひら)きました。のちに室町幕府(むろまちばくふ)とよばれる幕府(ばくふ)です。
  2. 3代将軍(だいしょうぐん)足利義満(あしかがよしみつ)のころ、幕府(ばくふ)はいちばん栄(さか)えました。明(みん)との貿易(ぼうえき)で利益(りえき)を得(え)て、京都(きょうと)の北山(きたやま)に金閣(きんかく)を建(た)てました。
  3. 8代将軍(だいしょうぐん)足利義政(あしかがよしまさ)のころ、応仁(おうにん)の乱(らん)が起(お)こって幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)まり、そのあとに東山(ひがしやま)に銀閣(ぎんかく)が建(た)てられました。
今日(きょう)の問(と)い

金閣(きんかく)と銀閣(ぎんかく)は、なぜこんなにちがう建物(たてもの)なのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

京都(きょうと)に開(ひら)かれた室町幕府(むろまちばくふ)

1333年(ねん)に鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)がほろびたあと、1338年(ねん)、足利尊氏(あしかがたかうじ)がになりました。尊氏(たかうじ)は、京都(きょうと)にを開(ひら)きました。

3代将軍(だいしょうぐん)の足利義満(あしかがよしみつ)は、京都(きょうと)の室町(むろまち)にとよばれる屋敷(やしき)を建(た)て、そこで政治(せいじ)を行(おこな)いました。これが、室町幕府(むろまちばくふ)という名前(なまえ)のもとです。

  1. 1338年(ねん)足利尊氏(あしかがたかうじ)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、京都(きょうと)に幕府(ばくふ)を開(ひら)く
  2. 1397年(ねん)3代将軍(だいしょうぐん)の義満(よしみつ)が、北山(きたやま)で金閣(きんかく)を建(た)て始(はじ)める
  3. 1467年(ねん)応仁(おうにん)の乱(らん)が始(はじ)まる
  4. 1489年(ねん)8代将軍(だいしょうぐん)の義政(よしまさ)の銀閣(ぎんかく)が建(た)つ
京都(きょうと)の室町(むろまち)・北山(きたやま)・東山(ひがしやま)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 京都府(きょうとふ)。足利義満(あしかがよしみつ)が将軍(しょうぐん)の屋敷(やしき)「花(はな)の御所(ごしょ)」を建(た)てた京都(きょうと)の室町(むろまち)。室町幕府(むろまちばくふ)の名前(なまえ)のもと。
  • 京都府(きょうとふ)。足利義満(あしかがよしみつ)が山荘(さんそう)を建(た)てた場所(ばしょ)。中心(ちゅうしん)の建物(たてもの)が金閣(きんかく)。
  • 京都府(きょうとふ)。足利義政(あしかがよしまさ)が山荘(さんそう)を建(た)てた場所(ばしょ)。そこにある建物(たてもの)が銀閣(ぎんかく)。

●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都(きょうと)に幕府(ばくふ)を開(ひら)き、3代将軍(だいしょうぐん)の義満(よしみつ)が室町(むろまち)に屋敷(やしき)を建(た)てました。これが室町幕府(むろまちばくふ)です。

金閣(きんかく)―北山(きたやま)に建(た)てた、義満(よしみつ)の山荘(さんそう)

幕府(ばくふ)がいちばん力(ちから)をもったころ

義満(よしみつ)は、2つに分(わ)かれていた朝廷(ちょうてい)を一(ひと)つにまとめ、幕府(ばくふ)の力(ちから)を強(つよ)めました。中国(ちゅうごく)のとの貿易(ぼうえき)でも、大(おお)きな利益(りえき)を得(え)ました。

その義満(よしみつ)が、京都(きょうと)の北山(きたやま)に建(た)てた山荘(さんそう)の中心(ちゅうしん)の建物(たてもの)が、です。建(た)て始(はじ)めたのは1397年(ねん)でした。

池のほとりに建つ、屋根が3つかさなった古い白黒写真の金閣
焼(や)ける前(まえ)の金閣(きんかく)(明治(めいじ)から大正(たいしょう)のころの写真(しゃしん))。3つの階(かい)が、それぞれちがうつくりになっています。鹿苑寺金閣外観写真(明治〜大正)出典:東京都立中央図書館 木子文庫(部分)

3つの階(かい)が、それぞれちがうつくり

  1. 1層目(そうめ):平安時代(へいあんじだい)の貴族(きぞく)の住(す)まい、のつくり
  2. 2層目(そうめ):住(す)まい風(ふう)のつくり
  3. 3層目(そうめ):禅宗(ぜんしゅう)の寺(てら)のつくり

貴族(きぞく)の文化(ぶんか)と、武士(ぶし)が大切(たいせつ)にした禅宗(ぜんしゅう)の文化(ぶんか)を、合(あ)わせた建物(たてもの)です。金箔(きんぱく)がはられていて、金色(きんいろ)にかがやいています。

池のほとりに建つ金色の三層の建物と、うしろにある山をえがいた色のついた版画
金(きん)ぱくで金色(きんいろ)にかがやく金閣(きんかく)を、江戸時代(えどじだい)の絵師(えし)がえがいた絵(え)。歌川広重「京都名所之内 金閣寺」 江戸時代出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

金閣(きんかく)は、3代将軍(だいしょうぐん)の足利義満(あしかがよしみつ)が北山(きたやま)に建(た)てました。貴族(きぞく)と武士(ぶし)の文化(ぶんか)を合(あ)わせた、はなやかな建物(たてもの)です。

8代将軍(だいしょうぐん)・足利義政(あしかがよしまさ)と、応仁(おうにん)の乱(らん)

文化(ぶんか)に熱心(ねっしん)だった義政(よしまさ)

義満(よしみつ)のあと、幕府(ばくふ)の力(ちから)は、少(すこ)しずつゆらいでいきます。

8代将軍(だいしょうぐん)の足利義政(あしかがよしまさ)は、政治(せいじ)よりも、絵(え)や庭(にわ)、建物(たてもの)などの文化(ぶんか)に熱心(ねっしん)だったといわれます。

11年(ねん)続(つづ)いた応仁(おうにん)の乱(らん)

義政(よしまさ)のあとつぎをめぐって、争(あらそ)いが起(お)こりました。そこに、力(ちから)をもったどうしの争(あらそ)いが重(かさ)なります。そして1467年(ねん)、が始(はじ)まりました。

東(ひがし)の軍(ぐん)の中心(ちゅうしん)は細川勝元(ほそかわかつもと)、西(にし)の軍(ぐん)の中心(ちゅうしん)は山名宗全(やまなそうぜん)でした。全国(ぜんこく)の守護大名(しゅごだいみょう)が、2つに分(わ)かれて戦(たたか)ったのです。

戦(たたか)いは11年(ねん)も続(つづ)き、京都(きょうと)の町(まち)は焼(や)け野原(のはら)になりました。幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)まり、各地(かくち)で大名(だいみょう)が争(あらそ)う戦国(せんごく)の世(よ)へと向(む)かっていきます。

8代将軍(だいしょうぐん)・義政(よしまさ)のころ、応仁(おうにん)の乱(らん)が11年(ねん)続(つづ)き、京都(きょうと)は焼(や)け野原(のはら)になりました。幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)まりました。

銀閣(ぎんかく)―東山(ひがしやま)に建(た)てた、義政(よしまさ)の山荘(さんそう)

応仁(おうにん)の乱(らん)のあと、義政(よしまさ)は京都(きょうと)の東山(ひがしやま)に山荘(さんそう)を建(た)てました。そこにあるのが、です。

松の木と庭の池のそばに建つ、屋根のある2階建ての建物の古い白黒写真
銀閣(ぎんかく)(1910年(ねん)の写真集(しゃしんしゅう)にのった写真(しゃしん))。2階(かい)建(だ)てで、落(お)ち着(つ)いたすがたをしています。『花洛林泉帖』 1910年出典:国立国会図書館デジタルコレクション

銀閣(ぎんかく)は2階(かい)建(だ)てで、金閣(きんかく)のような金(きん)ぱくはなく、落(お)ち着(つ)いたすがたをしています。

1489年(ねん)に組(く)み上(あ)げられましたが、義政(よしまさ)は翌年(よくねん)の1490年(ねん)、山荘(さんそう)の完成(かんせい)を見(み)ずに亡(な)くなりました。義政(よしまさ)の死後(しご)、山荘(さんそう)は慈照寺(じしょうじ)というお寺(てら)になりました。

銀閣(ぎんかく)は、8代将軍(だいしょうぐん)の足利義政(あしかがよしまさ)が東山(ひがしやま)に建(た)てました。しずかで落(お)ち着(つ)いた建物(たてもの)です。

金閣(きんかく)と銀閣(ぎんかく)は、なぜちがうの?

ここまでの話(はなし)をもとに、今日(きょう)の問(と)いを考(かんが)えてみましょう。

金閣(きんかく) ― 足利義満(あしかがよしみつ)
幕府(ばくふ)がいちばん力(ちから)をもったころ。貴族(きぞく)と武士(ぶし)の文化(ぶんか)を合(あ)わせた、はなやかな建物(たてもの)。
銀閣(ぎんかく) ― 足利義政(あしかがよしまさ)
応仁(おうにん)の乱(らん)のあと。しずかで落(お)ち着(つ)いた美(うつく)しさを大切(たいせつ)にした建物(たてもの)。

金閣(きんかく)は、幕府(ばくふ)の力(ちから)がいちばん高(たか)まり、明(みん)との貿易(ぼうえき)で利益(りえき)を得(え)ていたころの建物(たてもの)です。

銀閣(ぎんかく)は、争(あらそ)いのあとの世(よ)の中(なか)で、義政(よしまさ)が建(た)てた山荘(さんそう)の建物(たてもの)です。建(た)てた人(ひと)と時代(じだい)のようすがちがうから、建物(たてもの)のすがたもちがうのです。

金閣(きんかく)は幕府(ばくふ)が強(つよ)かったころ、銀閣(ぎんかく)は応仁(おうにん)の乱(らん)のあと。建(た)てた人(ひと)と時代(じだい)がちがうので、すがたもちがいます。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

室町幕府(むろまちばくふ)ができるまで

1333年(ねん)、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の呼(よ)びかけで、足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)らが鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)をたおしました。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)にした政治(せいじ)を始(はじ)めました。しかし、武士(ぶし)たちの不満(ふまん)が高(たか)まり、この政治(せいじ)は2年(ねん)ほどでくずれてしまいます。

南北朝(なんぼくちょう)の時代(じだい)

そのあと朝廷(ちょうてい)は、京都(きょうと)の北朝(ほくちょう)と、奈良(なら)の吉野(よしの)の南朝(なんちょう)に分(わ)かれて争(あらそ)いました。2つの朝廷(ちょうてい)が並(なら)び立(た)ったは、長(なが)く続(つづ)きました。

1392年(ねん)、3代将軍(だいしょうぐん)の義満(よしみつ)が、2つの朝廷(ちょうてい)を一(ひと)つにまとめました。これで世(よ)の中(なか)は落(お)ち着(つ)き、幕府(ばくふ)の力(ちから)も強(つよ)まりました。

明(みん)との貿易(ぼうえき)と勘合(かんごう)

義満(よしみつ)は、中国(ちゅうごく)の明(みん)と貿易(ぼうえき)を始(はじ)めました。下(した)の絵(え)は、のちの江戸時代(えどじだい)にえがかれた中国(ちゅうごく)の船(ふね)(唐船(とうせん))です。

橋のかかった川の港に、大きな屋根の建物があり、人々と何そうもの船がえがかれた金色の雲の屏風絵
中国(ちゅうごく)の船(ふね)(唐船(とうせん))と、それをむかえる人々(ひとびと)。室町時代(むろまちじだい)より後(あと)の、江戸時代(えどじだい)にえがかれた絵(え)です。唐船・南蛮船図屏風(唐船の側) 狩野孝信筆 江戸時代出典:ColBase(九州国立博物館)(部分)

このころ、朝鮮(ちょうせん)や中国(ちゅうごく)の海岸(かいがん)では、とよばれる海賊(かいぞく)があばれていました。そこで使(つか)われたのが、という札(ふだ)です。

  1. 日本(にほん)の船(ふね)が、勘合(かんごう)の札(ふだ)を持(も)っていく
  2. 明(みん)にある記録(きろく)と合(あ)わせて、確(たし)かめる
  3. ぴったり合(あ)えば、海賊(かいぞく)ではない、正式(せいしき)な貿易(ぼうえき)船(ふね)とわかる

下(した)の図(ず)は、当時(とうじ)の記録(きろく)に写(うつ)された、勘合(かんごう)の紙(かみ)と印(しるし)の形(かたち)です。この貿易(ぼうえき)で、幕府(ばくふ)は大(おお)きな利益(りえき)を得(え)ました。

古い紙に「勘合料紙印形」と書かれ、その下に四角い枠の中に文字を書いた図がある
当時(とうじ)の記録(きろく)に写(うつ)された、勘合(かんごう)の紙(かみ)と印(しるし)の形(かたち)を写(うつ)した図(ず)。「勘合(かんごう)料紙印形(りょうしいんぎょう)」と書(か)かれています。『戊子入明記』(明治時代の写本)出典:国立公文書館所蔵(請求番号184-0351)(部分)

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

黒いぼうしをかぶり、黒い着物を着て、あごひげのある男性の肖像画
足利尊氏(あしかがたかうじ)
1338年(ねん)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、京都(きょうと)に幕府(ばくふ)を開(ひら)いた。室町幕府(むろまちばくふ)の初代将軍(しょだいしょうぐん)。
等持院/足利将軍像(模本)のうち、「等持院尊氏公」の札がある1幅(等持院に伝わる像をうつしたもの。江戸時代以後)。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
黒いぼうしをかぶり、白い着物と赤いはかまを着て、ひげのある男性がすわっている肖像画
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
1333年(ねん)に尊氏(たかうじ)らと鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)をたおし、天皇中心(てんのうちゅうしん)の政治(せいじ)を始(はじ)めたが、2年(ねん)ほどでくずれた。
後醍醐天皇影(模本) 江戸時代・1840年(もとの絵を写したもの)。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
足利義満(あしかがよしみつ)
室町幕府(むろまちばくふ)の3代将軍(だいしょうぐん)。1392年(ねん)に南北朝(なんぼくちょう)を一(ひと)つにまとめ、明(みん)と貿易(ぼうえき)をした。北山(きたやま)に金閣(きんかく)を建(た)てた。
黒いぼうしをかぶり、黒い着物を着て、すわる男性の肖像画
足利義政(あしかがよしまさ)
8代将軍(だいしょうぐん)。政治(せいじ)より文化(ぶんか)に熱心(ねっしん)だった。あとつぎ争(あらそ)いから応仁(おうにん)の乱(らん)が起(お)こり、そのあと東山(ひがしやま)に銀閣(ぎんかく)を建(た)てた。
伝足利義政像 伝土佐光信筆 室町時代・15世紀。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
黒い着物を着て、手に細長い板(しゃく)を持ってすわる男性の肖像画
細川勝元(ほそかわかつもと)
応仁(おうにん)の乱(らん)で、東(ひがし)の軍(ぐん)の中心(ちゅうしん)になった守護大名(しゅごだいみょう)。
細川勝元像(模本)。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
山名宗全(やまなそうぜん)
応仁(おうにん)の乱(らん)で、西(にし)の軍(ぐん)の中心(ちゅうしん)になった守護大名(しゅごだいみょう)。

重要(じゅうよう)なところ

室町幕府(むろまちばくふ)を開(ひら)いたのは、足利尊氏(あしかがたかうじ)です。1338年(ねん)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になり、京都(きょうと)に幕府(ばくふ)を開(ひら)きました。
鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)を開(ひら)いた源頼朝(みなもとのよりとも)と、人物(じんぶつ)を分(わ)けて覚(おぼ)えましょう。
金閣(きんかく)を建(た)てたのは足利義満(あしかがよしみつ)、銀閣(ぎんかく)を建(た)てたのは足利義政(あしかがよしまさ)です。
金閣(きんかく)は北山(きたやま)、銀閣(ぎんかく)は東山(ひがしやま)にあります。「金(きん)→義満(よしみつ)→北山(きたやま)」「銀(ぎん)→義政(よしまさ)→東山(ひがしやま)」と組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
足利義満(あしかがよしみつ)は、明(みん)と貿易(ぼうえき)をしました。勘合(かんごう)という札(ふだ)で、正式(せいしき)な貿易(ぼうえき)船(ふね)を見分(みわ)けました。
倭寇(わこう)とよばれる海賊(かいぞく)と区別(くべつ)するために使(つか)った札(ふだ)です。
応仁(おうにん)の乱(らん)は、1467年(ねん)から11年(ねん)続(つづ)きました。京都(きょうと)が焼(や)け、幕府(ばくふ)の力(ちから)が弱(よわ)まりました。
将軍(しょうぐん)のあとつぎ争(あらそ)いと、守護大名(しゅごだいみょう)どうしの争(あらそ)いが重(かさ)なって起(お)こりました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「今に伝わる室町文化」の授業「足利義政が建てた銀閣」
  • 教育出版:「室町文化と力をつける人々」
  • 日本文教出版:「今に伝わる室町の文化と人々のくらし」の授業「京都に幕府がおかれたころのようす」「金閣と銀閣を調べる」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(オ):京都(きょうと)の室町(むろまち)に幕府(ばくふ)が置(お)かれたころの建物(たてもの)や絵(え)から、今(いま)の生活文化(せいかつぶんか)につながる室町文化(むろまちぶんか)が生(う)まれたことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263215000000)

「今(いま)に伝(つた)わる室町文化(むろまちぶんか)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

室町幕府(むろまちばくふ)を開(ひら)いたのはだれですか。足利尊氏(あしかがたかうじ)
京都(きょうと)の北山(きたやま)に、金閣(きんかく)を建(た)てた将軍(しょうぐん)はだれですか。足利義満(あしかがよしみつ)
明(みん)との貿易(ぼうえき)で、正式(せいしき)な船(ふね)を見分(みわ)けるために使(つか)った札(ふだ)を何(なん)といいますか。勘合(かんごう)
1467年(ねん)に始(はじ)まり、京都(きょうと)が焼(や)け野原(のはら)になった争(あらそ)いを何(なん)といいますか。応仁(おうにん)の乱(らん)
銀閣(ぎんかく)を建(た)てた将軍(しょうぐん)はだれですか。足利義政(あしかがよしまさ)
問(と)いへの答(こた)え

金閣(きんかく)は、幕府(ばくふ)がいちばん力(ちから)をもっていた足利義満(あしかがよしみつ)のころの建物(たてもの)で、貴族(きぞく)の文化(ぶんか)と武士(ぶし)の文化(ぶんか)を合(あ)わせた、はなやかなつくりです。銀閣(ぎんかく)は、応仁(おうにん)の乱(らん)で京都(きょうと)が焼(や)けたあと、足利義政(あしかがよしまさ)が建(た)てた山荘(さんそう)の建物(たてもの)で、金(きん)ぱくのない、しずかで落(お)ち着(つ)いた美(うつく)しさをもっています。建(た)てた人(ひと)と、時代(じだい)のようすがちがうから、建物(たてもの)のすがたもちがうのです。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

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