室町幕府と金閣・銀閣とは? 足利義満・義政と応仁の乱をわかりやすく
教科書では:東京書籍「今に伝わる室町文化」の「足利義政が建てた銀閣」/教育出版「室町文化と力をつける人々」/日本文教出版「今に伝わる室町の文化と人々のくらし」の「京都に幕府がおかれたころのようす」「金閣と銀閣を調べる」
- 鎌倉幕府がたおれたあと、足利尊氏が京都に幕府を開きました。のちに室町幕府とよばれる幕府です。
- 3代将軍足利義満のころ、幕府はいちばん栄えました。明との貿易で利益を得て、京都の北山に金閣を建てました。
- 8代将軍足利義政のころ、応仁の乱が起こって幕府の力は弱まり、そのあとに東山に銀閣が建てられました。
金閣と銀閣は、なぜこんなにちがう建物なのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。京都に開かれた室町幕府
1333年に鎌倉幕府がほろびたあと、1338年、足利尊氏がになりました。尊氏は、京都にを開きました。
3代将軍の足利義満は、京都の室町にとよばれる屋敷を建て、そこで政治を行いました。これが、室町幕府という名前のもとです。
- 1338年足利尊氏が征夷大将軍になり、京都に幕府を開く
- 1397年3代将軍の義満が、北山で金閣を建て始める
- 1467年応仁の乱が始まる
- 1489年8代将軍の義政の銀閣が建つ
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 京都府。足利義満が将軍の屋敷「花の御所」を建てた京都の室町。室町幕府の名前のもと。
- 京都府。足利義満が山荘を建てた場所。中心の建物が金閣。
- 京都府。足利義政が山荘を建てた場所。そこにある建物が銀閣。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
足利尊氏が京都に幕府を開き、3代将軍の義満が室町に屋敷を建てました。これが室町幕府です。
金閣―北山に建てた、義満の山荘
幕府がいちばん力をもったころ
義満は、2つに分かれていた朝廷を一つにまとめ、幕府の力を強めました。中国のとの貿易でも、大きな利益を得ました。
その義満が、京都の北山に建てた山荘の中心の建物が、です。建て始めたのは1397年でした。

3つの階が、それぞれちがうつくり
- 1層目:平安時代の貴族の住まい、のつくり
- 2層目:住まい風のつくり
- 3層目:禅宗の寺のつくり
貴族の文化と、武士が大切にした禅宗の文化を、合わせた建物です。金箔がはられていて、金色にかがやいています。

金閣は、3代将軍の足利義満が北山に建てました。貴族と武士の文化を合わせた、はなやかな建物です。
8代将軍・足利義政と、応仁の乱
文化に熱心だった義政
義満のあと、幕府の力は、少しずつゆらいでいきます。
8代将軍の足利義政は、政治よりも、絵や庭、建物などの文化に熱心だったといわれます。
11年続いた応仁の乱
義政のあとつぎをめぐって、争いが起こりました。そこに、力をもったどうしの争いが重なります。そして1467年、が始まりました。
東の軍の中心は細川勝元、西の軍の中心は山名宗全でした。全国の守護大名が、2つに分かれて戦ったのです。
戦いは11年も続き、京都の町は焼け野原になりました。幕府の力は弱まり、各地で大名が争う戦国の世へと向かっていきます。
8代将軍・義政のころ、応仁の乱が11年続き、京都は焼け野原になりました。幕府の力は弱まりました。
銀閣―東山に建てた、義政の山荘
応仁の乱のあと、義政は京都の東山に山荘を建てました。そこにあるのが、です。

銀閣は2階建てで、金閣のような金ぱくはなく、落ち着いたすがたをしています。
1489年に組み上げられましたが、義政は翌年の1490年、山荘の完成を見ずに亡くなりました。義政の死後、山荘は慈照寺というお寺になりました。
銀閣は、8代将軍の足利義政が東山に建てました。しずかで落ち着いた建物です。
金閣と銀閣は、なぜちがうの?
ここまでの話をもとに、今日の問いを考えてみましょう。
金閣は、幕府の力がいちばん高まり、明との貿易で利益を得ていたころの建物です。
銀閣は、争いのあとの世の中で、義政が建てた山荘の建物です。建てた人と時代のようすがちがうから、建物のすがたもちがうのです。
金閣は幕府が強かったころ、銀閣は応仁の乱のあと。建てた人と時代がちがうので、すがたもちがいます。
中学ではここがくわしくなる
室町幕府ができるまで
1333年、後醍醐天皇の呼びかけで、足利尊氏や新田義貞らが鎌倉幕府をたおしました。
後醍醐天皇は、天皇を中心にした政治を始めました。しかし、武士たちの不満が高まり、この政治は2年ほどでくずれてしまいます。
南北朝の時代
そのあと朝廷は、京都の北朝と、奈良の吉野の南朝に分かれて争いました。2つの朝廷が並び立ったは、長く続きました。
1392年、3代将軍の義満が、2つの朝廷を一つにまとめました。これで世の中は落ち着き、幕府の力も強まりました。
明との貿易と勘合
義満は、中国の明と貿易を始めました。下の絵は、のちの江戸時代にえがかれた中国の船(唐船)です。

このころ、朝鮮や中国の海岸では、とよばれる海賊があばれていました。そこで使われたのが、という札です。
- 日本の船が、勘合の札を持っていく
- 明にある記録と合わせて、確かめる
- ぴったり合えば、海賊ではない、正式な貿易船とわかる
下の図は、当時の記録に写された、勘合の紙と印の形です。この貿易で、幕府は大きな利益を得ました。

この時代の人物




重要なところ
鎌倉幕府を開いた源頼朝と、人物を分けて覚えましょう。
金閣は北山、銀閣は東山にあります。「金→義満→北山」「銀→義政→東山」と組で覚えましょう。
倭寇とよばれる海賊と区別するために使った札です。
将軍のあとつぎ争いと、守護大名どうしの争いが重なって起こりました。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「今に伝わる室町文化」の授業「足利義政が建てた銀閣」
- 教育出版:「室町文化と力をつける人々」
- 日本文教出版:「今に伝わる室町の文化と人々のくらし」の授業「京都に幕府がおかれたころのようす」「金閣と銀閣を調べる」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(オ):京都の室町に幕府が置かれたころの建物や絵から、今の生活文化につながる室町文化が生まれたことを理解する。(学習指導要領コード 0263215000000)
たしかめ問題
室町幕府を開いたのはだれですか。
足利尊氏京都の北山に、金閣を建てた将軍はだれですか。
足利義満明との貿易で、正式な船を見分けるために使った札を何といいますか。
勘合1467年に始まり、京都が焼け野原になった争いを何といいますか。
応仁の乱銀閣を建てた将軍はだれですか。
足利義政金閣は、幕府がいちばん力をもっていた足利義満のころの建物で、貴族の文化と武士の文化を合わせた、はなやかなつくりです。銀閣は、応仁の乱で京都が焼けたあと、足利義政が建てた山荘の建物で、金ぱくのない、しずかで落ち着いた美しさをもっています。建てた人と、時代のようすがちがうから、建物のすがたもちがうのです。
出典
画像
- 鹿苑寺金閣外観写真(明治〜大正)(東京都立中央図書館 木子文庫)
- 歌川広重「京都名所之内 金閣寺」 江戸時代(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 『花洛林泉帖』 1910年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 唐船・南蛮船図屏風(唐船の側) 狩野孝信筆 江戸時代(ColBase(九州国立博物館))
- 『戊子入明記』(明治時代の写本)(国立公文書館所蔵(請求番号184-0351))
- 『都林泉名勝図会』 1799年(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 等持院/足利将軍像(模本)のうち、「等持院尊氏公」の札がある1幅(等持院に伝わる像をうつしたもの。江戸時代以後)(ColBase(東京国立博物館))
- 後醍醐天皇影(模本) 江戸時代・1840年(もとの絵を写したもの)(ColBase(東京国立博物館))
- 伝足利義政像 伝土佐光信筆 室町時代・15世紀(ColBase(東京国立博物館))
- 細川勝元像(模本)(ColBase(東京国立博物館))