自由民権運動とは? 西南戦争・板垣退助・国会開設の約束・政党をわかりやすく
教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」の「板垣退助と自由民権運動」/教育出版「近代国家を目ざして」の「自由民権運動が広まる」/日本文教出版「国力の充実をめざす日本と国際社会」の「自由民権運動の広がり」
- 1877年、西郷隆盛を中心とする士族がを起こしましたが、政府軍にしずめられました。このあと、武力ではなく言論で意見を主張する世の中に変わりました。
- 板垣退助らは国会を開くことを求め、国民が政治に参加する権利を求めるが全国に広がりました。
- 政府は運動を取りしまりましたが、1881年に1890年に国会を開くことを約束しました。板垣退助は、大隈重信はをつくりました。
人々は、どのような政治を求めて、どのように運動を進めたのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。士族の不満と西南戦争
特権を失った士族
明治の改革で、もと武士だった人々は「」とよばれるようになりました。徴兵令で、軍隊は国民がになうものになりました。
1876年には、刀を差して歩くことが禁止され、給料(禄)も打ち切られました。特権を失った士族の中には政府に強い不満をもつ人が増え、各地で反乱が起こりました。
西郷隆盛と西南戦争
西郷隆盛は、明治維新で活やくした人物です。1873年、政府の中の意見の対立から政府を去り、ふるさとの鹿児島にもどっていました。
1877年、西郷は鹿児島の士族たちにおし立てられて兵をあげました。これを西南戦争といいます。士族の反乱の中で、最大で最後の戦いでした。

西郷の軍は熊本城をせめましたが、落とせませんでした。田原坂(今の熊本県)などで、はげしい戦いが続きました。
政府は、徴兵令で集めた兵士の軍隊で戦いました。半年をこえる戦いのすえ、鹿児島の城山で西郷の軍は敗れ、西郷はなくなりました。
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 熊本県。西南戦争で、西郷隆盛の軍がせめたが、落とせなかった城。政府の軍が守った。
- 熊本県。西南戦争で、政府軍と西郷の軍がはげしく戦った坂。今の熊本市北区。
- 鹿児島県。1877年9月24日、西南戦争の最後の戦いがあった鹿児島の山。西郷隆盛はここでなくなった。
●赤は戦いの場所です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
武力から言論へ
西南戦争のあと、武力で政府をたおそうとする反乱はなくなりました。かわりに、新聞や演説などの言論で、政治への意見を主張するようになりました。
1877年の西南戦争は、士族の最後の反乱でした。このあと、意見は武力ではなく言論で主張するようになりました。
国会を開こう―板垣退助の意見書
政府を去った板垣退助
1873年に西郷と一緒に政府を去った人の中に、土佐(今の高知県)出身の板垣退助がいました。
そのころの政治は、薩摩や長州の出身者など、一部の人たちが中心になって進めていました。板垣らは、これでは国民の意見が政治に生かされないと考えました。
民撰議院設立建白書
1874年1月17日、板垣退助らは、国民が選んだ議員による議会(国会)を開くよう、政府に意見書を出しました。これをといいます。

この意見書は新聞にものり、国会を開くことや憲法をつくることを求める運動のきっかけになりました。このように、国民が政治に参加する権利を求めた運動を、自由民権運動といいます。
1874年、板垣退助らが国会を開くことを求める意見書を出し、自由民権運動が始まりました。
全国に広がる自由民権運動
演説会と新聞
自由民権運動では、人々の前で政治についての考えを話す演説会が、各地でさかんに開かれました。新聞や雑誌にも、政治についての意見がさかんにのりました。

各地にできた結社
板垣退助は、1874年にふるさとの高知でをつくりました。このような、政治について学び合う団体(結社)が、全国にできていきました。
1880年には各地の結社の代表が大阪に集まり、国会を開くことを求める国会期成同盟をつくりました。農村の有力者や商人など、士族以外の人々も多く加わりました。
自分たちで憲法の案をつくる
国会を開くには、国の決まりのもとになる憲法が必要です。そこで、人々は自分たちで憲法の案をつくりました。
東京の五日市(今のあきる野市)では、小学校の先生だった千葉卓三郎が、地域の人々と学び合いながら憲法の案をつくりました。これをといいます。国民の権利をくわしく定めています。
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 高知県。板垣退助らが立志社をつくった場所。自由民権運動の中心の一つになった。
- 大阪府。1880年、各地の結社の代表が集まり、国会期成同盟をつくった場所。
- 東京都。千葉卓三郎らが憲法の案(五日市憲法)をつくった町。今の東京都あきる野市。案は、のちに町の旧家の土蔵から見つかった。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
自由民権運動は、演説会・新聞・結社の活動を通して全国に広がり、人々は憲法の案もつくりました。
政府の取りしまりと、国会を開く約束
条例で取りしまる
政府は、政府への批判が強まることをおそれ、条例をつくって運動を取りしまりました。1875年のでは新聞を、1880年のでは演説会などの集まりを取りしまりました。
集会条例では、警察官が演説会に立ち会い、話の内容によっては会をやめさせることができました。
1890年に国会を開く約束
それでも、国会を求める声はおさまりませんでした。政府の中でも、早く国会を開くべきだという大隈重信と、ほかの人たちの意見が分かれていました。
1881年10月12日、政府は、天皇の言葉として、10年後の1890年に国会を開くことを約束しました。これをといいます。


勅諭では、国会のしくみや権限は、天皇が自分で決めて発表するとしました。憲法は、国民ではなく政府が中心になってつくることになったのです。
政府は条例で運動を取りしまりましたが、1881年に、1890年に国会を開くことを約束しました。
国会にそなえて政党ができる
国会が開かれることが決まると、人々は国会での政治にそなえて、をつくりました。政党は、同じ考えをもつ人たちが集まり、その考えを政治に生かそうとする団体です。
| 政党 | できた年 | 中心の人物 |
|---|---|---|
| 自由党 | 1881年 | 板垣退助 |
| 立憲改進党 | 1882年 | 大隈重信 |
大隈重信は、国会を開く約束が出されたのと同じころ、政府を追われました。その翌年、自分たちの政党として立憲改進党をつくりました。
国会では、議員が話し合って法律や予算を決めます。同じ考えの人がまとまっていれば、意見を通しやすくなります。そのため、前から仲間を集めておいたのです。
国会開設にそなえて、板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党をつくりました。
年の流れでふり返る
- 1873年 西郷隆盛・板垣退助らが政府を去る
- 1874年 板垣退助らが民撰議院設立建白書を出す。高知で立志社ができる
- 1877年 西南戦争が起こる
- 1880年 国会期成同盟ができる。集会条例が出される
- 1881年1890年に国会を開くことが約束される(国会開設の勅諭)。自由党ができる
- 1882年 立憲改進党ができる
西南戦争で武力による反乱が終わり、そのあと言論による運動が広がった、という順番をおさえましょう。
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史では、自由民権運動の流れをさらにくわしく習います。小学校で覚えたことに、次のような内容が加わります。
| 小学校 | 中学校で加わること | |
|---|---|---|
| 政府を去った理由 | 政府の中の意見の対立 | 朝鮮への使節の派遣をめぐる争い(征韓論)に敗れ、西郷・板垣らが政府を去った(明治六年の政変) |
| 士族の不満 | 特権を失った | 1876年に刀を差すことが禁止され(廃刀令)、禄も打ち切られた(秩禄処分) |
| 国会開設の約束 | 1881年に約束した | 北海道の開拓使の施設などを安く払い下げる計画が強く批判された。政府は払い下げをやめ、大隈重信を政府から追い出した(明治十四年の政変) |
| 西南戦争で政府軍が勝てたわけ | 徴兵令で集めた軍隊で戦った | 汽船で兵士や物資を九州へ運び、電信で戦いのようすをすぐに伝えた |
| 憲法の案 | 五日市憲法 | 民間でつくられた憲法の案を「私擬憲法」という。植木枝盛の案なども知られている |
この時代の人物



重要なところ
「意見書(1874)→西南戦争(1877)→国会の約束(1881)」の順です。国会が実際に開かれたのは、約束から9年後の1890年です。
2人とも1873年に政府を去りましたが、西郷は武力で、板垣は言論で政府に立ち向かいました。
自由党が1881年、立憲改進党が1882年です。「板垣=自由党」「大隈=改進党」とセットで覚えましょう。
憲法の中身や国会のしくみは、このあと政府が中心になって決めました(次のページ)。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」の授業「板垣退助と自由民権運動」
- 教育出版:「近代国家を目ざして」の授業「自由民権運動が広まる」
- 日本文教出版:「国力の充実をめざす日本と国際社会」の授業「自由民権運動の広がり」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(ケ):黒船の来航、廃藩置県や四民平等などの改革、文明開化から、明治維新で近代化が進んだことを理解する。(学習指導要領コード 0263219000000)
たしかめ問題
1877年に、西郷隆盛を中心とする鹿児島の士族が起こした戦いを何といいますか。
西南戦争1874年に、板垣退助らが国民の選んだ議員による議会を開くよう求めて、政府に出した意見書を何といいますか。
民撰議院設立建白書国会を開くことや憲法をつくることなど、国民が政治に参加する権利を求めた運動を何といいますか。
自由民権運動1881年に政府が約束した、国会を開く年は何年ですか。ヒント:約束から9年後です
1890年1881年に板垣退助がつくった政党を何といいますか。
自由党1882年に大隈重信がつくった政党を何といいますか。
立憲改進党東京の五日市で、千葉卓三郎らがつくった憲法の案を何といいますか。
五日市憲法西南戦争のあと、人々は意見をどのように主張するようになりましたか。
武力ではなく、新聞や演説などの言論で主張するようになった。人々は、国民の意見を取り入れて政治を行うために、国会を開き、憲法をつくることを求めました。はじめは、改革に不満をもつ士族が、西南戦争などの反乱を起こしましたが、政府軍にしずめられました。そのあとは、武力ではなく言論で主張する方法に変わりました。板垣退助らが国会を開くよう政府に求めたことをきっかけに、演説会や新聞、各地の結社の集まりを通して自由民権運動が全国に広がり、人々は自分たちで憲法の案もつくりました。政府は条例で運動を取りしまりましたが、1881年に、1890年に国会を開くことを約束しました。国会にそなえて、板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党をつくりました。
出典
- 東京書籍「新編 新しい社会6」年間指導計画作成資料(⑤板垣退助と自由民権運動)
- 教育出版「小学社会6」年間指導計画・評価計画(自由民権運動が広まる)
- 山口県文書館「自由民権運動の高まり 不平士族の反乱(西南戦争の電報)」
- 山口県文書館「自由民権運動の高まり 高まる自由民権運動(新聞紙条例)」
- 山口県文書館「自由民権運動の高まり 国会開設の勅諭」
- 山口県文書館「近代的な国際関係 征韓論」(明治六年の政変)
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」1-9 民撰議院設立の建白
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」1-11 西南戦争
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」1-13 国会期成同盟の請願
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」2-3 明治14年の政変(開拓使官有物払下げ問題・大隈の免官)
- 宮地英敏「北海道開拓使官有物払下げ事件についての再検討」(九州大学)
- 米国国務省 Office of the Historian, FRUS 1880, Document 436(1880年4月の集会条例の英訳。第5条 警察官の立ち会い、第6条 会をやめさせる権限)
- 熊本市「熊本籠城戦特集 その2」(52日間の籠城で薩摩軍の攻撃に耐えた熊本城)
- 佐々木誠治「近代海運業の生成と戦争・軍事」神戸大学経済経営研究所『経済経営研究』第30号(西南戦争時の汽船の購入と輸送)
- 鹿児島県「かごしま維新ガールズと学ぶ!明治維新まめ知識」(写真を一枚も撮らなかった西郷)
- 衆議院憲政記念館「激動の明治国家建設」特別展(立志社・国会期成同盟・五日市憲法草案)
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」板垣退助(1881年 自由党総理)
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」大隈重信(明治十四年の政変・1882年 立憲改進党)
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「帯刀ヲ禁ス」明治9年3月28日
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「金禄公債証書発行条例」明治9年8月5日(禄の打ち切り)
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」1-14 植木枝盛の憲法構想
- 宮城県「みやぎゆかりの人々」千葉卓三郎
- 慶應義塾「三田演説館」(三田評論 新・大学紹介)
画像
- 田原坂の大戦争 永島孟斎 明治10年(1877年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 〔民撰議院設立建白書〕(佐賀県士族副島種臣)(上書建白書・諸建白書(一)、建00012100-00200) 明治7年(1874年)1月17日(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- 明治会堂演説之図 出版人 岡本貞烋 明治時代 大分県立先哲史料館蔵(おおいたデジタル資料室(大分県立先哲史料館))
- 国会開設ノ勅諭(勅語類・明治詔勅、勅00001100-05100) 明治14年(1881年)10月12日(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- 西郷隆盛(『近世名士写真』其1、1935年。肖像画を写したもの)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 板垣退助(『近世名士写真』其2、1935年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
- 大隈重信(『近世名士写真』其2、1935年)(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)