教科書補助小6 社会 / 明治の国づくりを進めた人々 / 6本中の5本目

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは? 西南戦争(せいなんせんそう)・板垣退助(いたがきたいすけ)・国会(こっかい)開設(かいせつ)の約束(やくそく)・政党(せいとう)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」の「板垣退助と自由民権運動」/教育出版「近代国家を目ざして」の「自由民権運動が広まる」/日本文教出版「国力の充実をめざす日本と国際社会」の「自由民権運動の広がり」

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  1. 1877年(ねん)、西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心(ちゅうしん)とする士族(しぞく)がを起(お)こしましたが、政府軍(せいふぐん)にしずめられました。このあと、武力(ぶりょく)ではなく言論(げんろん)で意見(いけん)を主張(しゅちょう)する世(よ)の中(なか)に変(か)わりました。
  2. 板垣退助(いたがきたいすけ)らは国会(こっかい)を開(ひら)くことを求(もと)め、国民(こくみん)が政治(せいじ)に参加(さんか)する権利(けんり)を求(もと)めるが全国(ぜんこく)に広(ひろ)がりました。
  3. 政府(せいふ)は運動(うんどう)を取(と)りしまりましたが、1881年(ねん)に1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くことを約束(やくそく)しました。板垣退助(いたがきたいすけ)は、大隈重信(おおくましげのぶ)はをつくりました。
今日(きょう)の問(と)い

人々(ひとびと)は、どのような政治(せいじ)を求(もと)めて、どのように運動(うんどう)を進(すす)めたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

士族(しぞく)の不満(ふまん)と西南戦争(せいなんせんそう)

特権(とっけん)を失(うしな)った士族(しぞく)

明治(めいじ)の改革(かいかく)で、もと武士(ぶし)だった人々(ひとびと)は「」とよばれるようになりました。徴兵令(ちょうへいれい)で、軍隊(ぐんたい)は国民(こくみん)がになうものになりました。

1876年(ねん)には、刀(かたな)を差(さ)して歩(ある)くことが禁止(きんし)され、給料(きゅうりょう)(禄(ろく))も打(う)ち切(き)られました。特権(とっけん)を失(うしな)った士族(しぞく)の中(なか)には政府(せいふ)に強(つよ)い不満(ふまん)をもつ人(ひと)が増(ふ)え、各地(かくち)で反乱(はんらん)が起(お)こりました。

西郷隆盛(さいごうたかもり)と西南戦争(せいなんせんそう)

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新(めいじいしん)で活(かつ)やくした人物(じんぶつ)です。1873年(ねん)、政府(せいふ)の中(なか)の意見(いけん)の対立(たいりつ)から政府(せいふ)を去(さ)り、ふるさとの鹿児島(かごしま)にもどっていました。

1877年(ねん)、西郷(さいごう)は鹿児島(かごしま)の士族(しぞく)たちにおし立(た)てられて兵(へい)をあげました。これを西南戦争(せいなんせんそう)といいます。士族(しぞく)の反乱(はんらん)の中(なか)で、最大(さいだい)で最後(さいご)の戦(たたか)いでした。

日の丸の旗をかかげた黒い服の兵士たちが、けむりの中を、馬に乗った指揮官とともに、丸に十字の旗の陣地へせめ上がっている3枚続きの錦絵
西南戦争(せいなんせんそう)の田原坂(たばるざか)の戦(たたか)いをえがいた錦絵(にしきえ)。1877年(ねん)に出版(しゅっぱん)されました。黒(くろ)い服(ふく)が政府軍(せいふぐん)、右上(みぎうえ)の丸(まる)に十字(じゅうじ)の旗(はた)のあたりが西郷(さいごう)の軍(ぐん)です。田原坂の大戦争 永島孟斎 明治10年(1877年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション

西郷(さいごう)の軍(ぐん)は熊本城(くまもとじょう)をせめましたが、落(お)とせませんでした。田原坂(たばるざか)(今(いま)の熊本県(くまもとけん))などで、はげしい戦(たたか)いが続(つづ)きました。

政府(せいふ)は、徴兵令(ちょうへいれい)で集(あつ)めた兵士(へいし)の軍隊(ぐんたい)で戦(たたか)いました。半年(はんとし)をこえる戦(たたか)いのすえ、鹿児島(かごしま)の城山(しろやま)で西郷(さいごう)の軍(ぐん)は敗(やぶ)れ、西郷(さいごう)はなくなりました。

西南戦争(せいなんせんそう)のおもな場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 熊本県(くまもとけん)。西南戦争(せいなんせんそう)で、西郷隆盛(さいごうたかもり)の軍(ぐん)がせめたが、落(お)とせなかった城(しろ)。政府(せいふ)の軍(ぐん)が守(まも)った。
  • 熊本県(くまもとけん)。西南戦争(せいなんせんそう)で、政府軍(せいふぐん)と西郷(さいごう)の軍(ぐん)がはげしく戦(たたか)った坂(さか)。今(いま)の熊本市北区(くまもとしきたく)。
  • 鹿児島県(かごしまけん)。1877年(ねん)9月(くがつ)24日(にじゅうよっか)、西南戦争(せいなんせんそう)の最後(さいご)の戦(たたか)いがあった鹿児島(かごしま)の山(やま)。西郷隆盛(さいごうたかもり)はここでなくなった。

●赤は戦いの場所です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

武力(ぶりょく)から言論(げんろん)へ

西南戦争(せいなんせんそう)のあと、武力(ぶりょく)で政府(せいふ)をたおそうとする反乱(はんらん)はなくなりました。かわりに、新聞(しんぶん)や演説(えんぜつ)などの言論(げんろん)で、政治(せいじ)への意見(いけん)を主張(しゅちょう)するようになりました。

1877年(ねん)の西南戦争(せいなんせんそう)は、士族(しぞく)の最後(さいご)の反乱(はんらん)でした。このあと、意見(いけん)は武力(ぶりょく)ではなく言論(げんろん)で主張(しゅちょう)するようになりました。

国会(こっかい)を開(ひら)こう―板垣退助(いたがきたいすけ)の意見書(いけんしょ)

政府(せいふ)を去(さ)った板垣退助(いたがきたいすけ)

1873年(ねん)に西郷(さいごう)と一緒(いっしょ)に政府(せいふ)を去(さ)った人(ひと)の中(なか)に、土佐(とさ)(今(いま)の高知県(こうちけん))出身(しゅっしん)の板垣退助(いたがきたいすけ)がいました。

そのころの政治(せいじ)は、薩摩(さつま)や長州(ちょうしゅう)の出身者(しゅっしんしゃ)など、一部(いちぶ)の人(ひと)たちが中心(ちゅうしん)になって進(すす)めていました。板垣(いたがき)らは、これでは国民(こくみん)の意見(いけん)が政治(せいじ)に生(い)かされないと考(かんが)えました。

民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)

1874年(ねん)1月(いちがつ)17日(じゅうしちにち)、板垣退助(いたがきたいすけ)らは、国民(こくみん)が選(えら)んだ議員(ぎいん)による議会(ぎかい)(国会(こっかい))を開(ひら)くよう、政府(せいふ)に意見書(いけんしょ)を出(だ)しました。これをといいます。

赤いけい線の紙に、縦書きで「明治七年第一月十七日」の日付と、8人の名前が書かれた古い文書
民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)にそえて、左院(さいん)(政府(せいふ)の役所(やくしょ))に出(だ)した文書(ぶんしょ)の最後(さいご)の部分(ぶぶん)。「明治七年第一月十七日(めいじななねんだいいちがつじゅうななにち)」の日付(ひづけ)と、板垣退助(いたがきたいすけ)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)・江藤新平(えとうしんぺい)・副島種臣(そえじまたねおみ)ら8人(にん)の名前(なまえ)が見(み)えます。〔民撰議院設立建白書〕(佐賀県士族副島種臣)(上書建白書・諸建白書(一)、建00012100-00200) 明治7年(1874年)1月17日出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)

この意見書(いけんしょ)は新聞(しんぶん)にものり、国会(こっかい)を開(ひら)くことや憲法(けんぽう)をつくることを求(もと)める運動(うんどう)のきっかけになりました。このように、国民(こくみん)が政治(せいじ)に参加(さんか)する権利(けんり)を求(もと)めた運動(うんどう)を、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)といいます。

1874年(ねん)、板垣退助(いたがきたいすけ)らが国会(こっかい)を開(ひら)くことを求(もと)める意見書(いけんしょ)を出(だ)し、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が始(はじ)まりました。

全国(ぜんこく)に広(ひろ)がる自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)

演説会(えんぜつかい)と新聞(しんぶん)

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)では、人々(ひとびと)の前(まえ)で政治(せいじ)についての考(かんが)えを話(はな)す演説会(えんぜつかい)が、各地(かくち)でさかんに開(ひら)かれました。新聞(しんぶん)や雑誌(ざっし)にも、政治(せいじ)についての意見(いけん)がさかんにのりました。

柱の並ぶ大きな洋風の広間に、着物や洋服の人々がぎっしり集まり、正面の高い台の上で1人が話をしている錦絵
東京(とうきょう)の明治会堂(めいじかいどう)での演説会(えんぜつかい)のようすをえがいた錦絵(にしきえ)(3枚(まい)続(つづ)き)。明治会堂(めいじかいどう)は、福沢諭吉(ふくざわゆきち)らが中心(ちゅうしん)になって建(た)てた、演説(えんぜつ)のための建物(たてもの)です。2階(かい)の席(せき)まで人(ひと)でいっぱいです。明治会堂演説之図 出版人 岡本貞烋 明治時代 大分県立先哲史料館蔵出典:おおいたデジタル資料室(大分県立先哲史料館)(部分)(CC BY 4.0)

各地(かくち)にできた結社(けっしゃ)

板垣退助(いたがきたいすけ)は、1874年(ねん)にふるさとの高知(こうち)でをつくりました。このような、政治(せいじ)について学(まな)び合(あ)う団体(だんたい)(結社(けっしゃ))が、全国(ぜんこく)にできていきました。

1880年(ねん)には各地(かくち)の結社(けっしゃ)の代表(だいひょう)が大阪(おおさか)に集(あつ)まり、国会(こっかい)を開(ひら)くことを求(もと)める国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)をつくりました。農村(のうそん)の有力者(ゆうりょくしゃ)や商人(しょうにん)など、士族(しぞく)以外(いがい)の人々(ひとびと)も多(おお)く加(くわ)わりました。

自分(じぶん)たちで憲法(けんぽう)の案(あん)をつくる

国会(こっかい)を開(ひら)くには、国(くに)の決(き)まりのもとになる憲法(けんぽう)が必要(ひつよう)です。そこで、人々(ひとびと)は自分(じぶん)たちで憲法(けんぽう)の案(あん)をつくりました。

東京(とうきょう)の五日市(いつかいち)(今(いま)のあきる野(の)市(し))では、小学校(しょうがっこう)の先生(せんせい)だった千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)が、地域(ちいき)の人々(ひとびと)と学(まな)び合(あ)いながら憲法(けんぽう)の案(あん)をつくりました。これをといいます。国民(こくみん)の権利(けんり)をくわしく定(さだ)めています。

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 高知県(こうちけん)。板垣退助(いたがきたいすけ)らが立志社(りっししゃ)をつくった場所(ばしょ)。自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)の中心(ちゅうしん)の一(ひと)つになった。
  • 大阪府(おおさかふ)。1880年(ねん)、各地(かくち)の結社(けっしゃ)の代表(だいひょう)が集(あつ)まり、国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)をつくった場所(ばしょ)。
  • 東京都(とうきょうと)。千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)らが憲法(けんぽう)の案(あん)(五日市憲法(いつかいちけんぽう))をつくった町(まち)。今(いま)の東京都(とうきょうと)あきる野(の)市(し)。案(あん)は、のちに町(まち)の旧家(きゅうか)の土蔵(どぞう)から見(み)つかった。

●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)は、演説会(えんぜつかい)・新聞(しんぶん)・結社(けっしゃ)の活動(かつどう)を通(とお)して全国(ぜんこく)に広(ひろ)がり、人々(ひとびと)は憲法(けんぽう)の案(あん)もつくりました。

政府(せいふ)の取(と)りしまりと、国会(こっかい)を開(ひら)く約束(やくそく)

条例(じょうれい)で取(と)りしまる

政府(せいふ)は、政府(せいふ)への批判(ひはん)が強(つよ)まることをおそれ、条例(じょうれい)をつくって運動(うんどう)を取(と)りしまりました。1875年(ねん)のでは新聞(しんぶん)を、1880年(ねん)のでは演説会(えんぜつかい)などの集(あつ)まりを取(と)りしまりました。

集会条例(しゅうかいじょうれい)では、警察官(けいさつかん)が演説会(えんぜつかい)に立(た)ち会(あ)い、話(はなし)の内容(ないよう)によっては会(かい)をやめさせることができました。

1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)く約束(やくそく)

それでも、国会(こっかい)を求(もと)める声(こえ)はおさまりませんでした。政府(せいふ)の中(なか)でも、早(はや)く国会(こっかい)を開(ひら)くべきだという大隈重信(おおくましげのぶ)と、ほかの人(ひと)たちの意見(いけん)が分(わ)かれていました。

1881年(ねん)10月(じゅうがつ)12日(じゅうににち)、政府(せいふ)は、天皇(てんのう)の言葉(ことば)として、10年後(ねんご)の1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くことを約束(やくそく)しました。これをといいます。

赤いけい線の紙に、縦書きで「明治十四年十月十二日」「國會開設ノ勅諭」と書かれた文書の右ページ
国会開設(こっかいかいせつ)の勅諭(ちょくゆ)を書(か)き写(うつ)した政府(せいふ)の記録(きろく)。右(みぎ)はしに「明治十四年(めいじじゅうよねん)十月十二日(じゅうがつじゅうににち)」、その次(つぎ)に「國會開設(こっかいかいせつ)ノ勅諭(ちょくゆ)」とあります。国会開設ノ勅諭(勅語類・明治詔勅、勅00001100-05100) 明治14年(1881年)10月12日出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)
縦書きの文書の続きのページ。右から4行目の下に「明治二十三年」の文字がある
勅諭(ちょくゆ)の続(つづ)き。右(みぎ)から4〜5行目(ぎょうめ)に「明治二十三年(めいじにじゅうさんねん)ヲ期(き)シ、議員(ぎいん)ヲ召(め)シ、国会(こっかい)ヲ開(かい)キ」(1890年(ねん)に議員(ぎいん)を集(あつ)めて国会(こっかい)を開(ひら)く)とあります。国会開設ノ勅諭(勅語類・明治詔勅、勅00001100-05100) 明治14年(1881年)10月12日出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)

勅諭(ちょくゆ)では、国会(こっかい)のしくみや権限(けんげん)は、天皇(てんのう)が自分(じぶん)で決(き)めて発表(はっぴょう)するとしました。憲法(けんぽう)は、国民(こくみん)ではなく政府(せいふ)が中心(ちゅうしん)になってつくることになったのです。

政府(せいふ)は条例(じょうれい)で運動(うんどう)を取(と)りしまりましたが、1881年(ねん)に、1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くことを約束(やくそく)しました。

国会(こっかい)にそなえて政党(せいとう)ができる

国会(こっかい)が開(ひら)かれることが決(き)まると、人々(ひとびと)は国会(こっかい)での政治(せいじ)にそなえて、をつくりました。政党(せいとう)は、同(おな)じ考(かんが)えをもつ人(ひと)たちが集(あつ)まり、その考(かんが)えを政治(せいじ)に生(い)かそうとする団体(だんたい)です。

政党(せいとう)できた年(とし)中心(ちゅうしん)の人物(じんぶつ)
自由党(じゆうとう)1881年(ねん)板垣退助(いたがきたいすけ)
立憲改進党(りっけんかいしんとう)1882年(ねん)大隈重信(おおくましげのぶ)

大隈重信(おおくましげのぶ)は、国会(こっかい)を開(ひら)く約束(やくそく)が出(だ)されたのと同(おな)じころ、政府(せいふ)を追(お)われました。その翌年(よくねん)、自分(じぶん)たちの政党(せいとう)として立憲改進党(りっけんかいしんとう)をつくりました。

なぜ? 国会(こっかい)が開(ひら)かれる前(まえ)に、政党(せいとう)をつくったの?
国会(こっかい)では、議員(ぎいん)が話(はな)し合(あ)って法律(ほうりつ)や予算(よさん)を決(き)めます。同(おな)じ考(かんが)えの人(ひと)がまとまっていれば、意見(いけん)を通(とお)しやすくなります。そのため、前(まえ)から仲間(なかま)を集(あつ)めておいたのです。

国会(こっかい)開設(かいせつ)にそなえて、板垣退助(いたがきたいすけ)は自由党(じゆうとう)を、大隈重信(おおくましげのぶ)は立憲改進党(りっけんかいしんとう)をつくりました。

年(ねん)の流(なが)れでふり返(かえ)る

  1. 1873年(ねん) 西郷隆盛(さいごうたかもり)・板垣退助(いたがきたいすけ)らが政府(せいふ)を去(さ)る
  2. 1874年(ねん) 板垣退助(いたがきたいすけ)らが民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を出(だ)す。高知(こうち)で立志社(りっししゃ)ができる
  3. 1877年(ねん) 西南戦争(せいなんせんそう)が起(お)こる
  4. 1880年(ねん) 国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)ができる。集会条例(しゅうかいじょうれい)が出(だ)される
  5. 1881年(ねん)1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くことが約束(やくそく)される(国会開設(こっかいかいせつ)の勅諭(ちょくゆ))。自由党(じゆうとう)ができる
  6. 1882年(ねん) 立憲改進党(りっけんかいしんとう)ができる

西南戦争(せいなんせんそう)で武力(ぶりょく)による反乱(はんらん)が終(お)わり、そのあと言論(げんろん)による運動(うんどう)が広(ひろ)がった、という順番(じゅんばん)をおさえましょう。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)の流(なが)れをさらにくわしく習(なら)います。小学校(しょうがっこう)で覚(おぼ)えたことに、次(つぎ)のような内容(ないよう)が加(くわ)わります。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
政府(せいふ)を去(さ)った理由(りゆう)政府(せいふ)の中(なか)の意見(いけん)の対立(たいりつ)朝鮮(ちょうせん)への使節(しせつ)の派遣(はけん)をめぐる争(あらそ)い(征韓論(せいかんろん))に敗(やぶ)れ、西郷(さいごう)・板垣(いたがき)らが政府(せいふ)を去(さ)った(明治六年(めいじろくねん)の政変(せいへん))
士族(しぞく)の不満(ふまん)特権(とっけん)を失(うしな)った1876年(ねん)に刀(かたな)を差(さ)すことが禁止(きんし)され(廃刀令(はいとうれい))、禄(ろく)も打(う)ち切(き)られた(秩禄処分(ちつろくしょぶん))
国会(こっかい)開設(かいせつ)の約束(やくそく)1881年(ねん)に約束(やくそく)した北海道(ほっかいどう)の開拓使(かいたくし)の施設(しせつ)などを安(あ)く払(はら)い下(さ)げる計画(けいかく)が強(つよ)く批判(ひはん)された。政府(せいふ)は払(はら)い下(さ)げをやめ、大隈重信(おおくましげのぶ)を政府(せいふ)から追(お)い出(だ)した(明治十四年(めいじじゅうよねん)の政変(せいへん))
西南戦争(せいなんせんそう)で政府軍(せいふぐん)が勝(か)てたわけ徴兵令(ちょうへいれい)で集(あつ)めた軍隊(ぐんたい)で戦(たたか)った汽船(きせん)で兵士(へいし)や物資(ぶっし)を九州(きゅうしゅう)へ運(はこ)び、電信(でんしん)で戦(たたか)いのようすをすぐに伝(つた)えた
憲法(けんぽう)の案(あん)五日市憲法(いつかいちけんぽう)民間(みんかん)でつくられた憲法(けんぽう)の案(あん)を「私擬憲法(しぎけんぽう)」という。植木枝盛(うえきえもり)の案(あん)なども知(し)られている

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

着物を着た、目の大きな男性の肖像画
西郷隆盛(さいごうたかもり)
薩摩藩(さつまはん)の出身(しゅっしん)。明治維新(めいじいしん)で活(かつ)やくしたが、1873年(ねん)に政府(せいふ)を去(さ)った。1877年(ねん)、鹿児島(かごしま)の士族(しぞく)とともに西南戦争(せいなんせんそう)を起(お)こし、敗(やぶ)れてなくなった。写真(しゃしん)を一枚(いちまい)もとらなかったといわれ、ここの絵(え)も写真(しゃしん)ではなく肖像画(しょうぞうが)を写(うつ)したもの。
西郷隆盛(『近世名士写真』其1、1935年。肖像画を写したもの)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
白く長いあごひげをのばした、洋服の年配の男性の顔
板垣退助(いたがきたいすけ)
土佐(とさ)藩(はん)の出身(しゅっしん)。1873年(ねん)に政府(せいふ)を去(さ)り、1874年(ねん)に民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を出(だ)して、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)の中心(ちゅうしん)になった。1881年(ねん)に自由党(じゆうとう)をつくり、党首(とうしゅ)(総理(そうり))になった。
板垣退助(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
着物と羽織を着た、頭をそった年配の男性
大隈重信(おおくましげのぶ)
佐賀藩(さがはん)の出身(しゅっしん)。政府(せいふ)の中(なか)で早(はや)く国会(こっかい)を開(ひら)くことを主張(しゅちょう)したが、1881年(ねん)に政府(せいふ)を追(お)われた。1882年(ねん)に立憲改進党(りっけんかいしんとう)をつくった。のちに早稲田大学(わせだだいがく)のもとになる学校(がっこう)も開(ひら)いた。
大隈重信(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)
今(いま)の宮城県(みやぎけん)の生(う)まれ。東京(とうきょう)の五日市(いつかいち)で小学校(しょうがっこう)の先生(せんせい)をしながら、地域(ちいき)の人々(ひとびと)と学(まな)び合(あ)い、憲法(けんぽう)の案(あん)(五日市憲法(いつかいちけんぽう))をつくった。

重要(じゅうよう)なところ

民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)は1874年(ねん)、西南戦争(せいなんせんそう)は1877年(ねん)、国会開設(こっかいかいせつ)の勅諭(ちょくゆ)は1881年(ねん)。
「意見書(いけんしょ)(1874)→西南戦争(せいなんせんそう)(1877)→国会(こっかい)の約束(やくそく)(1881)」の順(じゅん)です。国会(こっかい)が実際(じっさい)に開(ひら)かれたのは、約束(やくそく)から9年後(ねんご)の1890年(ねん)です。
西南戦争(せいなんせんそう)を起(お)こしたのは西郷隆盛(さいごうたかもり)、民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)を出(だ)したのは板垣退助(いたがきたいすけ)。
2人(ふたり)とも1873年(ねん)に政府(せいふ)を去(さ)りましたが、西郷(さいごう)は武力(ぶりょく)で、板垣(いたがき)は言論(げんろん)で政府(せいふ)に立(た)ち向(む)かいました。
自由党(じゆうとう)をつくったのは板垣退助(いたがきたいすけ)、立憲改進党(りっけんかいしんとう)をつくったのは大隈重信(おおくましげのぶ)。
自由党(じゆうとう)が1881年(ねん)、立憲改進党(りっけんかいしんとう)が1882年(ねん)です。「板垣(いたがき)=自由党(じゆうとう)」「大隈(おおくま)=改進党(かいしんとう)」とセットで覚(おぼ)えましょう。
国会開設(こっかいかいせつ)の勅諭(ちょくゆ)は、国会(こっかい)を開(ひら)く年(とし)(1890年(ねん))を約束(やくそく)したもの。
憲法(けんぽう)の中身(なかみ)や国会(こっかい)のしくみは、このあと政府(せいふ)が中心(ちゅうしん)になって決(き)めました(次(つぎ)のページ)。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」の授業「板垣退助と自由民権運動」
  • 教育出版:「近代国家を目ざして」の授業「自由民権運動が広まる」
  • 日本文教出版:「国力の充実をめざす日本と国際社会」の授業「自由民権運動の広がり」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ケ):黒船(くろふね)の来航(らいこう)、廃藩置県(はいはんちけん)や四民平等(しみんびょうどう)などの改革(かいかく)、文明開化(ぶんめいかいか)から、明治維新(めいじいしん)で近代化(きんだいか)が進(すす)んだことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263219000000)

「明治(めいじ)の国(くに)づくりを進(すす)めた人々(ひとびと)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1877年(ねん)に、西郷隆盛(さいごうたかもり)を中心(ちゅうしん)とする鹿児島(かごしま)の士族(しぞく)が起(お)こした戦(たたか)いを何(なん)といいますか。西南戦争(せいなんせんそう)
1874年(ねん)に、板垣退助(いたがきたいすけ)らが国民(こくみん)の選(えら)んだ議員(ぎいん)による議会(ぎかい)を開(ひら)くよう求(もと)めて、政府(せいふ)に出(だ)した意見書(いけんしょ)を何(なん)といいますか。民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)
国会(こっかい)を開(ひら)くことや憲法(けんぽう)をつくることなど、国民(こくみん)が政治(せいじ)に参加(さんか)する権利(けんり)を求(もと)めた運動(うんどう)を何(なん)といいますか。自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)
1881年(ねん)に政府(せいふ)が約束(やくそく)した、国会(こっかい)を開(ひら)く年(とし)は何年(なんねん)ですか。ヒント:約束(やくそく)から9年後(ねんご)です1890年(ねん)
1881年(ねん)に板垣退助(いたがきたいすけ)がつくった政党(せいとう)を何(なん)といいますか。自由党(じゆうとう)
1882年(ねん)に大隈重信(おおくましげのぶ)がつくった政党(せいとう)を何(なん)といいますか。立憲改進党(りっけんかいしんとう)
東京(とうきょう)の五日市(いつかいち)で、千葉卓三郎(ちばたくさぶろう)らがつくった憲法(けんぽう)の案(あん)を何(なん)といいますか。五日市憲法(いつかいちけんぽう)
西南戦争(せいなんせんそう)のあと、人々(ひとびと)は意見(いけん)をどのように主張(しゅちょう)するようになりましたか。武力(ぶりょく)ではなく、新聞(しんぶん)や演説(えんぜつ)などの言論(げんろん)で主張(しゅちょう)するようになった。
問(と)いへの答(こた)え

人々(ひとびと)は、国民(こくみん)の意見(いけん)を取(と)り入(い)れて政治(せいじ)を行(おこな)うために、国会(こっかい)を開(ひら)き、憲法(けんぽう)をつくることを求(もと)めました。はじめは、改革(かいかく)に不満(ふまん)をもつ士族(しぞく)が、西南戦争(せいなんせんそう)などの反乱(はんらん)を起(お)こしましたが、政府軍(せいふぐん)にしずめられました。そのあとは、武力(ぶりょく)ではなく言論(げんろん)で主張(しゅちょう)する方法(ほうほう)に変(か)わりました。板垣退助(いたがきたいすけ)らが国会(こっかい)を開(ひら)くよう政府(せいふ)に求(もと)めたことをきっかけに、演説会(えんぜつかい)や新聞(しんぶん)、各地(かくち)の結社(けっしゃ)の集(あつ)まりを通(とお)して自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)が全国(ぜんこく)に広(ひろ)がり、人々(ひとびと)は自分(じぶん)たちで憲法(けんぽう)の案(あん)もつくりました。政府(せいふ)は条例(じょうれい)で運動(うんどう)を取(と)りしまりましたが、1881年(ねん)に、1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くことを約束(やくそく)しました。国会(こっかい)にそなえて、板垣退助(いたがきたいすけ)は自由党(じゆうとう)を、大隈重信(おおくましげのぶ)は立憲改進党(りっけんかいしんとう)をつくりました。

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出典

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