教科書補助小6 社会 / 明治の国づくりを進めた人々 / 6本中の6本目

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)と国会(こっかい)とは? 伊藤博文(いとうひろぶみ)・内閣制度(ないかくせいど)・第(だい)1回選挙(かいせんきょ)・帝国議会(ていこくぎかい)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」の「伊藤博文と国会開設、大日本帝国憲法」/教育出版「近代国家を目ざして」の「国会が開かれる」/日本文教出版「国力の充実をめざす日本と国際社会」の「大日本帝国憲法の発布と国会の開設」

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  1. 伊藤博文(いとうひろぶみ)はドイツなどで憲法(けんぽう)を学(まな)び、1885年(ねん)にをつくって、初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になりました。
  2. 1889年(ねん)に、天皇(てんのう)が国民(こくみん)にあたえる形(かたち)でが発布(はっぷ)されました。主権(しゅけん)は天皇(てんのう)にありました。
  3. 1890年(ねん)に第(だい)1回(かい)の選挙(せんきょ)が行(おこな)われ、が開(ひら)かれました。選挙権(せんきょけん)があったのは、人口(じんこう)の約(やく)1%でした。
今日(きょう)の問(と)い

明治(めいじ)の政府(せいふ)は、どのような憲法(けんぽう)と国会(こっかい)をつくったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

憲法(けんぽう)をつくる準備(じゅんび)―伊藤博文(いとうひろぶみ)、ヨーロッパへ

国会(こっかい)を開(ひら)く前(まえ)に、憲法(けんぽう)が必要(ひつよう)だった

1881年(ねん)、政府(せいふ)は、10年後(ねんご)の1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くと約束(やくそく)しました。国会(こっかい)を開(ひら)くには、その前(まえ)に国(くに)の大(おお)もとのきまりである憲法(けんぽう)をつくる必要(ひつよう)がありました。

政府(せいふ)は、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする国(くに)のしくみを守(まも)る憲法(けんぽう)を、自分(じぶん)たちの手(て)でつくろうとしました。

ドイツなどで憲法(けんぽう)を学(まな)ぶ

1882年(ねん)3月(さんがつ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)は憲法(けんぽう)を調(しら)べるために、ヨーロッパにわたりました。調査(ちょうさ)は1年(ねん)2か月(げつ)におよびました。

伊藤(いとう)は、ドイツやオーストリアなどで、憲法(けんぽう)の専門家(せんもんか)から講義(こうぎ)を受(う)けました。とくに手本(てほん)にしたのは、皇帝(こうてい)(君主(くんしゅ))の力(ちから)が強(つよ)いドイツの憲法(けんぽう)です。

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、1882年(ねん)からヨーロッパで憲法(けんぽう)を調(しら)べ、皇帝(こうてい)の力(ちから)が強(つよ)いドイツの憲法(けんぽう)を手本(てほん)にしました。

内閣制度(ないかくせいど)と初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)

ヨーロッパから帰(かえ)った伊藤(いとう)は、新(あたら)しい政治(せいじ)のしくみを整(ととの)えていきました。1885年(ねん)12月(じゅうにがつ)、内閣制度(ないかくせいど)がつくられました。

内閣(ないかく)は、内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)と各大臣(かくだいじん)が集(あつ)まって、国(くに)の政治(せいじ)を進(すす)めるところです。伊藤(いとう)は、初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になりました。このとき44歳(さい)でした。

伊藤(いとう)は、憲法(けんぽう)の案(あん)づくりでも中心(ちゅうしん)になりました。

1885年(ねん)に内閣制度(ないかくせいど)ができ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になりました。

1889年(ねん)、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の発布(はっぷ)

1889年(ねん)2月(にがつ)11日(じゅういちにち)、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布(はっぷ)されました。2月(にがつ)11日(じゅういちにち)は、そのころ「紀元節(きげんせつ)」とよばれた祝日(しゅくじつ)です。

憲法(けんぽう)は、天皇(てんのう)が国民(こくみん)にあたえるという形(かたち)で出(だ)されました。皇居(こうきょ)の明治宮殿(めいじきゅうでん)で式(しき)が行(おこな)われ、明治天皇(めいじてんのう)から内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)の黒田清隆(くろだきよたか)に、憲法(けんぽう)がわたされました。

菊の紋のついた幕の下、壇の上に立つ軍服の天皇が、洋服の男性に箱をわたしている。左には洋服の女性たち、右には礼服の男性がたくさんならんでいる錦絵
憲法発布(けんぽうはっぷ)の式(しき)のようすをえがいた錦絵(にしきえ)。壇(だん)の上(うえ)の明治天皇(めいじてんのう)が、内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)の黒田清隆(くろだきよたか)に憲法(けんぽう)をわたしています。発布(はっぷ)から12日後(じゅうににちご)に出版(しゅっぱん)されました。憲法發布式之圖 楊洲周延(橋本周延) 明治22年(1889)2月出典:東京都立中央図書館(部分)
なぜ?「天皇(てんのう)が国民(こくみん)にあたえる」形(かたち)にしたの?
天皇(てんのう)が定(さだ)めてあたえる形(かたち)にすることで、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする国(くに)のしくみを、はっきりさせたのです。

1889年(ねん)2月(にがつ)11日(じゅういちにち)、天皇(てんのう)が国民(こくみん)にあたえる形(かたち)で、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布(はっぷ)されました。

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の特色(とくしょく)―主権(しゅけん)は天皇(てんのう)に

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)では、国(くに)の政治(せいじ)のあり方(かた)を最終的(さいしゅうてき)に決(き)める力(ちから)(主権(しゅけん))は、天皇(てんのう)にありました。第(だい)1条(じょう)には、「大日本帝国(だいにっぽんていこく)は、万世一系(ばんせいいっけい)の天皇(てんのう)がこれを統治(とうち)する」とあります。

縦書きで「大日本帝國憲法」「第一章 天皇」「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」などと書かれた、うすい茶色の紙
原本(げんぽん)の「第一章天皇(だいいちしょうてんのう)」のはじめのページ。第(だい)1条(じょう)から第(だい)4条(じょう)までは、すべて天皇(てんのう)についての条文(じょうぶん)です。大日本帝国憲法・御署名原本・明治二十二年・憲法二月十一日(御00284100)出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)

憲法(けんぽう)には、天皇(てんのう)のおもな権限(けんげん)として、次(つぎ)のようなことが書(か)かれています。

  • 天皇(てんのう)は国(くに)の元首(げんしゅ)で、国(くに)を治(おさ)める権限(けんげん)をすべてにぎる(第(だい)4条(じょう))
  • 天皇(てんのう)が、帝国議会(ていこくぎかい)を召集(しょうしゅう)し、衆議院(しゅうぎいん)を解散(かいさん)させる(第(だい)7条(じょう))
  • 天皇(てんのう)が、陸軍(りくぐん)・海軍(かいぐん)を率(ひき)いる(第(だい)11条(じょう))
  • 天皇(てんのう)が、戦争(せんそう)を始(はじ)めたり終(お)えたりし、外国(がいこく)と条約(じょうやく)を結(むす)ぶ(第(だい)13条(じょう))

国民(こくみん)は「臣民(しんみん)」

この憲法(けんぽう)では、国民(こくみん)はとよばれました。天皇(てんのう)に仕(つか)える民(たみ)という意味(いみ)です。

臣民(しんみん)には、言論(げんろん)や集会(しゅうかい)などの自由(じゆう)が認(みと)められました。ただし、「法律(ほうりつ)の範囲内(はんいない)で」という条件(じょうけん)つきでした(第(だい)29条(じょう))。また、兵役(へいえき)と納税(のうぜい)の義務(ぎむ)が定(さだ)められました。

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)では、主権(しゅけん)は天皇(てんのう)にありました。国民(こくみん)は「臣民(しんみん)」とよばれ、権利(けんり)は法律(ほうりつ)の範囲内(はんいない)で認(みと)められました。

第(だい)1回(かい)の選挙(せんきょ)と帝国議会(ていこくぎかい)

選挙権(せんきょけん)があったのは、人口(じんこう)の約(やく)1%

1890年(ねん)7月(しちがつ)1日(ついたち)、第(だい)1回(かい)の議員(ぎいん)の選挙(せんきょ)が行(おこな)われました。選挙(せんきょ)で選(えら)ばれた議員(ぎいん)は、300人(にん)です。

があったのは、直接国税(ちょくせつこくぜい)を15円以上(えんいじょう)おさめる、25歳以上(さいいじょう)の男子(だんし)だけでした。女性(じょせい)には、選挙権(せんきょけん)がありませんでした。

選挙権(せんきょけん)をもつ人(ひと)(有権者(ゆうけんしゃ))は約(やく)45万人(まんにん)で、人口(じんこう)の約(やく)1.1%でした。100人(にん)に1人(にん)ほどです。

有権者(ゆうけんしゃ)が人口(じんこう)にしめる割合(わりあい)(選挙法(せんきょほう)を定(さだ)めた・改(あらた)めた年(とし))
  1. 1.1%1889年(ねん)
  2. 2.2%1900年(ねん)
  3. 5.5%1919年(ねん)
  4. 20.0%1925年(ねん)
  5. 48.7%1945年(ねん)
  6. 83.3%2016年(ねん)

1889年の選挙法で、1890年の第1回選挙が行われた(有権者約45万人)。1925年は25歳以上のすべての男子、1945年は20歳以上の男女、2016年は18歳以上の男女。 出典:酒田市選挙管理委員会「選挙権の拡大と有権者の推移」

選挙権(せんきょけん)はそのあと少(すこ)しずつ広(ひろ)がり、いまは18歳以上(さいいじょう)のすべての人(ひと)がもっています。

衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)の帝国議会(ていこくぎかい)

1890年(ねん)11月(じゅういちがつ)、第(だい)1回(かい)の帝国議会(ていこくぎかい)が開(ひら)かれました。帝国議会(ていこくぎかい)は、衆議院(しゅうぎいん)との2つからできていました。

赤れんがに白いしまの、塔のある大きな建物が3つつながってならび、前の広場に馬車や洋服の人々がいる錦絵。建物に「下院」「議事堂」「上院」の赤い札がついている
国会(こっかい)議事堂(ぎじどう)ができる前(まえ)の1888年(ねん)に、完成(かんせい)したようすを想像(そうぞう)してえがいた錦絵(にしきえ)。左(ひだり)の「下院(かいん)」がのちの衆議院(しゅうぎいん)、右(みぎ)の「上院(じょういん)」がのちの貴族院(きぞくいん)にあたります。大日本帝国国会仮議事堂之図 井上探景(井上安治) 明治21年(1888)2月出典:東京都立中央図書館(部分)
衆議院(しゅうぎいん)貴族院(きぞくいん)
議員(ぎいん)選挙(せんきょ)で選(えら)ばれた人(ひと)皇族(こうぞく)・華族(かぞく)(元(げん)の公家(くげ)や大名(だいみょう)など)と、天皇(てんのう)が任命(にんめい)した人(ひと)など
選挙(せんきょ)ある(有権者(ゆうけんしゃ)は人口(じんこう)の約(やく)1%)国民(こくみん)による選挙(せんきょ)はない

法律(ほうりつ)や予算(よさん)を決(き)めるには、帝国議会(ていこくぎかい)の賛成(さんせい)が必要(ひつよう)になりました。選挙(せんきょ)で選(えら)ばれた国民(こくみん)の代表(だいひょう)が、国(くに)の政治(せいじ)に加(くわ)わるようになったのです。

シャンデリアのある広い部屋で、黒い洋服の議員たちが半円形にならんだ席にすわり、正面の高い台の上に議長が立っている錦絵。2階の席にも人がいる
衆議院(しゅうぎいん)の議場(ぎじょう)をえがいた錦絵(にしきえ)。第(だい)1回(かい)の帝国議会(ていこくぎかい)が開(ひら)かれる前(まえ)の、1890年(ねん)10月(じゅうがつ)に出版(しゅっぱん)されました。半円形(はんえんけい)にならんだ席(せき)に、議員(ぎいん)がすわっています。帝国議会衆議院之図 楊斎延一(歌川延一) 明治23年(1890)10月出典:東京都立中央図書館(部分)

1890年(ねん)に第(だい)1回(かい)の選挙(せんきょ)が行(おこな)われ、衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)からなる帝国議会(ていこくぎかい)が開(ひら)かれました。

教育勅語(きょういくちょくご)と、年(ねん)の流(なが)れ

1890年(ねん)には、も出(だ)されました。天皇(てんのう)が、教育(きょういく)の方針(ほうしん)と国民(こくみん)の守(まも)るべき心(こころ)がまえを示(しめ)したものです。

全国(ぜんこく)の学校(がっこう)に配(くば)られ、式(しき)のときに読(よ)み上(あ)げられました。第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)のあと、1948年(ねん)に効力(こうりょく)を失(うしな)いました。

  1. 1881年(ねん)政府(せいふ)が、1890年(ねん)に国会(こっかい)を開(ひら)くと約束(やくそく)する
  2. 1882年(ねん)伊藤博文(いとうひろぶみ)が、ヨーロッパで憲法(けんぽう)を調(しら)べる
  3. 1885年(ねん)内閣制度(ないかくせいど)ができ、伊藤博文(いとうひろぶみ)が初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になる
  4. 1889年(ねん)大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布(はっぷ)される(2月(にがつ)11日(じゅういちにち))
  5. 1890年(ねん)第(だい)1回(かい)の衆議院(しゅうぎいん)議員選挙(ぎいんせんきょ)(7月(しちがつ))。教育勅語(きょういくちょくご)(10月(じゅうがつ))。第(だい)1回(かい)の帝国議会(ていこくぎかい)(11月(じゅういちがつ))

1889年(ねん)に憲法(けんぽう)、1890年(ねん)に選挙(せんきょ)と帝国議会(ていこくぎかい)。この順番(じゅんばん)で、日本(にほん)は憲法(けんぽう)にもとづいて政治(せいじ)を行(おこな)う国(くに)になりました。

いまの日本国憲法(にほんこくけんぽう)とくらべよう

いまの日本国憲法(にほんこくけんぽう)は、1946年(ねん)11月(じゅういちがつ)3日(みっか)に公布(こうふ)され、1947年(ねん)5月(ごがつ)3日(みっか)から使(つか)われています。大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)と、大事(だいじ)なところをくらべてみましょう。

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)日本国憲法(にほんこくけんぽう)
主権(しゅけん)天皇(てんのう)国民(こくみん)
国民(こくみん)のよび方(かた)臣民(しんみん)国民(こくみん)
国民(こくみん)の権利(けんり)法律(ほうりつ)の範囲内(はんいない)で認(みと)める基本的人権(きほんてきじんけん)を、おかすことのできない永久(えいきゅう)の権利(けんり)として保障(ほしょう)する
議会(ぎかい)帝国議会(ていこくぎかい)(衆議院(しゅうぎいん)・貴族院(きぞくいん))国会(こっかい)(衆議院(しゅうぎいん)・参議院(さんぎいん))。どちらも選挙(せんきょ)で選(えら)ぶ
選挙権(せんきょけん)税(ぜい)の条件(じょうけん)がある、25歳以上(さいいじょう)の男子(だんし)18歳以上(さいいじょう)のすべての人(ひと)

2つの憲法(けんぽう)のちがいは、主権(しゅけん)がだれにあるかに注目(ちゅうもく)して覚(おぼ)えましょう。

主権(しゅけん)は、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)では天皇(てんのう)、日本国憲法(にほんこくけんぽう)では国民(こくみん)にあります。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

イギリスではなく、ドイツを手本(てほん)にしたわけ

イギリスでは議会(ぎかい)の力(ちから)が強(つよ)く、議会(ぎかい)で多数(たすう)をしめた政党(せいとう)が内閣(ないかく)をつくります。政府(せいふ)の中(なか)には、この形(かたち)を取(と)り入(い)れようという意見(いけん)もありました。

しかし伊藤(いとう)らは、天皇(てんのう)の力(ちから)を強(つよ)く残(のこ)せるドイツの形(かたち)のほうが、日本(にほん)に合(あ)うと考(かんが)えました。

憲法(けんぽう)の案(あん)づくり

1886年(ねん)ごろから、井上毅(いのうえこわし)らが案(あん)づくりを進(すす)めました。政府(せいふ)にまねかれていたドイツ人(にん)の法律家(ほうりつか)の意見(いけん)も取(と)り入(い)れました。

1887年(ねん)の夏(なつ)には、神奈川県(かながわけん)の夏島(なつしま)にあった伊藤(いとう)の別荘(べっそう)で、案(あん)が話(はな)し合(あ)われました。できあがった案(あん)は、天皇(てんのう)の相談(そうだん)にこたえる枢密院(すうみついん)という会議(かいぎ)で、さらに話(はな)し合(あ)われました。

憲法(けんぽう)の原本(げんぽん)

憲法(けんぽう)の原本(げんぽん)は、いまも国立公文書館(こくりつこうぶんしょかん)に残(のこ)っています。最後(さいご)のページには、天皇(てんのう)の名前(なまえ)(睦仁(むつひと))と、「天皇御璽(てんのうぎょじ)」という大(おお)きな印(しるし)があります。

その左(ひだり)には、大臣(だいじん)たちの名前(なまえ)がならんでいます。内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)の黒田清隆(くろだきよたか)の次(つぎ)に、枢密院(すうみついん)の議長(ぎちょう)になっていた伊藤博文(いとうひろぶみ)の名前(なまえ)が見(み)えます。

開いた和とじの本。右のページに「睦仁」の名前と、赤い大きな四角い印「天皇御璽」、「明治二十二年二月十一日」の日付。左のページに大臣たちの名前がならぶ
大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の原本(げんぽん)の、最後(さいご)の見開(みひら)き。右(みぎ)に天皇(てんのう)の名前(なまえ)と印(しるし)、左(ひだり)に黒田清隆(くろだきよたか)・伊藤博文(いとうひろぶみ)ら大臣(だいじん)の名前(なまえ)があります。大日本帝国憲法・御署名原本・明治二十二年・憲法二月十一日(御00284100)出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

白いあごひげをはやし、勲章をつけた黒い服の男性の写真
伊藤博文(いとうひろぶみ)
長州藩(ちょうしゅうはん)(山口県(やまぐちけん))の出身(しゅっしん)。1882年(ねん)からヨーロッパで憲法(けんぽう)を調(しら)べ、1885年(ねん)に内閣制度(ないかくせいど)をつくって初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になった。大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の案(あん)づくりの中心(ちゅうしん)になった。
伊藤博文(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
口ひげをはやし、たすきと勲章をつけた礼服の男性の写真
黒田清隆(くろだきよたか)
薩摩藩(さつまはん)(鹿児島県(かごしまけん))の出身(しゅっしん)。2代目(だいめ)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)。1889年(ねん)の憲法発布(けんぽうはっぷ)の式(しき)で、明治天皇(めいじてんのう)から憲法(けんぽう)を受(う)け取(と)った。
黒田清隆(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
口ひげをはやし、もようのある礼服にたすきをかけた男性の絵
井上毅(いのうえこわし)
熊本藩(くまもとはん)(熊本県(くまもとけん))の出身(しゅっしん)。伊藤博文(いとうひろぶみ)のもとで、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の案(あん)づくりにあたった。1890年(ねん)の教育勅語(きょういくちょくご)の文(ぶん)も考(かんが)えた。
井上毅(木村匡編『井上毅君教育事業小史』1895年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)

重要(じゅうよう)なところ

大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)では、主権(しゅけん)は天皇(てんのう)にありました。
いまの日本国憲法(にほんこくけんぽう)では、主権(しゅけん)は国民(こくみん)にあります。2つの憲法(けんぽう)をくらべる問題(もんだい)がよく出(で)ます。
第(だい)1回(かい)の選挙(せんきょ)で選挙権(せんきょけん)があったのは、直接国税(ちょくせつこくぜい)を15円以上(えんいじょう)おさめる、25歳以上(さいいじょう)の男子(だんし)だけです。
女性(じょせい)には選挙権(せんきょけん)がなく、有権者(ゆうけんしゃ)は人口(じんこう)の約(やく)1%(約(やく)45万人(まんにん))でした。
帝国議会(ていこくぎかい)は、衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)からなります。選挙(せんきょ)で議員(ぎいん)を選(えら)んだのは、衆議院(しゅうぎいん)だけです。
貴族院(きぞくいん)は、皇族(こうぞく)・華族(かぞく)や、天皇(てんのう)が任命(にんめい)した人(ひと)などでつくられました。
内閣制度(ないかくせいど)は1885年(ねん)、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の発布(はっぷ)は1889年(ねん)、第(だい)1回(かい)の帝国議会(ていこくぎかい)は1890年(ねん)です。
内閣(ないかく)が先(さき)にでき、憲法(けんぽう)、選挙(せんきょ)と議会(ぎかい)の順(じゅん)に進(すす)みました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」の授業「伊藤博文と国会開設、大日本帝国憲法」
  • 教育出版:「近代国家を目ざして」の授業「国会が開かれる」
  • 日本文教出版:「国力の充実をめざす日本と国際社会」の授業「大日本帝国憲法の発布と国会の開設」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ケ):黒船(くろふね)の来航(らいこう)、廃藩置県(はいはんちけん)や四民平等(しみんびょうどう)などの改革(かいかく)、文明開化(ぶんめいかいか)から、明治維新(めいじいしん)で近代化(きんだいか)が進(すす)んだことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263219000000)

「明治(めいじ)の国(くに)づくりを進(すす)めた人々(ひとびと)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

憲法(けんぽう)を調(しら)べるためにヨーロッパにわたり、1885年(ねん)に初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になった人物(じんぶつ)はだれですか。伊藤博文(いとうひろぶみ)
伊藤博文(いとうひろぶみ)がとくに手本(てほん)にしたのは、どこの国(くに)の憲法(けんぽう)ですか。ヒント:皇帝(こうてい)(君主(くんしゅ))の力(ちから)が強(つよ)い国(くに)でしたドイツ(プロイセン)
1889年(ねん)2月(にがつ)11日(じゅういちにち)に発布(はっぷ)された憲法(けんぽう)を何(なん)といいますか。大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)
大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)では、主権(しゅけん)はだれにありましたか。天皇(てんのう)
大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)で、国民(こくみん)は何(なん)とよばれましたか。臣民(しんみん)
第(だい)1回(かい)の衆議院(しゅうぎいん)議員選挙(ぎいんせんきょ)で選挙権(せんきょけん)があったのは、どんな人(ひと)ですか。直接国税(ちょくせつこくぜい)を15円以上(えんいじょう)おさめる、25歳以上(さいいじょう)の男子(だんし)
第(だい)1回(かい)の選挙(せんきょ)のとき、有権者(ゆうけんしゃ)は人口(じんこう)のおよそ何(なん)%でしたか。約(やく)1%(約(やく)1.1%)
帝国議会(ていこくぎかい)は、何(なん)と何(なん)の2つからできていましたか。衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)
問(と)いへの答(こた)え

政府(せいふ)は、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする国(くに)のしくみを守(まも)る憲法(けんぽう)をつくろうとしました。伊藤博文(いとうひろぶみ)は、皇帝(こうてい)の力(ちから)が強(つよ)いドイツなどで憲法(けんぽう)を学(まな)び、1885年(ねん)に内閣制度(ないかくせいど)をつくって初代(しょだい)の内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)になりました。1889年(ねん)には、天皇(てんのう)が国民(こくみん)にあたえる形(かたち)で大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布(はっぷ)されました。この憲法(けんぽう)では、主権(しゅけん)は天皇(てんのう)にあり、軍隊(ぐんたい)を率(ひき)いることや条約(じょうやく)を結(むす)ぶことも天皇(てんのう)の権限(けんげん)でした。国民(こくみん)は「臣民(しんみん)」とよばれ、法律(ほうりつ)の範囲内(はんいない)で自由(じゆう)が認(みと)められました。1890年(ねん)には第(だい)1回(かい)の衆議院(しゅうぎいん)議員選挙(ぎいんせんきょ)が行(おこな)われ、衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)からなる帝国議会(ていこくぎかい)が開(ひら)かれました。ただし、選挙権(せんきょけん)があったのは、直接国税(ちょくせつこくぜい)を15円以上(えんいじょう)おさめる25歳以上(さいいじょう)の男子(だんし)だけで、人口(じんこう)の約(やく)1%でした。

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