教科書補助小6 社会 / 明治の国づくりを進めた人々 / 6本中の2本目

明治維新(めいじいしん)とは? 薩長同盟(さっちょうどうめい)・大政奉還(たいせいほうかん)・戊辰戦争(ぼしんせんそう)・五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」の「若い武士たちが幕府をたおす」/教育出版「明治の新しい国づくり」の「江戸幕府がたおれる」/日本文教出版「明治の新しい国づくり」の「高まる人々の不満」

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  1. 外国(がいこく)の強(つよ)さを知(し)った薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)は、1866年(ねん)にを結(むす)び、幕府(ばくふ)をたおす動(うご)きを強(つよ)めました。
  2. 1867年(ねん)、15代将軍(だいしょうぐん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返(かえ)し()、260年(ねん)あまり続(つづ)いた江戸幕府(えどばくふ)が終(お)わりました。
  3. 1868年(ねん)、新(あたら)しい政府(せいふ)はで政治(せいじ)の方針(ほうしん)を示(しめ)し、で旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)に勝(か)って、天皇中心(てんのうちゅうしん)の国(くに)づくりを進(すす)めました。
今日(きょう)の問(と)い

江戸幕府(えどばくふ)は、どのようにしてたおれ、明治(めいじ)の新(あたら)しい政府(せいふ)ができたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

「外国(がいこく)を追(お)いはらえ」から「幕府(ばくふ)をたおせ」へ

外国(がいこく)の強(つよ)さを知(し)った長州藩(ちょうしゅうはん)と薩摩藩(さつまはん)

開国(かいこく)のあと、天皇(てんのう)を尊(とうと)び、外国(がいこく)を追(お)いはらおうとするの考(かんが)えが広(ひろ)まりました。その中心(ちゅうしん)になったのが、長州藩(ちょうしゅうはん)(今(いま)の山口県(やまぐちけん))と薩摩藩(さつまはん)(今(いま)の鹿児島県(かごしまけん))です。

しかし両藩(りょうはん)は、外国(がいこく)の艦隊(かんたい)と戦(たたか)って、その軍事力(ぐんじりょく)の強(つよ)さを目(ま)の当(あ)たりにしました。外国(がいこく)を追(お)いはらうことはできないと知(し)ったのです。

そして、幕府(ばくふ)をたおして、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする強(つよ)い国(くに)をつくろうと考(かんが)えるようになりました。

明治維新(めいじいしん)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 山口県(やまぐちけん)。長州藩(ちょうしゅうはん)が外国(がいこく)の船(ふね)を砲撃(ほうげき)した関門海峡(かんもんかいきょう)の町(まち)。翌年(よくねん)、4か国(こく)の艦隊(かんたい)に砲台(ほうだい)を占領(せんりょう)された。
  • 鹿児島県(かごしまけん)。薩摩藩(さつまはん)がイギリスの艦隊(かんたい)と戦(たたか)った場所(ばしょ)(薩英戦争(さつえいせんそう))。
  • 京都府(きょうとふ)。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、大政奉還(たいせいほうかん)について諸藩(しょはん)の重臣(じゅうしん)の意見(いけん)を聞(き)いた城(しろ)。二(に)の丸(まる)御殿(ごてん)は国宝(こくほう)。
  • 京都府(きょうとふ)。戊辰戦争(ぼしんせんそう)の始(はじ)まりとなった、旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)と新政府軍(しんせいふぐん)の戦(たたか)いの場所(ばしょ)。京都(きょうと)の南(みなみ)。
  • 東京都(とうきょうと)。勝海舟(かつかいしゅう)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の話(はな)し合(あ)いで、戦(たたか)わずに明(あ)けわたされた城(しろ)。のちに天皇(てんのう)の住(す)まいになった。
  • 福島県(ふくしまけん)。会津藩(あいづはん)が若松城(わかまつじょう)(鶴ヶ城(つるがじょう))にたてこもって新政府軍(しんせいふぐん)と戦(たたか)った場所(ばしょ)。
  • 北海道(ほっかいどう)。旧(きゅう)幕府(ばくふ)の軍(ぐん)が最後(さいご)にたてこもった、星(ほし)の形(かたち)をした西洋式(せいようしき)の城(しろ)。ここでの戦(たたか)いで戊辰戦争(ぼしんせんそう)が終(お)わった。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

坂本龍馬(さかもとりょうま)と薩長同盟(さっちょうどうめい)

もともと対立(たいりつ)していた薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)を結(むす)びつけたのが、土佐(とさ)藩(はん)(今(いま)の高知県(こうちけん))出身(しゅっしん)の坂本龍馬(さかもとりょうま)です。

1866年(ねん)、龍馬(りょうま)の仲立(なかだ)ちで、薩摩藩(さつまはん)の西郷隆盛(さいごうたかもり)と長州藩(ちょうしゅうはん)の木戸孝允(きどたかよし)が約束(やくそく)をかわしました。これを薩長同盟(さっちょうどうめい)といいます。

外国(がいこく)の強(つよ)さを知(し)った長州藩(ちょうしゅうはん)と薩摩藩(さつまはん)は、幕府(ばくふ)をたおそうと考(かんが)えました。1866年(ねん)、坂本龍馬(さかもとりょうま)の仲立(なかだ)ちで薩長同盟(さっちょうどうめい)が結(むす)ばれました。

大政奉還(たいせいほうかん) ― 江戸幕府(えどばくふ)の終(お)わり

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権(せいけん)を返(かえ)す

1866年(ねん)に15代将軍(だいしょうぐん)になった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)のころ、幕府(ばくふ)をたおそうとする動(うご)きは強(つよ)まりました。京都(きょうと)では、武力(ぶりょく)でぶつかることも心配(しんぱい)されていました。

土佐(とさ)藩(はん)は、幕府(ばくふ)が政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返(かえ)すようすすめる意見書(いけんしょ)を、慶喜(よしのぶ)に出(だ)しました。

洋服を着た、頭をそった年配の男性の写真
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)(年(ねん)をとってからの写真(しゃしん))。江戸幕府(えどばくふ)の最後(さいご)の将軍(しょうぐん)です。徳川慶喜(『近世名士写真』其2 近世名士写真頒布会、1935年)出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

1867年(ねん)10月(じゅうがつ)13日(じゅうさんにち)、慶喜(よしのぶ)は、京都(きょうと)の二条城(にじょうじょう)に京都(きょうと)にいた40藩(はん)の重臣(じゅうしん)を集(あつ)め、政権(せいけん)を返(かえ)すことについて意見(いけん)を聞(き)きました。そして14日(じゅうよっか)に朝廷(ちょうてい)に申(もう)し出(で)て、15日(じゅうごにち)に許(ゆる)されました。

これを大政奉還(たいせいほうかん)といいます。こうして、家康(いえやす)から260年(ねん)あまり続(つづ)いた江戸幕府(えどばくふ)は終(お)わりました。

なぜ?将軍(しょうぐん)は、自分(じぶん)から政権(せいけん)を返(かえ)したの?
武力(ぶりょく)でぶつかるのをさけるためでした。慶喜(よしのぶ)は、政権(せいけん)を返(かえ)したあとも、新(あたら)しい政治(せいじ)の中(なか)で徳川家(とくがわけ)が力(ちから)をもち続(つづ)けることをねらったとも考(かんが)えられています。

王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)

しかし、薩摩藩(さつまはん)や長州藩(ちょうしゅうはん)、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)たちは、それを許(ゆる)しませんでした。

1867年(ねん)12月(じゅうにがつ)、朝廷(ちょうてい)はを出(だ)して、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする新(あたら)しい政府(せいふ)をつくることを宣言(せんげん)しました。その夜(よる)の会議(かいぎ)で、慶喜(よしのぶ)には官職(かんしょく)と領地(りょうち)を返(かえ)させることが決(き)められました。

1867年(ねん)、15代将軍(だいしょうぐん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)をして、江戸幕府(えどばくふ)は終(お)わりました。朝廷(ちょうてい)は王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)を出(だ)しました。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)と江戸城(えどじょう)の明(あ)けわたし

鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦(たたか)い

これに反発(はんぱつ)した旧(きゅう)幕府(ばくふ)の軍(ぐん)は、1868年(ねん)1月(いちがつ)、京都(きょうと)に向(む)けて兵(へい)を進(すす)めました。そして京都(きょうと)の南(みなみ)の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で、薩摩藩(さつまはん)・長州藩(ちょうしゅうはん)の軍(ぐん)とぶつかりました(鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦(たたか)い)。

旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)は約(やく)1万(まん)5千人(せんにん)、新政府軍(しんせいふぐん)は約(やく)4千(せん)5百人(ひゃくにん)でした。それでも、戦(たたか)う気持(きも)ちと武器(ぶき)でまさる新政府軍(しんせいふぐん)が勝(か)ちました。慶喜(よしのぶ)は、江戸(えど)にもどりました。

けむりの中で、刀を持った兵士や馬に乗った兵士が戦い、日の丸の旗がえがかれた色あざやかな錦絵
鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦(たたか)いのうち、伏見(ふしみ)での戦(たたか)いをえがいた錦絵(にしきえ)(明治時代(めいじじだい)になってからえがかれたもの)。「皇国一新見聞誌」「伏見の戦争」 月岡芳年 1876年出典:東京都立図書館 TOKYOアーカイブ(部分)

戦(たたか)わずに江戸城(えどじょう)を明(あ)けわたす

新政府軍(しんせいふぐん)は、江戸(えど)に向(む)けて軍(ぐん)を進(すす)めました。1868年(ねん)3月(さんがつ)、旧(きゅう)幕府(ばくふ)の勝海舟(かつかいしゅう)と、新政府軍(しんせいふぐん)の西郷隆盛(さいごうたかもり)が江戸(えど)で話(はな)し合(あ)いました。そして、江戸城(えどじょう)を戦(たたか)わずに明(あ)けわたすことが決(き)まりました。

4月(しがつ)11日(じゅういちにち)、新政府軍(しんせいふぐん)は戦(たたか)うことなく江戸城(えどじょう)に入(はい)りました。こうして、江戸(えど)の町(まち)は戦(たたか)いの場(ば)にならずにすみました。

白い髪とあごひげの、洋服を着た男性の写真
勝海舟(かつかいしゅう)。旧(きゅう)幕府(ばくふ)の代表(だいひょう)として西郷隆盛(さいごうたかもり)と話(はな)し合(あ)いました。勝海舟(『近世名士写真』其2 近世名士写真頒布会、1935年)出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
着物を着た、目の大きながっしりした男性の肖像
西郷隆盛(さいごうたかもり)。新政府軍(しんせいふぐん)の中心(ちゅうしん)として勝海舟(かつかいしゅう)と話(はな)し合(あ)いました。西郷隆盛(『近世名士写真』其1 近世名士写真頒布会、1935年)出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

その後(あと)も、東北地方(とうほくちほう)などで戦(たたか)いが続(つづ)きましたが、1869年(ねん)に旧(きゅう)幕府(ばくふ)の軍(ぐん)は敗(やぶ)れました。この新政府軍(しんせいふぐん)と旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)の戦(たたか)いを戊辰戦争(ぼしんせんそう)といいます。

1868年(ねん)から戊辰戦争(ぼしんせんそう)が起(お)こり、新政府軍(しんせいふぐん)が勝(か)ちました。江戸城(えどじょう)は、勝海舟(かつかいしゅう)と西郷隆盛(さいごうたかもり)の話(はな)し合(あ)いで、戦(たたか)わずに明(あ)けわたされました。

五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)と新(あたら)しい時代(じだい)

1868年(ねん)3月(さんがつ)、新政府(しんせいふ)は、明治天皇(めいじてんのう)が神々(かみがみ)にちかうという形(かたち)で、これからの政治(せいじ)の方針(ほうしん)を示(しめ)しました。これを五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)といいます。

「五ヶ条ノ御誓文」と書かれ、「一 広ク会議ヲ興シ」から始まる5つの条文が縦書きで並ぶ古い記録のページ
政府(せいふ)の記録(きろく)に書(か)き写(うつ)された五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)。右(みぎ)から2行目(ぎょうめ)の「五(ご)ヶ条(かじょう)ノ御誓文(ごせいもん)」の次(つぎ)から、「一(いち)」で始(はじ)まる5つの条文(じょうぶん)が並(なら)んでいます。五ヶ条ノ御誓文(勅語類・明治詔勅) 明治元年3月14日出典:国立公文書館デジタルアーカイブ(部分)
御誓文(ごせいもん)のことば今(いま)のことばでいうと
広(ひろ)く会議(かいぎ)を興(おこ)し、万機公論(ばんきこうろん)に決(けっ)すべし会議(かいぎ)を開(ひら)いて、大切(たいせつ)なことはみんなの意見(いけん)で決(き)めよう
上下心(しょうかこころ)を一(いつ)にして、盛(さか)んに経綸(けいりん)を行(おこな)うべし身分(みぶん)の高(たか)い人(ひと)も低(ひく)い人(ひと)も心(こころ)を一(ひと)つにして、国(くに)を治(おさ)めよう
官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)に至(いた)るまで、おのおのその志(こころざし)を遂(と)げ、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめんことを要(よう)す役人(やくにん)も武士(ぶし)も人々(ひとびと)も、それぞれの願(ねが)いをかなえ、やる気(き)を失(うしな)わないようにしよう
旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破(やぶ)り、天地(てんち)の公道(こうどう)に基(もと)づくべしこれまでのよくないしきたりをやめ、正(ただ)しい道(みち)に従(したが)おう
智識(ちしき)を世界(せかい)に求(もと)め、大(おお)いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし知識(ちしき)を世界(せかい)に学(まな)び、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする国(くに)をさかんにしよう

江戸(えど)が東京(とうきょう)に、元号(げんごう)が明治(めいじ)に

同(おな)じ1868年(ねん)の7月(しちがつ)には、江戸(えど)が「東京(とうきょう)」と改(あらた)められました。9月(くがつ)には元号(げんごう)が「明治(めいじ)」に変(か)わりました。

10月(じゅうがつ)、明治天皇(めいじてんのう)は京都(きょうと)から東京(とうきょう)に入(はい)りました。江戸城(えどじょう)は、天皇(てんのう)の住(す)まいになりました。

  1. 1866年(ねん)薩長同盟(さっちょうどうめい)が結(むす)ばれる
  2. 1867年(ねん)大政奉還(たいせいほうかん)で江戸幕府(えどばくふ)が終(お)わる。王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)が出(だ)される
  3. 1868年(ねん)戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始(はじ)まる。五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)が出(だ)される。江戸城(えどじょう)が明(あ)けわたされる
  4. 1869年(ねん)五稜郭(ごりょうかく)の戦(たたか)いで、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が終(お)わる

江戸幕府(えどばくふ)がたおれ、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする新(あたら)しい政府(せいふ)ができて、国(くに)のしくみや社会(しゃかい)が大(おお)きく変(か)わっていきました。これをといいます。

新政府(しんせいふ)は五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)で政治(せいじ)の方針(ほうしん)を示(しめ)しました。幕府(ばくふ)がたおれ、新(あたら)しい国(くに)づくりが始(はじ)まったことを明治維新(めいじいしん)といいます。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

下関砲撃(しものせきほうげき)と薩英戦争(さつえいせんそう)

1863年(ねん)、長州藩(ちょうしゅうはん)は、関門海峡(かんもんかいきょう)を通(とお)る外国(がいこく)の船(ふね)を砲撃(ほうげき)しました。すると翌年(よくねん)、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国(こく)の艦隊(かんたい)が下関(しものせき)を攻撃(こうげき)し、砲台(ほうだい)を占領(せんりょう)しました。

薩摩藩(さつまはん)では、1862年(ねん)に藩士(はんし)がイギリス人(にん)を殺傷(さっしょう)する生麦事件(なまむぎじけん)が起(お)こりました。これをきっかけに、1863年(ねん)、鹿児島(かごしま)に来(き)たイギリスの艦隊(かんたい)と戦(たたか)いました(薩英戦争(さつえいせんそう))。イギリスは、この戦(たたか)いで薩摩藩(さつまはん)の力(ちから)を認(みと)め、両者(りょうしゃ)は近(ちか)づいていきました。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)の広(ひろ)がり

鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦(たたか)いで、新政府軍(しんせいふぐん)は、天皇(てんのう)の軍(ぐん)であることを示(しめ)す「錦(にしき)の御旗(みはた)」をかかげていました。

江戸城(えどじょう)の明(あ)けわたしのあとも、東北地方(とうほくちほう)や北越(ほくえつ)(今(いま)の新潟県(にいがたけん))の藩(はん)が新政府軍(しんせいふぐん)と戦(たたか)いました。会津藩(あいづはん)(今(いま)の福島県(ふくしまけん))は、1か月(げつ)ほど若松城(わかまつじょう)(鶴ヶ城(つるがじょう))にたてこもって戦(たたか)いましたが、1868年(ねん)9月(くがつ)に降伏(こうふく)しました。

最後(さいご)まで戦(たたか)った旧(きゅう)幕府(ばくふ)の軍(ぐん)も、1869年(ねん)に函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)の戦(たたか)いで敗(やぶ)れました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

頭をそった年配の男性の顔
徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
江戸幕府(えどばくふ)の15代将軍(だいしょうぐん)(最後(さいご)の将軍(しょうぐん))。1867年(ねん)に大政奉還(たいせいほうかん)を行(おこな)い、政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返(かえ)した。
徳川慶喜(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
髪をうしろで結んだ、着物の男性の顔
坂本龍馬(さかもとりょうま)
土佐(とさ)藩(はん)の出身(しゅっしん)。対立(たいりつ)していた薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)の間(あいだ)を取(と)りもち、1866年(ねん)の薩長同盟(さっちょうどうめい)の仲立(なかだ)ちをした。1867年(ねん)に京都(きょうと)で暗殺(あんさつ)された。
坂本竜馬(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
着物を着た、目の大きな男性の顔
西郷隆盛(さいごうたかもり)
薩摩藩(さつまはん)の出身(しゅっしん)。薩長同盟(さっちょうどうめい)を結(むす)び、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では新政府軍(しんせいふぐん)を指揮(しき)した。勝海舟(かつかいしゅう)との話(はな)し合(あ)いで、江戸城(えどじょう)の明(あ)けわたしを決(き)めた。
西郷隆盛(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
白い髪とあごひげの男性の顔
勝海舟(かつかいしゅう)
幕府(ばくふ)の家臣(かしん)。咸臨丸(かんりんまる)の艦長(かんちょう)としてアメリカにわたった。戊辰戦争(ぼしんせんそう)では西郷隆盛(さいごうたかもり)と話(はな)し合(あ)い、江戸城(えどじょう)を戦(たたか)わずに明(あ)けわたした。
勝海舟(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
洋服に蝶ネクタイの男性の顔
木戸孝允(きどたかよし)
長州藩(ちょうしゅうはん)の出身(しゅっしん)(はじめの名(な)は桂小五郎(かつらこごろう))。薩長同盟(さっちょうどうめい)を結(むす)び、五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)の草案(そうあん)づくりにも加(くわ)わった。
木戸孝允(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
ほおひげを長くのばした、洋服の男性の顔
大久保利通(おおくぼとしみち)
薩摩藩(さつまはん)の出身(しゅっしん)。岩倉具視(いわくらともみ)らと王政復古(おうせいふっこ)を進(すす)め、新(あたら)しい政府(せいふ)の中心(ちゅうしん)となって、明治(めいじ)の改革(かいかく)を進(すす)めた。
大久保利通(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)

重要(じゅうよう)なところ

大政奉還(たいせいほうかん)(1867年(ねん))は、将軍(しょうぐん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返(かえ)したできごとです。
「大政(たいせい)」は国(くに)の政治(せいじ)、「奉還(ほうかん)」はお返(かえ)しするという意味(いみ)です。
薩長同盟(さっちょうどうめい)は、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)が結(むす)んだ同盟(どうめい)で、坂本龍馬(さかもとりょうま)が仲立(なかだ)ちをしました。
龍馬(りょうま)は、薩摩藩(さつまはん)でも長州藩(ちょうしゅうはん)でもなく、土佐(とさ)藩(はん)(今(いま)の高知県(こうちけん))の出身(しゅっしん)です。
江戸城(えどじょう)の明(あ)けわたしを話(はな)し合(あ)ったのは、旧(きゅう)幕府(ばくふ)の勝海舟(かつかいしゅう)と、新政府軍(しんせいふぐん)の西郷隆盛(さいごうたかもり)です。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、1868年(ねん)の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦(たたか)いから、1869年(ねん)の五稜郭(ごりょうかく)の戦(たたか)いまで続(つづ)きました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」の授業「若い武士たちが幕府をたおす」
  • 教育出版:「明治の新しい国づくり」の授業「江戸幕府がたおれる」
  • 日本文教出版:「明治の新しい国づくり」の授業「高まる人々の不満」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ケ):黒船(くろふね)の来航(らいこう)、廃藩置県(はいはんちけん)や四民平等(しみんびょうどう)などの改革(かいかく)、文明開化(ぶんめいかいか)から、明治維新(めいじいしん)で近代化(きんだいか)が進(すす)んだことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263219000000)

「明治(めいじ)の国(くに)づくりを進(すす)めた人々(ひとびと)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1866年(ねん)、坂本龍馬(さかもとりょうま)の仲立(なかだ)ちで、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)が結(むす)んだ同盟(どうめい)を何(なん)といいますか。薩長同盟(さっちょうどうめい)
1867年(ねん)、将軍(しょうぐん)が政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返(かえ)したことを何(なん)といいますか。大政奉還(たいせいほうかん)
大政奉還(たいせいほうかん)を行(おこな)った、江戸幕府(えどばくふ)の15代将軍(だいしょうぐん)はだれですか。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
1868年(ねん)から1869年(ねん)まで続(つづ)いた、新政府軍(しんせいふぐん)と旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)の戦(たたか)いを何(なん)といいますか。戊辰戦争(ぼしんせんそう)
1868年(ねん)に新政府(しんせいふ)が示(しめ)した、これからの政治(せいじ)の方針(ほうしん)を何(なん)といいますか。五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)
問(と)いへの答(こた)え

開国(かいこく)のあと、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)は外国(がいこく)と戦(たたか)って負(ま)け、外国(がいこく)を追(お)いはらうのはむずかしいと知(し)りました。両藩(りょうはん)は、幕府(ばくふ)をたおして強(つよ)い国(くに)をつくろうと考(かんが)え、1866年(ねん)に坂本龍馬(さかもとりょうま)の仲立(なかだ)ちで薩長同盟(さっちょうどうめい)を結(むす)びました。1867年(ねん)、将軍(しょうぐん)の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は政権(せいけん)を朝廷(ちょうてい)に返(かえ)し(大政奉還(たいせいほうかん))、江戸幕府(えどばくふ)は終(お)わりました。朝廷(ちょうてい)は王政復古(おうせいふっこ)の大号令(だいごうれい)を出(だ)して、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とする新(あたら)しい政府(せいふ)をつくりました。1868年(ねん)からの戊辰戦争(ぼしんせんそう)で、新政府軍(しんせいふぐん)は旧(きゅう)幕府(ばくふ)軍(ぐん)を破(やぶ)りました。この間(あいだ)に江戸城(えどじょう)は戦(たたか)わずに明(あ)けわたされ、新政府(しんせいふ)は五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)で、会議(かいぎ)を開(ひら)いて多(おお)くの人(ひと)の意見(いけん)で政治(せいじ)を決(き)めることなどの方針(ほうしん)を示(しめ)しました。こうした一連(いちれん)の大(おお)きな変化(へんか)を明治維新(めいじいしん)といいます。

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