教科書補助小6 社会 / 戦国の世から天下統一へ / 4本中の3本目

織田信長(おだのぶなが)とは?桶狭間(おけはざま)・長篠(ながしの)・楽市楽座(らくいちらくざ)・本能寺(ほん)の変(うじのへん)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「戦国の世から天下統一へ」の「天下統一をめざした織田信長」/教育出版「全国統一への動き」の「全国統一を目ざした織田信長」/日本文教出版「戦国の世の統一」の「長篠の戦いを調べる」「新しい時代を切りひらいた織田信長」

▶ このページの内容を動画で見る(YouTube)

更新(こうしん)

文字
ふりがな
行の間
3行(ぎょう)でわかる
  1. 尾張(おわり)(今(いま)の愛知県西部(あいちけんせいぶ))のだった織田信長(おだのぶなが)は、1560年(ねん)ので、大軍(たいぐん)の今川義元(いまがわよしもと)を破(やぶ)り、名前(なまえ)を広(ひろ)めました。
  2. 京都(きょうと)へ進(すす)んで室町幕府(むろまちばくふ)をほろぼし、1575年(ねん)の長篠(ながし)の戦(のたたか)いでは、鉄砲(てっぽう)をたくさん使(つか)って武田氏(たけだし)を破(やぶ)りました。
  3. 安土城(あづちじょう)を築(きず)き、楽市楽座(らくいちらくざ)で商売(しょうばい)をさかんにしましたが、1582年(ねん)、家来(けらい)の明智光秀(あけちみつひで)におそわれ、本能寺(ほん)の変(うじのへん)でたおれました。
今日(きょう)の問(と)い

織田信長(おだのぶなが)は、どのようにして、天下統一(てんかとういつ)に近(ちか)づいたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

尾張(おわり)の大名(だいみょう)、織田信長(おだのぶなが)

室町時代(むろまちじだい)の終(お)わりごろ、幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)くなりました。各地(かくち)の大名(だいみょう)たちが、土地(とち)や力(ちから)をめぐって争(あらそ)うようになったのです。このころをといいます。

織田信長(おだのぶなが)は、戦国時代(せんごくじだい)に、尾張(おわり)(今(いま)の愛知県(あいちけん)の西部(せいぶ))で力(ちから)をつけた大名(だいみょう)です。信長(のぶなが)は国(くに)の中(なか)の争(あらそ)いをおさめ、やがて日本(にほん)全体(ぜんたい)をまとめるに近(ちか)づいていきました。

白い着物と茶色い上着を着て、あぐらをかいて座る、口ひげのある男性の肖像画。手に扇と刀をもっている
織田信長(おだのぶなが)の肖像画(しょうぞうが)。織田信長像(模本) 明治時代・19世紀。原本は安土桃山時代・1588年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

このページでは、信長(のぶなが)が何(なん)をしたのかを、できごとの順(じゅん)に見(み)ていきましょう。

  1. 1560年(ねん)桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)いで、今川義元(いまがわよしもと)を破(やぶ)る
  2. 1573年(ねん)室町幕府(むろまちばくふ)がほろびる
  3. 1575年(ねん)長篠(ながし)の戦(のたたか)いで、武田氏(たけだし)を破(やぶ)る
  4. 1576年(ねん)安土城(あづちじょう)を築(きず)き始(はじ)める
  5. 1582年(ねん)本能寺(ほん)の変(うじのへん)でたおれる
信長(のぶなが)にかかわる場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 愛知県(あいちけん)。織田信長(おだのぶなが)が、今川義元(いまがわよしもと)の大軍(たいぐん)を破(やぶ)った戦(たたか)いの場所(ばしょ)。今(いま)の愛知県(あいちけん)の名古屋市(なごやし)・豊明市(とよあけし)のあたり。
  • 岐阜県(ぎふけん)。信長(のぶなが)が美濃(みの)(今(いま)の岐阜県南部(ぎふけんなんぶ))をとったあと、本拠地(ほんきょち)を移(うつ)した場所(ばしょ)。
  • 京都府(きょうとふ)。天皇(てんのう)と朝廷(ちょうてい)がある都(みやこ)。承久(じょうきゅう)の乱(らん)のあと、幕府(ばくふ)はここに朝廷(ちょうてい)を見(み)はる役所(やくしょ)(六波羅探題(ろくはらたんだい))を置(お)いた。
  • 愛知県(あいちけん)。織田(おだ)・徳川(とくがわ)の軍(ぐん)が、武田勝頼(たけだかつより)の軍(ぐん)を破(やぶ)った戦(たたか)い(長篠(ながし)の戦(のたたか)い)の場所(ばしょ)。今(いま)の愛知県新城市(あいちけんしんしろし)。
  • 滋賀県(しがけん)。信長(のぶなが)が城(しろ)(安土城(あづちじょう))を築(きず)き始(はじ)めた、琵琶湖(びわこ)の近(ちか)くの場所(ばしょ)。今(いま)の滋賀県(しがけん)近江八幡(おうみはちまん)市(し)。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

織田信長(おだのぶなが)は尾張(おわり)の大名(だいみょう)で、戦国(せんごく)の世(よ)の争(あらそ)いをおさめ、天下統一(てんかとういつ)に近(ちか)づきました。

桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)い(1560年(ねん))―名前(なまえ)が広(ひろ)まる

1560年(ねん)、東(ひがし)の大名(だいみょう)・今川義元(いまがわよしもと)が、大軍(たいぐん)をひきいて尾張(おわり)にせめてきました。

信長(のぶなが)の軍(ぐん)は、ずっと少(すく)ない人数(にんずう)でした。それでも、桶狭間(おけはざま)(今(いま)の愛知県(あいちけん))で今川義元(いまがわよしもと)を破(やぶ)りました。

雨の中、風にゆれる松の枝と、よろいのかぶと、飛んでくる矢がえがかれた、題名の入った錦絵
桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)いを、明治時代(めいじじだい)になって想像(そうぞう)してえがいた錦絵(にしきえ)の一部(いちぶ)。はげしい雨(あめ)が降(ふ)るなかでの戦(たたか)いの場面(ばめん)です。左上(ひだりうえ)の題(だい)に「今川義元桶狭間大合戦之図(いまがわよしもとおけはざまだいかっせんのず)」とあります。年英「今川義元桶狭間大合戦之図」 1892年(想像してえがいた絵)出典:東京都立中央図書館(部分)

これで、信長(のぶなが)の名前(なまえ)は一気(いっき)に広(ひろ)まりました。信長(のぶなが)はそのあと、美濃(みの)(今(いま)の岐阜県(ぎふけん)の南部(なんぶ))をとり、本拠地(ほんきょち)を岐阜(ぎふ)に移(うつ)します。そして、さらに京都(きょうと)へと進(すす)んでいきました。

1560年(ねん)の桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)いで今川義元(いまがわよしもと)を破(やぶ)り、信長(のぶなが)の名前(なまえ)が広(ひろ)まりました。

天下布武(てんかふぶ)の印(しるし)と、室町幕府(むろまちばくふ)のおわり

「天下布武(てんかふぶ)」の印(しるし)

このころから信長(のぶなが)は、「」という文字(もじ)の入(はい)った印(しるし)を使(つか)うようになりました。

「天下(てんか)を武力(ぶりょく)で取(と)る」という意味(いみ)だとよくいわれます。ただし、意味(いみ)については、いろいろな考(かんが)え方(かた)があります。

古い紙に、赤い楕円形の印がおされている
信長(のぶなが)が使(つか)った「天下布武(てんかふぶ)」の印(しるし)。織田信長朱印 安土桃山時代・1574年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

室町幕府(むろまちばくふ)がほろびる

京都(きょうと)では、の将軍(しょうぐん)、足利義昭(あしかがよしあき)が、信長(のぶなが)と対立(たいりつ)するようになりました。

信長(のぶなが)は義昭(よしあき)を京都(きょうと)から追(お)い出(だ)しました。1573年(ねん)、室町幕府(むろまちばくふ)はほろびたとされます。

信長(のぶなが)は、将軍(しょうぐん)の足利義昭(あしかがよしあき)を京都(きょうと)から追(お)い出(だ)しました。1573年(ねん)、室町幕府(むろまちばくふ)はほろびました。

長篠(ながし)の戦(のたたか)い(1575年(ねん))―鉄砲(てっぽう)をたくさん使(つか)う

1575年(ねん)、信長(のぶなが)は徳川家康(とくがわいえやす)と力(ちから)を合(あ)わせ、甲斐(かい)(今(いま)の山梨県(やまなしけん))の大名(だいみょう)・武田勝頼(たけだかつより)の軍(ぐん)と戦(たたか)いました。場所(ばしょ)は長篠(ながしの)(今(いま)の愛知県新城市(あいちけんしんしろし))です。これをといいます。

金色の背景に、柵の内側と外側で、たくさんの武士や馬が入り乱れる戦いの場面をえがいた屏風
長篠(ながし)の戦(のたたか)いをえがいた屏風(びょうぶ)の一部(いちぶ)。柵(さく)をはさんで、大勢(おおぜい)の軍(ぐん)が戦(たたか)っています。長篠合戦図屏風(模本) 明治〜大正時代・19〜20世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

この戦(たたか)いで、織田(おだ)・徳川(とくがわ)の軍(ぐん)はをたくさん使(つか)い、武田(たけだ)の軍(ぐん)を破(やぶ)りました。

長い鉄砲をかまえて、的をねらう男性の絵。まわりに説明の文字がある
鉄砲(てっぽう)のうち方(かた)を説明(せつめい)した、江戸時代(えどじだい)の本(ほん)の絵(え)。長(なが)い鉄砲(てっぽう)を、体(からだ)の前(まえ)にかまえています。稲富流鉄砲秘伝書 江戸時代・1613年出典:ColBase(九州国立博物館)(部分)
織田(おだ)・徳川(とくがわ)の軍(ぐん)
鉄砲(てっぽう)をたくさん使(つか)った。この戦(たたか)いに勝(か)った。
武田(たけだ)の軍(ぐん)
武田勝頼(たけだかつより)がひきいた。この戦(たたか)いに敗(やぶ)れた。

1575年(ねん)の長篠(ながし)の戦(のたたか)いで、織田(おだ)・徳川(とくがわ)の軍(ぐん)は鉄砲(てっぽう)をたくさん使(つか)い、武田(たけだ)の軍(ぐん)を破(やぶ)りました。

力(ちから)をもった寺(てら)との戦(たたか)い、そしてキリスト教(きょう)

寺(てら)と戦(たたか)う

信長(のぶなが)は、大(おお)きな力(ちから)をもっていた寺(てら)とも戦(たたか)いました。1571年(ねん)には、を焼(や)き打(う)ちしました。

また、一向宗(いっこうしゅう)のとは、1570年(ねん)から1580年(ねん)まで、10年(ねん)あまりにわたって戦(たたか)いました。

キリスト教(きょう)を保護(ほご)する

いっぽうで信長(のぶなが)は、のを保護(ほご)しました。安土(あづち)には、宣教師(せんきょうし)の学校(がっこう)もつくられました。

黒い長い服を着た宣教師たちと、ヨーロッパ風の服を着た人々が、建物の前の広場にいる屏風の絵
日本(にほん)にきた宣教師(せんきょうし)(黒(くろ)い服(ふく)の人(ひと)たち)と、ヨーロッパの人々(ひとびと)をえがいた絵(え)。南蛮屏風 江戸時代・17世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

信長(のぶなが)は、力(ちから)をもった寺(てら)と戦(たたか)ういっぽう、キリスト教(きょう)の宣教師(せんきょうし)は保護(ほご)しました。

安土城(あづちじょう)と楽市楽座(らくいちらくざ)

高(たか)い天主(てんしゅ)のある安土城(あづちじょう)

1576年(ねん)、信長(のぶなが)は、琵琶湖(びわこ)の近(ちか)くの安土(あづち)(今(いま)の滋賀県(しがけん)近江八幡(おうみはちまん)市(し))に、を築(きず)き始(はじ)めました。

安土城(あづちじょう)には、高(たか)くそびえるがありました。城(しろ)のまわりには、城下町(じょうかまち)がつくられました。

山の上に高い建物のある城があり、ふもとに碁盤の目のように道が通った町がある、銅版画ふうの図
安土(あづち)の城(しろ)と城下町(じょうかまち)を、ヨーロッパの本(ほん)にのせた図(ず)。信長(のぶなが)の時代(じだい)から150年以上(ねんいじょう)あとの1736年(ねん)に出(で)た本(ほん)の絵(え)なので、実際(じっさい)のようすとはちがうところがあるかもしれません。シャルルヴォア『日本の歴史』(フランス、1736年)の安土の図出典:ColBase(九州国立博物館)(部分)

だれでも商売(しょうばい)ができる楽市楽座(らくいちらくざ)

城下町(じょうかまち)では、市場(いちば)の税(ぜい)や、という商人(しょうにん)の仲間(なかま)の特権(とっけん)をなくしました。だれでも自由(じゆう)に商売(しょうばい)ができるようにしたのです。これをといいます。

また、通行料(つうこうりょう)を取(と)るをなくして、人(ひと)や物(もの)が行(い)き来(き)しやすくしました。

  1. 市場(いちば)の税(ぜい)や、座(ざ)の特権(とっけん)をなくす
  2. だれでも自由(じゆう)に商売(しょうばい)ができる。関所(せきしょ)もなくして、人(ひと)や物(もの)が行(い)き来(き)しやすくなる
  3. 商工業(しょうこうぎょう)がさかんになり、国(くに)が豊(ゆた)かになる
なぜ? 市場(いちば)の税(ぜい)や座(ざ)をなくしたの?
座(ざ)は、商売(しょうばい)をほかの人(ひと)にさせない特権(とっけん)をもっていました。それをなくせば、だれでも商売(しょうばい)に加(くわ)われます。人(ひと)や物(もの)が集(あつ)まれば、城下町(じょうかまち)がにぎわい、商工業(しょうこうぎょう)がさかんになります。

信長(のぶなが)は安土城(あづちじょう)を築(きず)き、楽市楽座(らくいちらくざ)で、だれでも自由(じゆう)に商売(しょうばい)ができるようにしました。関所(せきしょ)もなくしました。

本能寺(ほん)の変(うじのへん)(1582年(ねん))―天下統一(てんかとういつ)まであと一歩(いっぽ)

1582年(ねん)、京都(きょうと)の本能寺(ほんのうじ)に泊(と)まっていた信長(のぶなが)は、家来(けらい)の明智光秀(あけちみつひで)におそわれ、自害(じがい)しました。これをといいます。

柱のならぶ建物の中で、やりをもった武士たちが走りこんでくる。右の窓から、信長がのぞいている錦絵
本能寺(ほんのうじ)が明智光秀(あけちみつひで)の軍(ぐん)におそわれる場面(ばめん)を、明治時代(めいじじだい)に想像(そうぞう)してえがいた錦絵(にしきえ)。右(みぎ)の窓(まど)に「織田信長(おだのぶなが)」、左(ひだり)に家来(けらい)の「森蘭丸(もりらんまる)」の名(な)が見(み)えます。「本能寺焼討之図」 歌川延一 明治時代(想像してえがいた絵)出典:東京都立中央図書館(部分)

信長(のぶなが)は、天下統一(てんかとういつ)まであと一歩(いっぽ)のところで、たおれました。そのあとを引(ひ)きついだのが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。秀吉(ひでよし)については、次(つぎ)のページで学(まな)びましょう。

1582年(ねん)、信長(のぶなが)は本能寺(ほん)の変(うじのへん)でたおれ、天下統一(てんかとういつ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に引(ひ)きつがれました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

白い着物と茶色い上着を着て、あぐらをかいて座る、口ひげのある男性の肖像画。手に扇と刀をもっている
織田信長(おだのぶなが)
尾張(おわり)の大名(だいみょう)。桶狭間(おけはざま)で今川義元(いまがわよしもと)を破(やぶ)り、京都(きょうと)をおさえて室町幕府(むろまちばくふ)をほろぼした。安土城(あづちじょう)を築(きず)き、楽市楽座(らくいちらくざ)を行(おこな)ったが、本能寺(ほん)の変(うじのへん)でたおれた。
織田信長像(模本) 明治時代・19世紀。原本は安土桃山時代・1588年。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
金色のかぶとをかぶり、青いよろいを着て、刀をふりあげる、ひげのある武将の浮世絵
今川義元(いまがわよしもと)
東(ひがし)の大名(だいみょう)。1560年(ねん)、大軍(たいぐん)で尾張(おわり)にせめてきたが、桶狭間(おけはざま)で信長(のぶなが)に破(やぶ)れた。
落合芳幾「太平記英勇伝 三 今川治部大輔義元」 1867年(江戸時代の終わりに想像してえがいた絵)。出典:東京都立中央図書館(部分)
足利義昭(あしかがよしあき)
室町幕府(むろまちばくふ)の将軍(しょうぐん)。信長(のぶなが)と対立(たいりつ)して京都(きょうと)を追(お)われ、1573年(ねん)に幕府(ばくふ)がほろびたとされる。
黒い着物と黒いぼうしをつけ、手に笏をもって座る、白いまゆの男性の肖像画
徳川家康(とくがわいえやす)
長篠(ながし)の戦(のたたか)いで、信長(のぶなが)と力(ちから)を合(あ)わせて武田氏(たけだし)と戦(たたか)った大名(だいみょう)。
徳川家康像(模本) 大正〜昭和時代・20世紀。原本は江戸時代・17世紀、狩野探幽筆。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
武田勝頼(たけだかつより)
甲斐(かい)の大名(だいみょう)。長篠(ながし)の戦(のたたか)いで、織田(おだ)・徳川(とくがわ)の軍(ぐん)に敗(やぶ)れた。
青い着物を着て、刀をにぎり、厳しい顔つきで立つ武士の錦絵。まわりに説明の文字がある
明智光秀(あけちみつひで)
信長(のぶなが)の家来(けらい)。1582年(ねん)、本能寺(ほんのうじ)で信長(のぶなが)をおそった。
落合芳幾「太平記英勇伝 二十七 明智日向守光秀」 1867年(江戸時代の終わりに想像してえがいた絵)。出典:東京都立中央図書館(部分)
黒い着物すがたで、笏と太刀を持って座る、ひげのある男性の肖像画
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
信長(のぶなが)のあとを引(ひ)きつぎ、天下統一(てんかとういつ)をめざした人物(じんぶつ)。次(つぎ)のページで学(まな)ぶ。
豊臣秀吉像 16世紀。出典:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)(部分)

重要(じゅうよう)なところ

桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)い(1560年(ねん))で信長(のぶなが)が破(やぶ)ったのは、今川義元(いまがわよしもと)です。
「1560年(ねん)・桶狭間(おけはざま)・今川義元(いまがわよしもと)」を組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
長篠(ながし)の戦(のたたか)い(1575年(ねん))で、信長(のぶなが)は徳川家康(とくがわいえやす)と力(ちから)を合(あ)わせ、鉄砲(てっぽう)をたくさん使(つか)って武田氏(たけだし)を破(やぶ)りました。
「三段撃(さんだんう)ち」の話(はなし)は見直(みなお)されていますが、テストでは学校(がっこう)の教科書(きょうかしょ)の書(か)き方(かた)で答(こた)えましょう。
楽市楽座(らくいちらくざ)は、市場(いちば)の税(ぜい)や座(ざ)の特権(とっけん)をなくし、だれでも自由(じゆう)に商売(しょうばい)できるようにした政策(せいさく)です。
関所(せきしょ)をなくして、人(ひと)や物(もの)が行(い)き来(き)しやすくしたこともいっしょに覚(おぼ)えましょう。
本能寺(ほん)の変(うじのへん)(1582年(ねん))で信長(のぶなが)をおそったのは、家来(けらい)の明智光秀(あけちみつひで)です。
そのあとを引(ひ)きついだのが豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「戦国の世から天下統一へ」の授業「天下統一をめざした織田信長」
  • 教育出版:「全国統一への動き」の授業「全国統一を目ざした織田信長」
  • 日本文教出版:「戦国の世の統一」の授業「長篠の戦いを調べる」「新しい時代を切りひらいた織田信長」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(カ):キリスト教(きょう)の伝来(でんらい)、織田(おだ)・豊臣(とよとみ)の天下統一(てんかとういつ)から、戦国(せんごく)の世(よ)が統一(とういつ)されたことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263216000000)

「戦国(せんごく)の世(よ)から天下統一(てんかとういつ)へ」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1560年(ねん)の桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)いで、信長(のぶなが)が破(やぶ)った大名(だいみょう)はだれですか。今川義元(いまがわよしもと)
1575年(ねん)の長篠(ながし)の戦(のたたか)いで、信長(のぶなが)がたくさん使(つか)った武器(ぶき)は何(なん)ですか。鉄砲(てっぽう)
信長(のぶなが)が、市場(いちば)の税(ぜい)や座(ざ)の特権(とっけん)をなくして、だれでも商売(しょうばい)できるようにした政策(せいさく)は何(なん)ですか。楽市楽座(らくいちらくざ)
信長(のぶなが)が琵琶湖(びわこ)の近(ちか)くに築(きず)き始(はじ)めた城(しろ)は何(なん)ですか。安土城(あづちじょう)
1582年(ねん)、本能寺(ほんのうじ)で信長(のぶなが)をおそった家来(けらい)はだれですか。明智光秀(あけちみつひで)
1573年(ねん)に信長(のぶなが)が京都(きょうと)から追(お)い出(だ)した、室町幕府(むろまちばくふ)の将軍(しょうぐん)はだれですか。足利義昭(あしかがよしあき)
問(と)いへの答(こた)え

信長(のぶなが)は、桶狭間(おけはざま)の戦(たたか)いで今川義元(いまがわよしもと)を破(やぶ)って名前(なまえ)を広(ひろ)め、京都(きょうと)をおさえて室町幕府(むろまちばくふ)をほろぼしました。長篠(ながし)の戦(のたたか)いでは、鉄砲(てっぽう)をたくさん使(つか)って強(つよ)い武田氏(たけだし)を破(やぶ)りました。さらに安土城(あづちじょう)を築(きず)き、楽市楽座(らくいちらくざ)で商売(しょうばい)をさかんにして、国(くに)を豊(ゆた)かにしました。しかし、天下統一(てんかとういつ)まであと一歩(いっぽ)のところで、1582年(ねん)の本能寺(ほん)の変(うじのへん)でたおれました。そのあとを引(ひ)きついだのが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)です。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

教科書補助のトップへ