豊臣秀吉とは?天下統一・検地・刀狩・朝鮮への出兵をわかりやすく
教科書では:東京書籍「戦国の世から天下統一へ」の「豊臣秀吉による政治」/教育出版「全国統一への動き」の「全国を統一した豊臣秀吉」/日本文教出版「戦国の世の統一」の「豊臣秀吉の天下統一」
- 秀吉は、織田信長の家来から出世して、1590年にをなしとげました。
- 検地と刀狩で、武士と百姓の区別をはっきりさせました。
- 大阪城を築いて政治の中心にし、朝鮮へ大軍を送りました。
豊臣秀吉は、天下を統一して、どんな世の中をつくろうとしたのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。天下統一までの秀吉
信長に仕えて出世する
豊臣秀吉は、尾張(今の愛知県)の、身分の低い家に生まれたと伝えられています。織田信長に仕え、戦いで手がらを立てて、少しずつ出世していきました。
1582年、信長が明智光秀にせめられて亡くなりました(本能寺の変)。秀吉はすぐに引き返し、山崎の戦いで光秀を破りました。
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 愛知県。秀吉が生まれたと伝えられる国。今の愛知県の西部。
- 京都府。本能寺の変のあと、秀吉が明智光秀を破った戦い(山崎の戦い)の場所。
- 大阪府。秀吉が天下を治める中心として、石山本願寺の跡に築き始めた城。
- 神奈川県。秀吉が北条氏をほろぼし、全国を統一するきっかけとなった城下町。
●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
大阪城と関白
翌1583年、秀吉は大阪に城を築き始めました。大阪城は、秀吉が天下を治める中心になりました。

1585年には、朝廷からに任じられました。さらに「豊臣」の姓をもらい、太政大臣にもなりました。

全国を統一する
1590年、秀吉は小田原(今の神奈川県)の北条氏をほろぼしました。こうして、長く続いた戦国の世が終わり、全国が統一されました。
- 1582年山崎の戦いで、明智光秀を破る
- 1583年大阪城を築き始める
- 1585年関白になる
- 1588年刀狩令を出す
- 1590年小田原の北条氏をほろぼし、全国を統一する
- 1592年朝鮮への出兵が始まる
秀吉は明智光秀を破り、関白になりました。1590年に全国を統一しました。
検地―田畑を調べる
天下を統一した秀吉は、世の中の仕組みを整えていきました。その1つが、全国の田畑を調べるです。
まず、ものさしや、米をはかるますを、全国で同じにしました。そして、田畑の広さや土地のよしあし、とれる米の量を調べました。とれる米の量は、という数で表しました。
調べた結果は、検地帳に書かれました。その田畑を耕す百姓の名前と、納めるも決められました。
- ものさし・ますを、全国で同じにそろえる
- 田畑の広さ・よしあし・とれる米の量(石高)を調べる
- 耕す百姓と、納める年貢を決めて、検地帳に書く
- 年貢を確実に取れるようになる
検地で全国の田畑を調べ、耕す百姓と年貢を決めました。秀吉は、年貢を確実に取れるようになりました。
刀狩 ― 百姓から武器を取り上げる
刀狩令(1588年)
1588年、秀吉は令を出しました。百姓から、刀・やり・鉄砲などの武器を取り上げる命令です。

取り上げた武器は、京都の方広寺に作る大仏のために使う、とされました。大仏のくぎやかすがいに、刀などの鉄を使う、という理由です。
武士と百姓の役目が分かれる
百姓が武器を持たなくなれば、武器を持ってさわぎをおこすことも少なくなります。百姓は、田畑を耕すことにはげむようになりました。
検地で、土地を耕す人と年貢の量が、全国で決まりました。刀狩で、武器を持つのは武士、というちがいが生まれました。この2つで、武士は戦いと政治、百姓は農業、という役目の分かれ方がはっきりしたのです。
刀狩で百姓から武器を取り上げました。検地と刀狩で、武士と百姓の役目がはっきり分かれました。
朝鮮への出兵
全国を統一した秀吉は、つぎに、海の向こうの明(中国)を従えようと考えました。そのために、まず朝鮮に大軍を送りました。
戦いは、1592年と1597年の2度おこなわれました。1度目を、2度目を慶長の役といいます。秀吉は、九州の名護屋(今の佐賀県)に城を築いて、本拠地にしました。
この戦いは、朝鮮の人々に大きな被害をあたえました。1598年に秀吉が亡くなると、日本の軍は朝鮮から引き上げました。
秀吉は明を従えようとして、2度にわたり朝鮮に大軍を送りました。秀吉が亡くなると、軍は引き上げました。
秀吉のころの文化
秀吉のころには、はなやかな文化も生まれました。
千利休は、とよばれる茶の湯を完成させました。ぜいたくをさけ、静かな心を大切にする茶の湯です。

狩野永徳は、城やごてんのふすまや屏風に、金色を使ったはなやかな絵をえがきました。

千利休はわび茶を完成させ、狩野永徳は金色を使ったはなやかな絵をえがきました。
この時代の人物


重要なところ
「検地=土地を調べる」「刀狩=武器を取り上げる」と、組で覚えましょう。
検地と刀狩で、武士と百姓の区別がはっきりした、と説明できるようにしましょう。
山崎の戦い(1582年)・大阪城(1583年)・関白(1585年)と、順番に覚えましょう。
明を従えようとして、朝鮮へ大軍を送りました。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「戦国の世から天下統一へ」の授業「豊臣秀吉による政治」
- 教育出版:「全国統一への動き」の授業「全国を統一した豊臣秀吉」
- 日本文教出版:「戦国の世の統一」の授業「豊臣秀吉の天下統一」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(カ):キリスト教の伝来、織田・豊臣の天下統一から、戦国の世が統一されたことを理解する。(学習指導要領コード 0263216000000)
たしかめ問題
秀吉が、天下を治める中心として築いた城は何ですか。
大阪城田畑の広さや、とれる米の量を調べたことを何といいますか。
検地百姓から、刀ややりなどを取り上げたことを何といいますか。
刀狩秀吉のころ、わび茶を完成させた人はだれですか。
千利休秀吉が1590年にほろぼした、小田原の大名は何氏ですか。
北条氏秀吉は、検地で田畑の広さや米の量を調べ、年貢を確実に取れるようにしました。刀狩で百姓から武器を取り上げ、百姓が農業にはげむようにしました。こうして、武士は戦いと政治、百姓は田畑を耕して年貢を納める、というように、役目の区別がはっきりした世の中がつくられていきました。この仕組みは、次の江戸時代へと受けつがれます。
出典
- 藤木久志『刀狩り―武器を封印した民衆』(岩波新書、2005年)
- 東京大学「国宝豊臣秀吉の刀狩令および幕末の薩摩切子を完全復元」(東京大学史料編纂所の刀狩令の解説)
- 大阪府「大坂城跡(大阪城公園)」
- 佐賀県立名護屋城博物館(文禄・慶長の役、名護屋城)
- MOA美術館(黄金の茶室の復元を展示)
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