教科書補助小6 社会 / 戦国の世から天下統一へ / 4本中の4本目

豊臣秀吉(とよとみひでよし)とは?天下統一(てんかとういつ)・検地(けんち)・刀狩(かたながり)・朝鮮(ちょうせん)への出兵(しゅっぺい)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「戦国の世から天下統一へ」の「豊臣秀吉による政治」/教育出版「全国統一への動き」の「全国を統一した豊臣秀吉」/日本文教出版「戦国の世の統一」の「豊臣秀吉の天下統一」

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  1. 秀吉(ひでよし)は、織田信長(おだのぶなが)の家来(けらい)から出世(しゅっせ)して、1590年(ねん)にをなしとげました。
  2. 検地(けんち)と刀狩(かたながり)で、武士(ぶし)と百姓(ひゃくしょう)の区別(くべつ)をはっきりさせました。
  3. 大阪城(おおさかじょう)を築(きず)いて政治(せいじ)の中心(ちゅうしん)にし、朝鮮(ちょうせん)へ大軍(たいぐん)を送(おく)りました。
今日(きょう)の問(と)い

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、天下(てんか)を統一(とういつ)して、どんな世(よ)の中(なか)をつくろうとしたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

天下統一(てんかとういつ)までの秀吉(ひでよし)

信長(のぶなが)に仕(つか)えて出世(しゅっせ)する

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、尾張(おわり)(今(いま)の愛知県(あいちけん))の、身分(みぶん)の低(ひく)い家(いえ)に生(う)まれたと伝(つた)えられています。織田信長(おだのぶなが)に仕(つか)え、戦(たたか)いで手(て)がらを立(た)てて、少(すこ)しずつ出世(しゅっせ)していきました。

1582年(ねん)、信長(のぶなが)が明智光秀(あけちみつひで)にせめられて亡(な)くなりました(本能寺(ほん)の変(うじのへん))。秀吉(ひでよし)はすぐに引(ひ)き返(かえ)し、山崎(やまざき)の戦(たたか)いで光秀(みつひで)を破(やぶ)りました。

秀吉(ひでよし)の歩(あゆ)み

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 愛知県(あいちけん)。秀吉(ひでよし)が生(う)まれたと伝(つた)えられる国(くに)。今(いま)の愛知県(あいちけん)の西部(せいぶ)。
  • 京都府(きょうとふ)。本能寺(ほん)の変(うじのへん)のあと、秀吉(ひでよし)が明智光秀(あけちみつひで)を破(やぶ)った戦(たたか)い(山崎(やまざき)の戦(たたか)い)の場所(ばしょ)。
  • 大阪府(おおさかふ)。秀吉(ひでよし)が天下(てんか)を治(おさ)める中心(ちゅうしん)として、石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡(あと)に築(きず)き始(はじ)めた城(しろ)。
  • 神奈川県(かながわけん)。秀吉(ひでよし)が北条氏(ほうじょうし)をほろぼし、全国(ぜんこく)を統一(とういつ)するきっかけとなった城下町(じょうかまち)。

●赤は戦いの場所、●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

大阪城(おおさかじょう)と関白(かんぱく)

翌(よく)1583年(ねん)、秀吉(ひでよし)は大阪(おおさか)に城(しろ)を築(きず)き始(はじ)めました。大阪城(おおさかじょう)は、秀吉(ひでよし)が天下(てんか)を治(おさ)める中心(ちゅうしん)になりました。

高い天守がそびえる城と、まわりの堀や石垣、ならんだ建物を、うすい色でえがいた屏風の一部
大坂冬(おおさかふゆ)の陣(じん)(1614年(ねん))をえがいた屏風(びょうぶ)の写(うつ)し(模本(もほん))にえがかれた大坂城(おおさかじょう)。秀吉(ひでよし)が築(きず)いた城(しろ)で、この戦(たたか)いのころは子(こ)の秀頼(ひでより)の城(しろ)でした。大坂冬の陣図屏風(模本)出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

1585年(ねん)には、朝廷(ちょうてい)からに任(にん)じられました。さらに「豊臣(とよとみ)」の姓(かばね)をもらい、太政大臣(だいじょうだいじん)にもなりました。

黒い着物すがたで、笏と太刀を持って、しまもようの畳に座る男性の肖像画
秀吉(ひでよし)の肖像画(しょうぞうが)。太政大臣(だいじょうだいじん)になった直後(ちょくご)に、生(い)きているうちにえがかれた絵(え)だと考(かんが)えられています。豊臣秀吉像 16世紀出典:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)(部分)(CC BY)

全国(ぜんこく)を統一(とういつ)する

1590年(ねん)、秀吉(ひでよし)は小田原(おだわら)(今(いま)の神奈川県(かながわけん))の北条氏(ほうじょうし)をほろぼしました。こうして、長(なが)く続(つづ)いた戦国(せんごく)の世(よ)が終(お)わり、全国(ぜんこく)が統一(とういつ)されました。

  1. 1582年(ねん)山崎(やまざき)の戦(たたか)いで、明智光秀(あけちみつひで)を破(やぶ)る
  2. 1583年(ねん)大阪城(おおさかじょう)を築(きず)き始(はじ)める
  3. 1585年(ねん)関白(かんぱく)になる
  4. 1588年(ねん)刀狩(かたながり)令(れい)を出(だ)す
  5. 1590年(ねん)小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)をほろぼし、全国(ぜんこく)を統一(とういつ)する
  6. 1592年(ねん)朝鮮(ちょうせん)への出兵(しゅっぺい)が始(はじ)まる

秀吉(ひでよし)は明智光秀(あけちみつひで)を破(やぶ)り、関白(かんぱく)になりました。1590年(ねん)に全国(ぜんこく)を統一(とういつ)しました。

検地(けんち)―田畑(たはた)を調(しら)べる

天下(てんか)を統一(とういつ)した秀吉(ひでよし)は、世(よ)の中(なか)の仕組(しく)みを整(ととの)えていきました。その1つが、全国(ぜんこく)の田畑(たはた)を調(しら)べるです。

まず、ものさしや、米(こめ)をはかるますを、全国(ぜんこく)で同(おな)じにしました。そして、田畑(たはた)の広(ひろ)さや土地(とち)のよしあし、とれる米(こめ)の量(りょう)を調(しら)べました。とれる米(こめ)の量(りょう)は、という数(かず)で表(あらわ)しました。

調(しら)べた結果(けっか)は、検地帳(けんちちょう)に書(か)かれました。その田畑(たはた)を耕(たがや)す百姓(ひゃくしょう)の名前(なまえ)と、納(おさ)めるも決(き)められました。

  1. ものさし・ますを、全国(ぜんこく)で同(おな)じにそろえる
  2. 田畑(たはた)の広(ひろ)さ・よしあし・とれる米(こめ)の量(りょう)(石高(こくだか))を調(しら)べる
  3. 耕(たがや)す百姓(ひゃくしょう)と、納(おさ)める年貢(ねんぐ)を決(き)めて、検地帳(けんちちょう)に書(か)く
  4. 年貢(ねんぐ)を確実(かくじつ)に取(と)れるようになる

検地(けんち)で全国(ぜんこく)の田畑(たはた)を調(しら)べ、耕(たがや)す百姓(ひゃくしょう)と年貢(ねんぐ)を決(き)めました。秀吉(ひでよし)は、年貢(ねんぐ)を確実(かくじつ)に取(と)れるようになりました。

刀狩(かたながり) ― 百姓(ひゃくしょう)から武器(ぶき)を取(と)り上(あ)げる

刀狩(かたながり)令(れい)(1588年(ねん))

1588年(ねん)、秀吉(ひでよし)は令(れい)を出(だ)しました。百姓(ひゃくしょう)から、刀(かたな)・やり・鉄砲(てっぽう)などの武器(ぶき)を取(と)り上(あ)げる命令(めいれい)です。

黒い背景の中に、反りのある細長い刀身が1本うかんでいる写真
安土桃山時代(あづちももやまじだい)につくられた刀(かたな)の1つ。このような武器(ぶき)が、刀狩(かたながり)のときに、百姓(ひゃくしょう)から取(と)り上(あ)げられました。刀 銘 肥前国住人忠吉作 安土桃山時代出典:ColBase(九州国立博物館)

取(と)り上(あ)げた武器(ぶき)は、京都(きょうと)の方広寺(ほうこうじ)に作(つく)る大仏(だいぶつ)のために使(つか)う、とされました。大仏(だいぶつ)のくぎやかすがいに、刀(かたな)などの鉄(てつ)を使(つか)う、という理由(りゆう)です。

武士(ぶし)と百姓(ひゃくしょう)の役目(やくめ)が分(わ)かれる

百姓(ひゃくしょう)が武器(ぶき)を持(も)たなくなれば、武器(ぶき)を持(も)ってさわぎをおこすことも少(すく)なくなります。百姓(ひゃくしょう)は、田畑(たはた)を耕(たがや)すことにはげむようになりました。

武士(ぶし)
戦(たたか)いと、政治(せいじ)を行(おこな)う。
百姓(ひゃくしょう)
田畑(たはた)を耕(たがや)して、年貢(ねんぐ)を納(おさ)める。
なぜ? 検地(けんち)と刀狩(かたながり)で、役目(やくめ)の区別(くべつ)がはっきりするの?
検地(けんち)で、土地(とち)を耕(たがや)す人(ひと)と年貢(ねんぐ)の量(りょう)が、全国(ぜんこく)で決(き)まりました。刀狩(かたながり)で、武器(ぶき)を持(も)つのは武士(ぶし)、というちがいが生(う)まれました。この2つで、武士(ぶし)は戦(たたか)いと政治(せいじ)、百姓(ひゃくしょう)は農業(のうぎょう)、という役目(やくめ)の分(わ)かれ方(かた)がはっきりしたのです。

刀狩(かたながり)で百姓(ひゃくしょう)から武器(ぶき)を取(と)り上(あ)げました。検地(けんち)と刀狩(かたながり)で、武士(ぶし)と百姓(ひゃくしょう)の役目(やくめ)がはっきり分(わ)かれました。

朝鮮(ちょうせん)への出兵(しゅっぺい)

全国(ぜんこく)を統一(とういつ)した秀吉(ひでよし)は、つぎに、海(うみ)の向(む)こうの明(みん)(中国(ちゅうごく))を従(したが)えようと考(かんが)えました。そのために、まず朝鮮(ちょうせん)に大軍(たいぐん)を送(おく)りました。

戦(たたか)いは、1592年(ねん)と1597年(ねん)の2度(ど)おこなわれました。1度目(どめ)を、2度目(どめ)を慶長(けいちょう)の役(やく)といいます。秀吉(ひでよし)は、九州(きゅうしゅう)の名護屋(なごや)(今(いま)の佐賀県(さがけん))に城(しろ)を築(きず)いて、本拠地(ほんきょち)にしました。

この戦(たたか)いは、朝鮮(ちょうせん)の人々(ひとびと)に大(おお)きな被害(ひがい)をあたえました。1598年(ねん)に秀吉(ひでよし)が亡(な)くなると、日本(にほん)の軍(ぐん)は朝鮮(ちょうせん)から引(ひ)き上(あ)げました。

秀吉(ひでよし)は明(みん)を従(したが)えようとして、2度(ど)にわたり朝鮮(ちょうせん)に大軍(たいぐん)を送(おく)りました。秀吉(ひでよし)が亡(な)くなると、軍(ぐん)は引(ひ)き上(あ)げました。

秀吉(ひでよし)のころの文化(ぶんか)

秀吉(ひでよし)のころには、はなやかな文化(ぶんか)も生(う)まれました。

千利休(せんのりきゅう)は、とよばれる茶(ちゃ)の湯(ゆ)を完成(かんせい)させました。ぜいたくをさけ、静(しず)かな心(こころ)を大切(たいせつ)にする茶(ちゃ)の湯(ゆ)です。

ぼうしをかぶり、手に扇のようなものを持って座る、茶人の白黒の肖像画
千利休(せんのりきゅう)の肖像画(しょうぞうが)。利休(りきゅう)が亡(な)くなったあとの時代(じだい)にえがかれた絵(え)で、上(うえ)の部分(ぶぶん)には文字(もじ)が書(か)かれています。千利休像出典:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)(部分)(CC BY)

狩野永徳(かのえいとく)は、城(しろ)やごてんのふすまや屏風(びょうぶ)に、金色(きんいろ)を使(つか)ったはなやかな絵(え)をえがきました。

金色の背景に、ふさふさとした毛の2頭の唐獅子がむかいあう、大きな屏風絵
狩野永徳(かのえいとく)がえがいた、金色(きんいろ)の背景(はいけい)にうかぶ唐獅子(からじし)。城(しろ)やごてんをかざる屏風絵(びょうぶえ)です。唐獅子図屏風 狩野永徳筆 安土桃山時代・16世紀出典:ColBase(皇居三の丸尚蔵館)(部分)

千利休(せんのりきゅう)はわび茶(ちゃ)を完成(かんせい)させ、狩野永徳(かのえいとく)は金色(きんいろ)を使(つか)ったはなやかな絵(え)をえがきました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

黒い着物すがたで、笏と太刀を持って、しまもようの畳に座る男性の肖像画
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
織田信長(おだのぶなが)の家来(けらい)から出世(しゅっせ)し、1590年(ねん)に全国(ぜんこく)を統一(とういつ)した。検地(けんち)と刀狩(かたながり)を行(おこな)い、朝鮮(ちょうせん)へ大軍(たいぐん)を送(おく)った。
豊臣秀吉像 16世紀。出典:慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)(部分)
ぼうしをかぶり、手に扇のようなものを持って座る、茶人の白黒の肖像画
千利休(せんのりきゅう)
秀吉(ひでよし)に仕(つか)えた茶人(ちゃじん)。わび茶(ちゃ)を完成(かんせい)させた。
狩野永徳(かのえいとく)
秀吉(ひでよし)のころの絵(え)かき。金色(きんいろ)を使(つか)ったはなやかな屏風絵(びょうぶえ)や、ふすま絵(え)をえがいた。

重要(じゅうよう)なところ

検地(けんち)は、田畑(たはた)の広(ひろ)さや、とれる米(こめ)の量(りょう)(石高(こくだか))を調(しら)べて、年貢(ねんぐ)を確実(かくじつ)に取(と)れるようにするためのものです。
「検地(けんち)=土地(とち)を調(しら)べる」「刀狩(かたながり)=武器(ぶき)を取(と)り上(あ)げる」と、組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
刀狩(かたながり)は、百姓(ひゃくしょう)から刀(かたな)・やり・鉄砲(てっぽう)などを取(と)り上(あ)げたものです。1588年(ねん)に出(だ)されました。
検地(けんち)と刀狩(かたながり)で、武士(ぶし)と百姓(ひゃくしょう)の区別(くべつ)がはっきりした、と説明(せつめい)できるようにしましょう。
秀吉(ひでよし)が全国(ぜんこく)を統一(とういつ)したのは1590年(ねん)です。小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)をほろぼしました。
山崎(やまざき)の戦(たたか)い(1582年(ねん))・大阪城(おおさかじょう)(1583年(ねん))・関白(かんぱく)(1585年(ねん))と、順番(じゅんばん)に覚(おぼ)えましょう。
朝鮮(ちょうせん)への出兵(しゅっぺい)は、1592年(ねん)と1597年(ねん)の2度(ど)です。朝鮮(ちょうせん)の人々(ひとびと)に大(おお)きな被害(ひがい)をあたえました。
明(みん)を従(したが)えようとして、朝鮮(ちょうせん)へ大軍(たいぐん)を送(おく)りました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「戦国の世から天下統一へ」の授業「豊臣秀吉による政治」
  • 教育出版:「全国統一への動き」の授業「全国を統一した豊臣秀吉」
  • 日本文教出版:「戦国の世の統一」の授業「豊臣秀吉の天下統一」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(カ):キリスト教(きょう)の伝来(でんらい)、織田(おだ)・豊臣(とよとみ)の天下統一(てんかとういつ)から、戦国(せんごく)の世(よ)が統一(とういつ)されたことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263216000000)

「戦国(せんごく)の世(よ)から天下統一(てんかとういつ)へ」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

秀吉(ひでよし)が、天下(てんか)を治(おさ)める中心(ちゅうしん)として築(きず)いた城(しろ)は何(なん)ですか。大阪城(おおさかじょう)
田畑(たはた)の広(ひろ)さや、とれる米(こめ)の量(りょう)を調(しら)べたことを何(なん)といいますか。検地(けんち)
百姓(ひゃくしょう)から、刀(かたな)ややりなどを取(と)り上(あ)げたことを何(なん)といいますか。刀狩(かたながり)
秀吉(ひでよし)のころ、わび茶(ちゃ)を完成(かんせい)させた人(ひと)はだれですか。千利休(せんのりきゅう)
秀吉(ひでよし)が1590年(ねん)にほろぼした、小田原(おだわら)の大名(だいみょう)は何氏(なにし)ですか。北条氏(ほうじょうし)
問(と)いへの答(こた)え

秀吉(ひでよし)は、検地(けんち)で田畑(たはた)の広(ひろ)さや米(こめ)の量(りょう)を調(しら)べ、年貢(ねんぐ)を確実(かくじつ)に取(と)れるようにしました。刀狩(かたながり)で百姓(ひゃくしょう)から武器(ぶき)を取(と)り上(あ)げ、百姓(ひゃくしょう)が農業(のうぎょう)にはげむようにしました。こうして、武士(ぶし)は戦(たたか)いと政治(せいじ)、百姓(ひゃくしょう)は田畑(たはた)を耕(たがや)して年貢(ねんぐ)を納(おさ)める、というように、役目(やくめ)の区別(くべつ)がはっきりした世(よ)の中(なか)がつくられていきました。この仕組(しく)みは、次(つぎ)の江戸時代(えどじだい)へと受(う)けつがれます。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

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