教科書補助小6 社会 / 世界に歩み出した日本 / 6本中の1本目

条約(じょうやく)改正(かいせい)とは?不平等条約(ふびょうどうじょうやく)・ノルマントン号事件(ごうじけん)・陸奥宗光(むつむねみつ)・小村寿太郎(こむらじゅたろう)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「世界に歩み出した日本」の「条約改正を目指して」/教育出版「近代国家を目ざして」の「ノルマントン号事件と条約改正」/日本文教出版「国力の充実をめざす日本と国際社会」の「ノルマントン号事件と条約改正」

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  1. 江戸時代(えどじだい)の終(お)わりに結(むす)んだは、を認(みと)め、がない条約(じょうやく)でした。
  2. 1886年(ねん)ので、条約(じょうやく)を改(あらた)めてほしいという国民(こくみん)の声(こえ)が高(たか)まりました。
  3. 1894年(ねん)に陸奥宗光(むつむねみつ)が領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくし、1911年(ねん)に小村寿太郎(こむらじゅたろう)が関税自主権(かんぜいじしゅけん)を取(と)りもどしました。
今日(きょう)の問(と)い

明治(めいじ)の日本(にほん)は、どのようにして不平等条約(ふびょうどうじょうやく)を改(あらた)めたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

開国(かいこく)のときの条約(じょうやく)が、日本(にほん)を苦(くる)しめた

1858年(ねん)、江戸幕府(えどばくふ)はアメリカと日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)びました。オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも、同(おな)じような条約(じょうやく)を結(むす)びました。

これらの条約(じょうやく)は、日本(にほん)に不利(ふり)な不平等条約(ふびょうどうじょうやく)でした。不平等(ふびょうどう)なところは、大(おお)きく2つあります。

領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)める
日本(にほん)で罪(つみ)をおかした外国人(がいこくにん)を、日本(にほん)の法律(ほうりつ)でさばくことができない。
関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない
外国(がいこく)から輸入(ゆにゅう)する品物(しなもの)にかける税(ぜい)(関税(かんぜい))を、日本(にほん)が自分(じぶん)で決(き)められない。

領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)める

外国人(がいこくにん)が日本(にほん)で罪(つみ)をおかしても、日本(にほん)の裁判所(さいばんしょ)ではさばけませんでした。その国(くに)の領事(りょうじ)(外国(がいこく)に置(お)かれた役人(やくにん))が、自分(じぶん)の国(くに)の法律(ほうりつ)でさばいたのです。これを領事裁判権(りょうじさいばんけん)といいます。

そのため、日本(にほん)人(ひと)が被害(ひがい)にあっても、外国人(がいこくにん)に軽(かる)い罰(ばつ)しかあたえられないことがありました。

関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない

関税(かんぜい)は、外国(がいこく)から入(はい)ってくる品物(しなもの)などにかける税(ぜい)です。ふつうは、それぞれの国(くに)が自分(じぶん)で決(き)めます。この権利(けんり)を関税自主権(かんぜいじしゅけん)といいます。

しかし日本(にほん)は、関税(かんぜい)の割合(わりあい)を外国(がいこく)との約束(やくそく)で決(き)めなければならず、自分(じぶん)の国(くに)だけで変(か)えることができませんでした。

瓦屋根の和風の建物が並び、門の前に広い道があり、日の丸の旗が高くかかげられている古い写真
明治時代(めいじじだい)の神戸(こうべ)の運上所(うんじょうしょ)(のちの神戸税関(こうべぜいかん))。港(みなと)に出入(でい)りする品物(しなもの)を調(しら)べ、関税(かんぜい)を集(あつ)めた役所(やくしょ)です。神戸税関 撮影者不詳 明治時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
たとえるなら自分(じぶん)の家(いえ)の門(もん)で、入(はい)ってくる荷物(にもつ)の通行料(つうこうりょう)を取(と)ることにしたのに、その金額(きんがく)を相手(あいて)に決(き)められてしまうようなものです。外国(がいこく)の安(あ)い品物(しなもの)がたくさん入(はい)ってきても、関税(かんぜい)を上(あ)げて国内(こくない)の産業(さんぎょう)を守(まも)ることができません。

不平等条約(ふびょうどうじょうやく)は、領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)め、関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない条約(じょうやく)でした。これを改(あらた)めることが、明治政府(めいじせいふ)の大(おお)きな目標(もくひょう)になりました。

話(はな)し合(あ)いは、なかなか進(すす)まない

岩倉使節団(いわくらしせつだん)の話(はな)し合(あ)い

1871年(ねん)、政府(せいふ)はを欧米(おうべい)に送(おく)りました。目的(もくてき)の1つは、不平等条約(ふびょうどうじょうやく)を改(あらた)める話(はな)し合(あ)いでした。

しかし、条約(じょうやく)を改(あらた)める話(はな)し合(あ)いは、成果(せいか)をあげられませんでした。そのころの日本(にほん)は、欧米(おうべい)と同(おな)じような法律(ほうりつ)や政治(せいじ)のしくみを、まだ整(ととの)えていなかったのです。

鹿鳴館(ろくめいかん)と欧化政策(おうかせいさく)

外務卿(がいむきょう)(のちの外務大臣(がいむだいじん))の井上馨(いのうえかおる)は、日本(にほん)が欧米(おうべい)と同(おな)じように進(すす)んだ国(くに)であることを見(み)せようとしました。

1883年(ねん)、東京(とうきょう)の日比谷(ひびや)に、洋風(ようふう)の建物(たてもの)のが完成(かんせい)しました。

月が出た夜に、窓から明かりがもれる2階建ての洋館と、その中にいる人々の影をえがいた版画
夜(よる)の鹿鳴館(ろくめいかん)をえがいた版画(はんが)。窓(まど)の明(みん)かりの中(なか)に、集(あつ)まった人々(ひとびと)の姿(すがた)が見(み)えます。「鹿鳴館」 井上安治(探景) 明治時代出典:東京都立図書館 TOKYOアーカイブ(部分)
日の丸の旗がたくさんかざられた広間に、着物を着た大勢の女性が集まっている、色あざやかな錦絵
1884年(ねん)に鹿鳴館(ろくめいかん)で開(ひら)かれたバザー(慈善会(じぜんかい))のにぎわいを、前(まえ)もって想像(そうぞう)してえがいた錦絵(にしきえ)。左上(ひだりうえ)に、会(かい)の役(やく)をつとめた夫人(ふじん)たちの名前(なまえ)が書(か)かれています。鹿鳴館貴婦人慈善会図 楊洲周延 1884年(明治17年)出典:東京都立図書館 TOKYOアーカイブ(部分)

鹿鳴館(ろくめいかん)では、外国(がいこく)の外交官(がいこうかん)などを招(まね)いて、舞踏会(ぶとうかい)やバザーが開(ひら)かれました。政府(せいふ)の高(たか)い位(くらい)の人(ひと)やその家族(かぞく)が、洋服(ようふく)を着(き)て客(きゃく)をもてなしました。

このように、生活(せいかつ)や習慣(しゅうかん)を欧米(おうべい)に近(ちか)づけようとする動(うご)きを、といいます。

しかし、「外国(がいこく)のまねばかりしている」という批判(ひはん)も強(つよ)く、話(はな)し合(あ)いはまとまりませんでした。

岩倉使節団(いわくらしせつだん)の話(はな)し合(あ)いも、鹿鳴館(ろくめいかん)での欧化政策(おうかせいさく)も、条約(じょうやく)改正(かいせい)にはつながりませんでした。

ノルマントン号事件(ごうじけん)―国民(こくみん)のいかり

しずんだ船(ふね)、助(たす)からなかった日本(にほん)人(ひと)

1886年(ねん)10月(じゅうがつ)、イギリスの船(ふね)ノルマントン号(ごう)が、横浜(よこはま)から神戸(こうべ)に向(む)かうとちゅう、和歌山県(わかやまけん)の沖(おき)であらしにあってしずみました。

船長(せんちょう)と、イギリス人(にん)などの船員(せんいん)は、ボートで逃(に)げて助(たす)かりました。しかし、日本(にほん)人(ひと)の乗客(じょうきゃく)25人(にん)は、全員(ぜんいん)がなくなりました。

あれた海と強い雨の中、ボートに立つ西洋人の船長と船員たち(左)と、波の向こうにしずんでいく船の帆柱(右)をえがいた白黒のさし絵
ノルマントン号事件(ごうじけん)のすぐあとに出版(しゅっぱん)された本(ほん)のさし絵(え)。左(ひだり)はボートで逃(に)げる西洋人(せいようにん)の船員(せんいん)たち、右(みぎ)はあらしの海(うみ)にしずむ船(ふね)をえがいています。広岡幸助編『英船ノルマントン沈没始末』初篇(栄泉社、1886年12月)のさし絵出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

裁判(さいばん)の結果(けっか)に、国民(こくみん)がいかる

船長(せんちょう)は、領事裁判権(りょうじさいばんけん)によって、神戸(こうべ)のイギリス領事(りょうじ)の裁判(さいばん)でさばかれました。その結果(けっか)、船長(せんちょう)は罪(つみ)にならないとされました。

これを知(し)った国民(こくみん)は、強(つよ)くいかりました。政府側(せいふがわ)がうったえて、ふたたび裁判(さいばん)が開(ひら)かれ、船長(せんちょう)は禁錮(きんこ)3か月(げつ)の罰(ばつ)を受(う)けました。

しかし、罰(ばつ)はとても軽(かる)く、なくなった人(ひと)の家族(かぞく)へのつぐない(賠償(ばいしょう))もありませんでした。これをノルマントン号事件(ごうじけん)といいます。

なぜ? 日本(にほん)の裁判所(さいばんしょ)でさばけなかったの?
不平等条約(ふびょうどうじょうやく)で、領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)めていたからです。イギリス人(にん)の船長(せんちょう)をさばけるのは、イギリスの領事(りょうじ)だけでした。

この事件(じけん)で、多(おお)くの人(ひと)が不平等条約(ふびょうどうじょうやく)の問題(もんだい)に気(き)づきました。条約(じょうやく)を改(あらた)めてほしいという国民(こくみん)の声(こえ)が、いっそう高(たか)まりました。

1886年(ねん)のノルマントン号事件(ごうじけん)で、領事裁判権(りょうじさいばんけん)の問題(もんだい)がはっきりし、条約(じょうやく)改正(かいせい)を求(もと)める声(こえ)が高(たか)まりました。

陸奥宗光(むつむねみつ)と小村寿太郎(こむらじゅたろう) ― 条約(じょうやく)改正(かいせい)の実現(じつげん)

1894年(ねん)、領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくす

外務大臣(がいむだいじん)の陸奥宗光(むつむねみつ)は、まずイギリスとの話(はな)し合(あ)いを進(すす)めました。そして1894年(ねん)7月(しちがつ)、日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)を結(むす)び、領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくすことに成功(せいこう)しました。ただし、関税自主権(かんぜいじしゅけん)は、一部(いちぶ)しか取(と)りもどせませんでした。

1911年(ねん)、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を取(と)りもどす

日本(にほん)は、1894年(ねん)からの日清戦争(にっしんせんそう)、1904年(ねん)からの日露戦争(にちろせんそう)に勝(か)ちました。日本(にほん)の力(ちから)は欧米(おうべい)の国々(くにぐに)にも認(みと)められ、世界(せかい)での地位(ちい)が高(たか)まりました。

1911年(ねん)、外務大臣(がいむだいじん)の小村寿太郎(こむらじゅたろう)は、アメリカとの新(あたら)しい条約(じょうやく)で、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を完全(かんぜん)に取(と)りもどしました。こうして、条約(じょうやく)改正(かいせい)が実現(じつげん)したのです。

1894年(ねん)に陸奥宗光(むつむねみつ)が領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくし、1911年(ねん)に小村寿太郎(こむらじゅたろう)が関税自主権(かんぜいじしゅけん)を取(と)りもどしました。

なぜ40年(ねん)もかかったのか

1871年(ねん)の岩倉使節団(いわくらしせつだん)から数(かず)えると、条約(じょうやく)改正(かいせい)には40年(ねん)かかりました。

欧米(おうべい)の国々(くにぐに)は、日本(にほん)を対等(たいとう)な相手(あいて)と認(みと)めるまで、条約(じょうやく)を改(あらた)めようとしませんでした。日本(にほん)は、次(つぎ)のようなことを積(つ)み重(かさ)ねて、国(くに)の力(ちから)をつけていきました。

  • 憲法(けんぽう)をつくり、国会(こっかい)を開(ひら)き、法律(ほうりつ)を整(ととの)えた(近代的(きんだいてき)な国(くに)のしくみ)
  • 工業(こうぎょう)や貿易(ぼうえき)をさかんにした(産業(さんぎょう)の発展(はってん))
  • 日清戦争(にっしんせんそう)と日露戦争(にちろせんそう)に勝(か)った(世界(せかい)での地位(ちい)が高(たか)まる)
  1. 1858年(ねん)日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)など、不平等条約(ふびょうどうじょうやく)を結(むす)ぶ
  2. 1871年(ねん)岩倉使節団(いわくらしせつだん)が出発(しゅっぱつ)する(話(はな)し合(あ)いはうまくいかない)
  3. 1883年(ねん)鹿鳴館(ろくめいかん)ができる
  4. 1886年(ねん)ノルマントン号事件(ごうじけん)が起(お)こる
  5. 1889年(ねん)大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)が発布(はっぷ)される(1890年(ねん)に国会(こっかい))
  6. 1894年(ねん)陸奥宗光(むつむねみつ)が領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくす
  7. 1911年(ねん)小村寿太郎(こむらじゅたろう)が関税自主権(かんぜいじしゅけん)を完全(かんぜん)に回復(かいふく)する

日本(にほん)は、国(くに)のしくみを整(ととの)え、産業(さんぎょう)を発展(はってん)させ、国(くに)の力(ちから)をつけたことで、約(やく)40年(ねん)かけて欧米(おうべい)と対等(たいとう)な立場(たちば)になりました。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)では、条約(じょうやく)改正(かいせい)の歩(あゆ)みを、もう少(すこ)しくわしく習(なら)います。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
言葉(ことば)領事裁判権(りょうじさいばんけん)外国人(がいこくにん)が、住(す)んでいる国(くに)の法律(ほうりつ)にしばられない権利(けんり)を、まとめて「治外法権(ちがいほうけん)」ともいう
話(はな)し合(あ)いの人々(ひとびと)岩倉使節団(いわくらしせつだん)・井上馨(いのうえかおる)寺島宗則(てらしまむねのり)・井上馨(いのうえかおる)・大隈重信(おおくましげのぶ)・青木周蔵(あおきしゅうぞう)らが、次々(つぎつぎ)に話(はな)し合(あ)いを受(う)けついだ
鹿鳴館(ろくめいかん)井上馨(いのうえかおる)の欧化政策(おうかせいさく)設計(せっけい)はイギリス人(にん)の建築家(けんちくか)コンドル。井上馨(いのうえかおる)は、話(はな)し合(あ)いがまとまらず外務大臣(がいむだいじん)をやめた
1894年(ねん)の条約(じょうやく)領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくす調印(ちょういん)は1894年(ねん)、実施(じっし)は5年後(ねんご)の1899年(ねん)。外国人(がいこくにん)が日本(にほん)の国内(こくない)を自由(じゆう)に旅行(りょこう)したり住(す)んだりできるようにもした

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

勲章をたくさんつけた礼服を着た、口ひげの年配の男性の顔
井上馨(いのうえかおる)
長州藩(ちょうしゅうはん)(山口県(やまぐちけん))の出身(しゅっしん)。外務卿(がいむきょう)・外務大臣(がいむだいじん)として条約(じょうやく)改正(かいせい)の話(はな)し合(あ)いを進(すす)めた。鹿鳴館(ろくめいかん)を中心(ちゅうしん)とした欧化政策(おうかせいさく)を行(おこな)ったが、反対(はんたい)が強(つよ)く、話(はな)し合(あ)いは実(み)らなかった。
井上馨(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
あごひげをのばし、洋服に蝶ネクタイをつけた男性の顔
陸奥宗光(むつむねみつ)
和歌山藩(わかやまはん)(和歌山県(わかやまけん))の出身(しゅっしん)。外務大臣(がいむだいじん)として、1894年(ねん)にイギリスとの条約(じょうやく)で領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくすことに成功(せいこう)した。
陸奥宗光(『近世名士写真』其2、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)
太い口ひげをはやし、胸に勲章をつけた洋服の男性の顔
小村寿太郎(こむらじゅたろう)
飫肥藩(おびはん)(宮崎県(みやざきけん))の出身(しゅっしん)。日露戦争(にちろせんそう)の講和条約(こうわじょうやく)を結(むす)んだ。1911年(ねん)、外務大臣(がいむだいじん)としてアメリカとの条約(じょうやく)で関税自主権(かんぜいじしゅけん)を完全(かんぜん)に取(と)りもどした。
小村寿太郎(『近世名士写真』其1、1935年)。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(部分)

重要(じゅうよう)なところ

領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくしたのは陸奥宗光(むつむねみつ)(1894年(ねん))、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を取(と)りもどしたのは小村寿太郎(こむらじゅたろう)(1911年(ねん))です。
「領事裁判権(りょうじさいばんけん)が先(さき)、関税自主権(かんぜいじしゅけん)があと」。人物(じんぶつ)と年(とし)をセットで覚(おぼ)えましょう。
領事裁判権(りょうじさいばんけん)は、日本(にほん)で罪(つみ)をおかした外国人(がいこくにん)を、その国(くに)の領事(りょうじ)がさばく権利(けんり)です。
ノルマントン号事件(ごうじけん)は、この領事裁判権(りょうじさいばんけん)の問題(もんだい)が表(ひょう)に出(で)た事件(じけん)です。
関税自主権(かんぜいじしゅけん)は、輸入(ゆにゅう)品(しな)などにかける税(ぜい)(関税(かんぜい))を、自分(じぶん)の国(くに)で決(き)める権利(けんり)です。
不平等条約(ふびょうどうじょうやく)では、日本(にほん)にこの権利(けんり)がありませんでした。
鹿鳴館(ろくめいかん)は、条約(じょうやく)改正(かいせい)のために、外国人(がいこくにん)をもてなす場(ば)として建(た)てられました。
井上馨(いのうえかおる)が進(すす)めた欧化政策(おうかせいさく)の代表(だいひょう)です。条約(じょうやく)改正(かいせい)にはつながりませんでした。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「世界に歩み出した日本」の授業「条約改正を目指して」
  • 教育出版:「近代国家を目ざして」の授業「ノルマントン号事件と条約改正」
  • 日本文教出版:「国力の充実をめざす日本と国際社会」の授業「ノルマントン号事件と条約改正」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(コ):大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)の発布(はっぷ)、日清(にっしん)・日露(にちろ)の戦争(せんそう)、条約(じょうやく)改正(かいせい)、科学(かがく)の発展(はってん)から、日本(にほん)の国力(こくりょく)が充実(じゅうじつ)し国際的(こくさいてき)な地位(ちい)が上(あ)がったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 026321A000000)

「世界(せかい)に歩(あゆ)み出(だ)した日本(にほん)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

日本(にほん)で罪(つみ)をおかした外国人(がいこくにん)を、日本(にほん)の法律(ほうりつ)でさばけず、その国(くに)の領事(りょうじ)がさばく権利(けんり)を何(なん)といいますか。領事裁判権(りょうじさいばんけん)
輸入(ゆにゅう)品(しな)などにかける税(ぜい)を、自分(じぶん)の国(くに)で決(き)める権利(けんり)を何(なん)といいますか。関税自主権(かんぜいじしゅけん)
1883年(ねん)に東京(とうきょう)の日比谷(ひびや)に建(た)てられ、外国人(がいこくにん)を招(まね)いて舞踏会(ぶとうかい)などが開(ひら)かれた洋館(ようかん)を何(なん)といいますか。鹿鳴館(ろくめいかん)
1886年(ねん)、イギリスの船(ふね)がしずみ、日本(にほん)人(ひと)の乗客(じょうきゃく)が全員(ぜんいん)なくなったのに、船長(せんちょう)が軽(かる)い罰(ばつ)しか受(う)けなかった事件(じけん)を何(なん)といいますか。ノルマントン号事件(ごうじけん)
1894年(ねん)、イギリスとの条約(じょうやく)で領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくすことに成功(せいこう)した外務大臣(がいむだいじん)はだれですか。陸奥宗光(むつむねみつ)
1911年(ねん)、アメリカとの条約(じょうやく)で関税自主権(かんぜいじしゅけん)を完全(かんぜん)に取(と)りもどした外務大臣(がいむだいじん)はだれですか。小村寿太郎(こむらじゅたろう)
ノルマントン号事件(ごうじけん)で、多(おお)くの国民(こくみん)がいかったのはなぜですか。領事裁判権(りょうじさいばんけん)のため、イギリスの領事(りょうじ)がさばき、船長(せんちょう)が軽(かる)い罰(ばつ)しか受(う)けず、つぐないもなかったから。
欧米(おうべい)の国々(くにぐに)が条約(じょうやく)改正(かいせい)に応(おう)じるようになったのは、日本(にほん)がどのような国(くに)になったからですか。憲法(けんぽう)や国会(こっかい)、法律(ほうりつ)を整(ととの)え、産業(さんぎょう)を発展(はってん)させ、戦争(せんそう)に勝(か)って国(くに)の力(ちから)をつけ、欧米(おうべい)と対等(たいとう)な近代的(きんだいてき)な国(くに)として認(みと)められたから。
問(と)いへの答(こた)え

江戸時代(えどじだい)の終(お)わりに結(むす)んだ条約(じょうやく)は、外国人(がいこくにん)の罪(つみ)を日本(にほん)の法律(ほうりつ)でさばけない(領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)める)うえ、輸入(ゆにゅう)品(しな)にかける税(ぜい)を日本(にほん)が自分(じぶん)で決(き)められない(関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない)、日本(にほん)に不利(ふり)な条約(じょうやく)でした。明治(めいじ)の政府(せいふ)は、岩倉使節団(いわくらしせつだん)を送(おく)ったり、鹿鳴館(ろくめいかん)で外国人(がいこくにん)をもてなしたりして話(はな)し合(あ)いましたが、うまくいきませんでした。1886年(ねん)のノルマントン号事件(ごうじけん)をきっかけに、条約(じょうやく)を改(あらた)めてほしいという国民(こくみん)の声(こえ)が高(たか)まりました。日本(にほん)は憲法(けんぽう)をつくって国会(こっかい)を開(ひら)き、近代的(きんだいてき)な国(くに)としてのしくみを整(ととの)えました。そして1894年(ねん)、外務大臣(がいむだいじん)の陸奥宗光(むつむねみつ)がイギリスとの間(あいだ)で領事裁判権(りょうじさいばんけん)をなくすことに成功(せいこう)しました。さらに日露戦争(にちろせんそう)のあと、1911年(ねん)に外務大臣(がいむだいじん)の小村寿太郎(こむらじゅたろう)がアメリカとの条約(じょうやく)で関税自主権(かんぜいじしゅけん)を取(と)りもどし、条約(じょうやく)改正(かいせい)が実現(じつげん)しました。

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出典

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