教科書補助小6 社会 / 明治の国づくりを進めた人々 / 6本中の1本目

ペリー来航(らいこう)と開国(かいこく)とは?黒船(くろふね)・日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)・日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」/教育出版「明治の新しい国づくり」/日本文教出版「明治の新しい国づくり」の「黒船の来航と開国」

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  1. 1853年(ねん)、アメリカのペリーが4せき(よんせき)の軍艦(ぐんかん)()をひきいて浦賀(うらが)に来(き)て、日本(にほん)に開国(かいこく)を求(もと)めました。
  2. 1854年(ねん)ので、下田(しもだ)と函館(はこだて)の2つの港(みなと)を開(ひら)き、鎖国(さこく)の体制(たいせい)が終(お)わりました。
  3. 1858年(ねん)ので貿易(ぼうえき)が始(はじ)まりましたが、日本(にほん)に不利(ふり)な不平等条約(ふびょうどうじょうやく)でした。
今日(きょう)の問(と)い

日本(にほん)は、なぜ開国(かいこく)し、開国(かいこく)によって世(よ)の中(なか)はどう変(か)わったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

黒船(くろふね)がやってきた

浦賀(うらが)の沖(おき)にあらわれた4せき(よんせき)の軍艦(ぐんかん)

1853年(ねん)、アメリカの東(ひがし)インド艦隊(かんたい)をひきいるペリーが、4せき(よんせき)の軍艦(ぐんかん)であらわれました。場所(ばしょ)は、江戸湾(えどわん)の入(い)り口(ぐち)にある浦賀(うらが)(今(いま)の神奈川県横須賀市(かながわけんよこすかし))の沖(おき)です。

4せき(よんせき)のうち2せきは、けむりを出(だ)して進(すす)む蒸気船(じょうきせん)でした。人々(ひとびと)は、この大(おお)きな船(ふね)を黒船(くろふね)とよんで、たいへんおどろきました。

山にかこまれた海に、帆柱の高い大きな船が何せきもうかぶようすを、墨でえがいた絵
浦賀(うらが)の沖(おき)にやってきたアメリカの船(ふね)をえがいた絵(え)。米艦浦賀渡来図 浮田一蕙筆 江戸時代出典:ColBase(京都国立博物館)
けむりを上げる大きな黒い船と、星条旗、まわりに書かれた説明の文字をえがいた木版画
アメリカの蒸気船(じょうきせん)をえがいた、江戸時代(えどじだい)の版画(はんが)。船(ふね)のまわりに、船(ふね)の大(おお)きさなどの説明(せつめい)が書(か)かれています。本国蒸気船之図 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)

大統領(だいとうりょう)の手紙(てがみ)で開国(かいこく)を求(もと)める

ペリーは、アメリカのフィルモア大統領(だいとうりょう)の手紙(てがみ)(国書(こくしょ))を持(も)っていて、日本(にほん)に開国(かいこく)を求(もと)めました。

幕府(ばくふ)は、浦賀(うらが)のとなりの久里浜(くりはま)の海岸(かいがん)で、ペリーから大統領(だいとうりょう)の手紙(てがみ)を受(う)け取(と)りました。

ペリー来航(らいこう)と開国(かいこく)に関係(かんけい)する場所(ばしょ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 神奈川県(かながわけん)。ペリーの艦隊(かんたい)が来(き)た浦賀(うらが)の沖(おき)と、ペリーが上陸(じょうりく)して大統領(だいとうりょう)の手紙(てがみ)をわたした久里浜(くりはま)。今(いま)の横須賀市(よこすかし)。
  • 静岡県(しずおかけん)。日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)で開(ひら)いた港(みなと)。のちにアメリカ総(そう)領事(りょうじ)のハリスが来(き)た。
  • 北海道(ほっかいどう)。日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)で開(ひら)いた港(みなと)。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)でも開港地(かいこうち)になった。
  • 神奈川県(かながわけん)。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で開(ひら)いた港(みなと)。実際(じっさい)には横浜(よこはま)が港(みなと)になった。
  • 長崎県(ながさきけん)。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で開(ひら)いた港(みなと)の1つ。
  • 新潟県(にいがたけん)。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で開(ひら)いた港(みなと)の1つ。
  • 兵庫県(ひょうごけん)。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で開(ひら)いた港(みなと)の1つ。実際(じっさい)には神戸(こうべ)が港(みなと)になった。

●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

1853年(ねん)、ペリーが4せき(よんせき)の軍艦(ぐんかん)で浦賀(うらが)に来(き)て、日本(にほん)に開国(かいこく)を求(もと)めました。

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく) ― 鎖国(さこく)の終(お)わり

1854年(ねん)、ペリーは再(ふたた)び来航(らいこう)しました。幕府(ばくふ)は、強(つよ)い軍艦(ぐんかん)を前(まえ)にして、アメリカと日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結(むす)びました。

この条約(じょうやく)で、伊豆(いず)の下田(しもだ)(今(いま)の静岡県(しずおかけん))と函館(はこだて)(今(いま)の北海道(ほっかいどう))の2つの港(みなと)を開(ひら)きました。アメリカの船(ふね)に、まきや水(みず)、食料(しょくりょう)などをわたすことにしたのです。遭難(そうなん)したアメリカの船(ふね)の乗組員(のりくみいん)を助(たす)けることも決(き)められました。

黒い軍服を着た、髪の黒い西洋の男性の油絵の肖像画
ペリーの肖像画(しょうぞうが)(アメリカでえがかれた肖像画(しょうぞうが)を写(うつ)したもの)。ペリー肖像(模本) メリー・クレイブン・ジョンソン模写、J・B・アーヴィング原画 1929年出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

幕府(ばくふ)は、このあと、イギリス・ロシア・オランダとも同(おな)じような条約(じょうやく)を結(むす)びました。こうして、200年(ねん)あまり続(つづ)いた鎖国(さこく)の体制(たいせい)は終(お)わり、日本(にほん)は開国(かいこく)しました。

1854年(ねん)の日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)で下田(しもだ)と函館(はこだて)を開(ひら)き、鎖国(さこく)の体制(たいせい)は終(お)わりました(開国(かいこく))。

日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく) ― 貿易(ぼうえき)の始(はじ)まり

ハリスが貿易(ぼうえき)を求(もと)める

1856年(ねん)、アメリカの総(ふさ)領事(りょうじ)として下田(しもだ)に来(き)たハリスは、日本(にほん)との貿易(ぼうえき)を始(はじ)めるよう、幕府(ばくふ)に強(つよ)く求(もと)めました。

ハリスは、となりの清(しん)(中国(ちゅうごく))でイギリス・フランスの軍(ぐん)が勝(か)ったことを伝(つた)えました。そして、両国(りょうこく)の力(ちから)をおそれる幕府(ばくふ)に、条約(じょうやく)を結(むす)ぶようせまったのです。

天皇(てんのう)の許(ゆる)しを得(え)ずに結(むす)んだ条約(じょうやく)

1858年(ねん)、大老(たいろう)の井伊直弼(いいなおすけ)は、天皇(てんのう)の許(ゆる)し(勅許(ちょっきょ))を得(え)ないまま、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)びました。

この条約(じょうやく)で、函館(はこだて)・神奈川(かながわ)(横浜(よこはま))・長崎(ながさき)・新潟(にいがた)・兵庫(ひょうご)(神戸(こうべ))の5つの港(みなと)を開(ひら)き、アメリカとの貿易(ぼうえき)を始(はじ)めることになりました。幕府(ばくふ)は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも、同(おな)じような条約(じょうやく)を結(むす)びました。

条約(じょうやく)年(ねん)おもな内容(ないよう)
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)1854年(ねん)下田(しもだ)・函館(はこだて)の2港(こう)を開(ひら)く。アメリカの船(ふね)にまき・水(みず)・食料(しょくりょう)をわたす
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)1858年(ねん)函館(はこだて)・神奈川(かながわ)・長崎(ながさき)・新潟(にいがた)・兵庫(ひょうご)の5港(こう)を開(ひら)き、貿易(ぼうえき)を始(はじ)める。日本(にほん)に不利(ふり)な不平等条約(ふびょうどうじょうやく)

日本(にほん)に不利(ふり)な不平等条約(ふびょうどうじょうやく)

この条約(じょうやく)は、日本(にほん)にとって不利(ふり)なでした。条約(じょうやく)の文書(ぶんしょ)は、今(いま)も外務省(がいむしょう)の外交史料館(がいこうしりょうかん)に保管(ほかん)されています。

領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)める
日本(にほん)で罪(つみ)をおかしたアメリカ人(にん)を、日本(にほん)の法律(ほうりつ)でさばくことができない。
関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない
外国(がいこく)から輸入(ゆにゅう)する品物(しなもの)にかける税(ぜい)(関税(かんぜい))を、日本(にほん)が自分(じぶん)で決(き)められない。
なぜ? 日本(にほん)は、不利(ふり)な条約(じょうやく)を結(むす)んだの?
そのころ、清(しん)(中国(ちゅうごく))は、イギリスやフランスとの戦争(せんそう)に負(ま)けていました。幕府(ばくふ)は、強(つよ)い軍艦(ぐんかん)をもつ欧米(おうべい)の国々(くにぐに)と争(あらそ)えば、日本(にほん)も同(おな)じようになるのではないかとおそれたのです。

1858年(ねん)の日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で5つの港(みなと)を開(ひら)き、貿易(ぼうえき)が始(はじ)まりました。日本(にほん)に不利(ふり)な不平等条約(ふびょうどうじょうやく)でした。

開国(かいこく)で変(か)わった世(よ)の中(なか)

物(もの)の値段(ねだん)が上(あ)がる

貿易(ぼうえき)が始(はじ)まると、国内(こくない)では物(もの)の値段(ねだん)が大(おお)きく上(あ)がりました。人々(ひとびと)のくらしは苦(くる)しくなり、外国(がいこく)に対(たい)する不満(ふまん)が高(たか)まりました。

尊王攘夷(そんのうじょうい)と桜田門外(さくらだもんがい)の変(へん)

天皇(てんのう)の許(ゆる)しを得(え)ないまま条約(じょうやく)を結(むす)んだ井伊直弼(いいなおすけ)に、反対(はんたい)する人々(ひとびと)も多(おお)くいました。天皇(てんのう)を尊(とうと)び、外国(がいこく)を追(お)いはらおうとする「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の考(かんが)えが広(ひろ)まりました。

1860年(ねん)には、井伊直弼(いいなおすけ)が江戸城(えどじょう)の桜田門(さくらだもん)の外(そと)でおそわれ、亡(な)くなりました(桜田門外(さくらだもんがい)の変(へん))。

  1. 1853年(ねん)ペリーが浦賀(うらが)に来航(らいこう)する
  2. 1854年(ねん)日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結(むす)び、下田(しもだ)・函館(はこだて)を開(ひら)く
  3. 1858年(ねん)日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)び、貿易(ぼうえき)を始(はじ)める
  4. 1860年(ねん)桜田門外(さくらだもんがい)の変(へん)で、井伊直弼(いいなおすけ)がおそわれる

こうして幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)まり、幕府(ばくふ)をたおそうとする動(うご)きが強(つよ)まっていきました。日本(にほん)は、明治維新(めいじいしん)へと向(む)かっていくのです。

開国(かいこく)のときの不平等条約(ふびょうどうじょうやく)を改(あらた)め、外国(がいこく)と対等(たいとう)な関係(かんけい)になることは、明治時代(めいじじだい)の日本(にほん)の大(おお)きな課題(かだい)になりました。

開国(かいこく)で物(もの)の値段(ねだん)が上(あ)がり、幕府(ばくふ)への不満(ふまん)が高(たか)まりました。幕府(ばくふ)の力(ちから)は弱(よわ)まり、明治維新(めいじいしん)へと向(む)かいます。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

黒い軍服を着た西洋の男性の顔
ペリー
アメリカの東(ひがし)インド艦隊(かんたい)の司令長官(しれいちょうかん)。1853年(ねん)に浦賀(うらが)に来航(らいこう)して開国(かいこく)を求(もと)め、1854年(ねん)に日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結(むす)んだ。
ペリー肖像(模本) J・B・アーヴィング原画 1929年模写。出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
ハリス
アメリカの総(ふさ)領事(りょうじ)として下田(しもだ)に来(き)て、1858年(ねん)に日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)んだ。
冠をかぶり、着物を着た武士の顔と上半身の絵
井伊直弼(いいなおすけ)
江戸幕府(えどばくふ)の大老(たいろう)。1858年(ねん)に天皇(てんのう)の許(ゆる)しを得(え)ないまま日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)んだ。1860年(ねん)、桜田門外(さくらだもんがい)の変(へん)でおそわれて亡(な)くなった。
『井伊直弼言行録』(武田鶯塘、1918年)のとびらの絵。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

重要(じゅうよう)なところ

ペリーが浦賀(うらが)に来航(らいこう)したのは1853年(ねん)、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結(むす)んだのは1854年(ねん)です。
「来航(らいこう)(1853年(ねん))」→「和親(わしん)条約(じょうやく)(1854年(ねん))」→「通商(つうしょう)条約(じょうやく)(1858年(ねん))」の順(じゅん)に覚(おぼ)えましょう。
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)で開(ひら)いたのは、下田(しもだ)と函館(はこだて)の2つの港(みなと)です。
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で開(ひら)いたのは、函館(はこだて)・神奈川(かながわ)・長崎(ながさき)・新潟(にいがた)・兵庫(ひょうご)の5つの港(みなと)です。
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認(みと)め、関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない不平等条約(ふびょうどうじょうやく)でした。
貿易(ぼうえき)が始(はじ)まったのは、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)からです。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」
  • 教育出版:「明治の新しい国づくり」
  • 日本文教出版:「明治の新しい国づくり」の授業「黒船の来航と開国」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ケ):黒船(くろふね)の来航(らいこう)、廃藩置県(はいはんちけん)や四民平等(しみんびょうどう)などの改革(かいかく)、文明開化(ぶんめいかいか)から、明治維新(めいじいしん)で近代化(きんだいか)が進(すす)んだことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263219000000)

「明治(めいじ)の国(くに)づくりを進(すす)めた人々(ひとびと)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

1853年(ねん)に軍艦(ぐんかん)をひきいて浦賀(うらが)に来航(らいこう)し、日本(にほん)に開国(かいこく)を求(もと)めたアメリカ人(にん)はだれですか。ペリー
1854年(ねん)に結(むす)ばれ、下田(しもだ)と函館(はこだて)の港(みなと)を開(ひら)いた条約(じょうやく)を何(なん)といいますか。日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)
1858年(ねん)に結(むす)ばれ、貿易(ぼうえき)が始(はじ)まるきっかけになった条約(じょうやく)を何(なん)といいますか。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)
日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)んだ、江戸幕府(えどばくふ)の大老(たいろう)はだれですか。井伊直弼(いいなおすけ)
外国(がいこく)から輸入(ゆにゅう)する品物(しなもの)にかける税(ぜい)を、自分(じぶん)の国(くに)で決(き)める権利(けんり)を何(なん)といいますか。関税自主権(かんぜいじしゅけん)
問(と)いへの答(こた)え

1853年(ねん)、アメリカのペリーが軍艦(ぐんかん)をひきいて来航(らいこう)し、大統領(だいとうりょう)の手紙(てがみ)で開国(かいこく)を求(もと)めました。強(つよ)い軍艦(ぐんかん)を前(まえ)にした幕府(ばくふ)は、1854年(ねん)に日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結(むす)んで、下田(しもだ)と函館(はこだて)の港(みなと)を開(ひら)きました。さらに1858年(ねん)、大老(たいろう)の井伊直弼(いいなおすけ)は、天皇(てんのう)の許(ゆる)しを得(え)ないまま日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結(むす)び、貿易(ぼうえき)が始(はじ)まりました。しかし、この条約(じょうやく)は日本(にほん)に不利(ふり)な不平等条約(ふびょうどうじょうやく)でした。貿易(ぼうえき)が始(はじ)まると物(もの)の値段(ねだん)が上(あ)がり、人々(ひとびと)のくらしは苦(くる)しくなりました。外国(がいこく)を追(お)いはらおうとする動(うご)きや、幕府(ばくふ)を批判(ひはん)する動(うご)きが強(つよ)まり、やがて幕府(ばくふ)がたおれるきっかけになっていきました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

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