ペリー来航と開国とは?黒船・日米和親条約・日米修好通商条約をわかりやすく
教科書では:東京書籍「明治の国づくりを進めた人々」/教育出版「明治の新しい国づくり」/日本文教出版「明治の新しい国づくり」の「黒船の来航と開国」
- 1853年、アメリカのペリーが4せきの軍艦()をひきいて浦賀に来て、日本に開国を求めました。
- 1854年ので、下田と函館の2つの港を開き、鎖国の体制が終わりました。
- 1858年ので貿易が始まりましたが、日本に不利な不平等条約でした。
日本は、なぜ開国し、開国によって世の中はどう変わったのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。黒船がやってきた
浦賀の沖にあらわれた4せきの軍艦
1853年、アメリカの東インド艦隊をひきいるペリーが、4せきの軍艦であらわれました。場所は、江戸湾の入り口にある浦賀(今の神奈川県横須賀市)の沖です。
4せきのうち2せきは、けむりを出して進む蒸気船でした。人々は、この大きな船を黒船とよんで、たいへんおどろきました。


大統領の手紙で開国を求める
ペリーは、アメリカのフィルモア大統領の手紙(国書)を持っていて、日本に開国を求めました。
幕府は、浦賀のとなりの久里浜の海岸で、ペリーから大統領の手紙を受け取りました。
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 神奈川県。ペリーの艦隊が来た浦賀の沖と、ペリーが上陸して大統領の手紙をわたした久里浜。今の横須賀市。
- 静岡県。日米和親条約で開いた港。のちにアメリカ総領事のハリスが来た。
- 北海道。日米和親条約で開いた港。日米修好通商条約でも開港地になった。
- 神奈川県。日米修好通商条約で開いた港。実際には横浜が港になった。
- 長崎県。日米修好通商条約で開いた港の1つ。
- 新潟県。日米修好通商条約で開いた港の1つ。
- 兵庫県。日米修好通商条約で開いた港の1つ。実際には神戸が港になった。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
1853年、ペリーが4せきの軍艦で浦賀に来て、日本に開国を求めました。
日米和親条約 ― 鎖国の終わり
1854年、ペリーは再び来航しました。幕府は、強い軍艦を前にして、アメリカと日米和親条約を結びました。
この条約で、伊豆の下田(今の静岡県)と函館(今の北海道)の2つの港を開きました。アメリカの船に、まきや水、食料などをわたすことにしたのです。遭難したアメリカの船の乗組員を助けることも決められました。

幕府は、このあと、イギリス・ロシア・オランダとも同じような条約を結びました。こうして、200年あまり続いた鎖国の体制は終わり、日本は開国しました。
1854年の日米和親条約で下田と函館を開き、鎖国の体制は終わりました(開国)。
日米修好通商条約 ― 貿易の始まり
ハリスが貿易を求める
1856年、アメリカの総領事として下田に来たハリスは、日本との貿易を始めるよう、幕府に強く求めました。
ハリスは、となりの清(中国)でイギリス・フランスの軍が勝ったことを伝えました。そして、両国の力をおそれる幕府に、条約を結ぶようせまったのです。
天皇の許しを得ずに結んだ条約
1858年、大老の井伊直弼は、天皇の許し(勅許)を得ないまま、日米修好通商条約を結びました。
この条約で、函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5つの港を開き、アメリカとの貿易を始めることになりました。幕府は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも、同じような条約を結びました。
| 条約 | 年 | おもな内容 |
|---|---|---|
| 日米和親条約 | 1854年 | 下田・函館の2港を開く。アメリカの船にまき・水・食料をわたす |
| 日米修好通商条約 | 1858年 | 函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港を開き、貿易を始める。日本に不利な不平等条約 |
日本に不利な不平等条約
この条約は、日本にとって不利なでした。条約の文書は、今も外務省の外交史料館に保管されています。
そのころ、清(中国)は、イギリスやフランスとの戦争に負けていました。幕府は、強い軍艦をもつ欧米の国々と争えば、日本も同じようになるのではないかとおそれたのです。
1858年の日米修好通商条約で5つの港を開き、貿易が始まりました。日本に不利な不平等条約でした。
開国で変わった世の中
物の値段が上がる
貿易が始まると、国内では物の値段が大きく上がりました。人々のくらしは苦しくなり、外国に対する不満が高まりました。
尊王攘夷と桜田門外の変
天皇の許しを得ないまま条約を結んだ井伊直弼に、反対する人々も多くいました。天皇を尊び、外国を追いはらおうとする「尊王攘夷」の考えが広まりました。
1860年には、井伊直弼が江戸城の桜田門の外でおそわれ、亡くなりました(桜田門外の変)。
- 1853年ペリーが浦賀に来航する
- 1854年日米和親条約を結び、下田・函館を開く
- 1858年日米修好通商条約を結び、貿易を始める
- 1860年桜田門外の変で、井伊直弼がおそわれる
こうして幕府の力は弱まり、幕府をたおそうとする動きが強まっていきました。日本は、明治維新へと向かっていくのです。
開国のときの不平等条約を改め、外国と対等な関係になることは、明治時代の日本の大きな課題になりました。
開国で物の値段が上がり、幕府への不満が高まりました。幕府の力は弱まり、明治維新へと向かいます。
この時代の人物


重要なところ
「来航(1853年)」→「和親条約(1854年)」→「通商条約(1858年)」の順に覚えましょう。
日米修好通商条約で開いたのは、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5つの港です。
貿易が始まったのは、日米修好通商条約からです。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「明治の国づくりを進めた人々」
- 教育出版:「明治の新しい国づくり」
- 日本文教出版:「明治の新しい国づくり」の授業「黒船の来航と開国」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(ケ):黒船の来航、廃藩置県や四民平等などの改革、文明開化から、明治維新で近代化が進んだことを理解する。(学習指導要領コード 0263219000000)
たしかめ問題
1853年に軍艦をひきいて浦賀に来航し、日本に開国を求めたアメリカ人はだれですか。
ペリー1854年に結ばれ、下田と函館の港を開いた条約を何といいますか。
日米和親条約1858年に結ばれ、貿易が始まるきっかけになった条約を何といいますか。
日米修好通商条約日米修好通商条約を結んだ、江戸幕府の大老はだれですか。
井伊直弼外国から輸入する品物にかける税を、自分の国で決める権利を何といいますか。
関税自主権1853年、アメリカのペリーが軍艦をひきいて来航し、大統領の手紙で開国を求めました。強い軍艦を前にした幕府は、1854年に日米和親条約を結んで、下田と函館の港を開きました。さらに1858年、大老の井伊直弼は、天皇の許しを得ないまま日米修好通商条約を結び、貿易が始まりました。しかし、この条約は日本に不利な不平等条約でした。貿易が始まると物の値段が上がり、人々のくらしは苦しくなりました。外国を追いはらおうとする動きや、幕府を批判する動きが強まり、やがて幕府がたおれるきっかけになっていきました。
出典
- 国土交通省「みなとオアシス“ペリー久里浜”」
- 神奈川県「三浦半島サイクリング たたら浜」(ペリー艦隊4隻のうち蒸気船2隻)
- 山口県文書館「開国と不平等条約 開国(日米和親条約)」
- 山口県文書館「開国と不平等条約 日米修好通商条約」
- 文化遺産オンライン「日米修好通商条約」(外務省外交史料館蔵)
- 文化遺産オンライン「日米条約調印書(安政四年五月二十六日)」(ハリスの下田派遣)
- 東京大学「アヘン戦争を報せよ オランダ人が日本に伝えたかった海外情報」
- ジャパンナレッジ「日米和親条約」
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