教科書補助小6 社会 / 町人の文化と新しい学問 / 4本中の3本目

国学(こくがく)と蘭学(らんがく)とは?解体新書(かいたいしんしょ)・伊能忠敬(いのうただたか)の日本(にほん)地図(ちず)・本居宣長(もとおりのりなが)の古事記伝(こじきでん)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「町人の文化と新しい学問」の「新しい学問・蘭学」「国学の発展と新しい時代への動き」/教育出版「新しい文化と学問」の「新しい学問」/日本文教出版「江戸の社会と文化・学問」の「蘭学のはじまり」「国学の広がりと子どもの教育」

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  1. オランダ語(ご)の本(ほん)を通(とお)して、西洋(せいよう)の学問(がくもん)を学(まな)ぶが広(ひろ)まりました。
  2. 杉田玄白(すぎたげんぱく)・前野良沢(まえのりょうたく)らは『解体新書(かいたいしんしょ)』を出(だ)し、伊能忠敬(いのうただたか)は正確(せいかく)な日本(にほん)地図(ちず)をつくりました。
  3. 本居宣長(もとおりのりなが)は、日本(にほん)の古典(こてん)を研究(けんきゅう)するを大成(たいせい)し、『古事記伝(こじきでん)』を書(か)きました。
今日(きょう)の問(と)い

江戸時代(えどじだい)の人々(ひとびと)は、どのようにして新(あたら)しい学問(がくもん)を広(ひろ)めていったのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

西洋(せいよう)の本(ほん)が入(はい)ってくる

吉宗(よしむね)が外国(がいこく)の本(ほん)の輸入(ゆにゅう)を認(みと)める

江戸幕府(えどばくふ)は、キリスト教(きょう)が広(ひろ)まるのをおそれ、西洋(せいよう)の本(ほん)を日本(にほん)に入(い)れることをきびしく制限(せいげん)していました。

しかし、8代将軍(だいしょうぐん)の徳川吉宗(とくがわよしむね)は、実際(じっさい)の役(やく)に立(た)つ学問(がくもん)を大切(たいせつ)にしました。1720年(ねん)、吉宗(よしむね)は、キリスト教(きょう)に関係(かんけい)のない外国(がいこく)の本(ほん)なら、輸入(ゆにゅう)してよいことにしました。

さらに、青木昆陽(あおきこんよう)や野呂元丈(のろげんじょう)という学者(がくしゃ)に、オランダ語(ご)を学(まな)ばせました。

オランダ語(ご)で学(まな)ぶ「蘭学(らんがく)」

鎖国(さこく)のもとで、ヨーロッパの国(くに)で日本(にほん)と貿易(ぼうえき)をしていたのは、オランダだけでした。そのため、西洋(せいよう)の学問(がくもん)は、オランダ語(ご)の本(ほん)を通(とお)して学(まな)ばれました。

オランダ語(ご)で西洋(せいよう)の学問(がくもん)を学(まな)ぶことを、蘭学(らんがく)といいます。

なぜ?西洋(せいよう)の学問(がくもん)を、オランダ語(ご)で学(まな)んだの?
鎖国(さこく)のあいだ、ヨーロッパの国(くに)で日本(にほん)と行(い)き来(き)していたのはオランダだけでした。長崎(ながさき)の出島(でじま)には、毎年(まいとし)オランダの船(ふね)が来(き)て、本(ほん)や品物(しなもの)を運(はこ)んできました。そのため、手(て)に入(い)れられた西洋(せいよう)の本(ほん)の多(おお)くは、オランダ語(ご)で書(か)かれていたのです。

8代将軍(だいしょうぐん)の徳川吉宗(とくがわよしむね)が外国(がいこく)の本(ほん)の輸入(ゆにゅう)を認(みと)め、オランダ語(ご)で西洋(せいよう)の学問(がくもん)を学(まな)ぶ蘭学(らんがく)がさかんになりました。

『解体新書(かいたいしんしょ)』―杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)

解剖(かいぼう)を見(み)て、本(ほん)の正(ただ)しさにおどろく

江戸(えど)の医者(いしゃ)の杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)は、オランダ語(ご)の解剖(かいぼう)の本(ほん)(人(ひと)の体(からだ)のつくりを説明(せつめい)した本(ほん))を手(て)に入(い)れていました。のちに『ターヘル・アナトミア』とよばれる本(ほん)です。

あるとき玄白(げんぱく)たちは、江戸(えど)で、亡(な)くなった人(ひと)の体(からだ)の解剖(かいぼう)を見学(けんがく)しました。そして、オランダの本(ほん)の図(ず)が、実際(じっさい)の体(からだ)とぴったり合(あ)っていることにおどろきました。

それまで日本(にほん)で信(しん)じられていた体(からだ)のつくりの説明(せつめい)には、まちがいが多(おお)かったのです。玄白(げんぱく)たちは、この本(ほん)を日本語(にほんご)に訳(やく)そうと決(き)めました。

人の全身の骨と、背骨や手の骨などを細かくえがいた、本の見開きのページ
『解体新書(かいたいしんしょ)』の図(ず)。人(ひと)の骨(ほね)のつくりが、くわしくえがかれています。『解体新書』序図(1774年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

辞書(じしょ)もない中(なか)での翻訳(ほんやく)

しかし、オランダ語(ご)の辞書(じしょ)はほとんどなく、わかる言葉(ことば)は少(すこ)しだけでした。玄白(げんぱく)たちは、図(ず)と文(ぶん)を見(み)くらべながら、1つの文(ぶん)を訳(やく)すのに何日(なんにち)もかけました。

そして1774年(ねん)、ついに『解体新書(かいたいしんしょ)』を出(だ)しました。日本(にほん)で初(はじ)めての、西洋(せいよう)の医学書(いがくしょ)の本格的(ほんかくてき)な翻訳(ほんやく)です。

西洋風のかざりのついた門のような枠の中に「解体図」と書かれ、両わきに人の像が立つ、本のとびらの絵
『解体新書(かいたいしんしょ)』のとびらの絵(え)。西洋(せいよう)の本(ほん)の絵(え)をもとにしてえがかれました。『解体新書』序図(1774年)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

『解体新書(かいたいしんしょ)』によって、医学(いがく)が大(おお)きく進(すす)みました。オランダ語(ご)の理解(りかい)も進(すす)み、西洋(せいよう)の学問(がくもん)を学(まな)ぶ人(ひと)が増(ふ)えていきました。

1774年(ねん)、杉田玄白(すぎたげんぱく)と前野良沢(まえのりょうたく)らは、オランダ語(ご)の医学書(いがくしょ)を訳(やく)して『解体新書(かいたいしんしょ)』を出(だ)しました。

伊能忠敬(いのうただたか)の日本(にほん)地図(ちず)

蘭学(らんがく)は、医学(いがく)だけでなく、天文学(てんもんがく)や地理学(ちりがく)などにも広(ひろ)がりました。

天文学(てんもんがく)や測量(そくりょう)を学(まな)んだ伊能忠敬(いのうただたか)は、1800年(ねん)、55才(さい)のときに、蝦夷(えみし)地(ち)(今(いま)の北海道(ほっかいどう))の測量(そくりょう)を始(はじ)めました。それから1816年(ねん)まで、10回(かい)にわたって全国(ぜんこく)の海岸線(かいがんせん)などを歩(ある)いて測量(そくりょう)しました。

着物を着て座り、ひざの前に紙を広げている年をとった男性の絵
伊能忠敬(いのうただたか)の絵(え)(大正時代(たいしょうじだい)の本(ほん)にのせられた肖像画(しょうぞうが)の写真(しゃしん))。『伊能忠敬』(大谷亮吉編著、1917年)の口絵「伊能忠敬肖像」出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

忠敬(ただたか)は1818年(ねん)に亡(な)くなりましたが、地図(ちず)づくりは弟子(でし)たちに引(ひ)きつがれました。1821年(ねん)に、「大(だい)日本(にほん)沿海輿地全図(えんかいよちぜんず)」(伊能図(いのうず))が完成(かんせい)しました。実際(じっさい)に測(はか)って作(つく)ったこの地図(ちず)は、とても正確(せいかく)でした。

房総半島と東京湾、伊豆の島々などの海岸線を、緑と茶色の色をつけてえがいた地図
伊能忠敬(いのうただたか)らの測量(そくりょう)をもとにした日本(にほん)地図(ちず)(中図(ちゅうず))の、関東地方(かんとうちほう)の部分(ぶぶん)。海岸線(かいがんせん)がとても正確(せいかく)にえがかれています。伊能忠敬日本図(中図) 江戸時代・19世紀出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
  1. 1720年(ねん)吉宗(よしむね)が、キリスト教(きょう)に関係(かんけい)のない外国(がいこく)の本(ほん)の輸入(ゆにゅう)を認(みと)める
  2. 1774年(ねん)杉田玄白(すぎたげんぱく)・前野良沢(まえのりょうたく)らが『解体新書(かいたいしんしょ)』を出(だ)す
  3. 1798年(ねん)本居宣長(もとおりのりなが)が『古事記伝(こじきでん)』を書(か)き上(あ)げる
  4. 1800年(ねん)伊能忠敬(いのうただたか)が、蝦夷(えみし)地(ち)の測量(そくりょう)を始(はじ)める
  5. 1821年(ねん)伊能図(いのうず)が完成(かんせい)する

伊能忠敬(いのうただたか)は全国(ぜんこく)を歩(ある)いて測量(そくりょう)し、正確(せいかく)な日本(にほん)地図(ちず)をつくりました。

国学(こくがく)―本居宣長(もとおりのりなが)

日本(にほん)のもともとの考(かんが)え方(かた)を研究(けんきゅう)する

そのころ、日本(にほん)の古(ふる)い書物(しょもつ)を研究(けんきゅう)する学問(がくもん)がさかんになりました。仏教(ぶっきょう)や儒教(じゅきょう)が中国(ちゅうごく)から伝(つた)わる前(まえ)の、日本(にほん)人(ひと)のもともとの考(かんが)え方(かた)を明(みん)らかにしようとしたのです。これを国学(こくがく)といいます。

幕府(ばくふ)が大切(たいせつ)にしていたのは、中国(ちゅうごく)から伝(つた)わった儒教(じゅきょう)の学問(がくもん)(朱子学(しゅしがく))でした。国学者(こくがくしゃ)たちは、日本(にほん)のことを知(し)るには、中国(ちゅうごく)の学問(がくもん)とは別(べつ)の方法(ほうほう)が必要(ひつよう)だと考(かんが)えたのです。

『古事記伝(こじきでん)』を書(か)いた本居宣長(もとおりのりなが)

伊勢(いせ)の松阪(まつさか)(今(いま)の三重県松阪市(みえけんまつさかし))の本居宣長(もとおりのりなが)は、1764年(ねん)に国学者(こくがくしゃ)の賀茂真淵(かものまぶち)に入門(にゅうもん)しました。

そして、日本(にほん)でもっとも古(ふる)い歴史(れきし)の本(ほん)『古事記(こじき)』の研究(けんきゅう)にうちこみ、30年(ねん)あまりをかけて『古事記伝(こじきでん)』を書(か)き上(あ)げました。

筆で書かれた文字がならぶ、古い本のページ。右はしに「古事記伝」と書かれている
本居宣長(もとおりのりなが)が自分(じぶん)で書(か)いた『古事記伝(こじきでん)』の原稿(げんこう)(下書(したが)き)。右(みぎ)はしに「古事記伝(こじきでん)」「本居宣長謹撰(もとおりのりながきんせん)」と書(か)かれています。『古事記伝』巻1 本居宣長自筆稿本 1785〜1788年出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

『古事記(こじき)』は、昔(むかし)の書(か)き方(かた)で書(か)かれていて、読(よ)み方(かた)のむずかしい本(ほん)でした。宣長(のりなが)は、一(ひと)つ一(ひと)つの言葉(ことば)の読(よ)み方(かた)と意味(いみ)を、ていねいに調(しら)べていきました。

蘭学(らんがく)
オランダ語(ご)の本(ほん)で、西洋(せいよう)の医学(いがく)・天文学(てんもんがく)・地理学(ちりがく)などを学(まな)ぶ。
国学(こくがく)
『古事記(こじき)』や『万葉集(まんようしゅう)』など、日本(にほん)の古典(こてん)を研究(けんきゅう)する。

国学(こくがく)は、日本(にほん)の古典(こてん)から日本(にほん)人(ひと)のもともとの考(かんが)え方(かた)を研究(けんきゅう)する学問(がくもん)です。本居宣長(もとおりのりなが)は『古事記伝(こじきでん)』を書(か)き上(あ)げました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

頭をそり、着物を着た年をとった男性の顔と上半身の絵
杉田玄白(すぎたげんぱく)
江戸(えど)の医者(いしゃ)。前野良沢(まえのりょうたく)らとオランダ語(ご)の解剖書(かいぼうしょ)を訳(やく)し、1774年(ねん)に『解体新書(かいたいしんしょ)』を出(だ)した。のちに『蘭学(らんがく)事始(ことはじめ)』を書(か)いた。
「鷧齋杉田先生肖像」(石川大浪写)。『贈正四位杉田玄白先生事蹟』(1937年)の口絵。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
前野良沢(まえのりょうたく)
江戸(えど)の医者(いしゃ)。青木昆陽(あおきこんよう)などからオランダ語(ご)を学(まな)び、『解体新書(かいたいしんしょ)』の翻訳(ほんやく)で中心(ちゅうしん)となった。
着物を着た年をとった男性の顔と上半身の絵
伊能忠敬(いのうただたか)
55才(さい)で測量(そくりょう)を始(はじ)め、全国(ぜんこく)を歩(ある)いて正確(せいかく)な日本(にほん)地図(ちず)をつくった。地図(ちず)は亡(な)くなったあとの1821年(ねん)に完成(かんせい)した。
『伊能忠敬』(大谷亮吉編著、1917年)の口絵「伊能忠敬肖像」。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
本居宣長(もとおりのりなが)
伊勢(いせ)の松阪(まつさか)の国学者(こくがくしゃ)。30年(ねん)あまりをかけて『古事記伝(こじきでん)』を書(か)き、国学(こくがく)を大成(たいせい)した。
まげをゆい、花もようの着物を着て立つ武士の浮世絵
徳川吉宗(とくがわよしむね)
江戸幕府(えどばくふ)の8代将軍(だいしょうぐん)。キリスト教(きょう)に関係(かんけい)のない外国(がいこく)の本(ほん)の輸入(ゆにゅう)を認(みと)め、学者(がくしゃ)にオランダ語(ご)を学(まな)ばせた。
「徳川十五代記略 飛鳥井公吉宗公の前に蹴鞠之図」月岡芳年 1875年(明治時代に想像でえがいた絵)。出典:東京都立中央図書館(部分)

重要(じゅうよう)なところ

『解体新書(かいたいしんしょ)』は、杉田玄白(すぎたげんぱく)・前野良沢(まえのりょうたく)らが、オランダ語(ご)の解剖書(かいぼうしょ)を訳(やく)して、1774年(ねん)に出(だ)した本(ほん)です。
「蘭学(らんがく)=オランダ語(ご)で西洋(せいよう)の学問(がくもん)を学(まな)ぶ」と、組(くみ)で覚(おぼ)えましょう。
本居宣長(もとおりのりなが)は『古事記伝(こじきでん)』を書(か)き、国学(こくがく)を大成(たいせい)しました。
国学(こくがく)は日本(にほん)の古典(こてん)、蘭学(らんがく)は西洋(せいよう)の学問(がくもん)、と分(わ)けて覚(おぼ)えましょう。
伊能忠敬(いのうただたか)は、全国(ぜんこく)を歩(ある)いて測量(そくりょう)し、正確(せいかく)な日本(にほん)地図(ちず)をつくりました。地図(ちず)は1821年(ねん)に完成(かんせい)しました。
忠敬(ただたか)は地図(ちず)の完成前(かんせいまえ)の1818年(ねん)に亡(な)くなり、弟子(でし)たちが完成(かんせい)させました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「町人の文化と新しい学問」の授業「新しい学問・蘭学」「国学の発展と新しい時代への動き」
  • 教育出版:「新しい文化と学問」の授業「新しい学問」
  • 日本文教出版:「江戸の社会と文化・学問」の授業「蘭学のはじまり」「国学の広がりと子どもの教育」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(ク):歌舞伎(かぶき)や浮世絵(うきよえ)、国学(こくがく)や蘭学(らんがく)から、町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)が栄(さか)え、新(あたら)しい学問(がくもん)がおこったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263218000000)

「町人(ちょうにん)の文化(ぶんか)と新(あたら)しい学問(がくもん)」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

オランダ語(ご)の本(ほん)を通(とお)して、西洋(せいよう)の学問(がくもん)を学(まな)ぶことを何(なん)といいますか。蘭学(らんがく)
杉田玄白(すぎたげんぱく)や前野良沢(まえのりょうたく)らが、オランダ語(ご)の解剖書(かいぼうしょ)を訳(やく)して出(だ)した本(ほん)を何(なん)といいますか。解体新書(かいたいしんしょ)
全国(ぜんこく)を歩(ある)いて測量(そくりょう)し、正確(せいかく)な日本(にほん)地図(ちず)をつくった人(ひと)はだれですか。伊能忠敬(いのうただたか)
『古事記伝(こじきでん)』を書(か)いて、国学(こくがく)を大成(たいせい)した人(ひと)はだれですか。本居宣長(もとおりのりなが)
日本(にほん)の古典(こてん)を研究(けんきゅう)して、日本(にほん)人(ひと)のもともとの考(かんが)え方(かた)を明(みん)らかにしようとした学問(がくもん)を何(なん)といいますか。国学(こくがく)
問(と)いへの答(こた)え

鎖国(さこく)のもとでも、オランダとの貿易(ぼうえき)を通(つう)じて西洋(せいよう)の本(ほん)が日本(にほん)に入(はい)ってきました。杉田玄白(すぎたげんぱく)や前野良沢(まえのりょうたく)は、オランダ語(ご)の医学書(いがくしょ)を苦労(くろう)して日本語(にほんご)に訳(やく)し、『解体新書(かいたいしんしょ)』を出(だ)しました。こうして始(はじ)まった蘭学(らんがく)は、医学(いがく)だけでなく、天文学(てんもんがく)や地理学(ちりがく)などにも広(ひろ)がり、伊能忠敬(いのうただたか)は西洋(せいよう)の学問(がくもん)も取(と)り入(い)れて、正確(せいかく)な日本(にほん)地図(ちず)をつくりました。一方(いっぽう)、本居宣長(もとおりのりなが)は、『古事記(こじき)』などの古典(こてん)を研究(けんきゅう)して、仏教(ぶっきょう)や儒教(じゅきょう)が伝(つた)わる前(まえ)の日本(にほん)人(ひと)の考(かんが)え方(かた)を明(みん)らかにしようとしました。これが国学(こくがく)です。どちらの学問(がくもん)も、自分(じぶん)で確(たし)かめて真実(しんじつ)を知(し)ろうとする姿勢(しせい)から生(う)まれました。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

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