聖徳太子の政治とは?冠位十二階・十七条の憲法・遣隋使・法隆寺をわかりやすく
教科書では:東京書籍「天皇中心の国づくり」の「聖徳太子の国づくり」/教育出版「大陸に学んだ国づくり」の「聖徳太子の理想」/日本文教出版「天皇を中心とした政治」の「法隆寺と聖徳太子/聖徳太子の政治」
- 593年、推古天皇のもとで、聖徳太子が蘇我馬子と協力して政治を進めました。
- で能力のある人を役人にし、で役人の心がまえを示しました。
- を送って隋から学び、仏教を大切にしてを建てました。
聖徳太子は、どんな国をつくろうとしたのだろう。
読み終えたら、下の「問いへの答え」を見る前に、自分の言葉で答えてみましょう。推古天皇と聖徳太子
女性の天皇と、それを助けた聖徳太子
593年、推古天皇が位につきました。推古天皇は、日本で最初の女性の天皇とされています。
このとき、天皇のおいにあたる聖徳太子が政治に加わりました。太子は、天皇の政治を助ける役につきました。
『日本書紀』には、太子が政治をまかされたと書かれています。そのため、この役を「」とよぶ説明もよく見られました。いまの教科書では、「天皇の政治を助ける役」のように書くものがあります。

力の強い豪族、蘇我氏
そのころ朝廷では、の蘇我氏が大きな力をもっていました。その中心にいたのが、蘇我馬子です。
聖徳太子は、この馬子と協力して、新しい国づくりを進めました。じつは、推古天皇・聖徳太子・馬子の3人は親せきどうしです。
豪族がそれぞれの一族の都合で動くと、朝廷の命令が国中に届きません。そのころ中国では、という大きな国が全国を統一していました。日本も、天皇を中心にまとまった国にする必要があったのです。
地図を読みこんでいます…
地図は、指やマウスで動かしたり、+・−で拡大・縮小したりできます。印か、下の場所の名前をタップすると、説明が出ます。
- 奈良県。大王の宮がたびたび置かれた土地。蘇我馬子が日本で最初の本格的な寺、飛鳥寺を建てた。
- 奈良県。聖徳太子が宮をつくり、法隆寺を建てたと伝えられる土地。
- 大阪府。聖徳太子が建てたと伝えられる寺。593年に建てはじめたと『日本書紀』にある。
●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)
推古天皇のもとで、聖徳太子は蘇我馬子と協力し、天皇を中心とした国づくりを進めました。
冠位十二階―家柄より能力で
603年、聖徳太子は冠位十二階を定めました。役人の位を12の段階に分け、位によってちがう冠をあたえるしくみです。
| 位の名前(上から) | 大と小 |
|---|---|
| 徳(とく) | 大徳(だいとく)・小徳(しょうとく) |
| 仁(じん) | 大仁(だいにん)・小仁(しょうにん) |
| 礼(らい) | 大礼(だいらい)・小礼(しょうらい) |
| 信(しん) | 大信(だいしん)・小信(しょうしん) |
| 義(ぎ) | 大義(だいぎ)・小義(しょうぎ) |
| 智(ち) | 大智(だいち)・小智(しょうち) |
生まれではなく、働きで選ぶ
それまでは、どの一族に生まれたかで、朝廷での地位がほぼ決まっていました。冠位十二階では、家柄ではなく、能力や手がらで役人を取り立てました。
冠位は、その人一代かぎりで、子には受けつがれません。決まった一族が、ずっと力をもち続けるのをふせぐねらいもありました。
冠の色で位がわかるようにしたと考えられています。ただし、どの位が何色だったかは、くわしくはわかっていません。
冠位十二階は、家柄ではなく、能力や手がらで役人を取り立てるしくみです(603年)。
十七条の憲法―役人の心がまえ
604年には、十七条の憲法が定められました。いまの日本国憲法のように、国のしくみを決めたものではありません。
朝廷に仕える役人が守るべき心がまえを、17の条文にまとめたものです。とくに大事な条文を見てみましょう。
| 条 | もとの言葉(書き出し) | 意味 |
|---|---|---|
| 第1条 | 和をもって貴しとなし… | 仲よくすることを大切にし、争わないようにしなさい。 |
| 第2条 | あつく三宝を敬え… | 仏教(仏・仏の教え・僧)を深くうやまいなさい。 |
| 第3条 | 詔をうけたまわりては必ずつつしめ… | 天皇の命令を受けたら、必ず従いなさい。 |
| 第12条 | 国司・国造、百姓におさめとることなかれ… | 地方の役人は、勝手に人々から税を取ってはいけない。 |
憲法には、仏教の教えや、中国から伝わった儒教の考えが取り入れられています。豪族たちに、天皇に仕える役人として働くよう求めたのです。
冠位十二階は「だれを役人にするか」、十七条の憲法は「役人がどう働くか」を決めたものです。2つがそろって、天皇を中心に役人が働くしくみの土台ができました。
十七条の憲法は、役人の心がまえを示した決まりです(604年)。天皇の命令に従うことなどが書かれています。
遣隋使 ― 隋から学ぶ
小野妹子を隋へ送る
607年、聖徳太子は小野妹子を遣隋使として隋に送りました。隋の進んだ政治のしくみや文化を学ぶためです。
中国の歴史書『隋書』には、このとき日本の国書(国の手紙)に、次の言葉があったと書かれています。
対等なつきあいをめざした手紙
「天子」は、中国では皇帝だけが使う言葉です。日本の王も「天子」と名のり、隋と対等な立場で手紙を書きました。
隋の皇帝(煬帝)は、この手紙を見て不機嫌になったと記録されています。それでも翌年、隋は使いを日本に送り、交流は続きました。
留学生や僧も学びに行く
608年、妹子がふたたび隋へわたるとき、留学生や僧も一緒に行きました。かれらは長い年月をかけて、中国の政治のしくみや学問を学びました。
帰国した人たちは、のちのなど、日本の国づくりに大きな役割を果たします。
聖徳太子は遣隋使を送り、隋の進んだしくみや文化を学ぼうとしました。手紙では、隋と対等なつきあいをめざしました。
仏教をうやまい、法隆寺を建てる
聖徳太子は、仏教を深く信じていました。仏教の教えで人々の心をまとめ、国づくりの支えにしようとしたと考えられています。
太子は、自分の宮があった奈良の斑鳩に法隆寺を建てたと伝えられています(607年ごろ)。大阪のも、太子が建てたと伝えられる寺です。


世界でいちばん古い木造の建物
法隆寺の金堂や五重塔は、いま残っている木造の建物として、世界で最も古いものとして知られています。1993年には、日本で初めて世界遺産(文化遺産)に登録されました。
金堂には、本尊の釈迦三尊像がまつられています。太子がなくなった翌年の623年に、仏師の鞍作鳥(止利仏師)がつくりました。
聖徳太子は仏教を大切にし、法隆寺を建てたと伝えられています。法隆寺は、世界最古の木造建築として知られています。
年の流れでふり返る
- 593年推古天皇が位につき、聖徳太子が政治に加わる
- 603年 冠位十二階を定める
- 604年 十七条の憲法を定める
- 607年 小野妹子を遣隋使として送る。このころ法隆寺が建てられたと伝えられる
- 622年聖徳太子がなくなる
603年・604年・607年と、大事なしくみが続けてつくられています。何年に何をしたかと、その目的をセットで覚えましょう。
中学ではここがくわしくなる
中学の歴史でも、聖徳太子の政治は必ず習います。小学校で覚えたことに、次のような内容が加わります。
| 小学校 | 中学校で加わること | |
|---|---|---|
| 人物の名前 | 聖徳太子 | 「厩戸皇子(厩戸王)」という名前も出てくる。「聖徳太子」は、のちに広まったよび名と考えられている |
| 蘇我氏 | 聖徳太子と協力した | 渡来人と結びつき、むすめを大王のきさきにして、力をのばした |
| 仏教の文化 | 法隆寺 | 飛鳥を中心に栄えた日本で最初の仏教文化をという。中国や朝鮮半島の影響を強く受けている |
| このあと | 大化の改新 | 645年、中大兄皇子と中臣鎌足が、力が強くなりすぎた蘇我氏をたおす |
飛鳥文化の仏像には、朝鮮半島や中国の仏像とよく似たものがあります。下の写真は、朝鮮半島でつくられ、法隆寺に伝わった小さな仏像です。
ほおに手を当てて考えこむ形は、京都の広隆寺や奈良の中宮寺の像と同じです。広隆寺は、渡来人の子孫とされる秦河勝が建てたと伝えられます。

もっとくわしく
この時代の人物


重要なところ
「冠位(603)が先、憲法(604)があと」。だれを役人にするかを決めてから、役人の心がまえを示した、と順番で覚えましょう。
国民の権利や国のしくみを決めた、いまの日本国憲法とは、役わりがちがいます。
生まれで地位が決まるしくみを変えるためのものでした。
聖徳太子が自分で中国へ行ったのではありません。「隋」の字は、のちの「唐」(遣唐使)と区別して書けるようにしましょう。
教科書では、この単元名です
- 東京書籍:「天皇中心の国づくり」の授業「聖徳太子の国づくり」
- 教育出版:「大陸に学んだ国づくり」の授業「聖徳太子の理想」
- 日本文教出版:「天皇を中心とした政治」の授業「法隆寺と聖徳太子/聖徳太子の政治」
学習指導要領(平成29年告示)では
第6学年の内容(2)ア(イ):大陸文化の取り入れ、大化の改新、大仏づくりの様子から、天皇を中心にした政治のしくみが整ったことを理解する。(学習指導要領コード 0263212000000)
たしかめ問題
推古天皇のもとで、蘇我馬子と協力して政治を行った人物はだれですか。
聖徳太子603年に定められた、家柄ではなく能力で役人を取り立てるための制度を何といいますか。
冠位十二階604年に定められた、役人の心がまえを示した決まりを何といいますか。ヒント:「和をもって貴しとなし」で始まります
十七条の憲法607年に遣隋使として隋にわたった人物はだれですか。
小野妹子聖徳太子が建てたと伝えられ、世界最古の木造建築として知られる奈良の寺を何といいますか。
法隆寺聖徳太子が遣隋使を送ったのは、何のためですか。
隋の進んだ政治のしくみや文化を学び、日本の国づくりに取り入れるため。冠位十二階の冠位は、子に受けつがれましたか。
受けつがれない(その人一代かぎり)607年の遣隋使の手紙で、日本の王が自分を「天子」と書いたのは、隋とどんな関係をめざしたからですか。
対等な関係(中学)7世紀前半に飛鳥を中心に栄えた、日本で最初の仏教文化を何といいますか。
飛鳥文化聖徳太子は、天皇を中心に、きまりと能力のある役人で治める国をつくろうとしました。そのために、家柄ではなく能力で役人を取り立てる冠位十二階を定めました。十七条の憲法では、天皇の命令に従うことなど、役人の心がまえを示しました。また、遣隋使を送って中国の進んだしくみや文化を学び、仏教を国づくりの支えにしようとしました。
出典
- 『日本書紀』推古天皇元年・11年・12年・15年・16年条(冠位十二階・十七条の憲法・遣隋使)
- 『隋書』東夷伝 倭国条(「日出づる処の天子」の国書)
- 東京書籍「新編 新しい社会6」年間指導計画作成資料(天皇中心の国づくり ①聖徳太子の国づくり)
- 教育出版「小学社会6」年間指導計画・評価計画(大陸に学んだ国づくり 聖徳太子の理想)
- 文化庁 文化遺産オンライン「法隆寺地域の仏教建造物」
- 東京消防庁「文化財防火デーの由来」
- 東京国立博物館 菩薩半跏像(N-158)の作品情報(ColBase)
画像
- 菊池容斎『前賢故実』巻1「厩戸皇子」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)(国立国会図書館デジタルコレクション)
- 法隆寺金堂・五重塔 横山松三郎撮影 明治5年(1872) 重要文化財(ColBase(東京国立博物館))
- 法隆寺五重塔 横山松三郎撮影 明治5年(1872) 重要文化財(ColBase(東京国立博物館))
- 菩薩半跏像 朝鮮・三国時代 6〜7世紀 重要文化財(法隆寺献納宝物)(ColBase(東京国立博物館))
- 法隆寺金堂壁画(模本) 桜井香雲模 明治17年(1884)(ColBase(東京国立博物館))
- 菊池容斎『前賢故実』巻1「秦造河勝」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)(国立国会図書館デジタルコレクション)