教科書補助小6 社会 / 天皇中心の国づくり / 5本中の1本目

聖徳太子(しょうとくたいし)の政治(せいじ)とは?冠位十二階(かんいじゅうにかい)・十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)・遣隋使(けんずいし)・法隆寺(ほうりゅうじ)をわかりやすく

教科書では:東京書籍「天皇中心の国づくり」の「聖徳太子の国づくり」/教育出版「大陸に学んだ国づくり」の「聖徳太子の理想」/日本文教出版「天皇を中心とした政治」の「法隆寺と聖徳太子/聖徳太子の政治」

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  1. 593年(ねん)、推古天皇(すいこてんのう)のもとで、聖徳太子(しょうとくたいし)が蘇我馬子(そがのうまこ)と協力(きょうりょく)して政治(せいじ)を進(すす)めました。
  2. で能力(のうりょく)のある人(ひと)を役人(やくにん)にし、で役人(やくにん)の心(こころ)がまえを示(しめ)しました。
  3. を送(おく)って隋(ずい)から学(まな)び、仏教(ぶっきょう)を大切(たいせつ)にしてを建(た)てました。
今日(きょう)の問(と)い

聖徳太子(しょうとくたいし)は、どんな国(くに)をつくろうとしたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

推古天皇(すいこてんのう)と聖徳太子(しょうとくたいし)

女性(じょせい)の天皇(てんのう)と、それを助(たす)けた聖徳太子(しょうとくたいし)

593年(ねん)、推古天皇(すいこてんのう)が位(くらい)につきました。推古天皇(すいこてんのう)は、日本(にほん)で最初(さいしょ)の女性(じょせい)の天皇(てんのう)とされています。

このとき、天皇(てんのう)のおいにあたる聖徳太子(しょうとくたいし)が政治(せいじ)に加(くわ)わりました。太子(たいし)は、天皇(てんのう)の政治(せいじ)を助(たす)ける役(やく)につきました。

『日本(にほん)書紀(しょき)』には、太子(たいし)が政治(せいじ)をまかされたと書(か)かれています。そのため、この役(やく)を「」とよぶ説明(せつめい)もよく見(み)られました。いまの教科書(きょうかしょ)では、「天皇(てんのう)の政治(せいじ)を助(たす)ける役(やく)」のように書(か)くものがあります。

頭に冠をかぶり、ひげをはやし、うずまきもようの長い着物を着た男性が、手に細長い板(笏)を持って立っている線画
江戸時代(えどじだい)の終(お)わりに、昔(むかし)の人物(じんぶつ)を想像(そうぞう)してえがいた本(ほん)の聖徳太子(しょうとくたいし)。どんな顔(かお)だったかは、じつはよくわかっていません。菊池容斎『前賢故実』巻1「厩戸皇子」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

力(ちから)の強(つよ)い豪族(ごうぞく)、蘇我氏(そがし)

そのころ朝廷(ちょうてい)では、の蘇我氏(そがし)が大(おお)きな力(ちから)をもっていました。その中心(ちゅうしん)にいたのが、蘇我馬子(そがのうまこ)です。

聖徳太子(しょうとくたいし)は、この馬子(うまこ)と協力(きょうりょく)して、新(あたら)しい国(くに)づくりを進(すす)めました。じつは、推古天皇(すいこてんのう)・聖徳太子(しょうとくたいし)・馬子(うまこ)の3人(にん)は親(しん)せきどうしです。

蘇我氏(そがし)はなぜ強(つよ)かったのか(家系図(かけいず)つき)

なぜ?新(あたら)しい国(くに)づくりが必要(ひつよう)だったの?
豪族(ごうぞく)がそれぞれの一族(いちぞく)の都合(つごう)で動(うご)くと、朝廷(ちょうてい)の命令(めいれい)が国中(くにちゅう)に届(とど)きません。そのころ中国(ちゅうごく)では、という大(おお)きな国(くに)が全国(ぜんこく)を統一(とういつ)していました。日本(にほん)も、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)にまとまった国(くに)にする必要(ひつよう)があったのです。
聖徳太子(しょうとくたいし)のころの奈良(なら)と大阪(おおさか)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 奈良県(ならけん)。大王(おおきみ)の宮(みや)がたびたび置(お)かれた土地(とち)。蘇我馬子(そがのうまこ)が日本(にほん)で最初(さいしょ)の本格的(ほんかくてき)な寺(てら)、飛鳥寺(あすかでら)を建(た)てた。
  • 奈良県(ならけん)。聖徳太子(しょうとくたいし)が宮(みや)をつくり、法隆寺(ほうりゅうじ)を建(た)てたと伝(つた)えられる土地(とち)。
  • 大阪府(おおさかふ)。聖徳太子(しょうとくたいし)が建(た)てたと伝(つた)えられる寺(てら)。593年(ねん)に建(た)てはじめたと『日本(にほん)書紀(しょき)』にある。

●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

推古天皇(すいこてんのう)のもとで、聖徳太子(しょうとくたいし)は蘇我馬子(そがのうまこ)と協力(きょうりょく)し、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とした国(くに)づくりを進(すす)めました。

冠位十二階(かんいじゅうにかい)―家柄(いえがら)より能力(のうりょく)で

603年(ねん)、聖徳太子(しょうとくたいし)は冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定(さだ)めました。役人(やくにん)の位(くらい)を12の段階(だんかい)に分(わ)け、位(くらい)によってちがう冠(かんむり)をあたえるしくみです。

位(くらい)の名前(なまえ)(上(うえ)から)大と小
徳(とく)大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)
仁(じん)大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)
礼(らい)大礼(だいらい)・小礼(しょうらい)
信(しん)大信(だいしん)・小信(しょうしん)
義(ぎ)大義(だいぎ)・小義(しょうぎ)
智(ち)大智(だいち)・小智(しょうち)

生(う)まれではなく、働(はたら)きで選(えら)ぶ

それまでは、どの一族(いちぞく)に生(う)まれたかで、朝廷(ちょうてい)での地位(ちい)がほぼ決(き)まっていました。冠位十二階(かんいじゅうにかい)では、家柄(いえがら)ではなく、能力(のうりょく)や手(て)がらで役人(やくにん)を取(と)り立(た)てました。

冠位(かんい)は、その人一代(ひといちだい)かぎりで、子(こ)には受(う)けつがれません。決(き)まった一族(いちぞく)が、ずっと力(ちから)をもち続(つづ)けるのをふせぐねらいもありました。

冠(かんむり)の色(いろ)で位(くらい)がわかるようにしたと考(かんが)えられています。ただし、どの位(くらい)が何色(なにいろ)だったかは、くわしくはわかっていません。

たとえるなら部活(ぶかつ)のキャプテンを、学年(がくねん)ではなく、練習(れんしゅう)でがんばってうまくなった人(ひと)から選(えら)ぶようなものです。だれが上(うえ)の位(くらい)かが目(め)で見(み)てわかり、みんなのやる気(き)も高(たか)まります。

冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、家柄(いえがら)ではなく、能力(のうりょく)や手(て)がらで役人(やくにん)を取(と)り立(た)てるしくみです(603年(ねん))。

十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)―役人(やくにん)の心(こころ)がまえ

604年(ねん)には、十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)が定(さだ)められました。いまの日本国憲法(にほんこくけんぽう)のように、国(くに)のしくみを決(き)めたものではありません。

朝廷(ちょうてい)に仕(つか)える役人(やくにん)が守(まも)るべき心(こころ)がまえを、17の条文(じょうぶん)にまとめたものです。とくに大事(だいじ)な条文(じょうぶん)を見(み)てみましょう。

条(じょう)もとの言葉(ことば)(書(か)き出(だ)し)意味(いみ)
第(だい)1条(じょう)和(わ)をもって貴(とうと)しとなし…仲(なか)よくすることを大切(たいせつ)にし、争(あらそ)わないようにしなさい。
第(だい)2条(じょう)あつく三宝(さんぽう)を敬(うやま)え…仏教(ぶっきょう)(仏(ほとけ)・仏(ほとけ)の教(おし)え・僧(そう))を深(ふか)くうやまいなさい。
第(だい)3条(じょう)詔(みことのり)をうけたまわりては必(かなら)ずつつしめ…天皇(てんのう)の命令(めいれい)を受(う)けたら、必(かなら)ず従(したが)いなさい。
第(だい)12条(じょう)国司(こくし)・国造(こくぞう)、百姓(ひゃくしょう)におさめとることなかれ…地方(ちほう)の役人(やくにん)は、勝手(かって)に人々(ひとびと)から税(ぜい)を取(と)ってはいけない。

憲法(けんぽう)には、仏教(ぶっきょう)の教(おし)えや、中国(ちゅうごく)から伝(つた)わった儒教(じゅきょう)の考(かんが)えが取(と)り入(い)れられています。豪族(ごうぞく)たちに、天皇(てんのう)に仕(つか)える役人(やくにん)として働(はたら)くよう求(もと)めたのです。

十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)(17条(じょう)すべてと、その意味(いみ))

なぜ? 冠位十二階(かんいじゅうにかい)とセットで考(かんが)えるとわかりやすいの?
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は「だれを役人(やくにん)にするか」、十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)は「役人(やくにん)がどう働(はたら)くか」を決(き)めたものです。2つがそろって、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)に役人(やくにん)が働(はたら)くしくみの土台(どだい)ができました。

十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)は、役人(やくにん)の心(こころ)がまえを示(しめ)した決(き)まりです(604年(ねん))。天皇(てんのう)の命令(めいれい)に従(したが)うことなどが書(か)かれています。

遣隋使(けんずいし) ― 隋(ずい)から学(まな)ぶ

小野妹子(おののいもこ)を隋(ずい)へ送(おく)る

607年(ねん)、聖徳太子(しょうとくたいし)は小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として隋(ずい)に送(おく)りました。隋(ずい)の進(すす)んだ政治(せいじ)のしくみや文化(ぶんか)を学(まな)ぶためです。

中国(ちゅうごく)の歴史書(れきししょ)『隋書(ずいしょ)』には、このとき日本(にほん)の国書(こくしょ)(国(くに)の手紙(てがみ))に、次(つぎ)の言葉(ことば)があったと書(か)かれています。

もとの言葉(ことば)
日(ひ)出(い)づる処(ところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日没(にちぼつ)する処(ところ)の天子(てんし)に致(いた)す。つつがなきや…
意味(いみ)
日(ひ)がのぼる国(くに)(日本(にほん))の天子(てんし)が、日(ひ)がしずむ国(くに)(隋(ずい))の天子(てんし)に手紙(てがみ)を送(おく)ります。お元気(げんき)ですか…

対等(たいとう)なつきあいをめざした手紙(てがみ)

「天子(てんし)」は、中国(ちゅうごく)では皇帝(こうてい)だけが使(つか)う言葉(ことば)です。日本(にほん)の王(おう)も「天子(てんし)」と名(な)のり、隋(ずい)と対等(たいとう)な立場(たちば)で手紙(てがみ)を書(か)きました。

隋(ずい)の皇帝(こうてい)(煬帝(ようだい))は、この手紙(てがみ)を見(み)て不機嫌(ふきげん)になったと記録(きろく)されています。それでも翌年(よくねん)、隋(ずい)は使(つか)いを日本(にほん)に送(おく)り、交流(こうりゅう)は続(つづ)きました。

留学生(りゅうがくせい)や僧(そう)も学(まな)びに行(い)く

608年(ねん)、妹子(いもこ)がふたたび隋(ずい)へわたるとき、留学生(りゅうがくせい)や僧(そう)も一緒(いっしょ)に行(い)きました。かれらは長(なが)い年月(としつき)をかけて、中国(ちゅうごく)の政治(せいじ)のしくみや学問(がくもん)を学(まな)びました。

帰国(きこく)した人(ひと)たちは、のちのなど、日本(にほん)の国(くに)づくりに大(おお)きな役割(やくわり)を果(は)たします。

聖徳太子(しょうとくたいし)は遣隋使(けんずいし)を送(おく)り、隋(ずい)の進(すす)んだしくみや文化(ぶんか)を学(まな)ぼうとしました。手紙(てがみ)では、隋(ずい)と対等(たいとう)なつきあいをめざしました。

仏教(ぶっきょう)をうやまい、法隆寺(ほうりゅうじ)を建(た)てる

聖徳太子(しょうとくたいし)は、仏教(ぶっきょう)を深(ふか)く信(しん)じていました。仏教(ぶっきょう)の教(おし)えで人々(ひとびと)の心(こころ)をまとめ、国(くに)づくりの支(ささ)えにしようとしたと考(かんが)えられています。

太子(たいし)は、自分(じぶん)の宮(みや)があった奈良(なら)の斑鳩(いかるが)に法隆寺(ほうりゅうじ)を建(た)てたと伝(つた)えられています(607年(ねん)ごろ)。大阪(おおさか)のも、太子(たいし)が建(た)てたと伝(つた)えられる寺(てら)です。

松の木の向こうに、5段の屋根が重なる塔と、大きな屋根の建物が並んで建っている古い写真
法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(ごじゅうとう)(左(ひだり))と金堂(こんどう)(右(みぎ))。明治(めいじ)5年(ねん)(1872)に写(うつ)された写真(しゃしん)です。法隆寺金堂・五重塔 横山松三郎撮影 明治5年(1872) 重要文化財出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)
5段の屋根が重なり、てっぺんに細長いかざりのある木造の塔を、正面から写した古い写真。手前に人が立っている
法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔(ごじゅうとう)。手前(てまえ)に立(た)つ人(ひと)とくらべると、大(おお)きさがわかります。法隆寺五重塔 横山松三郎撮影 明治5年(1872) 重要文化財出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

世界(せかい)でいちばん古(ふる)い木造(もくぞう)の建物(たてもの)

法隆寺(ほうりゅうじ)の金堂(こんどう)や五重塔(ごじゅうとう)は、いま残(のこ)っている木造(もくぞう)の建物(たてもの)として、世界(せかい)で最(もっと)も古(ふる)いものとして知(し)られています。1993年(ねん)には、日本(にほん)で初(はじ)めて世界遺産(せかいいさん)(文化遺産(ぶんかいさん))に登録(とうろく)されました。

金堂(こんどう)には、本尊(ほんぞん)の釈迦三尊像(しゃかさんそんぞう)がまつられています。太子(たいし)がなくなった翌年(よくねん)の623年(ねん)に、仏師(ぶっし)の鞍作鳥(くらつくりのとり)(止利仏師(とりぶっし))がつくりました。

聖徳太子(しょうとくたいし)は仏教(ぶっきょう)を大切(たいせつ)にし、法隆寺(ほうりゅうじ)を建(た)てたと伝(つた)えられています。法隆寺(ほうりゅうじ)は、世界最古(せかいさいこ)の木造建築(もくぞうけんちく)として知(し)られています。

年(ねん)の流(なが)れでふり返(かえ)る

  1. 593年(ねん)推古天皇(すいこてんのう)が位(くらい)につき、聖徳太子(しょうとくたいし)が政治(せいじ)に加(くわ)わる
  2. 603年(ねん) 冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定(さだ)める
  3. 604年(ねん) 十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)を定(さだ)める
  4. 607年(ねん) 小野妹子(おののいもこ)を遣隋使(けんずいし)として送(おく)る。このころ法隆寺(ほうりゅうじ)が建(た)てられたと伝(つた)えられる
  5. 622年(ねん)聖徳太子(しょうとくたいし)がなくなる

603年(ねん)・604年(ねん)・607年(ねん)と、大事(だいじ)なしくみが続(つづ)けてつくられています。何年(なんねん)に何(なん)をしたかと、その目的(もくてき)をセットで覚(おぼ)えましょう。

中学(ちゅうがく)ではここがくわしくなる

中学(ちゅうがく)の歴史(れきし)でも、聖徳太子(しょうとくたいし)の政治(せいじ)は必(かなら)ず習(なら)います。小学校(しょうがっこう)で覚(おぼ)えたことに、次(つぎ)のような内容(ないよう)が加(くわ)わります。

小学校(しょうがっこう)中学校(ちゅうがっこう)で加(くわ)わること
人物(じんぶつ)の名前(なまえ)聖徳太子(しょうとくたいし)「厩戸皇子(うまやどのおうじ)(厩戸王(うまやとおう))」という名前(なまえ)も出(で)てくる。「聖徳太子(しょうとくたいし)」は、のちに広(ひろ)まったよび名(な)と考(かんが)えられている
蘇我氏(そがし)聖徳太子(しょうとくたいし)と協力(きょうりょく)した渡来人(とらいじん)と結(むす)びつき、むすめを大王(おおきみ)のきさきにして、力(ちから)をのばした
仏教(ぶっきょう)の文化(ぶんか)法隆寺(ほうりゅうじ)飛鳥(あすか)を中心(ちゅうしん)に栄(さか)えた日本(にほん)で最初(さいしょ)の仏教文化(ぶっきょうぶんか)をという。中国(ちゅうごく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の影響(えいきょう)を強(つよ)く受(う)けている
このあと大化(たいか)の改新(かいしん)645年(ねん)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、力(ちから)が強(つよ)くなりすぎた蘇我氏(そがし)をたおす

飛鳥文化(あすかぶんか)の仏像(ぶつぞう)には、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国(ちゅうごく)の仏像(ぶつぞう)とよく似(に)たものがあります。下(した)の写真(しゃしん)は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でつくられ、法隆寺(ほうりゅうじ)に伝(つた)わった小(ちい)さな仏像(ぶつぞう)です。

ほおに手(て)を当(あ)てて考(かんが)えこむ形(かたち)は、京都(きょうと)の広隆寺(こうりゅうじ)や奈良(なら)の中宮寺(ちゅうぐうじ)の像(ぞう)と同(おな)じです。広隆寺(こうりゅうじ)は、渡来人(とらいじん)の子孫(しそん)とされる秦河勝(はたのかわかつ)が建(た)てたと伝(つた)えられます。

金色の小さな仏像。台にすわり、右足を左ひざにのせ、右手の指をほおに当てて考えこんでいる
朝鮮半島(ちょうせんはんとう)でつくられ、法隆寺(ほうりゅうじ)に伝(つた)わった菩薩半跏像(ぼさつはんかぞう)。高(たか)さは約(やく)20cmです。片足(かたあし)をひざにのせ、ほおに手(て)を当(あ)てる形(かたち)は、広隆寺(こうりゅうじ)や中宮寺(ちゅうぐうじ)の像(ぞう)と同(おな)じです。菩薩半跏像 朝鮮・三国時代 6〜7世紀 重要文化財(法隆寺献納宝物)出典:ColBase(東京国立博物館)(部分)

もっとくわしく

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

冠をかぶり、ひげをはやした男性が、細長い板を持っている線画
聖徳太子(しょうとくたいし)
推古天皇(すいこてんのう)のおい。蘇我馬子(そがのうまこ)と協力(きょうりょく)して、冠位十二階(かんいじゅうにかい)や十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)を定(さだ)め、遣隋使(けんずいし)を送(おく)った。法隆寺(ほうりゅうじ)を建(た)てたと伝(つた)えられる。
菊池容斎『前賢故実』巻1「厩戸皇子」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
推古天皇(すいこてんのう)
日本(にほん)で最初(さいしょ)の女性(じょせい)の天皇(てんのう)とされる。聖徳太子(しょうとくたいし)と蘇我馬子(そがのうまこ)に助(たす)けられて政治(せいじ)を行(おこな)った。
蘇我馬子(そがのうまこ)
朝廷(ちょうてい)で大(おお)きな力(ちから)をもった蘇我氏(そがし)の中心人物(ちゅうしんじんぶつ)。仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れ、飛鳥寺(あすかでら)を建(た)てた。聖徳太子(しょうとくたいし)と協力(きょうりょく)した。
小野妹子(おののいもこ)
607年(ねん)に遣隋使(けんずいし)として隋(ずい)にわたり、国書(こくしょ)を届(とど)けた。翌年(よくねん)、隋(ずい)の使(つか)いと一緒(いっしょ)に帰国(きこく)した。
頭に布の帽子をかぶり、ひげをはやした男性が、横を向いてすわっている線画
秦河勝(はたのかわかつ)
渡来人(とらいじん)の子孫(しそん)とされる豪族(ごうぞく)。聖徳太子(しょうとくたいし)に仕(つか)え、太子(たいし)からさずかった仏像(ぶつぞう)をまつるために広隆寺(こうりゅうじ)を建(た)てたと伝(つた)えられる。
菊池容斎『前賢故実』巻1「秦造河勝」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

重要(じゅうよう)なところ

冠位十二階(かんいじゅうにかい)は603年(ねん)、十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)は604年(ねん)。
「冠位(かんい)(603)が先(さき)、憲法(けんぽう)(604)があと」。だれを役人(やくにん)にするかを決(き)めてから、役人(やくにん)の心(こころ)がまえを示(しめ)した、と順番(じゅんばん)で覚(おぼ)えましょう。
十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)は、役人(やくにん)の心(こころ)がまえを示(しめ)したもの。
国民(こくみん)の権利(けんり)や国(くに)のしくみを決(き)めた、いまの日本国憲法(にほんこくけんぽう)とは、役(やく)わりがちがいます。
冠位十二階(かんいじゅうにかい)の冠位(かんい)は一代(いちだい)かぎり。子(こ)には受(う)けつがれない。
生(う)まれで地位(ちい)が決(き)まるしくみを変(か)えるためのものでした。
遣隋使(けんずいし)として隋(ずい)にわたったのは小野妹子(おののいもこ)。
聖徳太子(しょうとくたいし)が自分(じぶん)で中国(ちゅうごく)へ行(い)ったのではありません。「隋(ずい)」の字(じ)は、のちの「唐(とう)」(遣唐使(けんとうし))と区別(くべつ)して書(か)けるようにしましょう。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「天皇中心の国づくり」の授業「聖徳太子の国づくり」
  • 教育出版:「大陸に学んだ国づくり」の授業「聖徳太子の理想」
  • 日本文教出版:「天皇を中心とした政治」の授業「法隆寺と聖徳太子/聖徳太子の政治」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(イ):大陸文化(たいりくぶんか)の取(と)り入(い)れ、大化(たいか)の改新(かいしん)、大仏(だいぶつ)づくりの様子(ようす)から、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)にした政治(せいじ)のしくみが整(ととの)ったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263212000000)

「天皇中心(てんのうちゅうしん)の国(くに)づくり」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

推古天皇(すいこてんのう)のもとで、蘇我馬子(そがのうまこ)と協力(きょうりょく)して政治(せいじ)を行(おこな)った人物(じんぶつ)はだれですか。聖徳太子(しょうとくたいし)
603年(ねん)に定(さだ)められた、家柄(いえがら)ではなく能力(のうりょく)で役人(やくにん)を取(と)り立(た)てるための制度(せいど)を何(なん)といいますか。冠位十二階(かんいじゅうにかい)
604年(ねん)に定(さだ)められた、役人(やくにん)の心(こころ)がまえを示(しめ)した決(き)まりを何(なん)といいますか。ヒント:「和(わ)をもって貴(とうと)しとなし」で始(はじ)まります十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)
607年(ねん)に遣隋使(けんずいし)として隋(ずい)にわたった人物(じんぶつ)はだれですか。小野妹子(おののいもこ)
聖徳太子(しょうとくたいし)が建(た)てたと伝(つた)えられ、世界最古(せかいさいこ)の木造建築(もくぞうけんちく)として知(し)られる奈良(なら)の寺(てら)を何(なん)といいますか。法隆寺(ほうりゅうじ)
聖徳太子(しょうとくたいし)が遣隋使(けんずいし)を送(おく)ったのは、何(なん)のためですか。隋(ずい)の進(すす)んだ政治(せいじ)のしくみや文化(ぶんか)を学(まな)び、日本(にほん)の国(くに)づくりに取(と)り入(い)れるため。
冠位十二階(かんいじゅうにかい)の冠位(かんい)は、子(こ)に受(う)けつがれましたか。受(う)けつがれない(その人一代(ひといちだい)かぎり)
607年(ねん)の遣隋使(けんずいし)の手紙(てがみ)で、日本(にほん)の王(おう)が自分(じぶん)を「天子(てんし)」と書(か)いたのは、隋(ずい)とどんな関係(かんけい)をめざしたからですか。対等(たいとう)な関係(かんけい)
(中学(ちゅうがく))7世紀前半(せいきぜんはん)に飛鳥(あすか)を中心(ちゅうしん)に栄(さか)えた、日本(にほん)で最初(さいしょ)の仏教文化(ぶっきょうぶんか)を何(なん)といいますか。飛鳥文化(あすかぶんか)
問(と)いへの答(こた)え

聖徳太子(しょうとくたいし)は、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)に、きまりと能力(のうりょく)のある役人(やくにん)で治(おさ)める国(くに)をつくろうとしました。そのために、家柄(いえがら)ではなく能力(のうりょく)で役人(やくにん)を取(と)り立(た)てる冠位十二階(かんいじゅうにかい)を定(さだ)めました。十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)では、天皇(てんのう)の命令(めいれい)に従(したが)うことなど、役人(やくにん)の心(こころ)がまえを示(しめ)しました。また、遣隋使(けんずいし)を送(おく)って中国(ちゅうごく)の進(すす)んだしくみや文化(ぶんか)を学(まな)び、仏教(ぶっきょう)を国(くに)づくりの支(ささ)えにしようとしました。

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