教科書補助小6 社会 / 天皇中心の国づくり / もっとくわしく

蘇我氏(そがし)はなぜ強(つよ)かったのか?氏(うじ)と姓(かばね)・仏教(ぶっきょう)の伝来(でんらい)・物部氏(もののべし)との争(あらそ)い・天皇家(てんのうか)との親(しん)せき関係(かんけい)を家系図(かけいず)でわかりやすく

教科書では:東京書籍「天皇中心の国づくり」の「聖徳太子の国づくり」/教育出版「大陸に学んだ国づくり」の「聖徳太子の理想」/日本文教出版「天皇を中心とした政治」の「法隆寺と聖徳太子/聖徳太子の政治」

更新(こうしん)

教科書(きょうかしょ)の範囲(はんい)をこえる内容(ないよう)授業(じゅぎょう)で習(なら)う「聖徳太子(しょうとくたいし)の政治(せいじ)とは」を、もっとくわしく説明(せつめい)するページです。

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  1. 豪族(ごうぞく)はという一族(いちぞく)をつくり、大王(おおきみ)からをもらって朝廷(ちょうてい)の仕事(しごと)を受(う)けもちました。
  2. 仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れるかどうかで、蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)が争(あらそ)い、587年(ねん)に蘇我氏(そがし)が勝(か)ちました。
  3. 蘇我氏(そがし)は、むすめを大王(おおきみ)のきさきにして天皇家(てんのうか)と親(しん)せきになり、力(ちから)を強(つよ)めました。
今日(きょう)の問(と)い

蘇我氏(そがし)は、なぜ天皇(てんのう)をしのぐほどの力(ちから)をもてたのだろう。

読(よ)み終(お)えたら、下(した)の「問(と)いへの答(こた)え」を見(み)る前(まえ)に、自分(じぶん)の言葉(ことば)で答(こた)えてみましょう。

豪族(ごうぞく)と「氏(うじ)」「姓(かばね)」

一族(いちぞく)のまとまり「氏(うじ)」

6世紀(せいき)の日本(にほん)では、(のちの天皇(てんのう))を中心(ちゅうしん)に、各地(かくち)のが集(あつ)まって大和朝廷(やまとちょうてい)をつくっていました。

豪族(ごうぞく)は、同(おな)じ祖先(そせん)をもつと考(かんが)える人々(ひとびと)を中心(ちゅうしん)に、氏(うじ)という一族(いちぞく)のまとまりをつくっていました。蘇我氏(そがし)・物部氏(もののべし)・大伴氏(おおともし)・中臣氏(なかとみし)などです。

いまの名字(みょうじ)に少(すこ)し似(に)ていますが、ただの名前(なまえ)ではありません。一族(いちぞく)で、朝廷(ちょうてい)の仕事(しごと)を受(う)けもつまとまりでした。

大王(おおきみ)があたえた「姓(かばね)」

大王(おおきみ)は、それぞれの氏(うじ)に、家柄(いえがら)や役目(やくめ)をあらわす姓(かばね)をあたえました。蘇我氏(そがし)は「臣(おみ)」、物部氏(もののべし)や大伴氏(おおともし)は「連(むらじ)」という姓(かばね)でした。

臣(おみ)の中(なか)で最(もっと)も力(ちから)のある人(ひと)は「大臣(おおおみ)」、連(むらじ)の中(なか)で最(もっと)も力(ちから)のある人(ひと)は「大連(おおむらじ)」とよばれました。かれらは大王(おおきみ)のそばで政治(せいじ)を動(うご)かしました。

ことばどんなもの例(れい)
氏(うじ)豪族(ごうぞく)の一族(いちぞく)のまとまり蘇我氏(そがし)・物部氏(もののべし)・大伴氏(おおともし)・中臣氏(なかとみし)
姓(かばね)大王(おおきみ)があたえた、家柄(いえがら)や役目(やくめ)をあらわす名(な)臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたい)など
大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)臣(おみ)・連(むらじ)の中(なか)で、とくに力(ちから)のある人(ひと)がついた地位(ちい)蘇我馬子(そがのうまこ)は大臣(おおおみ)、物部守屋(もののべのもりや)は大連(おおむらじ)

姓(かばね)は、親(おや)から子(こ)へ受(う)けつがれました。どの氏(うじ)に生(う)まれたかで、朝廷(ちょうてい)での地位(ちい)がほぼ決(き)まっていたのです。

豪族(ごうぞく)は「氏(うじ)」という一族(いちぞく)をつくり、大王(おおきみ)から「姓(かばね)」をもらって朝廷(ちょうてい)で働(はたら)きました。蘇我氏(そがし)は「大臣(おおおみ)」として大王(おおきみ)のそばにいました。

仏教(ぶっきょう)の伝来(でんらい)と、物部氏(もののべし)との争(あらそ)い

百済(くだら)から仏教(ぶっきょう)が伝(つた)わる

6世紀(せいき)のなかごろ、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の百済(くだら)の王(おう)から、大王(おおきみ)に仏像(ぶつぞう)やお経(きょう)がおくられました。これが、仏教(ぶっきょう)が国(くに)として正式(せいしき)に伝(つた)わった仏教(ぶっきょう)の伝来(でんらい)です。

その年(とし)は538年(ねん)とされることが多(おお)く、『日本(にほん)書紀(しょき)』には552年(ねん)と書(か)かれています。

受(う)け入(い)れるか、反対(はんたい)するか

朝廷(ちょうてい)では、仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れるかどうかで意見(いけん)が分(わ)かれました。渡来人(とらいじん)と結(むす)びついていた蘇我氏(そがし)は、受(う)け入(い)れようとしました。

物部氏(もののべし)は、中臣氏(なかとみし)とともに反対(はんたい)しました。「外国(がいこく)の神(かみ)をまつると、日本(にほん)の神(かみ)がいかる」という考(かんが)えです。この対立(たいりつ)は、親(おや)の代(だい)から子(こ)の代(だい)まで続(つづ)きました。

587年(ねん)の戦(たたか)いと四天王寺(してんのうじ)

587年(ねん)、ついに蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が戦(たたか)いになりました。『日本(にほん)書紀(しょき)』によると、少年(しょうねん)だった聖徳太子(しょうとくたいし)も、馬子(うまこ)の側(がわ)で加(くわ)わりました。

太子(たいし)は、仏教(ぶっきょう)を守(まも)る四天王(してんのう)の像(ぞう)をつくり、「勝(か)ったら寺(てら)を建(た)てます」と祈(いの)ったといいます。戦(たたか)いは馬子(うまこ)の側(がわ)が勝(か)ち、物部氏(もののべし)の力(ちから)はおとろえました。

このやくそくから建(た)てられたと伝(つた)えられるのが、大阪(おおさか)のです。『日本(にほん)書紀(しょき)』には、593年(ねん)に建(た)てはじめたとあります。

馬子(うまこ)も、飛鳥(あすか)に日本(にほん)で最初(さいしょ)の本格的(ほんかくてき)な寺(てら)、を建(た)てました。

飛鳥寺(あすかでら)・法隆寺(ほうりゅうじ)・四天王寺(してんのうじ)

地図(ちず)を読(よ)みこんでいます…

地図(ちず)は、指(ゆび)やマウスで動(うご)かしたり、+・−で拡大(かくだい)・縮小(しゅくしょう)したりできます。印(しるし)か、下(した)の場所(ばしょ)の名前(なまえ)をタップすると、説明(せつめい)が出(で)ます。

  • 奈良県(ならけん)。大王(おおきみ)の宮(みや)がたびたび置(お)かれた土地(とち)。蘇我馬子(そがのうまこ)が日本(にほん)で最初(さいしょ)の本格的(ほんかくてき)な寺(てら)、飛鳥寺(あすかでら)を建(た)てた。
  • 奈良県(ならけん)。聖徳太子(しょうとくたいし)が宮(みや)をつくり、法隆寺(ほうりゅうじ)を建(た)てたと伝(つた)えられる土地(とち)。
  • 大阪府(おおさかふ)。聖徳太子(しょうとくたいし)が建(た)てたと伝(つた)えられる寺(てら)。593年(ねん)に建(た)てはじめたと『日本(にほん)書紀(しょき)』にある。

●緑は都や拠点です。印の位置はおおよそです。地図:地理院タイル(国土地理院)

なぜ?蘇我氏(そがし)は仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れようとしたの?
蘇我氏(そがし)は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)や中国(ちゅうごく)から来(き)たを味方(みかた)にしていました。寺(てら)を建(た)てるには、建物(たてもの)・瓦(かわら)・仏像(ぶつぞう)をつくる渡来人(とらいじん)の技術(ぎじゅつ)が欠(か)かせません。仏教(ぶっきょう)を広(ひろ)めることは、蘇我氏(そがし)の力(ちから)を強(つよ)めることにもつながったのです。

仏教(ぶっきょう)の伝来(でんらい)をきっかけに蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)が対立(たいりつ)し、587年(ねん)に蘇我氏(そがし)が勝(か)ちました。蘇我氏(そがし)は、朝廷(ちょうてい)でいちばんの力(ちから)をもつようになりました。

天皇家(てんのうか)と親(しん)せきになった蘇我氏(そがし)

家系図(かけいず)で見(み)る3人(にん)の関係(かんけい)

蘇我氏(そがし)は、むすめを大王(おおきみ)のきさきにしました。そして、生(う)まれた子(こ)を次(つぎ)の大王(おおきみ)にすることで、天皇家(てんのうか)と深(ふか)くつながりました。

下(した)の図(ず)を見(み)ると、蘇我馬子(そがのうまこ)の2人(ふたり)の姉妹(しまい)が欽明天皇(きんめいてんのう)のきさきになっています。その子(こ)や孫(まご)が、推古天皇(すいこてんのう)と聖徳太子(しょうとくたいし)です。

蘇我氏と天皇家の家系図。蘇我稲目の子が、堅塩媛・小姉君・蘇我馬子。欽明天皇と堅塩媛の子が推古天皇と用明天皇。欽明天皇と小姉君の子が穴穂部間人皇女と崇峻天皇。用明天皇と穴穂部間人皇女の子が聖徳太子。 そがのいなめ蘇我稲目 きたしひめ堅塩媛 きんめいてんのう欽明天皇 おあねのきみ小姉君 そがのうまこ蘇我馬子推古天皇のおじ すいこてんのう推古天皇聖徳太子のおば ようめいてんのう用明天皇 あなほべのはしひとのひめみこ穴穂部間人皇女 すしゅんてんのう崇峻天皇 しょうとくたいし聖徳太子父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女 二重線は夫婦、一本線は親子

おば・おい・大(おお)おじ

推古天皇(すいこてんのう)は、聖徳太子(しょうとくたいし)の父(ちち)(用明天皇(ようめいてんのう))の妹(いもうと)です。つまり、太子(たいし)のおばにあたります。

蘇我馬子(そがのうまこ)は、推古天皇(すいこてんのう)の母(はは)(堅塩媛(きたしひめ))の兄弟(きょうだい)です。つまり、推古天皇(すいこてんのう)のおじにあたります。

聖徳太子(しょうとくたいし)から見(み)ると、父(ちち)の母(はは)も母(はは)の母(はは)も、馬子(うまこ)の姉妹(しまい)です。馬子(うまこ)は、太子(たいし)の大(おお)おじにあたります。さらに太子(たいし)は、馬子(うまこ)のむすめ(刀自古郎女(とじこのいらつめ))をきさきにむかえていました。

天皇(てんのう)をしのぐほどの力(ちから)

推古天皇(すいこてんのう)の前(まえ)の崇峻天皇(すしゅんてんのう)は、馬子(うまこ)と対立(たいりつ)しました。そして592年(ねん)、馬子(うまこ)の命令(めいれい)で殺(ころ)されています。

また、603年(ねん)の冠位十二階(かんいじゅうにかい)でも、大臣(おおおみ)の馬子(うまこ)には冠位(かんい)があたえられていません。蘇我氏(そがし)は、冠位(かんい)のしくみの外(そと)にいる、別格(べっかく)の存在(そんざい)だったのです。

蘇我氏(そがし)は、むすめを大王(おおきみ)のきさきにして天皇家(てんのうか)と親(しん)せきになり、天皇(てんのう)をしのぐほどの力(ちから)をもちました。推古天皇(すいこてんのう)も聖徳太子(しょうとくたいし)も、蘇我氏(そがし)の血(ち)を引(ひ)いていました。

このあと、蘇我氏(そがし)はどうなったか

聖徳太子(しょうとくたいし)がなくなったあとも、蘇我氏(そがし)の力(ちから)はさらに強(つよ)くなりました。馬子(うまこ)の子(こ)の蝦夷(えみし)、孫(まご)の入鹿(いるか)の時代(じだい)です。

645年(ねん)、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、蘇我入鹿(そがのいるか)をたおしました。ここから、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)とした国(くに)づくりが進(すす)められます。これがです。

強(つよ)くなりすぎた蘇我氏(そがし)は、645年(ねん)に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)にたおされ、大化(たいか)の改新(かいしん)が始(はじ)まりました。

この時代(じだい)の人物(じんぶつ)

蘇我馬子(そがのうまこ)
大臣(おおおみ)として朝廷(ちょうてい)で大(おお)きな力(ちから)をもった。仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れ、飛鳥寺(あすかでら)を建(た)てた。物部守屋(もののべのもりや)をたおし、聖徳太子(しょうとくたいし)と協力(きょうりょく)した。推古天皇(すいこてんのう)のおじ。
毛皮のような着物を着て、腰に刀をさした男性の後ろ姿の線画
物部守屋(もののべのもりや)
大連(おおむらじ)として力(ちから)をもった物部氏(もののべし)の中心人物(ちゅうしんじんぶつ)。仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れることに反対(はんたい)し、587年(ねん)に蘇我馬子(そがのうまこ)と戦(たたか)って敗(やぶ)れた。
菊池容斎『前賢故実』巻1「物部弓削守屋」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)
推古天皇(すいこてんのう)
日本(にほん)で最初(さいしょ)の女性(じょせい)の天皇(てんのう)とされる。聖徳太子(しょうとくたいし)のおばで、蘇我馬子(そがのうまこ)のめい。
冠をかぶり、ひげをはやした男性が、細長い板を持っている線画
聖徳太子(しょうとくたいし)
用明天皇(ようめいてんのう)の子(こ)。母(はは)も父(ちち)の母(はは)も蘇我氏(そがし)の出身(しゅっしん)。587年(ねん)の戦(たたか)いでは馬子(うまこ)の側(がわ)に加(くわ)わった。
菊池容斎『前賢故実』巻1「厩戸皇子」(江戸時代の終わりごろに想像してえがいた絵)。出典:国立国会図書館デジタルコレクション(部分)

重要(じゅうよう)なところ

仏教(ぶっきょう)が伝(つた)わったのは538年(ねん)(552年(ねん)とする記録(きろく)もある)。百済(くだら)からおくられた。
『日本(にほん)書紀(しょき)』は552年(ねん)、寺(てら)に伝(つた)わる記録(きろく)は538年(ねん)としています。教科書(きょうかしょ)は538年(ねん)と書(か)くものが多(おお)いので、まずは538年(ねん)で覚(おぼ)えましょう。
蘇我氏(そがし)の姓(かばね)は「臣(おみ)」。「大臣(おおおみ)」は、臣(おみ)の中(なか)で最(もっと)も力(ちから)のある人(ひと)がついた地位(ちい)。
「大臣(おおおみ)」という姓(かばね)があったわけではありません。物部氏(もののべし)の姓(かばね)は「連(むらじ)」で、その中(なか)で最(もっと)も力(ちから)のある人(ひと)が「大連(おおむらじ)」です。
仏教(ぶっきょう)を受(う)け入(い)れようとしたのは蘇我氏(そがし)、反対(はんたい)したのは物部氏(もののべし)(と中臣氏(なかとみし))。
587年(ねん)の戦(たたか)いで、蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべのもりや)をたおしました。

教科書(きょうかしょ)では、この単元名(たんげんめい)です

  • 東京書籍:「天皇中心の国づくり」の授業「聖徳太子の国づくり」
  • 教育出版:「大陸に学んだ国づくり」の授業「聖徳太子の理想」
  • 日本文教出版:「天皇を中心とした政治」の授業「法隆寺と聖徳太子/聖徳太子の政治」

学習指導要領(がくしゅうしどうようりょう)(平成(へいせい)29年告示(ねんこくじ))では

第(だい)6学年(がくねん)の内容(ないよう)(2)ア(イ):大陸文化(たいりくぶんか)の取(と)り入(い)れ、大化(たいか)の改新(かいしん)、大仏(だいぶつ)づくりの様子(ようす)から、天皇(てんのう)を中心(ちゅうしん)にした政治(せいじ)のしくみが整(ととの)ったことを理解(りかい)する。(学習指導要領コード 0263212000000)

「天皇中心(てんのうちゅうしん)の国(くに)づくり」の授業(じゅぎょう)の順(じゅん)と、ほかの時間(じかん)の解説(かいせつ)へ

たしかめ問題(もんだい)

豪族(ごうぞく)がつくった、同(おな)じ祖先(そせん)をもつと考(かんが)える一族(いちぞく)のまとまりを何(なん)といいますか。氏(うじ)
大王(おおきみ)が氏(うじ)にあたえた、家柄(いえがら)や役目(やくめ)をあらわす名(な)を何(なん)といいますか。姓(かばね)
仏教(ぶっきょう)が百済(くだら)から正式(せいしき)に伝(つた)わったのは、何年(なんねん)とされることが多(おお)いですか。538年(ねん)(『日本(にほん)書紀(しょき)』では552年(ねん))
587年(ねん)に蘇我馬子(そがのうまこ)と戦(たたか)って敗(やぶ)れたのはだれですか。物部守屋(もののべのもりや)
物部氏(もののべし)との戦(たたか)いのときの祈(いの)りをもとに、聖徳太子(しょうとくたいし)が大阪(おおさか)に建(た)てたと伝(つた)えられる寺(てら)は何(なん)ですか。四天王寺(してんのうじ)
推古天皇(すいこてんのう)は、聖徳太子(しょうとくたいし)から見(み)てどんな親(しん)せきですか。おば(太子(たいし)の父(ちち)・用明天皇(ようめいてんのう)の妹(いもうと))
蘇我氏(そがし)は、どのようにして天皇家(てんのうか)と深(ふか)くつながりましたか。むすめを大王(おおきみ)のきさきにして、生(う)まれた子(こ)を次(つぎ)の大王(おおきみ)にした。
問(と)いへの答(こた)え

蘇我氏(そがし)は、大臣(おおおみ)として大王(おおきみ)のそばで政治(せいじ)を動(うご)かす立場(たちば)にありました。渡来人(とらいじん)と結(むす)びついて、仏教(ぶっきょう)や進(すす)んだ技術(ぎじゅつ)を味方(みかた)にし、仏教(ぶっきょう)に反対(はんたい)した物部氏(もののべし)を587年(ねん)の戦(たたか)いでたおしました。さらに、むすめを大王(おおきみ)のきさきにして、天皇家(てんのうか)と深(ぶか)い親(しん)せき関係(かんけい)を結(むす)びました。推古天皇(すいこてんのう)も聖徳太子(しょうとくたいし)も、蘇我氏(そがし)の血(ち)を引(ひ)いていました。こうして蘇我氏(そがし)は、天皇(てんのう)をしのぐほどの力(ちから)をもつようになったのです。

この単元(たんげん)のプリントで確(たし)かめる(25枚(まい)・答(こた)えつき)

出典

画像

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